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生に起る病

「生まれることが、老いることが、病に伏すことが、死ぬことが、絶望ならば、
生まれることが、老いることが、病に伏すことが、死ぬことが、希望かもしれない」

これはただの思考実験にすぎず、なんの根拠もなく、ただの思いつきで、別に反対が真でもいいじゃないか、と。そういう思いで書く記事。

人生が苦しみまみれで絶望しかなく、その絶望があるから人は成長できると。
そういった先人たちの教えに触れて、そうなのかと納得しつつもコインの裏側を見たい気持ちで別バージョンのようなものを思いついたため、頭の中に広がったものをここに表出してみたいと思う。
ほぼ自分の考えを知り、まとめるためのものになるので、支離滅裂になる可能性は大きい。そもそも冒頭のこの部分でわけわからない人にはわけわからない構図になっちゃってる気がするから、これを読む人はそれを踏まえた上で読むことを推奨する。

四楽八楽

人生は『四楽八楽(しらくやらく)』でもいいと思う。

生楽・老楽・病楽・死楽。愛別離楽・怨憎会楽・求不得楽・五陰盛楽。

生楽(しょうらく)
生まれることによる楽しみ。

老楽(ろうらく)
老いることによる楽しみ。

病楽(びょうらく)
病気にかかること、病気が存在することによる楽しみ。

死楽(しらく)
『死』という絶対的な時間制限の希望。

愛別離楽(あいべつりらく)
愛の中に在ることができたという実感。愛を育むことができるという絶対的証拠の獲得。

怨憎会楽(おんぞうえらく)
これから好きになれるかもしれない楽しみと、自分が嫌いなものを分析し、成長に繋げられる楽しみ。

求不得楽(ぐふとくらく)
創造性が高まる楽しみ。得られなければ得られないほど燃え上がるもの。

五陰盛楽(ごうんじょうらく)
自己を知る楽しみ。

苦しみと楽しみ

あらゆる苦しみには、あらゆる楽しみが付き纏う。そのことさえ知っていれば、あとは選択するだけだ。
ただ、この選択が難しい。日々選択を意識していない場合、僕は、その時のテンションに任せて無意識に選択する。
気分が落ち込んでいるときは『苦』を選択し、気分が舞い上がっている場合は『楽』を選択する。
どちらが良い悪いという話ではなく。できればその間がいい。『苦であり楽である』状態が多分一番ベターな選択が行える。中庸を目指す考えこそが真なのではないか思う。裏表ではなく横から見るコインがもしかしたら一番美しいのかもしれない。裏表ではなく横から見る世界が一番苦もほどほど楽もほどほどなのかもしれない。すごくいいとこどりができてしまうのではないかと。
ただ、どちらか一方を選択するとしたら。もしくは、どちらか一方を選択しがちだとしたら、多分僕は『楽』をよく選択している。楽な方へ楽な方へとよく自分を誘導している。
その影響で、これから困ることが出てきて、『苦』を痛感することがもしかしたらあるかもしれない。
だけど、それでも僕は『楽』を選択しそうだ。だってあらゆる『苦しみ』から逃げるのが好きで好きで堪らないというか、もはや『苦しみ』から逃げるために生まれてきたのではないかというくらい、僕は多分『苦しみ』から逃げるのが好きだ。
ちなみに、『楽しみ』を追いかけるのが好きかというと、特にそういうわけでもない。というか『楽しみ』も『苦しみ』もほぼ僕と同居してる気がする。『苦楽』と共に生きている気がする。
だから常に家の中でぐるぐる逃げ回ってて、『楽しみ』はその中心で微笑んでる感じかも。そう考えると、なんかまるで苦手な姉弟と鬼ごっこをしつつ、それを両親が見ているような図式だ。なんかすごくしっくりきた。
なるほどな、だから逃げても逃げきれないし切っても切りきれない。
もしかしたら『苦しみ』から逃げてるつもりが『苦しみ』を追いかけてるなんてこともありそうだ。

絶望と希望

「絶望を知り、絶望を自覚し、絶望を克服する」ことで人が成長するならば、人はまた、
「希望を知り、希望を自覚し、希望を超越する」ことでも成長できると思う。

もちろん、希望が過ぎれば希望により堕落することもあると思うが、それは絶望も同じで、絶望が過ぎれば絶望により腐敗することもあると思う。

だから、重要なのは自己を知ることだろう。

自分はどちらなのか。希望で成長するのか堕落するのか。絶望で成長するのか腐敗するのか。

僕はどちらだろうか。希望で成長していくだろうか。絶望で成長してきただろうか。

・・・よくわからない。理想で成長してきた気はする。

僕は最近まで、『こちら側に手を差し伸べる自分』が理想の自分で、僕自身があんな風に自分に手を差し伸べることができるようになるためだけに生きてきた。だから逃げも許し、甘えも許し、失敗も許し、不出来も許し、常に支援的であれるようにしてきた。そうすることでしか生きられなかった。だがそうした結果、あまり社会には適応できなかった。社会から逃げて逃げて逃げて逃げた。それでもまだ社会にいる。社会は広すぎた。僕は絶望した。

あれから僕は死なずに生きてる。絶望を糧に成長したということだろうか。

いや、多分僕は『絶望』を糧にできない。『苦しみ』を糧にできない。
絶望を克服するために『希望』を糧にしたと思う。『楽しみ』を糧にしたと思う。

だからこそ、そういう『絶望』や『苦しみ』を主とする考えに反発し、こういう思いを抱いたんだと思う。こういう思いを記事に表出させようと思ったんだと思う。

よくわかった。僕は『絶望』を糧にできない。『苦しみ』を糧にできない。
もしかしたら未来の僕はそれらを糧にできるようになっているかもしれないが、今も僕は『理想』を一番の糧とし、希望を抱き、楽しみと共に在ると思う。

多分、これが僕のライフスタイルであり、次に来る絶望までこの調子で突き進む気がする。

それでは!!!

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ひがちゃん
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