ガードレール (短編小説)
私は私のことが好きではない。
嫌いではない好きではないのだ。
いっそ蛇蝎の如く憎悪の対象だったならばどれほどよかったろうと思うことがある。
愛情を抱けばなお素晴らしいだろう。
ある人に対して嫌悪感を抱くとする。
そうするとその人を忌避しようとするかもしれない、悪態もつくかもしれない。
好意を抱いていれば、その人から好感を得ようと努力をするだろう。
何かしらのプレゼントをする行動に出るかもしれない。
いや、いまはプレゼントはないよ。
つまり嫌いでも好きでもどちらかに連なる感情を有していれば、人はなにかしらその対象に対しエネルギーを使用しようとするのだ。
しかし私は私が好きでは無い、嫌いでも無い。
このことがわかるだろうか。
いや、理解してほしい。
好きでも嫌いでもない、そんな自分に対して私は何のエネルギーも使用しようとは思わないのだよ。
では簡捷に例にしよう。
君の嫌いなものはなんだろうか。
例えばそうだな、虫などはどうかな。
虫にも色々いるが、害虫と呼ばれる輩達だ。
そう百足のような。
そうか虫酸が走るか、私も彼らは唾棄すべき存在だ。
ではその害虫にしよう。
百足。
毛虫。
蜚蠊。
これらの者達が君の前に不意に現れたとしよう。
さて、君ならばどうする。
逃げるか。
殺すか。
放置しておくか。
さあ、どうする。
私か、私はそうだな。
殺虫剤を探し彼らがその活動を停止するまで、薬剤を浴びせ続けるだろう。
虫としての本能を頑なに発揮出来ない程に鎮静化してしまうまで。
完全に彼らの生命の燈を散らしてしまうまで。
その後は彼らの骸は懇ろに弔うとしよう。
なに、ゴミ箱かトイレに捨てろだと。
しかし、一寸の虫にも五分の魂と言ってだね、小さき彼らにも意地がある、それには敬意を示すべきではないだろうか。
いやわかった、トイレに水葬するとしよう。
さて、いまの事からわかるように、私は害虫と呼ばれる彼らには多大なエネルギーを消費したわけだ。
嫌悪感を示す。
殺虫剤を探す。
彼らに薬剤を振り撒く。
彼らの活動を観察する。
彼らの亡骸を処分する。
工程を更に細分化するともっと細かくなるのだろうが、生憎と仕事の細分化についてここで論じるつもりは無いので、脱線する前にここで止めよう。
では次だ。
君の好きなものは何だろう。
花か。
動物か。
それとも食べ物か。
現金な人だ。
食べ物と聞くと目が燦然と輝いているじゃないか。
では、食べ物を例に出そう。
何がいい。
穀物か。
果物か。
肉か。
魚か。
スウィーツか。
その反応でわかった。
スウィーツなんだね。
ではスウィーツがここにあるとしよう。
なに、贅沢を言わないでくれ。
君が有るとイメージをしてくれ。
私もさすがに無から有を生じるような事は出来ない。
さっきの害虫はイメージ出来ただろう。
無いとイメージが出来ないだと。
いや頭に思い画くだけだよ。
わかった。
そんなに怒らないでくれ。
買って来よう。
なに、コンビニまで歩いて15分程だ。
いい運動になるだろう。
さあ買ってきたよ。
生憎とプリンしか置いていなかったよ。
なに、杏仁豆腐が食べたかった。
それはまたの機会にしてくれないか。
食感は同じようなものだろう。
これで我慢してくれ。
いや、さすがにもうこれ以上は探しには行けないよ。
わかった、わかったよ。
ものを投げないでくれ。
探しに行くよ、杏仁豆腐だね。
では、探しに行く前にこのプリンは私が頂いてもいいだろうか。
歩いたら小腹が空いてしまったのだよ。
なに、これも食べる。
ふざけないでくれ、ではこのプリンでいいじゃないか。
杏仁豆腐を買いに行く必要は無い。
これでイメージをしてもらおう。
痛い。
痛いよ。
わかったよ。
探しに行く。
本はさすがに痛い。
本は読むものだ。
投げるものではないよ。
痛い。
わかったよ。
すぐに行く。
さあ、あったよ杏仁豆腐だ。
近くに無くてね、4km先のスーパーまで赴いてしまったよ。
なに、先程のコンビニのすぐ先にスウィーツショップがある。
まあ、いいじゃないか。
さあ、杏仁豆腐だよ。
なに、スウィーツショップの方がいいだって。
いや、これも杏仁豆腐じゃないか。
いったいなにが違うんだ。
私には差違がわからないよ。
わかった、落ち着きたまえ。
少し冷静になろうか。
ゆっくりと、そうゆっくりとだ。
その壺を元の位置に戻そう。
その壺一つで杏仁豆腐が2000個は購入することが出来るよ。
そう、そうだ、それでいい。
なに、先程のコンビニの近くなら往復で40分程度だろう。
なに、そんなに待てない。
じゃあ、この杏仁豆腐で。
わかったよ、壺を戻そうじゃないか。
はあ、はあ、さあ杏仁…豆腐だよ。
良かった、じゃあその杏仁豆腐に例えて話をしようか。
そういえば、季節限定とやらのマロン風味の杏仁豆腐も販売されていたよ。
なぜそれも無いのかって。
購入しなかったからだよ。
待つんだ、その彫刻はさすがにまずい。
杏仁豆腐が5000個は購入出来る。
わかったよ、その限定の杏仁豆腐だね。
その、行く前にこのどちらかの杏仁豆腐かプリンを食してもいいだろうか。
小腹どころか大腹が空いてしまってね。
そうだね、大腹なんて言葉は無いね。
云返しが上手くなったね。
とにかくどれかを頂いてもいいだろうか。
なに、どれもいやだって。
じゃあ、もういいじゃないか。
この三つを例えに話をさせてくれないか。
ああ。
なんてことだ。
古代ローマの芸術が。
メルクリウスが。
形あるものいくつか壊れるというが。
古代ローマの彫刻もマロン風味の杏仁豆腐には敵わないのだね。
わかっている、20分だね。
はあ、はあ、はあ、さあ限定の秋刀魚入りの杏仁豆腐だよ。
ああ。
なんてことだ。
まさに諸行無常。
仁清が、清右衛門が。
急いだのだがね、まさに遺憾だよ。
既にマロン風味の杏仁豆腐は完売していたのだ。
だから、同じ秋の味覚の秋刀魚の杏仁豆腐ならと。
なに、これなら食べていいというのかい。
優しいね。
しかし生憎と私は秋刀魚が苦手でね。
あの胆嚢の苦味がどうしても受け付けないのだよ。
や、止めるんだ。
こ、こぢげぎがぎ(く、口が痛い)
ゴホッ、ゴホッ。
なに、どうだだと。
そうだね、あまり美味なるものでは無いと思うね。
君が秋刀魚を好んでいたと記憶していたので、こちらを選択したのだが。
これなら、店員の方が薦めてくれた梨入りの杏仁豆腐の方が良かったかもしれないね。
待て、それはモネだ。
印象派の最高傑作なのだよ。
杏仁豆腐が10万個でもなお釣りが来るよ。
では梨入りでいいね。
なに、今度は15分なのか。
さすがにそれはあまりにも無体なことではないだろうか。
わかった、モネだけは勘弁をしてくれないか。
急ぐよ。
はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、さあ梨入りの杏仁豆腐だよ。
これで満足頂けたかな。
良かったよ、私も全力疾走した甲斐があったというものだ。
なに、口元に何かが付いている。
ああ、先程店員の方が試食させてくれたカボチャ風味の杏仁豆腐だよ。
いや、それは無いよ。
購入してはいない、ここにあるのは梨入りの杏仁豆腐だ。
美味だったかって。
そうだね、秋刀魚の杏仁豆腐と比較すると、まず香りが喫驚するほど違ったね。
生臭い魚臭はなく、カボチャの甘い香りに鼻腔をくすぐられたよ。
至福の甘香とでも言おうか。
胆嚢の苦味はなく、甘さが強く際立ったね。
その甘さも砂糖の甘さではなく、豊穣な素材の甘さをふんだんに活用しているものだった。
口内はカボチャの風味で満たされているが、その食感はプルプルと固すぎず柔らかすぎず。
不思議な感覚でね、通常カボチャは口に含むとその柔らかさからすぐ口内でほろほろと溶けてしまうものだが、これが違った。
舌の上で何度も何度も転がせる絶妙な質加減でね、カボチャと杏仁豆腐が融合すると斯くも相性が良きものに変貌するとは想像だに出来なかったよ。
極めつけは容姿端麗な店員の方がわざわざスプーンで掬って口に運んでくれてね、それがまた旨さをほどよく引き立ててくれていたよ。
年甲斐も無く顔が紅潮してしまったがね。
あああ、あああ。
モネが、睡蓮が。
わ、わかった、カボチャだね。
急いで行って来よう。
これ以上は本当に宥恕してくれたまえ。
と、特にそのゴーギャンだけには決して、決して触れないでくれ。
それは人類の至宝だ。
や、やめたまえ。
その笑みはなんだ。
わ、わかった。
何分だい。
5分だね。
行ってくるよ。
はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、さあ、カボチャだ。
カボチャ風味の杏仁豆腐だよ。
ゴーギャンは無事かい。
よかった。
では、これで例えを話せるね。
聞いてくれないか。
まずはプリンからなのかい。
ああ、美味しそうだね。
本当に美味しそうだ。
では、いいかな、話しても。
次はスーパーの杏仁豆腐なんだね。
それも美味しそうだ。
ああ、いい笑顔だね。
では、もういいかな。
まだ食べるのかい。
次はショップの杏仁豆腐かい。
なに、口が幸せだって。
なかなか秀逸な比喩だね。
よく伝わるよ。
さあ、ではいいかな。
まだなのかい。
次は、わかった。
梨入りのだね。
これまで私が購入してきた順に食しているから、わかるよ。
当たりだろう。
ああ、違えたようだね。
カボチャからなんだね。
なに、カボチャは好きじゃないから先にだと。
では、なぜ私はこれを購入してきたのだ。
そろそろ私も憤慨してもいいと思うのだが、どうだろうか。
わ、わかっている。
それには触れないでくれ。
最後の一つだ。
もう例えを話してもいいだろうか。
それが食されてしまうと、もう例えるものが消失してしまうのだが。
なに、食べるから消失するわけではない。
そんな揚げ足を取るような返答を求めてはいない。
私は、ああ、私はいったい何を伝えたいと思っていたのか。
いや、気をしっかりと持て。
そうだ、私の話だ。
私は私を嫌いではない、しかし好きでもないのだ。
そうだ、その話だ。
いいかい、害虫でも嫌いならば彼らのためにエネルギーを費やす。
なに、食べてる時に害虫の話をするな。
不味くなるだと。
そうはいかない、これは大事な話なのだ。
あ、ああ、そうだね。
私が悪かったよ、少々礼を欠きすぎていたようだ。
粗相を控えよう。
うん、ゆっくりと、そのゴーギャンからスプーンを離してくれるかな。
ああ、ありがとう。
君は淑女だね。
とても素晴らしいと思うよ。
うん、杏仁豆腐が無くなってしまったね。
もう、話をしてもいいかい。
ああ、そんなに美味だったのかい。
とても破顔しているじゃないか。
では、話の続きをいいかな。
なに、おかわり。
まだ食べるのかい。
いや私はそろそろ話がしたい。
君に伝えたいんだ。
私の考えを、私の思いを。
ああ、そうだね。
次は何分だい。
そうか、5分か。
そうだね、さっきも出来たから今度も問題無いと思うよ。
一応聞いておくよ。
梨入りの杏仁豆腐をおかわりでいいのかな。
そうだね、陳謝するよ。
全種類を購入してくればいいね。
全く君は素晴らしいよ。
私の考えが及ばない、遥か先に君は在る。
お世辞では無い。
紛れも無い私の本心だ。
だからこそ今日は君に求婚を願い出るつもりだったんだ。
ああ、私としたことが。
口走ってしまったよ。
そんなことはいい、だって。
私からの求婚がそんなことなのかい。
ああ、ああ、私は私が嫌いでは無い。
でも好きでも無いのだ。
嫌いならば嫌悪の対象物を忌避するだろう。
好きならば好意の対象物に接触を試みようとするだろう。
君は好意の対象物である杏仁豆腐に接触を試みた。
そう幾度も幾度も接触を図った。
そこに莫大なエネルギーを使用した。
望んで使用したのだ。
では嫌悪と好意でもない対象物はどうだろう。
プラスとマイナスの中間はゼロだ。
北極と南極の中間は赤道だ。
世界は1か0かではない。
正義と悪だけではない。
世界にはどこにも属さない存在もある。
私は私をその属さない場所に自分を置いているのだ。
その属さないものはなにか。
嫌悪と好意以外の感情の対象物とはなにか。
路傍にある石はどうだろう。
君は好意を抱くか、嫌悪を抱くか。
おそらくそのどちらでもないだろう。
君は路傍を歩くとき、彼らに何の感情も抱いていないはずだ。
意識からも除外しているはずだ。
それは嫌悪と好意以外の対象物と言えるだろう。
意識から除外しているならば当然エネルギーの消費も無い。
では、電柱はどうだろう。
我々に電気を送達してくれる。
素晴らしい存在だ。
彼らがいなければ我々は生活が成立しない。
彼らにはもっと好意と感謝をもって生活しなければならないはずだ。
などと思っているだろうか。
いやおそらくは思っていないだろう。
彼らの存在は不可欠だが、嫌悪でも好意の対象物でもない。
そう、彼らに対しても君は何かしらのエネルギーを費やしてはいないはずなのだから。
ではガードレールはどうだろう。
彼も路傍の存在だ。
しかし歩行者を車両から守護するという崇高なる使命を担っている。
彼らの存在はまさに至大至剛というに相応しいのではないだろうか。
だが、そんな彼らでも君からすると路傍の存在だ。
嫌悪と好意の対象物ではない。
つまりエネルギーの使用は無い。
私は路傍の存在だ。
転がっている石ころのように自分が嫌いでも好きでもないので、自分に何かを成そう、エネルギーを使用しようとは考えていない。
だが私は君に好意を抱いている。
敬愛の念を抱いている。
親愛の情を抱いている。
没個性的な言い回しだが、海よりも深く、山よりも高い、深愛の情が私の心から猛々しく噴出しているのだ。
自分には何もエネルギーも使用しないが、君には好意を抱いているのでエネルギーを使用する。
路傍の存在の私だか同じ路傍の存在の彼のような存在への変化を渇望する。
そうガードレールだ。
彼のように至大至剛の存在となり君を守護したい。
自分自身を守するために自衛のエネルギーを使おうとは思うない。
すべては君を守護するためにエネルギーを使いたい。
その崇高な使命を私に与えてくれないだろうか。
さあ、私の求婚を受理してはくれないだろうか。
なに、話が長いだって。
何を言っているのかわからないだって。
だから、私は懸命に説いていたのだ。
君に私と言う存在への使命を与えて欲しいと言うことを。
なに、使命ならすぐ与えるだって。
なんと光栄だ。
さあ、崇高な使命を私に授与してくれたまえ。
なに、さっき既に言っただって。
なに、杏仁豆腐だと。
私の使命は杏仁豆腐だと言うのかい。
なに、杏仁豆腐じゃなくて、買ってくることが使命だって。
言葉の揚げ足を取るのは結構だ。
私はそんなものは求めていない。
よせ、わかった。
その使命を有り難く頂戴しよう。
ゴーギャンには手を触れないでくれ。
全種類の杏仁豆腐だね。
なに、三つずつだって。
君はいったいどれだけ食すつもりなんだい。
わかった、わかったよ。
本は投げないでくれ。
本は読むものなんだよ。
あとがき
陽射しが強い日にのんびりと散歩をしながら、ふと目に止まった電信柱を見てアイデアが浮かんだ作品です。普段あまり意識しない電信柱もよく見ると、経年劣化の傷や犬の尿の跡など様々な変化が彩られています。意識をする。これはやはり実際の生活の中でも非常に重要なことです。意識をするだけで見方が変わる、感じ方が変わる。新しい気づきを得る度に成長する。それを伝えることをコメディで表現出来ないかと形にしたものが今作です。もし読んで頂きながらクスッとする場面などありましたら幸いです。私はその場面を想像してニヤリとしたいものです。(笑)
頂けましたサポートは全て執筆に必要な活動、道具などに使用させていただきます。是非、よろしくお願いいたしますm(_ _)m