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仏との出遇い、我執との訣別
人生の中で仏教とのご縁がありました。両親の死の体験を通して、それは深いご縁となりました。仏教で何が説かれているのか、たくさんお話を聞かせていただきました。仏教の目的は、私が仏になることと知りました。私が仏になるとは、我執を離れ、大慈悲心の当体となることと知りました。そして、仏様は私に、「自分と同じ仏になってほしい」と願っておられるのだということも知りました。その上で、今、人間として生きる私にできることは何だろうと考えました。行き着いた答えは、仏様に願われているままに、自分自身も仏になりたいと願う心を持ち続けながら生きることです。仏様の在り方を深く受け止め、その在り方を人間の理想として、往生までの人生を歩ませていただくということです。そうすることで、私の中で「わたし」への執着を少しずつ減らし続けていけるはずです。それは私にとって何よりも大きな希望なのです。
こんにちは、東野たまです。今回は、仏教とのご縁を通して私が経験したことを整理しながら、今、私が感じていることを率直に書いてみたいと思います。また、私が理想とする人間の生き方についても触れてみたいと思います。
仏様は、「わたし」という我執が私を苦しめる根本原因であると教えて下さいました。つまり三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)に代表される「煩悩」によって、人は苦しみ、迷いの世界に縛り付けられているということです。そのことを知らされた以上、私が目指すべき理想は、我執からの脱却しかありません。たとえそれが生きているうちには不可能だとわかっていても、私はなおそれを理想として生きていきたいと思います。
他力(阿弥陀仏の本願力)の救済を説く浄土門仏教も仏教である以上、その別ではないのではないでしょうか。つまり浄土真宗で説かれる他力信心というものが、我執から離れるという方向に開けていくものでなければ、そもそも仏教という立場を取り得ないのではないかということです。人間が抱える苦しみの根本を深く見つめていけば、我執を放置したままでその解決に至ることは現実的に困難だと思います。
このような受け止め方は、浄土真宗の教義を逸脱している、あるいは、聖道門仏教と浄土門仏教の混同だという批判を受けるかもしれません。確かに阿弥陀仏は、そのままの私を救う、いや、我執から脱却することなど到底不可能な私であるからこそ救うのだと説かれております。しかし、いくら仏縁があったからといって、そもそも我執に立脚した真理との交渉というものが本当に成り立つとは、どうしても私には思えないのです。
私が救われるということは、阿弥陀仏の本願力によって自分がお浄土に生まれさせていただくと思い込むことでも、自分は六道輪廻を彷徨う永遠に救われない存在であると思い込むことでもないはずです。そのような思い込みは、時に尤もらしい喜び心、あるいは、嘆き心を起こさせ、人を惑わすことがあるようです。そして、止まるべきところではないところに止まらせようと人を懐柔してくるので、特に注意が必要です。私も過去にこの罠に嵌まりかけたことがあるので、喜びというものには細心の注意を払って、冷静に吟味することを心掛けています。もうだいぶ昔のことですが、私は「阿弥陀様とは何と慈悲深く尊い仏様なのか…」と感極まって、涙がぼろぼろと溢れてきた経験があります。最初はこれを何か神秘的な体験と受け止め、自分は信心を得たのかもしれないと一瞬考えました。しかし、これは単に私が映画を観て感動して泣いているようなもので、自分の頭でイメージした阿弥陀様をただ眺めている状態から発生した、私的な感情なのだと気づきました。ということは、その表層的な自我の感激にのみ目が向けられていたわけで、この心の本当の出どころをまだ知らなかったということです。このような状態を信心と取り違えて、その喜びに安住することは、ただ自身の迷妄に身をゆだねることになりかねないので、宗教的な意味においては非常に危険なことだと思われます。
念仏者が自己の信心を点検するとき、そこに微かでも「我」の匂いが感じ取れるならば、それは信心とは呼べないかもしれません。あるいは、そもそも仏教とは根本的に異なる方向性の何かである可能性もあります。たとえお念仏を喜ばせていただく身になったといっても、その喜びが「我」を出発点としているものであるならば、それは仏様から賜った信心とは異なるものでありましょう。もし自分の心に僅かでもその点に疑いがあるならば、それを無視すべきではないと思います。この心に宿った喜びの源泉は、阿弥陀様の久遠からの大きな願いの成就ただひとつであり、そこに我執の立ち入る余地は一切ありません。こう書くと、信心とは大層難解なもののように思われるかもしれませんが、全くそうではありません。
私は、信心とはシンプルに言えば「仏心がそのまま私の心に宿ったこと」と受け取っています。そしてそれは、決して難しく考えなければわからないようなことではありません。仏心とはその字の通り「仏様の御心」です。凡夫の我執から仏心が起こるはずもないことは明白です。すべて仏様より与えられたものなのです。まずはその点をきっちり押さえていただければと思います。そうであるからこそ、仏教とのご縁も、本願力による浄土往生も、称名念仏も、仏願を信じ何の不足もない心も、全く他力の用きによるものなのです。そこに「わたし」という「我」は一切関与することはできないし、それができないという事実が、只々嬉しく、いよいよ頼もしく思えるのです。仏法を尊いものと感じる心があるなら、それは仏様からいただいた心であり、もうその時点ですでに我執を超えたものをいただいているということなのです。信心を自分の心の中に探したり、確立させたりする必要はありません。仏法へ向かおう、お念仏させていただこうという心そのものが、すでに仏様から廻向された心なのですから。素直にその一つひとつを仏心と受け止め、仏様の仰せに耳を傾け、頷く。それ以外に信心はありません。求道に悩まれている方は、このように受け止めることで少しでも心が軽くなっていただけたら幸いです。
さて、日常の中で、「わたし」という「我」からふと私が離れる時があります。そういう時、仏様は一番喜んでくれているだろうし、私の胸の中で最も躍動されているに違いありません。それはつまり私が、お念仏という声となられた仏様と直接に対面している瞬間のことをいうのです。
仏様とは、遠くから私のことを見守ってくれている存在などではありません。そんな都合のよい人間の願望の産物でも、実体のないぼんやりとしたイメージのようなものでもありません。仏様は「如来」とも呼ばれます。これは「真如より来たる」という意味です。仏様は如来の字のごとく、あちら(真如=真実の世界、真理の世界)からこちら(娑婆=世俗の世界、仮の世界)に来て下さる存在なのです。具体的に云えば、南無阿弥陀仏の「名号」という明確な姿で、この娑婆世界に現にお出ましになられているのです。それが何を意味しているかというと、人は人生で実際に仏様に出遇うことができるということなのです。この事実を聞いて驚かない人がいるでしょうか。私はこれまで人生を生きてきて、この事実以上に驚愕したことはありません。信じられないかもしれませんが、仏様は言葉となり、念仏の声となり、いつでも私の傍におられるのです。人間感覚で捉えられる程度の「存在」なんかより、歴然としたリアリティを持ったものが「名号」なのです。いつどうなるかわからないような不確実な命を生きている私が、「名号」という永遠に出遇ったのです。
人生には様々な出会いがあります。そして、人との出会いには必ず別れがあります。どんなに親しい関係であっても、反対に憎み合う関係であっても、別れは人間の思いとは一切関係なく必ず訪れます。しかし、仏様との出遇いに別れはありません。これはたいへん不思議なことです。仏様に出遇わせていただいた人の人生は、常に仏様と共にあるのです。「常に」とは、死すらもその妨げにならないということです。
その出遇いを果たさせていただいたなら、人は我執との訣別を願う心が芽生えてくるのではないかと私は考えます。なぜなら人間は我執によって苦しみ迷っていくのだと、仏様は絶えず教えてくれているからです。私は、それができるかできないかという問題ではなく、仏法をいただく身である以上、「我執からの自己の解放」を理想をとし、これから死ぬまでの人生を歩んでいこうと思います。そうでなければ、たとえ浄土門仏教で云われるところの救いに遇ったとしても、凡夫のこころが今生で本当の意味で救われるということは起こり得ないのではないかと考えています。
お念仏を深く喜んでいる人が、実生活においては人を憎み、妬み、怒りに塗れた日々を送り、周囲の人にネガティブな感情をぶつけまくるなどということは、どうしても私には考えにくいことなのです。お念仏を喜ぶ人が、仏様を悲しませるような、そんな苦しく空しい生き方を自ら選ぶとは思えません。お念仏をいただいて生きるということは、常に十悪と自己を照らし合わせ、暗い我執を深く自覚し、そこから脱却したいと願う明るい理想を胸に抱きながら生きることではないでしょうか。なぜならそれが仏様の仰せにそのまま従う最も尊く賢い生き方だからです。そういう実質的な理想、あるいは、自己が歩むべき潑剌とした真の方向性をいただかなければ、信心といってもこの人生において具体的に何をいただいたのか全く不明瞭なままとなるでしょう。
他力信心を喜ばれている念仏者の方は、たとえ苦難の絶えない人生を歩んでおられても、みな軽やかな表情をされているなと感じます。なぜなら彼らは最もよく仏様に護られ、そのお育てを受けている人々だからでありましょう。そして、仏様のお徳を尊び、世俗的人生観を厭い、心穏やかに生きていくことを理想としておられるはずです。信心とは、それを得たか得ていないか、そんな白か黒かで語られるべきものでは決してなく、人間の相、あるいはその生き様に年輪のように深く、しかし如実に顕れてくるものではないでしょうか。少なくとも、私の目と心には、そのようなかたちで映るものではないかと受け止めています。
ご信心を喜ばせていただくなら、人間は所詮凡夫なのだから仕方がないとか、煩悩は死ぬまで消えないものだから自分は何も変わらないとか、そういう消極的でさみしいお味わいに留まるのは、たいへん勿体ないことだと思います。確かに仏様はどんな私であろうと必ず救ってくれます。それは間違いないことです。だから自分はこのまま何も変わらなくてもいい、変わる必要はないのだと受け止めることもできるでしょう。しかし、救いが無条件であるからこそ、そして、私の死の問題はすっかり仏様に解決してもらっているからこそ、自分はこれから自分の人生をどう生きるのかということを、人生そのものに問われているような気がするのです。人は、仏様の救いに遇わせていただいてはじめて、本当の意味で自分の命の意義を、安心して考えられるようになるのではないでしょうか。
私は、自分がこの人生を最後に六道輪廻を離れ、仏にならせていただくのだと知らされた以上、人間であるうちは、仏様の仰せの通りに、とことん仏様のまねごとをさせていただきながら生きていこうと思っています。なぜなら、それがシンプルに、人間として最も豊かで明るい人生の歩み方ではないかと私は感じるからです。また、それが、仏様が最も喜ばれるであろう生き方だからです。仏法を聞かず、命の還る場所も知らず、永遠に流転輪廻を繰り返してきた私でしたが、この生を最後についに浄土往生を遂げ、仏様の仲間に入れさせてもらうわけですから、最後くらいはそれに相応しい人生を送りたいと思うのです。
仏教とのご縁を通して、私が行き着いた理想とは、一言で云えば、「バッドマインドを抱かず、グッドマインドで生きる」ということでしょうな。
「何だそんなことか」と一笑されるかもしれませんが、それが今のところの私の出した答えです。そして、この理想を実現することが我執を抱えて生きる私たち人間にとって如何に困難なことか、十分自覚した上で、私はなおそれを理想として生きていきたいと思います。また、仏法に深く護られつつ主体的により良い自己を目指していく、このような人生観をひとりでも多くの人と共有できたらいいなと思っています。
宗教は「なぜ生きるのか」という人間の根源的な問いに対する答えを与えてくれるものです。しかし同時に「どう生きるのか」という、もうひとつの極めて大切な問いに人間を立ち戻らせてくれるはたらきもあるようです。私もそうですが、仏教に縁があった人は「なぜ生きるのか」という死生観ばかりを重視し、「どう生きるのか」という人生観が時に疎かになりがちです。そうなると、社会性や人生を歩む上での自己の主体性まで軽視してしまうような、危い方向に向かってしまう可能性さえあります。私は仏教とのご縁を通して、あくまで自分は「どう生きるのか」という当然忘れてはならない人間の課題に、これからも真正面からぶつかっていきたいと思います。
南無阿弥陀仏