本:豊饒の海-暁の寺-
※この記事ははてなブログにて、2020年10月9日に投稿した記事の再掲です。
この本は、三島由紀夫が人生の終わりに書き残した長編小説、全4巻のうちの3巻だ。
内容が濃くなってゆくので先に言っておくと、僕は信じている宗教はなく、輪廻転生も信じていない。今回はこれまで転生してきた主人公を見届けてきた本多が中心となって物語が展開される。
ここにきて、本多自身が押さえつけてきた欲望、変態性が花開いていく。はっきりいって、三島由紀夫のこの後を考えると、物語とその行末を交えて考えないことは不可能だ。
三島はこの物語を書き上げた5か月後に割腹自殺(三島事件)をする。
その激烈な生命の燃焼を表した1巻、2巻と比べると3巻はやや落ち着いており、ジメジメとしている。又、輪廻転生に対しての本多の考察(三島自身の考察といって過言ではないだろうが)、インドでの体験がページの3分の1くらいを占めており、起伏が大きくあるわけではない。
1巻、2巻と転生してきた魂は(魂といっていいのだろうか?)3巻でタイの姫、月光姫に転生する。やはりこれまで本多に関係があった人物の近いところに生を受けている。
本多は彼女に恋に似た感情を抱く。彼は60近く、月光姫は10代だが。覗き等、まあこれまでの本多のイメージとは離れた行為が散見される。相当な変態オヤジ。
ただその変態性は本多(若しくは三島)がのめり込んでいた輪廻転生、唯識論に深く関わる部分がある事は確かだ。
自分が知見した瞬間月光姫は自分が求めた月光姫ではなくなる。本来は覗きさえ許されないが、自分の存在を認識していない月光姫を見ることで求めるものに近い月光姫を本多は感じていたのだろうか。
唯識論については自分も理解が完全にできているわけではない。ネットで調べたような浅い知識しか持っていないが、それをベースに今は思考するしかない。
始めは唯識論を追求すれば実体は無いことになり、虚無が訪れるように思ったが、どうやらそういう悲観的なものではないようだ。唯識論の先はただの虚無ではないらしい。
そもそも唯識論とは、全ての個人にとっての出来事は8種類の識から成り立ったものだという見解の事で、(詳しく知りたい方は検索をかけて欲しい)8種の識の根本たる無意識が阿頼耶識(あらやしき)というものなのだ。この阿頼耶識は自分の中の1番奥の無意識の部分で、個人の認識はここに始まり、世の中に実体は、幻のようなもので、ないとされる。(現知識では間違っている事も多いかも。あしからず。)所謂、「色即是空」の「空」の部分のようだ。
これが自分は正しいと思うか、間違っていると思うか、現段階では正直はっきり言うことはできない。
ただ、25歳になるあたりだったかもしれないが、生きる意味について特に深く考えたことがあった。それまでも度々考えることはあったが、その時は納得できるまで考えたかったのだ。
その時の結論は、生きる意味は、結局のところないというものだった。
しかし僕は生きようとしていた。なぜ生きようとするのか。もし生きる意味がないというなら、そのまま何もせず、野垂れ死ぬのが正解なのではないかとも考えた。しかし僕は生きることしかできなかった。それしかできなかったのだ。ならば意味がないとしても、この生命があたかも意味があったと思うくらい、命を燃焼させるべきではないのかと考えた。意味がないからこそ、最大限に堪能しようと考えた。
そこから、覚悟なのか、ふに落ちたからなのか、あまりそういうことは考えなくなった。
なんだか似ている気もする。意味がない、ということを「空」と考えれば。
そもそも悟りの境地なんて存在するのだろうか。死後の世界と同じで誰も知り得ない境地に、どうやって至ったと証明できるのだろう。側から見ればおかしな事を言っている狂人と一緒なのではないか。
三島は輪廻転生、唯識論にのめり込み、その思想を追求していたようだ。上記したように唯識論の追求は、ある意味一般には理解できないという領域に足を踏み入れそうだ。本気でその先にある悟りを目指した場合、どうしてもこの現実の地に足をつけていられなくなる気がしてしまう。その恐怖を超えてこその悟りなのかもしれないが、それは本当に到るべき場所なのだろうか。
三島事件を起こした時の三島由紀夫を一般的感覚でみればどう考えても正気では無い。様々な理由がつけられているが、この追求の先に辿り着いて起こした事件には違いないだろう。本書は死をもってある意味、美というのか、世界というのか、それが完成させられるという風に考えている三島の思想の断片が所々に見られた。
三島は死をもって美を、人生を完成させようとしたのか、本当のところは本人にしかわからない。そもそも予測しようとするのは非常に野暮な事かもしれない。
ただ僕は、三島の思想や言動という仮面の裏にある、自分という物語、舞台を美しく完結させたいという願望、それを達成するためにどうしても必要だったのがこの事件という結末だった気がどうしてもしてしまうのだ。