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【日本国記】 第二章 10 祇園祭2・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 


7 京都の祭りは葵祭と祇園祭    祇園祭 2

 祇園祭の主役である荒ぶる神スサノヲは牛頭天王とも呼ばれる。 
 牛頭天王とは誰なのか?

 当初の祇園祭は朝廷の祭りであったといわれる。清和天皇の御代869年に始まった祇園祭は、その年に流行った疫病を祓うために始められた神泉苑における御霊会であったといわれる。

 今は葵祭と呼ばれる賀茂祭も同様の趣旨で欽明天皇の御代に始まったといわれるが、賀茂祭は賀茂神社を中心とした御所よりも北の地域の祭りであった。それに対して、祇園祭は御所よりも南つまり下の地域の祭りであった。今の言い方でいえば賀茂祭は格式高い“山の手”の祭りであり、祇園祭はいわば”下町”の祭りであった。

 祇園祭の元は朝廷の神泉苑の御霊会であったといわれるが、それがなぜ庶民の祭りになったのか?それには八坂神社にまつわる“蘇民将来子孫也”について知る必要がある。

 “蘇民将来子孫也”とは「備後国風土記」逸文に残されている説話であり、それはつぎのような内容である。あるとき南海を旅していたスサノヲが宿を求めて巨旦将来を尋ねたところ、巨旦将来はみすぼらしいスサノヲを見て宿を貸さなかったという。その後、巨旦将来の弟の蘇民将来に宿を求めると、貧しい蘇民将来はそれでも粟殻の座と粟飯でもてなし宿を貸したという。蘇民将来のもてなしを歓んだスサノヲは「後の世に疫病が流行したときには自分は蘇民将来の子孫であると言い、茅の輪を腰につけておけば免れさせる」と告げたという。

 そしてこの説話から、祇園祭を締めくくる「夏越祭」では「茅の輪守」が授与されるという。この風習は「茅の輪くぐり」にも通じるものがあり、全国のスサノヲを祀る神社では毎年「夏越祭」で「茅の輪くぐり」が行われる。また、京都では“蘇民将来子孫也”と書かれた護符をつけた粽を各家の軒先につるようになったといわれる。そしてこの粽は山鉾を立てる各町内で配られるという。

 この話はユダヤ教徒の「過ぎ越しの祭」に通じる話でもあり、7月15日から7日間続くという点も関係がありそうである。そもそも、蘇民将来という名前こそが“蘇民(イスラエルの民)”であり、“平安京(イエルサレム)”の祭りであったからである。

 そして、南海を旅していたスサノヲというのも事実ではないように思える。そもそもスサノヲは出雲の人である。出雲のスサノヲが南海を旅するとすれば、高天原から追放されて地上(日本列島)に降り立った後さらに南海の追放されるというのも変な話である。

 “疫病退散”をさせるために必要な、疫病に対抗できる強い霊力を持った恐ろしい荒ぶる神スサノヲを持って来たかったのであるとは思うが、そこに収まった神はユダヤの神であり、その神に守られるのは“蘇民将来(イスラエルの民)”の子孫でなければならないという当然の帰結であった。

 ではそのユダヤの神が牛頭天王か?

 実はそうではない。そこには深い意味がある。

 つづく


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