【日本国記】 限りなく真実に近いアナザーストーリー 11 十握剣と韴霊剣と海村雲剣 2 土方水月
”とつかのつるぎ”と”ふつのみたまのつるぎ”と”あめのむらくものつるぎ” 2 ひじかたすいげつ
鹿島神宮の韴霊剣は全長が約2.7mで富雄丸山古墳の剣より短いが、刀身部分の約2.3mを10で割ると約23cmである。一掴みを何cmで計算するかにもよるが、一掴みは23cmに満たないと思われ十分10掴み以上である。
フツノミタマノツルギはご承知のように物部の神剣であり、出雲のスサノヲによる古志のヤマタノオロチ退治に出てくる件といわれる。アメノハハキリとも呼ばれたこの剣の”ハハキリ”とは”蛇を切る剣”という意味で、ヤマタノオロチの尾を切ると“フツ”という音がしたので、フツノミタマノツルギと呼ばれるといわれる。
しかし、“フツノミタマ”と言うからには、“フツノミタマ”を宿した剣であるはずで、“フツ”という音だけではかたずけられない意味があるはず。“韴”の御霊を宿した剣であり、その剣でヤマタノオロチの尾を切ったところ、アメノムラクモノツルギが尾の中から出てきたといわれる。
これらは比喩である。フツノミタマノツルギは韴の御霊が宿っているという物部の神剣であり、それで古志のヤマタノオロチを切ったのであるから、物部が古志を攻撃し、それにより古志の神剣であるアメノムラクモノツルギが物部に渡ったということを暗喩する。しかし、実際は当時のこの話は出雲のスサノヲによる物語であり、この時期はまだ物部の話ではなく出雲の話であった。出雲のスサノヲによる古志のヤマタノオロチ退治なのであるから、出雲が古志を攻撃し制圧したことを暗示する。
古事記にはそのような話が出てくる。古志のヌナカワヒメを大国主が娶る話である。当時の古志はヒスイの産地であり、その古志のヒスイは東アジアに広域に分布していたといわれ、古志の力が強大であったことをうかがわせる。その古志のヌナカワヒメの名は“ヌ”つまり、玉である「ヒスイを産出する川の姫」という意味であり、出雲が古志のヒスイを奪ったという意味でもある。
古志の菟沙族(宇佐族)は、出雲族が東北から南下したことにより九州に追いやられ、今の大分に移り住んだといわれる。それは8500年前のことといわれる。そのことをも暗示しているものと思われるが、ヌナカワヒメを実際に娶ったことも事実であるといわれる。しかし実は、ヌナカワヒメを娶ったのは大国主ではなく、事代主であったともいわれる。
そもそも、事代主は大国主の子ではなかった。出雲は王と副王がおり、東出雲王家と西出雲王家が交代で王を出した。王の名は大名持オオナモチという。副王の名を少名彦という。当時の大名持が大国主であり、少彦名が事代主であった。大国主の名は神門臣八千矛であり、事代主の名は富八重波津身であった。その八重事代主の妻がヌナカワヒメであった。
フツノミタマノツルギは物部の神剣である前に、出雲のスサノヲである“韴”の御霊を宿した神剣であった。後に国譲りにより物部の神剣となり、2度目の国譲により大和の神剣となった。その経過に合わせてその剣の名は変わっていったのである。初めの出雲の名が“ふつのみたまのつるぎ”であった。物部の名が“あめのむらくものつるぎ”であった。そして大和では“くさなぎのつるぎ”と名を変えたのであった。”あめのむらくものつるぎ”の本当の名は“あまのむらくものつるぎ”であり、”やくもむらくもとつかのつるぎ”とも呼ばれた。初代神武天皇は「サノの尊」というが、本当の初代大王は「天村雲」と呼ばれ、大和の橿原よりも北の笛吹きに居たともいわれる。
八雲村雲十掴剣は物部の神剣であり、フツノミタマノツルギとアメノムラクモノツルギとも呼ばれる。そしてクサナギノツルギとも。
つづく