夏を知る夏 (2011年作) 2−4
野営と自転車旅行。平成元年の高校生の夏。
2−4
キャンプデビューができないまま、近づいてきていた夏を前に焦っていた。1泊ですらキャンプに出かける時間がない!
しかしぼくは、あるとき気づいた。つまりオレたちがしたいのはテントを張って寝ることであって、遠くまで行くような時間は必要はないんだ……。
学校へ向かって自転車を並べ走りながらぼくはシンタに提案した。
「なぁ、もうさ、なかなか遠出する時間もないしさ、近所でキャンプしちゃおうぜ。それなら土曜の部活の後でも行けるしさ」
シンタの家から学校への道のりの、ちょうど中ほどにぼくの家はあったから、彼は毎朝ぼくの家を経由して通学していた。朝の弱いぼくは、彼がうちに到着する音でやっと布団から飛び出し、朝飯を摂らないことへの母親の小言を浴びながらバタバタと家を出るのだった。
「近所でキャンプかー、いいなそれ。もうどんどんやっちゃおうぜ」
よっし! ぼくはすぐさま一雄も誘った。幼なじみの一雄と、中学校の同級生シンタは高校で初顔合わせだったけれど、ぼくは親友同士を入学早々紹介してあった。彼らもすぐに親しくなったのは目論見どおりとは言え嬉しいことだった。椎名誠の本を次々に2人がかりで一雄に送り込み、ぼくとシンタの熱いキャンプへの欲求に彼もまた響いていたのであった。
「やれそうなとこあっちこちあるもんな。やろうぜやろうぜー。いつから始める? オレたちも”東日本何でも…”みたいに名前も欲しいよな」
活動開始即合意、梅雨明け早々に! 会の名前は「千葉県どこでも寝込んでしまう会」に!とすぐさま決まった。
「会の名前の通称は”ドコネコ”だな」
「何か言いにくくねーか?」
「すぐ慣れるよ」
さっそく一発目の場所の相談も始まった。ぼくもいくつか候補地を考えてはいたが、シンタが「まずはやってみたい場所がある!」と推薦する場所へ偵察に行ってみることにした。そこはシンタの家から10分程、彼が卒業した小学校の学区辺縁だった。
「近所でキャンプしようってことになったとき、まず頭に浮かんだんだよ、そこがさ」
シンタの自転車を先頭に、3人は雑木林の細くて急な山道を威勢よく下って行った。坂を下りきると、山道は狭い谷底にある休耕田へ出た。
この地形は下総台地の典型だ。机の上に、指を広げた手の平を置いたところを想像してみてほしい。このとき手のひらが接している机面が低地、手の上面が台地に見立てられる。手のひらの厚みの部分は、一気に20メートルほどせり上がる急斜面。これが今下ってきた急な山道が通う部分。
机面に当たる低地は、縄文海進で入り込んだ海の底に土砂が溜まった名残だ。この低地は開いた指と指の間に、底の平らな奥深い谷となって続いていて「谷津」と呼ばれている。台地と谷津の境目には、ところどころに水が染み湧く湧水層がある。かつて谷津はその水を引いて水田として利用され、その田を谷津田といった。しかし近年では谷奥は休耕田になって放置されている場所が多かった。シンタおすすめのキャンプ地は、そんな谷津田の最奧部だった。
雑草だらけの休耕田を取り巻く農道に、道幅が少し広くなったところがある。そこらが水田だった頃の、農機のUターン場所らしきポイントだ。
「ここだよ。いいと思うぜ。どうかな?」
確かにテントを張るのに十分なスペースだったし、谷津田最奥部だから人目を避けられるし、夜中の人通りもありそうにない。近頃車が入った跡もない。
「いい。いいね!」
寄って来る蚊を払いながらぼくは答えた。
「問題なさそうだね。いいんじゃないかなぁ」
一雄も同意だ。
下見から半月足らず後の土曜、部活を終えた夕刻。テント、鍋、飲み物食べ物、そしてたくさんの薪を自転車にくくりつけ、ぼくらは再びその地へ入った。谷津田は西向きに開けていて、眩しい夏の西日が差し込んでいた。
明るいうちにまずはと、シンタとぼくはテント組み立てを始める。一雄は焚き火の準備にかかっていた。用意していたダンボールをちぎって軸に据え、細い木から順に周りに組む。ダンボールに火をつけて炎のあるうちに、細い木をさらに静かに重ねて火が移るのを待つ。
そうしながら一雄は自分のザックをゴソゴソやって、一枚の下敷きを取り出した。学校でノートに使ってる下敷きだ。
「これが効くはずなんだよね」
ちょちょろと炎が見え始めた焚き火に向かって、彼はその下敷きを使い、
パタパタパタパタパタパタパタタタタ……
と風をあおぎ込んだ。
ボボワッ
と炎が勢いよく膨らんだ。
「おおお~!」
ぼくとシンタは湧いた。
「ふふふふ……」
眼鏡にゆらゆらと炎を映した一雄が満足げに笑う。
ぼくがカップ麺用の湯を固形燃料で沸かす間、シンタはソーセージを串に刺し、充分に育った焚き火にかざした。
日が暮れていく。焚き火の火の粉が光り出す。各自持ってきたカップにコーラを注いで乾杯だ。
「いやぁ、ついに来たな!」
「来たなぁ」
「来ちゃったねぇ」
パチパチと薪のはぜる音が谷津に響く。薄明かりのうちは遠くのあぜ道を犬の散歩の人が行くのも見えたが、今はもう誰の気配も無い。
「あれ……? あれって蛍?」
一雄と言って指差す先に、小さな光が一つ、火の粉のようにふわりと昇って行くのを皆が目で追った。しかしそれは明らかに火の子と色の違う明滅だった。
「すげーな! こんな近所に蛍なんていたんだ!」
「ほんとだ! すげー、初めて見たよ」
「あぁ、オレも初めてだぁ……」
焚き火の側では炭火に炙られたソーセージがしゅわしゅわと音を立て始めていた。
「シンタ、もう焼けたんじゃねぇの?」
腹が減ったオレはたまらず聞いた。
「そんなの温ったまればいいんでしょ?」
一雄も待ちきれない感じだ。
「いや、まだだね!」
シンタは串を少しずつ回転させて、真剣な目つきで焼け具合を観察しながら言い切った。
日はすっかり暮れていた。また蛍が1匹舞った。鉄串に並んだソーセージはさっきより賑やかにじゅわじゅわという音を出している。
懐中電灯でそれらを照らし、少しずつ串を回していたシンタが言った。
「よし、今だな」
軍手でつまんで串から引き抜き噛りつく。
「うまい!」
一雄とぼくは身を乗り出す。
「お、オレもオレも!」
「んぐ、ちょっと待てよー……」
シンタはもぐもぐしながらぼくらの分の出来栄えを、懐中電灯で検分してから串を差し出す。ぼくらも軍手のままそれを引き抜いた。その瞬間、熱せられた鉄串の先端でソーセージが音を立てる。
ジュッ。
噛り付く。
「おお~!」
「んん~!」
単なるソーセージがそんな味なのである。続いて、固形燃料でやっとやっとやっと湧いた湯で作ったカップラーメンの味も、いつもとは明らかに違うのであった。
高校1年生のぼくらは、こんなときでも酒盛りというは発想がまだなくて、ただただジュースの類をゴクゴクやり、スナック菓子をバリバリやって、取るに足らない男子トークでだらだらと「ドコネコ」初夜は更けていったのだった。
ふと振り向くと、自転車の前輪にセミの幼虫が登ってきていた。
「おっ、すげぇ! 見ろよ、蝉が羽化してるぜ!」
懐中電灯の光の輪の中で、ギラギラ光るその背中が割れて透明感のある真っ白な体がのぞいていた。
翌日曜。朝が来ればあとはもうやることは何もない。あっとゆう間にテントを撤収、焚き火の跡を蹴散らして退去した。
皆と別れてあっけなく自宅に帰り着く。家族は皆まだ寝ているようだった。取りあえず風呂に入ろうと服を脱ぎながら、その服に焚き火の煙の匂いが染み込んでいることに気づいた。ほんとにキャンプしてたんだな……。それは起き抜けに振り返る夢のような感触なのに、匂いはリアルに服にこもっていた。
熱い湯を浴びていると
「ああ、ほんとにオレたちあんな近所で一晩泊まってきたんだなぁ……」
という感動が湧いてきた。それは待ちに待った特別な体験だったのに、場所は家からほんの近所での出来事ということがやたらと不思議だった。
初めて見る蛍や蝉の羽化、ありふれた食材のいつもと違う味。どれもが日常の隣にある知られざる世界が流れ込んできた感じだ。その感覚は、自宅の屋根の上に未知の眺めを発見したときの感動と重なった。
きっと日々の風景のあちらこちらに、ぼくが開けるべき扉が立っているのだろう。ただそれは透明で目に見えない。だから、気づけずにいることがほとんどなのである。
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