
「飯沼一家に謝罪します」感想&考察
きっかけは私が絶賛ハマっているキモシェの元住人ぐんぴぃ氏の相方、ポ…こと土岡さんのツイートを見てからである。
土岡さんはかつてニートとして引きこもっていたり、今まで見た映画を自己批評して記録しているという、かなり変わった経歴の芸人さんだ。そこでツイートを調べていくうちに、モキュメンタリーというジャンルがあるのを初めて知った。
私が若い頃にブレアウィッチプロジェクトという、かなり低予算で作られたドキュメンタリーのていの映画が爆発的に流行った。残念ながら私はよく海外ホラーにあるような、激しくヒステリーを起こしている女の人を見ると自分の母親を思い出してしまい、動機や引きつけを起こしてしまいそうになるので見て居ないのだが。
私が育った思春期はリング、らせん、などのジャパニーズホラー全盛期だった。かなりマイナーだがルナシーが主題歌を務めたアナザヘヴンはかなり好きで小説も愛読していた。本をあまり読まない友人が受験の面接で、好きな本をとっさにアナザヘヴンと答えてしまったらしい。知らないとは言え🧠クッキングの話を愛読していると言ってしまったのかと、私はヒヤヒヤした。幸いながら志望校には受かったらしかったが、疎遠になってしまい今は何をしているか分からない。
今や貞子は萌えキャラになり、恐怖は薄れてしまった。しかし確かにあの時、呪いというアナログな儀式がデジタルという媒体より増大し感染してゆく…という形式が生み出されたように思う。
「飯沼一家について謝罪します」(以下、「飯沼一家」)も、このアナログとデジタルを上手く使った非常に伝統的な日本ホラーの最前線なのかも知れない。
各30分計四話という形式は見やすく、順番を入れ替えたり逆から見ても何か仕掛けがありそうな気がする。
あれは姑獲鳥の夏だったか。舞台となった久遠寺の奥方憎き相手に式神を飛ばし続けるのだが、その相手はとうに彼岸の住人だった。故に夫人が放った式はことごとく失敗し跳ね返り、久遠寺を更に呪われた家にしてしまった…という様な描写があった。
私も呪術的なことは専門的には分からない。しかし我が家には仏壇と神棚があり恵比寿像も飾ってある、敷地内にはお稲荷様があり、周りは墓に囲まれ道祖神や三尸の像や、祖母とよく参った天神様や神社もある。外国の方からしたらありえないが、ありとあらゆる宗教が存在し、生活の中には儀式や呪いが存在していた。
仏壇に供物を捧げ命日に線香をあげるのも、神棚に新しいお札や受験票を預けるのも、えびす講で財布を預けるのも、私にとってはただの習慣でありそれが儀式だったとは微塵も思わなかった。家のあちこちには祖母が手作りした御幣が飾られており、厄除けとして機能するものらしかった。そういった神事や呪術については圧倒的に祖母の方が詳しく、それは祖母の実家が豪農であり、商いをする家はゲンを担ぐ為身近にあったのだろうと思う。
運気を上げる、と聞いて真っ先に浮かぶのは風水だ。私はうっすらスピリチュアルおばさんなので、金運が上がるようにマツケンサンバのキラキラアクセサリーを鞄に付けたところ、妹のインスタに「お姉ちゃんの趣味わかんないゆ🥺」と晒したと事後報告された。私のプライバシー、とは。
つまり、よく言われる運気を上げるというのはマツケンサンバのアクキーのようにキンキラキンのものを付けたり、黄色のなにがしかを飾ったり、そういうイメージだ。悪いものを封じて運気を上げる…というの、汚い所の掃除や要らないものを断捨離をして運気を上げようという昨今のブームに繋がる気がする。個人的な意見ですが、片付けも断捨離もミニマリストも自由なんですが押し付けは良く無いし、ハマり過ぎるとやばいという点で私はオカルトにかなり近いと思ってる。詳しくはネトフリのこんまりメソッドを見てくれ。
つまりはまあ、「汚くて」「不要なもの」があるから良い運気が入ってこないと。だから、それに該当するものを書いて封印しましょうと。個人の名を書くということは実は非常に恐ろしいことで、今はインターネットの誹謗中傷が命を奪っていることで私たちはそれを知らざるおえない。文字には言霊がある。名付けは、親が子どもに一番初めに行う呪いのような気がする。それまで名前のない赤ん坊に名を与えて定義する、するとそれが家族になり、自分たちの一部になる。
かつては祝福され愛されて生まれて来た我が子の名を、今や「汚くて」「不要なもの」として書き連ねる気持ちとは如何ばかりなのだろう。
結論としては、ヨシキ母が言っていることが全てだろう。宗教や祭祀を行う血筋でもない素人が、中途半端に編み出した儀式なんてするもんじゃないと。
神社の神主さんもお寺のお坊さんも、きちんとそういった学校に通われて祭祀や仏寺の儀式のやり方を学びますからね。やはり知識や好奇心だけの素人が、ましてや自分オリジナルの組み合わせ儀式を行うなんて火を見るよりも明らかですよね。
教授としての知的好奇心から、飯沼一家に大変なことををしでかしてしまった矢代教授の謝罪から始まる第一夜。真っ白な死装束で受ける裁きの結果どうなったのか。
(追記)よく「人を呪わば穴2つ」と言うが、飯沼一家が運気を上げる為の贄として引きこもりの明正を指名した結果、オカルトマニアの明正がそれに気付いて呪詛返しとあるが私は少し違うと感じた。矢代教授は学問的な祭祀については、教授になるほどの知識と裏打ちがある。中途半端なオリジナルの儀式とはいえ、たかがオカルトマニアの子どもが高度なことが出来るだろうか。何かの番組か本で読んだのだが引きこもりの方の部屋というのは、それだけでもう結界というか要塞というか、家庭から切り離された異界なのである。恐らくは本格的に一家がおかしくなった後も、明正の部屋だけは家族がかけた呪いを跳ね返すような力を持っていたのだろう。唯一自分を守ってくれる部屋とそれが存在する家。それを明正が放火するとは考えにくい。従って部屋という結界に守られた明正を、「汚くて」「不要で」「運気を下げている原因」をどうにか取り除く為に、おかしくなった一家が家ごと燃やしたのでないだろうか。
明正の最後のすみませんは、自分は引きこもりになり家族に暗い影を落としてしまったのに、自分は遠い地で妻子に恵まれ幸せに生きてしまっている罪悪感からではないだろうか。息子が生まれ親になり、明正もかつての父親や母親の気持ちが分かるようになり、どれだけ苦労や心配をかけたのだろうと。その結果疎まれ呪われ、不本意とはいえ家族を失う結果になった。
明正に何があったのかは分からない。元々家族がスピ系に系統していた為、抵抗の為にオカルトマニアになったという説もアツい。だが親になり子が生まれ心境が変わった明正が、自分がもっと家族と向き合っていれば。苦しい、辛い、と具体的に助けを求めていれば。無関係のヨシキを巻き込まずにこんなことにはならなかったのでは?そういった、今になって気付く反省や謝罪というのは確かにある。だからこそ、明正は今まさに思い出したかのように、か細い声で「すみません」と言ったのではないだろうか。
私は、この物語には正解は無いと思う。というかあえて抜け感というか違和感というか隙間をたくさん与え、見る人を困惑させ各々が考えを言いたくなるような仕組みにさせている気がする。見た人の数だけ感想や考察があり、どれも見応えあり面白い。この拙い文章も、制作スタッフの誰かに届いてくれれば嬉しいことこの上ない。
メチャクチャ不穏で面白かったです!次も期待してます!と。