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『室町無頼』理解力が足りなくて申し訳ない気分

今年公開の映画で予告編を見て一番期待していた映画ですが、ちょっとガッカリ。
最近、邦画を見る前に期待し過ぎて、見終えて辛口になることが多いので、今後はできるだけ期待せずに映画をもっとフラットな心持ちで観たいと考えたりします。

なんにせよ、チャンバラ映画としては楽しめる映画である事は間違いありませんし、映画館の大迫力で観るべき映画であることも間違いない映画でした。

ただ、面白かったのですが、これは映画で理解するのは諦めて、原作小説を読んでみるしかないと思った次第です。
時代劇というとお約束のように江戸時代、もしくは戦国時代を描いたものばかりで、室町時代を描いた映画というのはこれが初めてではないでしょうか。
室町時代だからと言って、江戸時代のチャンバラと何ら変わることなく、飢饉がひどくて一揆を起こす百姓達の姿が、死者の姿を描きすぎという点もありますが、そこは物語上仕方ないと言えば仕方ない。
室町時代の文献に残された一揆の首謀者の名前から蓮田兵衛の名前から、物語を作者が作り上げたんだろうなぁと思ったのですが、その作者の意図した物語が映画にどれだけ反映されたんだろうとか考えてしまいます。

1461年、応仁の乱前夜の京みやこ。大飢饉と疫病がこの国を襲った。
賀茂川ベリにはたった二ヶ月で八万を超える死体が積まれ、人身売買、奴隷労働が横行する。
しかし、時の権力者は無能で享楽の日々を過ごすばかり。貨幣経済が進み、富める者はより一層富み、かつてない格差社会となっていた。
蓮田兵衛は、己の腕と才覚だけで混沌の世を泳ぐ自由人。各地を放浪する彼の眼差しは、ひとり遠く、暗黒時代ダークエイジの夜明けを見つめていた。
一方、才蔵はすさまじい武術の才能を秘めた若者。
天涯孤独で餓死寸前を生き延びたが、絶望の中にいた。しかし、兵衛に見出され、鍛えられ、才蔵は兵法者としての道を歩み始める。
才蔵の武器となるのは、“六尺棒”。地獄の修行を終えた時、超人的な棒術を身につけた才蔵の前に敵は無い―。
時は来た―。
才蔵だけでなく、抜刀術の達人、槍使い、金棒の怪力男、洋弓の朝鮮娘ら、個性たっぷりのアウトローたちを束ねる兵衛。
ついに巨大な権力に向けて、京の市中を舞台に空前絶後の都市暴動を仕掛ける。行く手を阻むのは、洛中警護役を担う骨皮道賢。兵衛と道賢はかつて志を同じくした悪友ながら、道を違えた間柄。
かつては道賢、いまは兵衛の想い人である高級遊女の芳王子が二人の突き進む運命を静かに見届ける中、“髑髏の刀”を手に一党を動かす道賢に立ち向かい、兵衛は命を賭けた戦いに挑む。

公式サイトから転載

いろいろと今回の映画でもツッコミどころは満載なのですが、できるだけネタバレしないようにつっこんでみようと思います。
人として扱われることなく虫けらのように殺された人達の復讐のために一揆を起こし、借金の証文を取り戻して燃やしてしまおう、京都の中に住む人達と税を搾り取られる虐げられた人達との格差からくる暴発すべくして起こった一揆。。
いろいろな理由が一揆にはありますが、日本史に残る一揆を起こして、最終的にやったことがアレを貼ること。いや、タイトルに間違いは無いけど、原作どうなってんだ。と、頭をひねって首が痛くなるほどです。
また、剣術でなく棒術の修行シーンでも、一つ目はともかく二つ目は修行としてやり過ぎというか、3つめの修行も首をひねってしまいました。

そして、最大の疑問点というか、映画の小説のタイトルである「室町無頼」室町時代に生きた無頼な人達の物語かと思ったら、まさかの「無頼」の文字が映画内で表現されたとき、まさかの表現にビックリ。
いや、確かに室町時代の「無頼」だけど、そのために、あれだけの人を集めて死人を大量に出した末にそれをしたかったのか?
それに至る伏線が映画の中のどこにあったのか私には理解できませんでした。

なんだか、いろいろと映画を観ながら腑に落ちないことがあり、おそらくは上下二巻の小説を映画にすることで、落とされたエピソードがたくさんあったんだろうと想像できてしまい、映像化の欠点というか、脚本の欠点というか、小説を読んだら納得できるのかどうか、原作小説を読んでみようと思っています。
原作読んでから映画を観るんだったと思ってしまうのか、映画のイメージで原作を読んでしまうことになるのか、原作と映画の力を観て読んで比べてみたいと思います。

とりあえず、今年観た邦画の中では一番面白いです。
って、今年の邦画はまだ3本しか観てないですけどね。


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