堂々とかっこ悪いことのかっこよさについて
サーフィンをしていると、沖で波を待っている間に横に並んだ人と自然に会話が生まれることがある。
殺し屋みたいな顔で、話しかける隙のないような人もたまにいるが、波の穏やかな日にはだいたいみんなぼやっと力を抜いて、来ない波を待っているので暇なのだ。
今朝もそんな感じの平和な海だった。昨日までの波は朝いちばんまで残っていたが、僕が入ってしばらくしたらサイズも頻度も落ちてきた。
隣で波を待っていたのは僕よりすこし若いだろうか、さわやかなミントグリーンのミッドレングスのにまたがった女性のサーファーだった。
「波、なくなっちゃいましたね」
お決まりの話しかけである。サーファーの9割が第一声に使うセリフだと言ってもいい。日常における「おつかれさまです」くらい一般的なあいさつなので、これから海に行く人は覚えておいて損はないです。
今日は実際に波がなくなっちゃっていたのだけれど、それでもじっくり待てばたまにいい感じのセットが入ってくる、そんな希望を残した状況だった。
「わたしいま入ったばっかなんですけど、あげいっぱいだったからもう無理かなって思って、でもせっかくだからと思って入ってみたら、やっぱりダメでしたね」
同じような位置で待っているということは同じような実力であり、同じようなボードに乗っている、ということなのである。自然と仲間意識が芽生える。
それからしばらく互いのボードの褒め合いと最近入ったポイントの共有をして(この二つも話題として必須なので覚えておいてください)だらだらと海に浮かんですごしていた。
***
しばらくして僕たちの待つ海の、少し沖の海面がぐっと持ち上がった。待ちに待ったセットが来たのである。これはなかなかでかそうだ。
「いけそうですよ、行きましょう。僕は次のいくので、どうぞ!」
最初のセットに合わせるように必死でパドリングをはじめた彼女は、一歩出遅れたのか、すっかり置いていかれていた。舌を出し、照れ笑いを浮かべながら振り返る。視線の先にはセカンドセット、今日イチの波である。最上段からテイクオフする僕が見えただろう。
その視線を感じて力んだのかもしれない。ピークから直角に落下していったさっきの男は、一度水面に叩きつけられたあと、落ちてきた自分のボードが股間に直撃してぐちゃぐちゃになったまま岸まで流れて行った。熊と取っ組み合いしながら沢に落ちていった映画レヴェナントでのディカプリオ張りの散りざまである。
ここで僕がもし10代や20代の若者だったら、と考えると背びれが青く光る。消えてしまいたい。きっと泣きながら走って帰っていただろう。そして半年くらい海には来ない。
でも僕は40代の大人である。どうかなっちゃったんじゃないかしら、と思われるくらい痛む股間を片足けんけんでなだめつつ、さっきの位置でまた波を待ち始めた彼女に向かって右手を上げ(先に上がりますね!の合図である)その手で前髪をはらい、堂々と帰り道の砂を踏んだのだった。
これには我ながらかっこいいなと思った。
かっこいい大人というのは、スーツが似合う人でもスポーツカー乗ってる人でもないのだ。全力でやって、失敗しても堂々としている人なのである。かっこ悪くてもやりきって堂々としている人は、もはやかっこいいのだ。
これからも僕は、できるだけかっこ悪くても堂々とかっこつけていきたいと思う。それならできそうじゃないか。
砂浜をけんけんしながら帰る僕の周りには、たくさんのトンボが飛んでいた。夏が終わったんだなと思った。