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【日本国記】 第二章 10 祇園祭9・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 

10 京都の祭りは葵祭と祇園祭   祇園祭 9  疫隈とは

 祇園祭の主役はスサノヲと合体した牛頭天王であった。

 葵祭は京都だけで行われるが、祇園祭は京都だけではなく全国のスサノヲを祀る神社で行われる。

 京都以外の地域にも祇園祭があるのはなぜか?

 牛頭天王は八坂神社の境内内摂社である疫神社に祀られる。そして、牛頭天王は全国のスサノヲ系神社に牛頭天王=スサノヲとして祀られる。とくに岩手県では蘇民祭という名の祭りが盛大に行われる。その源はいったい何処にあるのか?

 備後の国風土記逸文にあった蘇民将来と牛頭天王の逸話は、卜部兼方の「釈日本紀」に引用され、次のように書かれている。

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    後国風土記に曰く 疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)は昔北海にいましし武塔神が南海の神の女子を夜這いに出いましに日暮れ かのところに将来二人ありき 兄蘇民将来はなはだ貧窮 弟将来富饒 屋倉一百ありき 武塔神宿を借りたところ惜しみて借さず 兄蘇民将来借し奉る すなわち栗飯等以て座と為し 以て粟飯等饗奉る おえて出ます後に 年を経て八柱子を率いて還り来て詔く  我将来に報うためと答  「汝の子孫その家に在るや」と問い給う 蘇民将来答えて申すに「己の女子は斯の婦と侍う」と申す 即ち 「茅の輪を以て腰の上に着ける」詔令す 詔令に随し着けた 即ち夜に蘇民の女子一人を置きて 皆悉くに殺し滅ぼして来 即ち詔く 「吾は速須佐雄の神也 後世に疫気在るは 汝蘇民将来の子孫と云うて 茅の輪を以て腰に着ける在人は将に免」と詔き

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 これによれば、「疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)」は南海に在り、そこには蘇民将来が弟とともに住んでいた。そこに北海の武塔神がやってきた。そして、その武塔神は速須佐雄神であると自称した。そして茅の輪を付けていないものを悉く殺した。ということになる。ここには牛頭天王は出てこない。

 このことから考察すれば、牛頭天王という名称は後に神仏習合により新しくつけられた名称であり、もとは武塔神であり、それが速須佐雄神と同一視されたことになる。そして元は北海にいた武塔神は南海に旅した。そこに疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)もあったことになる。そしてそこに蘇民将来は住んでいたのである。

 「祇園牛頭天王縁起」には、蘇民将来の弟巨旦将来は夜叉国の金神である巨旦大王となり、武塔神は身の丈七尺五寸の牛の頭を持つ太子である牛頭天王と変化した武塔神と戦ったことになっているという。そしてその牛頭天王は摩訶陀国の王舎城の大王であるという。これは明らかに仏陀と重ねられている。後の神仏習合により武塔神は牛頭天王となってしまった。

 そもそもの武塔神は明らかではないらしいが、広島県三次市小童(しち)にある武塔神社にはスサノヲが祀られる。もともとはスサノヲであった武塔神が神仏習合により牛頭天王となり、その後の話が創られたようにも思われるが、南海ではない備後国風土記にあるというのが解せない。

 備後国とは今の広島県福山市周辺である。ここにはいま素戔嗚神社があり、そこに蘇民将来の弟巨旦将来の屋敷があったことになっている。この神社は天王神社とも呼ばれ、679年に創建されている。そして、734年にここにいたスサノヲを遣唐使であった吉備真備が播磨の廣峯神社に勧請し、さらに廣峯神社から869年に京都の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に勧請されているという。つまり廣峯神社まではスサノヲだったのが八坂神社に行ってから牛頭天王となり、さらにはもとの廣峯神社も素戔嗚神社も牛頭天王を祀るようになったらしい。

 この素戔嗚神社にいた巨旦将来はスサノヲに八つ裂きにされたことの恨みから金神という疫病神になったことになっている。またここでは北海が出雲で、南海が瀬戸内海の鞆の浦になっているといわれる。

 しかしそれはどうもおかしい。もしそうだとすれば、九州の櫛田神社の祇園祭はどうして京都と同じように山鉾建てるのか?

 それは疫隈國社(えのくまのやしろ)の名にその理由がある。

 つづく

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