
どうせ悩むなら死を悩め
人は悩む。あらゆることに悩む。悩むこと、あたかもそれ自体が人生の証左であるかのように、とことん悩む。それでいてその悩みとは、人から見ても、自分でよくよく考えてみても、案外悩むに値しないようなことが多かったりする。そうだとわかっていても、やっぱり人は悩む。
生活のこと、仕事のこと、健康のこと、お金のこと、将来のこと、夫婦・親子・職場・友人といった人間関係のことでは当然のごとく悩み、政治・経済、社会情勢といったことまで、まるで自分のマターかのように悩む。政治家でもない一個人が、そんなことを真剣に悩んでいったいどうしようというのか、ということまで悩む。悩むことが一種のステータスであるとでも言わんばかりに悩む。こうなるともう悩むために自ら悩みの種を探しに行っているようなものだ。とにかく誰も彼も、悩み多き現代社会を生きているのである。
ここで考えてみてほしい。
あなたが今抱えているその悩み、今夜自分が死ぬとしても、
本当に同じことで悩むだろうか?
想像力を働かせて、よく考えてみてほしい。あなたは今夜死ぬ。ふむ、ならば、生活も、仕事も、健康も、お金も、将来も、人間関係も、せいぜいあと十数時間のあいだの悩みとなる。一日を切った自分の命の最後の時間を使って、そんなことを本気で悩む人があるだろうか。あらゆる悩みは死の前では無意味なものになるだろう。無論、政治・経済、社会情勢、そんなものを今夜死にゆく人間が真剣に悩むはずがない。自分が悩んだあらゆる事柄が存在する世界に、もう明日あなた自身が存在していないのだから。さすがにそんな無意味なこと、誰も死ぬ直前にしないだろう。そう考えると、あなたが今抱えているその悩みとは、本来的にどれほど悩むに値するものであろうか。そういう疑問が出てきて当然である。
人は今夜死ぬと知ってはじめて「自分が死ぬ」ということを悩み始めるのではないか?これまで、自分は当然生きるものとばかり考え、ずっと棚上げにしてきた死の問題も、いよいよ自分が死ぬとなったら考えないわけにはいかなくなる。いや、それでもなお死を悩まない人もいるようだ。今夜自分が死ぬというのに、最後まで世俗の諸問題に係い、死とは何かを問わず、死んでいく人もあるだろう。こうなってしまったら人生は全く悲劇としか言いようがない。死がいったい何なのか、一度も問われることなく、ただ漠然とした「死にたくない」という巨大な不安と恐怖の中で、その人は大きな疑問符を背負って死んでいくしかない。人生に悔いがなければ安心して死んでいけるはずだと思っている人も多い。本当にそうだろうか?私は自分が見てきた死の経験から、どうやらそうではないということがだんだんと感じられてきた。安心して死ねることと、人生の出来映えは根本的には無関係だと思う。
これは世俗と真理の境界線の話である。つまり、世俗の諸問題と真理の問題は全く別次元の問題だということだ。時間と距離を同一単位で計れないように、世俗の延長に真理を見出すことは決してできない。真理とは常に絶対的であり、世俗とは常に相対的である。世俗的問題において絶対、つまり100%はあり得ないのだ。立場や状況によって、ことの善悪も是非も変わる。それが世俗だ。一方、人間は100%死ぬ。確実に死ぬ。これはどんな人間にも例外なく当てはまる。この世で唯一「絶対」という形容が許されるもの、それが死だ。ということは、死こそ真理だろう?真理とは、誰にとっても等しく真理でなければならない。だから人間が真理を求めるならば、どうしても、この浮生の俗世を生きる我々にとっての唯一の絶対である「死」を問うしかないのだ。それ以外の問題はすべて人生の個人的諸問題に過ぎない。解決したり、しなかったり。どっちだったとしても、時が経てば結局どっちでもよかった、あるいは、どうでもよかったというようなことばかり。真理とは程遠い、シャボン玉のような事柄ばかりだ。「そういうことを悩むことこそ人生だ」というなら、それはそれでもいいだろう。そこには人生の妙味があることは否定できない。
さて、そもそも今夜死ぬとわかってから、慌てて死について考え始めたところで、時間が足りない。死の問題は、そんなに簡単に答えが出るような話ではないのだ。むしろ死の問題こそ、自身の全人生・全存在をかけて問われるべき、ただひとつの問題と言っていいだろう。なぜなら死の認識は実際に自分が死を迎えるその瞬間まで、常に自分の中でアップデートされ続けるものだからだ。どんなアプローチからでもいい、各々今から死について問い始めることをお勧めする。死ぬ間際になっていざ死を考えようにも、思考力も低下し、感受性も衰え、死への恐怖や肉体的苦痛により、冷静に死が何たるかをじっくり考える心の余裕など、ほとんどの人は持てないだろう。結局最期は、時間切れであきらめて死んでいくしかなくなる。だから死は今考え始めるのがいい。今ここで向き合い始めるのがいい。自分にとって「自分が死ぬ」とはいったいどういうことかを、自分なりにわかり始めたほうがいい。
あらゆる世俗的な問題は、結局は自分が死ぬまでの間の問題でしかない。自分が死んでしまったらその問題が解決していようがいまいが、そんなことはもう自分には関係ない。厳密に言えば、関係ないというより、そこに自分はもういないのだからその問題に自分が関与すること自体できないのだ。これは至極当然の話である。自分が本当に死と対峙したとき、世俗の諸問題はすべて吹っ飛んでしまうだろう。吹っ飛んではじめて人は真理の問題の純粋な重要性に気づくのだ。逆にそれでも吹っ飛んでしまわないとしたら、悲しいくらい鈍感な人なのだろう。答えなどどちらでもいいような世俗の問題に埋もれ、ついにむなしく死んでいくだけの人だ。私はそんなふうにはなりたくない。また、私に縁があった人がそんなふうにむなしく死んでいくと考えたら、非常に心苦しい。だから、どうかみんなが死について真剣に、今、考え始めてほしいと思っている。
話を戻す。人は悩む。とことん悩む。何かを悩むなら、たとえ自分という存在そのものがこの世から消えてしまったとしても、それでも、それは自分が本当に悩むべき問題なのかどうか、そこをしっかりと見極める必要がある。そうしないと世俗的な諸問題にただただ翻弄されるだけで、あっという間に人生は終わってしまう。何事かを「正しい」だとか「間違い」だとか言い合っている間に、そういう愚にもつかない世俗の勝敗や賛否に気を取られている間に、本当に何が何だかわからないまま、人生の終わりを迎えることになるだろう。
本当にあなたはそれでいいのですか?
一度の人生、それで本当に満足ですか?
人生は真理に出合うための場所である。できるだけ早くそのことに気づいてほしいと思う。まさか自分が今夜死ぬなんて、そんなことあり得ないだろうと真実から目を背け、先延ばしにすることもできる。あるいは、事業でもいい、育児でもいい、世俗の中に責任を持って生きることこそ、我が人生最大の問題・関心事なのだと言い切ることもできる。それはあなたの選択次第だ。
しかし私たちが今生きているこの命とは、今夜死ぬ可能性を十分に備えているということも忘れないでほしい。今朝生まれた赤ちゃんですら、すでに今夜死ぬ可能性を持って生きているのだ。それだけ死と生とは、ピッタリ寄り添って離れないものなのだ。そして人間である以上、その事実を事実として冷静に受け止められるだけの理性と想像力と感受性を、誰もが持っているはずである。享楽的「生」をただ謳歌するためだけに、人間に心が具わっているわけではあるまい。理性も想像力も感受性も常に鍛え続け、それらを徹底的に駆使し、考えるべきことを考え、悩むべきことを悩む。それこそが我々が人間として生まれ、人間として人生を生きる証左ではないだろうか。