逃げの小五郎 逃げる信長
織田信長は、逃げるのも速かった。
織田信長は、妹のお市を北近江の浅井長政と同盟していた。浅井家と越前の朝倉家とは、古くから同盟していた。
それを知っていたのか知らないふりをしたのか分からないが、織田信長は朝倉攻めを敢行した。順調に進んでいたが、
斥候から背後に浅井家が迫っていることを、知った。
一説では、お市が信長に知らせたともいう。
信長は、単騎で、戦線から離脱した。
彼は、京都まで、逃げに逃げた。
殿(シンガリ・本隊を逃がすための残存部隊)は、木下藤吉郎が務めた。
信長の同盟者・徳川家康も置いていきぼりを食った。
織田信長は、自分が生きていれば、、いくらでも、再興できることを知っていた。
一方、幕末の桂小五郎。逃げの小五郎の異名を持っていた。
小五郎は、斎藤俊弥九郎の練兵館で、
塾頭を5年間、務めたほとの腕が立つ。
その彼は、池田屋の変の時は、偶然、
早く着き過ぎ、また、出直そうと思って、引き返した。
禁門の変の時、長州藩が、朝敵になり、幕府は、新選組などを使って、長州藩士、見つけ次第、切り捨てていた。
小五郎は、変装したりして、幕府の目を誤魔化しながら、長州藩に帰ることを
目指していた。
この二人に共通していることは、逃げるのを、恥とはおもっていない所。
一流の人物は、それを知っていた。
二流の人物は、本能寺の変における、信長の息子・織田信忠は、逃げようと思えば、逃げられたのに、勇敢に?父・信長を助けに行った。それで、命を落とした。織田信忠が、いれば、羽柴秀吉なぞ
出る幕もなかった。
池田屋の変の時も、長州藩士の吉田稔麿は、助かったにも、かかわらず、また、池田屋に引き返し、命を落とした。
一流の人は、命の大切さを知っていた。