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彩ふ読書会の参加録~11/4大阪・『異邦人』(カミュ)課題本読書会編~


◆はじめに

 11月4日(月・祝)、大阪で開催された彩ふ(いろう)読書会に参加した。今回はその振り返りを書いていこうと思う。

 彩ふ読書会は、2017年11月に大阪で始まった読書会で、現在は大阪と東京で毎月開催されているほか、京都でも不定期に開かれている。当日は基本的に2部構成で、第1部は参加者が本を持ち寄って紹介しあう「推し本披露会」、第2部は事前に指定された課題本を読んでおき感想などを語り合う「課題本読書会」となっている。片方の部のみの参加ももちろんOKである。

 僕は今回、第2部の課題本読書会のみ参加した。課題本は、カミュの『異邦人』であった。言わずと知れた、20世紀を代表する文学作品の1つである。

(※この先かなりのネタバレがあります。ご了承ください)

 「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない」という有名な書き出しで始まる本作は、ムルソーという人物の独白調で綴られている。ムルソーは、母親の死に際して涙ひとつ流さず、最後に母の顔を見ることも断る。葬儀の翌日には海水浴に行き、かつて同僚だったマリイという女性と関係を持つ。マリイを求めはするが、彼女から自分を愛しているかと尋ねられると、「それは何の意味もないことだが、恐らく愛していないと思われる」と答える。

 そんなムルソーは、レエモンという隣人の女性トラブルに巻き込まれ、レエモンに復讐するためにやってきた人物を殺害してしまう。裁判にかけられた彼は、親との別離の悲しみや喪に服す様子を見せなかったこと、さらに自らの犯した罪に対する反省を見せなかったことから、社会道徳を脅かす凶悪な魂の持ち主と指弾され、死刑判決を言い渡される。当初は死刑から逃れる術を模索したムルソーだったが、やがて、死が解放であることに思い至る。そして、自分はずっと正しかった、ずっと幸福だったと確信し、処刑の日に大勢の見物人から憎悪の叫びを向けられることを望むのである。

 作中において、ムルソーの感情は快・不快を除いて殆ど描かれていない。悲しみ・愛情・後悔などへの言及はなく、心のない人物のように見受けられる。この人物を中心に据えて、本作は何を描こうとしたのであろうか——そんな問いを掲げながら、読書会の振り返りへと話を進めよう。

 課題本読書会の参加者は、男性4名・女性4名の計8名で、全員が読書会経験者であった。僕を含め話すのが好きな方が半数近くを占めたうえ、他の参加者も折を見て発言していたので、全体を通して活発な議論が展開したという印象だった。会は、簡単な自己紹介の後、全員が順番に感想や考察などを話し、それからフリートークに入るという流れで進んでいった。この振り返りも同じ順序で進めていくことにしよう。

◆参加者が語った感想

 まずは、参加者が順番に話していった感想からみていきたい。一人ひとりの語った内容を書き出したうえで、多くみられた意見や個人的に気になった点を後からまとめるという流れで進めていこう。なお、今回は発言の中身だけを抜き書きしていこうと思う。それぞれの感想がどのような人物の口から飛び出したかは、皆さんのご想像にお任せする。

〈1人目〉

 『異邦人』を読んだのは二度目である。2、3年前に一度読んだことがあったが、作品に馴染めなかったのか3ヶ月もかかってしまった。それだけに今回は覚悟して手に取ったが、改めて読むと面白くて、2時間で読み終えてしまった。

 この本には太陽の暑さや日射しの描写が繰り返し出てくるので、読んでいるとこちらまで暑さを感じた。秋に読んだから良かったものの、夏に読んでいたらタイヘンなことになっていたと思う。主人公については、何を考えているのかわかりにくかった。感情があまり書かれていないので、共感するという感じではなかった。

〈2人目〉

 有名な作品なのでいつか読んでみたいと思っていたが、手に取ったのは今回が初めてだった。まず思ったのは、翻訳をもうちょっと上手く書けないかということ。戦後すぐの古い訳なので仕方がないのかもしれないが、読み辛くてしょうがなかった。

 この作品が書かれた当時の欧米社会を考えると、キリスト教の考え方が今よりもずっと強くて、その教義・道徳に反することは社会的に認められなかったはずである。淡々としていて心がないように見える主人公は、そのような社会では受け容れられず、最終的に死を救いとして見出すことになったにちがいない。

 本文の最後に、罪人のもとを訪問する神父に対して主人公が激して叫ぶシーンがある。ここはまさに、社会の考え方に囚われない自我の目覚めを描いていたのではないかと思う。それまでの淡々とした調子が一転する場面であり、とても印象的だった。

〈3人目〉

 いつか読んでみたい作品だったが、何年も積読したままになっていた。課題本読書会がきっかけで、今回初めて手に取ることができた。

 最初のうちは、この作品がなぜ高く評価されているのかわからなかった。主人公のムルソーは、理想や信念というものがなく、その時々に感じた快と不快だけに突き動かされている。彼は受け身であり、未熟である。そんな人物を延々と見せてどうしたいのか、さっぱりわからなかった。

 印象が変わったのは、裁判のシーンに到達した時だった。ここでムルソーを取り巻く人々は、彼の犯した殺人と以前の彼の言動とを結びつけ、凶悪な人間という当人とおよそかけ離れた人物像を勝手に作り出している。はっきり言って無茶苦茶である。ムルソーもおかしいが、彼以外の〈普通の人々〉もおかしい。このことが鮮やかに描き出された。確かにこれは凄い作品だと思った。同時に、「作中の誰もまともではないが、そういうお前はどうなのか」という問いを突き付けられた気がした。

〈4人目〉

 3人目の方と同様に、『異邦人』は長年積読していて、ちょうど課題本になったのがきっかけで初めて手に取った。

 読んでみると、わからないことだらけだった。これまでの話にもあった通り、主人公の感情が描かれていないので、神父との対話の後に激怒した理由も、人を殺した理由もよくわからなかった。殺したことに対して罪悪感が1ミリもないというのも驚きで、どういうことなんだろうと混乱した。

 裁判のシーンもよくわからなかった。主人公について言えば、被告席にいる間も、裁判の進行とは違うところを気に留めている描写があったので、自分のことを他人のように見ていると感じた。よくこんな主人公を思いつき、描けたものだと思う。

〈5人目〉

 『異邦人』を読んだのは2回目だった。初めて読んだ時は、世の中に適応できない人間が裁かれて排除される話なんて「めっちゃおもんない」と感じたが、今回改めて読んでみて印象が大きく変わった。

 ムルソーのコミュニケーションの取り方はかなり独特だが、1つ大きな特徴がある。それは、嘘をついていないということだ。母親の葬儀のために休暇を願い出るに「私のせいではないんです」と言ってしまうところや、マリイに結婚を持ちかけられて「愛していない」と言うところに、その特徴がよく表れている。マリイは、ムルソーが嘘をつかないことを見抜いていたのではないだろうか。だから彼女は、度々がっかりさせられながらも、ムルソーと関係を持ち、真剣に結婚を考えたのだと思う。

 裁判の話に移ると、ムルソーが裁かれた理由は、詰まるところ彼の人格にある。すなわち、それはムルソーがムルソーとして生きることへの裁きである。だとすれば、彼が最後に死を選んだのは当然のことだったのではないだろうか。

〈6人目〉

 『異邦人』は何年も前に読んだことがあった。細かいことまでは覚えていられなかったが、最後のムルソーの叫びは忘れられなかった。ムルソーは冷淡で愚直だが、純粋な人物だと思う。ただ、純粋さゆえに道徳に迎合できなかった。それが死刑を言い渡された理由なのではないかと感じた。

 また、自分の力ではどうすることもできない不幸が襲ってくるとき、自分はどうしたらいいのかということを、今回読みながら考えた。具体的に言うと、死に向かっていく時にどうすればいいのかということを、である。

〈7人目〉

 『異邦人』を読んだのは初めてだった。ここまでの感想にもあった通り、主人公が淡々としているので、最初は読めるか不安だったが、結果的には作品をしっかり味わうことができた。

 読みながら、ムルソーに共感を示せると感じた。ムルソーは、仕事はできるし頭もきれる。ただ、将来的なことは考えないようなところがある。裁判の場面と、その後の神父とのやり取りは、ムルソーが世間的なものからも、神からも除外されていることを示している。それでも彼は、激昂して神父を罵りながら、自分は正しかった、幸福だったと確信する。

 それはつまり、世間や神からどう扱われようが、自分は自分に正直に生きてきた、そのことに悔いはないという態度表明だったのではないだろうか。自分もこれくらい周りを気にせずに生きてみたいと思った。

〈8人目〉

 『異邦人』を読んだのは二度目である。初めて読んだのは10代の頃で、正直わけがわからなかった。今回改めて読んでみると、全てはわからないものの、自分にもわかるようになっている箇所が幾つかあるのを発見できた。

 感じ方が変化した一番大きな理由は、母親の死を経験したことだと思う。主人公が母親の死に顔を見ようとしなかった理由は、死に顔を何度も見て、最後に「もう見たくない」と思った自分の経験から推し量れるような気がした。また、主人公が葬儀の次の日に海に行ったのは、頭の中が母親でいっぱいになるのがイヤだったからではないかと思う。気が滅入る諸々のことから距離を置いて、自分が生きているという感覚を味わいたかったのだろう。

 裁判のシーンはイライラしながら読んでいた。1人の人間を殺害するという行為が死刑に値するほどのものとは思えなかったし、結局のところ犯罪ではなくて人となりをあげつらわれているのにも納得がいかなかった。親が死んだ時に涙を流さないのは冷酷だと書かれていたけれど、親子の関係は様々だし、泣かない理由も、現実に対する理解が追い付かないから/強がっているからなど、色々あるはずだ。それを十把一絡げに議論するのはおかしいと思った。

〈感想まとめ〉

 ここまで、参加者8名の感想を振り返ってきた。メモした内容をただ書き出しただけなのに、かなりの文章量になってしまった。逆に言えば、皆さんそれだけ語りたいことや、印象に残ったことがあったのだろう。

 多くの感想に共通する内容を抜き出すと、まずは「難しい作品だった」という声が目立つ。おそらくこれは、主人公が淡々としていて感情が見えづらいことや、罪よりも人格を巡って繰り広げられる超展開的な裁判のしんどさから、取っつきにくい作品だと感じたことによるものだろう。一方で、再読組を中心に作品の面白さ・味わい深さに言及したものも少なくなかった。

 参加者の印象に残った箇所として多く挙がったのは、主人公ムルソーの人柄裁判のシーン最終盤の主人公の叫びの3点であろう。ムルソーについては、感情が見えづらい・信念がなく場当たり的である・冷淡だというように批判的な評価がある一方で、嘘をつかない・純粋だ・周りを気にせず自分を正直に生きているなど、肯定的に評価する声も少なくなかった。彼の立場だったら死が救いになるのは当然だという同情的な見方もあった。

 裁判については、ひどい・無茶苦茶だという感想が出る一方で、その無茶苦茶な裁判のもつ意味に対する考察も幾つか見られた。主人公の叫びについては、力強さに圧倒されたという感想のほか、そこに自我の目覚めを見出す意見が上がっていた。

 これらの感想の中で、個人的に印象に残ったことは2つある。1つは、ムルソーに対する肯定的・同情的な意見が少なくなかったことである。僕自身は、受け身で場当たり的で信念や倫理のないムルソーに批判的な考えを持っていたので、ムルソーの良さを読み取った人、さらにはムルソーに共感・憧れを覚えた人がいたのは驚きだった。

 もう1つは、最後のムルソーの叫びへの言及が多くみられたことである。それが重要な場面だというのはわかっていたが、僕自身は裁判のシーンの考察に満足してしまったところがあって、最後の叫びに触れた時には頭が回っていなかった。これは是非ともフリートークを通じて考えを深めたい。そんな考えが僕の中に生まれ始めていた(これらの記述から勘のいい方はお気づきだと思うが、3番目に感想を喋ったのが僕である)。

◆フリートークの振り返り

 1巡目の感想の話が長くなってしまったので、フリートークのほうは印象に残ったところに的を絞って手短に振り返ることにしよう。ここでも、注目したいのはやはり、ムルソーに共感する声と、最後のムルソーの叫びを巡るやり取りである。

 まずムルソーへの共感の方から見ていこう。フリートークで話題になったのは、母親の死に接した時の彼の振舞いだった。あらすじでも見たように、ムルソーは母親の通夜から葬儀まで一度も涙を流していないが、これはそんなにおかしいことだろうかという声が何人かから上がったのである。参加者の中には親の死を経験した方が少なくなかったが、中には、周りから非難されないために無理やり泣いたという方もいた。

 このやり取りの間、僕はずっと黙っていた。ただ、もしその時が来たら、自分は泣かないような気がした。祖父母やペットの死に接した際、一堂に会した面々の中で、僕だけ泣いていないということがしばしばあったからだ。おそらくそれは、突然の出来事を受け止められなかったり、死という現実から目を背けたくなってしまったりするからなのだと思う。そして、前者についてはともかく、後者のような反応を示してしまうことに対し、僕は自分の弱腰や卑怯さを悔いていた。

 今になって考えてみると、僕はムルソーの行動に対し、表面的には理解できると感じていたが、そのこと自体を良くは思っていなかったのだろう。だから、ムルソーに共感を示し、彼の方が〈普通〉だよねと言い合うやり取りに、どこか距離を置いてしまったのだと思う。

 これとは対照的に、ムルソーの叫びを巡るやり取りでは、僕は積極的に口を開いた。先に述べたように、大事な場面だと感じつつ解釈を怠っていた箇所だったので、考えてみたかったのである。

 このやり取りの中で特に記憶に残ったのは、『異邦人』が書かれた当時の状況を想像すると、キリスト教の道徳・人間観に迎合せず、自分のものの感じ方・受け止め方に正直に生きることを良しとする考え方は、画期的なものだったのではないか、という意見だった。僕は小説が書かれた時代背景を考えず、現在の感覚で作品を読んでしまうので、『異邦人』という作品が、発表当時人々に与えた影響には、全く思い至っていなかった。

 現代では、一人一人が自分の感受性・自分のものの見方を大切にし、その上に人生を積み上げていくのは当たり前のことになっている。むしろ、社会全体で共有されている価値観や道徳といったものが見え辛くなり、バラバラになった個人同士が共に生きていくにはどうすればいいのかということが問われるようにさえなっている。そんな時代を生きる僕らから見れば、自分自身に正直なムルソーは(少なくともその点に限って言えば)奇異な人物ではなくなっているのかもしれない。

 しかし、かつては違った。神父に対して激昂し、自分こそが正しいのだと主張するムルソーは〈新しい人間〉だったのである。そのことに思い至れただけでも、ムルソーの叫びに関するやり取りは十分意義深いものであった。

 最後に、以上2点の他に印象に残った点として、翻訳のまずさに関するやり取りを挙げておきたい。正確に言えば、このやり取りは印象に残ったというより、僕の我が強く出た部分だった。

 フリートークの終盤で、1巡目の感想の中でも触れられていた翻訳のひどさが再び話題になった。ここで僕は、読みやすい文章が良い文章とは限らない、目の前にあるテキストの味をそのまま嚙み締めればいい、という趣旨のことを、やや強い調子で口にした。

 僕がこう言ったのには、1つの経験が影響している。数年前、彩ふ読書会のメンバーで同人誌を出版したことがあり、僕は編集サイドで文章の校正にも携わった。その際、あるメンバーが書いた小説に、同じ主語が5、6文連続する箇所があるのが気になって、指摘をしたことがある。すると、「その箇所を読んで気持ち悪いと思ったなら、こちらの狙い通りなので、そのままにして欲しい」という返事が来たのだ。当時は僕も読みやすさ至上主義者だったので、意味がよくわからなかったが、あの時以来、綺麗な文章だけが良い文章ではないという考えが、僕の中で育っていたのかもしれない。

 『異邦人』の翻訳のまずさが、そのように意図されたものであったのかはわからない。けれども、そのまずさが生み出す雰囲気ごと作品を味わえばいいのではないかと僕は思う。——とはいえ、こんなことを自分から口にしたのは初めてだったので、我が強いのを承知の上で書き留めてしまった。

◆おわりに

 カミュの『異邦人』を課題本にした読書会の内容を振り返ってきた。はじめの方でも書いた通り、今回の読書会はとても議論が活発なものだった。自分とは違う、それでいて説得力のある意見も多く、作品についても、自分のものの受け止め方についても、新たな発見が幾つもあるような会だった。だからこそ、僕も奮ってまとめてみたくなったのだと思う。

 本当はこの後、読書会の内容を踏まえたうえで、僕が今『異邦人』やムルソーに対してどのような印象・考えを持っているかということを書こうと思っていたのだが、長くなってしまうので、その話は別の機会に取っておくことにする。今回はここで筆を置こう。

(第254回 2024.11.07)

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