谷干城 熊本城攻防戦 ①
谷干城(たにたてき)、江戸時代末期に、土佐に生まれた。
小さい頃は、学問は全く関心がなかった。成年に近づく頃から、学問は、
格段に進歩した。
江戸に遊学し、安井息軒の門に入った。入塾後、数ヶ月にして、塾頭になった。
1867年、王政復古の大号令が発せられ、西郷隆盛は、干城に倒幕の議が
進んでいると告げた。
土佐藩は、板垣退助を司令として、明治元年、土佐大隊、高知を出発し、干城、その小監察となって、軍隊と共にした。
京都に入り、朝廷より東征の命下り、
板垣、総督の任に就いて、干城、大監察に任ぜられて、京都を出発して、東山道先鋒として美濃大垣より信州路を進んだ。
干城は、甲府は枢要な土地であると
熟知していたため、ここを占領することの大切さを論じ、板垣も賛成したため、
薩摩、長州藩は反対したが、諏訪より韮崎を経て甲府に入り、甲府城を収め、
勝沼にて、近藤勇の軍を破って、甲州路を江戸に進軍した。
近藤勇は、常総の野にあり、流山に
大久保大和と変名して、軍隊を屯集していたが、干城は、流山に赴き、その隊を
解散せしめ、隊将を板橋の本営に連れてきた。
隊将は、近藤であったから、干城はその裁判に立ち会った。干城は、土佐の出で、当時は、同じ土佐藩の坂本龍馬、
中岡慎太郎が、新撰組によって暗殺されたとされていたから、干城は、恨みがあり、近藤を殺したかった。たが、薩摩藩の平田九十郎は、近藤は、兵を統べた隊長であるから、寛大に処すべきとして、
どうしても譲らなかったが、干城らは、総督府に上申して、近藤を斬って、これを梟首させた。
明治4年、政府は、薩長土藩の兵をもって親兵となし、また、各地方に鎮台を置き、明治6年、徴兵令が布告された。
長州藩が主唱し、薩摩藩の西郷隆盛、桐野利秋が、反対であったが、山県有朋、西郷従道らは、壮兵に反対し、干城も、徴兵論者であった。
干城、熊本鎮台司令長官になり、兵を
編成し直した。桐野利秋は、鎮台兵を
土百性を集めて、人形を作る、はたして何の得る処あるのかと、罵った。
それを実地で、試したのは西南戦争であった。肥前佐賀の乱や神風連の乱が起こり、陸軍少将 種田政明が倒され、再び、干城は、その後をついで熊本鎮台司令長官となったが、当時の鎮台兵の世評はひどく悪く、クソ鎮と罵られていた。
このような情勢の下、明治10年の西南戦争が巻き起こったのである。
谷干城 熊本城攻防戦 ② に続く〜