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邂逅:miletの音楽に響く哲学的対話 – レヴィナスとメルロ=ポンティの視点から

前回は「Love when I cry」を題材に、レヴィナスの「顔」という視点から、終わりのない責任と愛についての考察をしました。今回は、レヴィナスの視点を引き継ぎつつ、同じくフランス現象学の巨匠であるメルロ=ポンティの視点と対比させながら、miletの「邂逅」に迫ってみたいと思います。miletの「邂逅」という曲は、彼女の透き通るような声とともに、失われた愛に対する深い喪失感と、それでも消えない希望が美しく織り込まれています。

メルロ=ポンティは、20世紀フランスを代表する哲学者の一人で、現象学や実存主義の発展に大きな影響を与えました。彼が提示している哲学的概念はいくつもありますが、その中の一つが知覚と身体性に関するものです。メルロ=ポンティは、人間の知覚と身体の関係を重視しました。彼は、我々の世界理解が純粋に主観的でも客観的でもなく、身体を通じた知覚経験に基づいていると主張しました。

レヴィナスとメルロ=ポンティは共に現象学に影響を受けながらも、他者との関係や人間の存在のあり方について異なるアプローチを取りました。

他者の不在に対するレヴィナス的解釈:永遠の責任

レヴィナスの哲学の中心には、他者に対する「無限の責任」があります。彼にとって他者とは、私たちが完全に理解できない存在であり、その存在は常に私たちに倫理的な責任を要求します。レヴィナスにとって、他者の「顔」は私たちに対する倫理的な命令であり、他者との関係は、単なる感情的なつながりではなく、深い倫理的な問いかけなのです。

責任が無限のものであるとは、責任が現実に果てのないものであることを表現しているのではない。責任が引き受けられるほどに責任が増大してゆくことをあらわしているのだ。

レヴィナス『全体性と無限』岩波文庫

「邂逅」の歌詞において、主人公は愛する人の不在に直面します。「Still can't believe that you're gone」というフレーズに象徴されるように、主人公は喪失感に苦しみながらも、その存在が消えたことを受け入れられずにいます。この状況は、レヴィナスの「他者の不在がもたらす倫理的な問い」と響き合います。愛する人がいなくなった後も、その存在は主人公に無限の責任(増大する責任)を課し続けているのです。むしろ愛する人がいなくなったからこそ、主人公により一層の倫理的な責任が求められていると言えます。

例えば、「あなたのいない明日は夢と笑って」といったフレーズは、失った愛を乗り越えようとする試みを示しながらも、その喪失が単なる過去の出来事として片付けられないことを示唆しています。レヴィナス的視点からは、この他者の喪失感が、主人公に対して依然として倫理的な要求を課していると解釈できます。他者が物理的に不在であっても、その「顔」は主人公に対して問いかけを続け、無限の責任感を持たせるのです。

ちなみにレヴィナスのいう責任とは、英語でいうresponsibility(応答するresponse+能力ability)と深く関係します。レヴィナスにとっての責任とは他者からの呼びかけに対して応答することを言っています。そして、他者はどこまでいっても完全に理解できる存在ではないがゆえに、その責任は無限(=ここで終わり、という制限がない)であるとしています。

メルロ=ポンティの視点:身体と世界との共生

一方、メルロ=ポンティの哲学では、他者との関係はより身体的であり、世界との共生に基づいています。彼にとって身体は、世界を知覚し、他者とつながるための根本的な媒介であり、私たちは身体を通して他者との相互作用を行います。メルロ=ポンティは、他者との関係を「共感」や「共有」といった身体的な接触を通じて理解しました。

「邂逅」の歌詞でも、身体的なイメージが重要な役割を果たしています。「裸足でかけてく/燃えるようなトワイライト」や「フェンス越しのキス」といった描写は、他者との身体的な接触や距離感を暗示しています。メルロ=ポンティ的な視点では、これらの身体的なイメージは、他者との関係性が単に感情的なものではなく、身体を通じて世界と共有されるものとして捉えられます。

特に「フェンス越しのキス」というフレーズは、他者との距離と接触の境界を象徴しています。メルロ=ポンティの理論によれば、他者との関係はこのような「フェンス」を超えて身体を通じて成り立ちますが、その接触は常に完全ではなく、部分的な理解に留まるものです。それでも、身体を介した関係は、私たちが他者を世界の中で経験し続けるための媒介であり、失われた愛の記憶や感覚を持ち続けることができるのです。

「邂逅」におけるレヴィナスとメルロ=ポンティの対話

miletの「邂逅」は、失われた愛に対する感情と記憶をテーマにしていますが、この歌詞はレヴィナス的な倫理的視点とメルロ=ポンティ的な身体的な視点の対話としても読み取ることができます。

レヴィナスの視点からは、他者の不在が主人公にとって単なる過去の出来事ではなく、現在も続く倫理的な問いとして立ち上がっています。愛する人の「不在」であっても、その存在は消え去らず、主人公に無限の責任を課し続けます。一方、メルロ=ポンティの視点では、他者との関係は身体的な接触を通じて成り立つものであり、記憶や感覚として身体に刻まれる形で世界と共有され続けます。

「邂逅」の歌詞の中で、この二つの視点は交錯し、他者の不在に対する感情が倫理的でありながらも、身体的で感覚的なものであることを示しています。愛する人がいなくなった後も、その記憶や感覚は身体に残り続け、その影響は倫理的な問いとして、また感覚的な共生として主人公に訴え続けるのです。

結論

miletの「邂逅」は、単なる失恋の歌としてではなく、他者との関係性やその不在が私たちに与える深い影響を考察することができる作品です。レヴィナスの倫理的視点とメルロ=ポンティの身体的な共生の視点を通して、この曲の歌詞はさらに豊かに解釈することができます。失われた愛の記憶が、単なる過去の出来事ではなく、現在も続く身体的・倫理的な問いかけとして存在し続けることを、この曲は美しく表現しているのです。


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