徳川家康 直系のお嬢様
徳川家康は、江戸時代、260年を作った、まさに大元の人物だ。家康は、若い頃から苦労した。
駿河の大名・今川義元の人質となりった。最近の研究では、家康は、今川家に大切にされたようだ。
戦国時代は、お寺が知識、知能を醸成する所、現在で言えば、大学・大学院に相当する所か。
今川義元は、寺の最高の頭脳と言われた、京都五山の出身である。だから、インテリであり、芸能にも、秀でていた。
義元の軍師で後見人である、雪斎も京都五山の建仁寺で修行して、将来を嘱望されていた人物。
その今川家の義元の軍師、事実上の経営者である、雪斎に、徳川家康に教育を受け、考え方を叩き込まれた。
それから、桶狭間の戦いで、今川義元が死に、松平元康から徳川家康になり、
独立した。
そして、織田信長と清洲同盟を結び、信長が本能寺て死ぬまで、同盟者であり続けた。
その間に、今川家の時代に妻に迎えた正妻の築山殿、嫡男の徳川信康を武田勝頼に内通していると、信長に疑われ、
殺せ、と言われ、仕方なく殺している。
家康は、本能寺の変の時、明智光秀に命を狙われ、服部半蔵らの伊賀忍者の案内で、伊賀越えをして、何とか浜松城に帰っている。
そうしている間に、羽柴秀吉に明智光秀を討たれ、天下を取られた。
家康は、その秀吉時代も、我慢していた。そして、関ヶ原で勝利をおさめ、
征夷大将軍に登りつめ、江戸幕府を開いた。
前置きが、長くなったが、現在、私はエッセイサークルに所属して10年以上経つが、長年そこで、会長をしていた、90歳のおばあさんと親しかった。
そのおばあさんは、越後(新潟県)の糸魚川藩の松平家のお嬢様である。
徳川家康の血を引いた子孫である。世が世なら、私は土下座をしなければ、ならない身分差がある。
そのお嬢様が、圧迫骨折で入院している。お年寄りが、入院すると寝たきりになり、そのまま介護になることが、非常に多いので、心配している。
このお嬢様は、日本の保育士の草分けのような存在で、常に新しいことをやっている、フロンティアスピリットを持った人なのだ。
90歳で、新しいパソコンを買って、使いこなしてしまう人だ。
自由がない環境は、死ぬほど、苦しいであろう。だが、大東亜戦争(第二次世界大戦)を乗り切った人だ。
今回も困難を乗り切るはずだ、と確信している。