「敗者の古代史 森浩一」から 垂仁天皇の妃 2 丹波道主王の娘達 土方水月
「敗者の古代史」 垂仁天皇の妃 2 丹波道主王の娘達
ひじかたすいげつ
愛児「本牟智和気」を夫イクメイリ彦に託し、兄狭穂彦とともに落命した狭穂姫。
狭穂姫はその間際に「丹波道主王」の娘である兄比賣弟比賣を妃に向えるように進言した。
開化天皇の子であるヒコイマス王の子が狭穂彦と狭穂姫と「丹波道主王」。
丹波道主王の五人の娘はすべて垂仁天皇の妃に。
日葉酢媛、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛、竹野媛。
日葉酢媛は後皇后となり、景行天皇と倭姫らを生む。
第二妃渟葉田瓊入媛は鐸石別(ぬてしわけ)と胆香足(いかたらし)姫を生む。
「開化天皇」の後は、本来ならば「日子坐天皇」、「丹波道主天皇」であったかもしれない。
彼らは、北部奈良盆地から山城と丹後を含む丹波に勢力を持っていた。
イクメイリ彦は、「あなたが結んでくれていた美豆の小ひもはだれが解くのだろう」と言うと、「丹波道主王の娘に兄比賣弟比賣がいます。子の娘を召し出しなさい。」と告げたという。
ここまでは、記紀の話。
記紀は同じ政権内の話としているが、ここのところがまさに「崇神・垂仁・豊玉姫」の東征の結果であった。
そして、「日葉酢媛」の子が「景行天皇」に。
「景行天皇」はその後なぜか九州に。
そして「朝倉・朝闇」を都に。
「朝倉」は「麻氐良布」。
その間、大和は?
「鐸石別ぬてしわけ」は?
「鐸石別」は「沼帯別」。
「トヨキイリ彦」が「東国」に行った後も、大和はまだ「垂仁・景行天皇」の世にはなってはいなかった。
「垂仁・景行天皇」も「トヨキイリ彦」も本当は大和から追われたのであった。
再び、出雲族とヤマト族は戦いに。
東国では「鹿島」と「香取」に。
そして九州からはさらにもう一度「神武東征」が。
------------------------------------------------------------------------------------
「タケハニヤス彦」と「崇神天皇ミマキイリ彦」の戦いはなかった。
東征したときにはもう「ミマキイリ彦」も「豊玉姫」もいなかった。
「ミマキイリ彦」は九州で、「豊玉姫」は宮島に。
「イクメイリ彦」「トヨキイリ彦」対「タケハニヤス彦」「丹波道主王」「サホ彦」とのたたかいであった。
そして、「トヨキイリ姫」が「台与」に。