
俗のものさし、聖のものさし
「よろずのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」
その昔、親鸞という天才宗教家は、このような言葉を残したと伝えられています。この言葉は現代人の一般的な感覚や認識では到底理解できない、あるいは、納得できない言葉ではないでしょうか。なぜなら彼は、「この世に真(まこと)なるものなど何一つない、つまりすべては虚構である。そのような世の中にあって、ただ念仏だけが真実なのだ。」ときっぱりと言い切っているからです。この言葉を聞いて素直に「その通りだ」と賛同できる人が、現代にどれほどあるでしょうか。
今から800年近くも前に、この日本で生きた親鸞というひとりの天才が、そのようなことをはっきりと申したのです。そしてその言葉は歴史の激動をくぐり抜け、現代に生きる私たちの耳にまでこうして届いているのです。これは驚愕すべきことではないでしょうか。現在世間でもてはやされているような言葉の中で、はたして800年後の人類にまで何らかの示唆を与えるような言葉がどれほどあるでしょうか。論語にしろ、経典にしろ、古典にしろ、その言葉が今も生きているということは、そこに真実が語られているからに他ならないでしょう。
親鸞という人物が示した宗教観・世界観に少なからず触れさせていただいている身としては、彼が酔狂や神経衰弱でこのようなことを言ったわけではないということはわかります。では、彼が云わんとしていることは、いったいどういうことなのでしょうか?
「よろずのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」
これは「まあ念仏が好きなら、そういうものの見方・受け止め方もあるよね」と簡単に流せるような言葉ではないはずです。親鸞は相当の覚悟と責任をもって、このように断言しているのです。もしこれが後になって「やっぱり間違ってました〜、すみませんね〜、忘れてください。」という程度の重みしかない言葉であったなら、今日まで残るはずがありません。この言葉が800年もの時間を超えて現代まで伝わっているということは、それを真理と受け止め、後世に伝えなければという強い思いを持った人々の情熱と決意があったからに他なりません。それを自分の認識とは合わない、あるいは、自分にはよく理解できないものだからといって無視することは、とてももったいないことだと私は思います。もしも彼の言葉が本当に真理を言い当てているならば、我々が生きているこの世界の認識そのものが根底から覆されることになり得るわけです。親鸞が残したこの言葉は、それくらい注目に値する言葉であることは間違いありません。我々はこの言葉の意味を、そして彼の真意を、深く深く問うていかねばなりません。
よくこのnoteでも、「生きる意味」とか「人生の目的」とかを自分なりに考え、それに対して一考察を述べている人を目にします。多くの場合、そこで語られる「生きる意味」や「人生の目的」とは、あくまでこの世をベースに捉えられているものでありましょう。つまり、そういったものがこの世の中にあるかないかを問うているのです。言い換えれば、たとえ人生に何らかの意味や目的を見出したとしても、それは世俗の枠を超え得ないものだということです。しかし、親鸞が云うように、「この世に真実などない」ということをはっきりと諒解し、その視点に立つならば、そもそもこの世の中に意味や目的を求めること自体ナンセンスということになります。なぜなら、どんな意味や目的も、結局は虚構でしかないということになってしまうからです。それどころか、「この世に真実は何一つない」ということは、人生を生きる主体である「自分」という存在そのものも真実ではないということになります。「自分らしさ」や「自己肯定」、あるいは「自主性」など、当たり前に自分というものがあるという前提で生きている我々現代人にとって、やはり親鸞の言葉は甚だ受け入れ難いものではないでしょうか。
多くの人が「人生に意味などない」「生きることにそもそも目的などないのだ」という結論に至っているのを目にします。なるほどそれは親鸞の到達した真理に似ているようにも思われます。しかしここで注意しなければならないのは、親鸞は決して世界をただ虚無的・退廃的なものと捉えたニヒリストであったわけではないということです。むしろ彼は、彼が生きた人生において唯一の真理に出遇えたことに、底知れぬ歓喜を深く感じていたに違いありません。
私は親鸞が残したこの言葉を「聖のものさし」と受け止めています。彼は「この世に真実などない」ときっぱりと断言している一方で、「念仏だけが真実である」ともはっきり言い切っているのです。私たちはここにこそ注目しなければなりません。これは「世間虚仮唯仏是真」という聖徳太子が残された言葉に直通するものであると言えましょう。「世間はすべて虚仮なのだ、ただ仏のみが真実である」ということは、念仏そのものを仏と観た親鸞の言葉と全く重なるものでありましょう。
我々は、たとえどれだけ多くの知識や高い教養を身につけたとしても、聖なるもの、真なるものと出遇うということがない限り、「俗のものさし」だけを頼りに人生を生きていくしかありません。いつか人生で生死という大きな問題に直面したとき、「俗のものさし」しか持ち合わせていなかったら、人はより迷いを深める選択しかできなくなるでしょう。どんなに革新的な言葉だとしても、人々を熱狂させる言葉だとしても、愛に溢れる言葉だとしても、勇気を奮い立たせる言葉だとしても、その出どころが俗なるものである限り、人間を真理に導く言葉とは成り得ないのです。
世俗の真っ只中にあって真理に覿面する。真理そのものが持つ力によって、そういうことが実際に人生で起こってくるのです。それは、まず自分の中に「世俗を超えたものに出合いたい」という願いがあることを発見することから始まるのではないでしょうか。
「そらごと・たはごと」ばかりが幅を利かせる、まるで冗談みたいなこの世の中にあって、私たちが本当に出合うべきものとはいったい何なのでしょうか。そういう多くの人が全く棚上げにしている純粋な問いを拾い上げ、考えていく必要があるのではないでしょうか。そうしない限り、世界の混沌と虚偽性は一層深まるばかりで、未来は更なる世俗化へと向かうしかなくなるでしょう。
さて、今あなたが持っているそのものさしは「俗のものさし」ですか、それとも「聖のものさし」ですか?あなたは「俗のものさし」だけで本当に死んでいくことができますか?
私は念仏ひとつで嬉々として死んでいくつもりです。
南無阿弥陀仏