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【日本国記】 第二章 10 祇園祭4・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 


7 京都の祭りは葵祭と祇園祭    祇園祭 4

 祇園祭の主役である荒ぶる神スサノヲは牛頭天王とも呼ばれる。
 
 牛頭天王とは誰なのか?

 新バビロニアによってバビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放したのはペルシャのキュロス大王であった。彼はスサを陥落させエラムを征服し、さらには新バビロニア王国を倒し、捕囚されていたユダヤ人を解放した。そのことによってユダヤ人はキュロス大王に感謝した。その後日本列島に渡来した秦氏にもその伝承が引き継がれていたと思われる。そのことから「困った時の神頼み」は、秦氏にとって“キュロス大王頼み”となった。彼は”スサの王”であったため、出雲のスサノヲと同一視された。出雲の大国主が大黒天と同一視されたように。キュロス大王は牛頭天王とも呼ばれていたことにより、スサノヲも牛頭天王になってしまったのであった。

 ペルシャのキュロス大王は“牛頭天王”であった。そして“スサの王”でもあった。これにより出雲のスサノヲも牛頭天王となった。

 祇園祭の始まりは869年であり、葵祭の807年よりもかなり新しい。もとより平安京は794年に新たにできた都であったから、出雲や奈良に比べれば新しいにきまってはいるが、先にも紹介したように、平安京は孝謙・称徳天皇が770年に崩御したことによって復権した和気清麻呂と藤原氏によって作られた都である。そしてその支持者は秦氏であった。

 孝謙・称徳天皇に重用された道鏡事件を教訓に、当初の平安京には僧侶による影響を排除するために寺を作らせなかったといわれるが、例外的に平安京遷都より前の時代の寺はそのまま存続した。京都で最も古い寺は広隆寺といわれる。広隆寺は秦河勝が聖徳太子のために創建したといわれ、もとは蜂岡寺と呼ばれていた。その創建は622年とも603年ともいわれるが、そこは太秦であり、今は京都の右京区にある。太秦は雄略天皇の御代に「秦酒公が絹をうずたかく積んだ」ことから”禹豆満佐”と呼ばれるようになったという。そこは秦氏の本拠でもあった。そこには通称蚕の社と呼ばれる木嶋坐天照御魂神社や大酒神社がある。

 秦氏はユダヤ系といわれる。“禹豆満佐”も「ウシュマシャ」、“大酒神社”も大酒ではなく“大避”であり「ダビデ」、極めつきは“平安京”は”エルサレム”からつけた名ともいわれる。京都はユダヤの地でもある。京都府や京都市の章もダビデの星をデフォルメしている。大酒神社には秦始皇帝と弓月君と秦酒公が祀られる。木嶋坐天照御魂神社には天御中主神ほか4柱が祀られるが、蚕の社である養蚕神社には養蚕の祖神を祀る。そして、嵯峨天皇の御代に下鴨神社に移った元糺の池と三柱鳥居があり、ユダヤとその日本列島への道すがらの香りが満ちている。養蚕の祖神は中国三星堆遺跡に出土した縦目の王蚕叢である。

 今の京都である山城国は和気清麻呂の影響下にあった。そして藤原氏が表にあり、裏には秦氏がいた。秦氏の土木技術なしには鴨川の洪水は制御できなかった。彼らにしても、大極殿を当初あった都の正中よりもずらさざるを得なかったのほ洪水のためであった。その後もたびたび洪水は起こり、あの後白河法皇でさえも「院の力でもなんともしがたい」と言っていた鴨川の洪水は今でも時々起こる。

 そして祇園祭は7月に行われるシオンの祭りともいわれる。中東から陸路でシルクロードを通り、または海路でペルシャを通り、東へ東へとやってきた失われた10氏族の一つエフライム族ではないかともいわれる。そして、レビ族も、、、。


 つづく


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