夏を知る夏 (2011年作) 1−2
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実家の屋根へ上るルートを開拓してからおよそ25年。その間に地元を遠く離れてからもすでに10年あまりが経つが、「日常の視界に山並みが見える」のは今だに慣れないことの一つだ。
関東平野南部には下総(しもうさ)台地と呼ばれる一帯がある。そこに広がる新興住宅地、首都圏のベッドタウンの一隅にぼくは育った。山は遠い存在だった。屋根の上から彼方に見える、富士山と筑波山だけが山だった。それらですら小さな突起のようなもの。山並みなど日常のどこにもない土地に育ったのだ。
登ってみよう、などと考えもしなかった自宅の屋根だけれど、一度その道を見つけてしまうとしょっゅう這い上がるようになった。毎日寝起きしている部屋の上に、 知らない世界が広がっていることを発見したのが嬉しかったのだ。屋根の上にいる間は同じ目線の人と誰にも出会うことはない。家々の屋根ばかりが地平線まで続く風景を見つけたことは、日常のほんの数メートル高いところに浮かぶ、自分だけの秘密の世界を発見した気分だった。
とくに気に入ったのは夕暮れ時だ。西の端にある小さな小さな富士山を、くっきりと三角形のシルエットにして見せる夕日を見送っていると、1キロほど離れた駅前商店街の灯りが次第に浮き上がってくる。その暖かな明るみは八百屋や魚屋の威勢のよい売り声を思い起こさせた。スーパーマーケット屋上のトレードマークが点灯し、パチンコ屋のイルミネーションが駅前通りのマンションをにぎやかに照らし出すのも見てとれた。
夕焼けの残り日に、ツイッと光る飛行機雲が現れることもある。かたんかたんとレールを響かせる、帰宅ラッシュの通勤電車の音が走って行く。近所の家に誰かが帰ってきた声、それを迎える夕食の音が聞こえる。
夏の近づいた午後遅くには、栃木方面にしばしば巨大な積乱雲が立ち上がる。それはそれは壮観だ。成層圏に頭を突っ込んだ入道の足下で、ホカホカと雷が明滅する。遠すぎて雷鳴はもちろん届いてこない。
そんな季節が来れば花火が見える週末も近い。見えるといっても、どれもがとても遠いから、大きさは指先でつまめるほどだ。夕日の赤みも消える頃、東京方面の平らな彼方を見渡すと、ビー玉大の花火の輪があちこちに並んで、これもやはり無音で点いたり消えたりしているのだ。
こうして年中、空いっぱいの夕暮れを眺めていたら、季節によってその色合いが違っていることに気がついた。その違いが何によって起こるのかはわからなかった。湿度のせいだろうか、空気の成分に違いがあるのだろうか、それとも温度の違いが届く光の色を変えるのだろうか……。
寒い時期はオレンジ色が鮮やかに、赤く暮れていく。
夏場の夕暮れは青みがかった空気に包まれる。
ぼくはことさら夏の青い夕暮れ時が好きになった。そういえば夏は昼間の色もどこか違う。夏は暑さだけじゃない、特別な空気に包まれているのかもしれない、と思った。
夏。そうだ、夏という季節の存在を意識したのは、屋根の上の景色を知ってからなのだ。その独特な色、匂い、感触。そうだ、そしてあの旅でぼくの全身が夏と出会うことになったんだ。
夏、高校二年の夏、仲間と夏休みに旅を企んだ。ぼくら仲間達の誰にとっても初体験となる自転車野営旅行。キャンプ3泊で関東平野を横断していく計画。ぼくはそこで初めて夏と正面、向き合うことになる。
ぼくらの野営活動は高校初年の夏に始まり、4回5回と重ねるうちにメンバーそれぞれの持ち場がなんとはなしに決まって、もう黙っていても野営現場での段取りが進むチームになってきていた。「チーム」といっても軸になるメンバーは三人だけ。あとはその時々に「準レギュラー」といった顔ぶれの数人が、来たり来なかったりという規模である。
そして出かけるのは山深い渓流のキャンプ場でもなければ、風渡る海辺でもない。土曜日の部活が終わった後に、自宅から自転車で行ける範囲にある空き地なのだ。
下総台地に虫喰い状に広がった新興住宅地であるぼくらの町は、旧来の耕地や雑木林と近接していた。だから人目に付かずにテントを張って、小さな焚き火を起こせそうな候補地がちらほらあった。それに、周辺で拡大を続けていた造成地も、夜になれば人気のない原野のようなものだから、ぼくらにとっては好条件のキャンプ地になった。遠出をする時間も資金もなく、ただただ「キャンプしようぜ!」という想い一つで自転車30分、遠出もしても1時間圏内にその活動地を開拓していたのだった。
そんなこじんまりとした活動ではあったけれど、部活の試合前や中間・期末試験の時期を避けながら、ひと月ふた月に1度のペースで続いてきて、2度目の夏を迎えようとしていた。
ぼくは思った。今度の夏休みは、どっか遠くへダーッと行ってみたいな。キャンプは慣れてきたのだから、自転車での長距離走行に挑めば遠征野営もできるかもしれない。チームはいい感じになってきてる。長い休みの間に、どこか遠くまで行ってみたい! という欲求が胸に広がっていた。
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