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明日食べ感想①〜君を食べる〜

明日食べ感想①〜君を食べる〜

今回は、2023年12月1日から12月3日までの5公演おこなわれた
舞台「明日、君を食べるよ」 の感想を
感想というか、考察のようなものを書きたいと思います。

概要やあらすじが気になる方は、以下の公式サイトよりご確認ください。

舞台「明日、君を食べるよ」2023
<公式サイト>
https://fact8075.wixsite.com/ashitabe-stage

<出演>
本西彩希帆
岩立沙穂
遥りさ
上之薗理奈
渡辺優空
森山栄治
岡内美喜子
他
スタッフ

<脚本・演出> 
なるせゆうせい

<プロデューサー> 
甘利佳他

舞台のような芸術的なメディアって解釈の余地が多めにあるようになっているので、同じ作品を観ても人によって受け取るものは違うと思う。

感想だとか、ほかに気づいたポイントだとかがあれば、ぜひコメントくださいな。
(「スキ」はログインせずとも出来るみたいなのでお気軽にどうぞ〜)

それではいきます。


はじめに

タイトルは「明日、君を食べるよ」🐂

舞台を観終わって、このタイトルを不思議に思った。

ウシのすけが食用の牛だとサナギが知るのは、食べる前日ではなくもっと前だ。
屠殺が行われるのは、サナギが深い眠りについている間。
おいしく食べた後に、その肉がウシのすけだったことを知らされる。

タイトルと物語、食い違ってる…?

物語に散りばめられたものを拾い、
考察に耽って、
数あるテーマのうちの一つに辿り着いて、
自分が食べている物が届くまでのことに思いを馳せて気がついた。

「明日、君を食べるよ」の主語は、サナギじゃない。
舞台をとおして“君” の存在を認識した『私たち』だ。

しかも、“君”はウシのすけ(牛)のことだけを指しているんじゃなかった。
私たちが、食べているのは……



タモツたち家族の人生なのかもしれない。

二人称代名詞「君(きみ)」

タイトルに使われる「君(きみ)」は、二人称代名詞の「君」だ。

対象の存在を知らなければ
「君」という言葉で表すことはない。
誰かを思い浮かべることもなく今までは食べていた人も、
この舞台をとおして「君」を知る。

ちなみに「君」とは特定の対象を指し示す言葉で、
とくに対等あるいは目下の人を指す。

「あなた」ではなく、
あえて「君」という言葉を選んだのかもしれないと思った。

(子どもにも向けた舞台だから、親しみやすいように「君」をチョイスした可能性もあるけど)

明日、君を食べるよ

本公演は文化庁の子供鑑賞体験支援事業により子ども向けに無料招待席が設けられている。
この物語の大きなテーマは「食育」であり、「いただきます」の本当の意味を子どもたちに教えてくれる物語だ。

フライヤーやパンフレットを見ると、
「君」の文字に牛の耳やツノがついている。

「明日、君を食べるよ」の主語が舞台を観た人だったとして、
子どもたちにとって『君』はウシのすけであり、ふだん食べているものにあたると思う。
食べ物と生産者への感謝を込めて「いただきます」と手を合わせ、君を食べる。

大人にとっても、
こうした感謝の気持ちを再確認できる良い機会だと思う。

けれど、大人である私たちに向けた『君』が指す範囲は
家畜と単なる生産者だけではないのではないか?

私たちがこの物語を知ったうえで食べる『君』には

『屠殺という職業を営むことを
生まれながらに背負わされた人間』

という属性も含まれているのだと、思った。

ここからは、その重みを感じさせた要素について、
それぞれ書きます。

畜産農家ではなく屠殺の工場員

ホームページやフライヤーのあらすじを読んで、
父・タモツは畜産農家なのだと思っていた。

なんとなく大筋のストーリーは想像つく。
それでも泣くんだろうなぁ

そう思っていたけど、蓋を開けたら
タモツは屠殺の工場で働く職員。
想定外のストーリーが描かれた。

『牛さんに感謝、生産者に感謝』

それを伝えようとするならば
食肉となる動物を育てる畜産農家という設定で
十分に伝わるだろう。
それでもあえて屠殺に携わる人にしたということは
私たちが解釈すべき要素が
さらにあるということなのだと思った。

「畜産業」「屠殺」

Webサイトでそれぞれ文字を打ち込む。
検索結果1ページ目にずらりと並ぶタイトルだけで、
自分がこれから知らなければならないことを察した。

(畜産業のほうは「日本の誇り!」なんて記事タイトルに付いているものまである)

なお「屠場(屠殺場)」は放送禁止用語で、
マスコミが報じる際には
「食肉センター」や「食肉解体場」などに言い換えられているそう。

舞台の脚本において、あえて言い換えないのは
この問題に触れるためなのだろう。

ナポレオンでいたい訳

「わがままな皇帝ナポレオンでいさせてくれ」

という趣旨のことを、
都会での最後の晩餐で母・ヨツバに向かって
嘆くように叫ぶサナギ。

なぜ「皇帝ナポレオン」なんだろう?

小学生が単にわがままでいさせてくれと怒るならば、
「好きにさせてくれ」「そんなの僕の自由だろ」だけで十分だと思うし、
たとえるにしても「王様」などの言葉で事足りる。

歴史上の人物に疎い自分は、
おそらく解釈のスタート地点にも
立てていないと思った。

調べた結果、ナポレオンが
アンシャン=レジューム(旧制度、封建制度)を廃止し、
ナポレオン法典を公布した人物であることを知った。
これがわざわざナポレオンを選んだ理由だと思った。

フランス革命以前のフランスでは身分制度が敷かれており、
下層の身分とされていた人たちは不自由を強いられていた。
フランス革命の終結後、ナポレオン法典が謳うのは
「法の下の自由」や「信仰の自由」、「労働の自由」などだ。

労働の自由。

屠殺場で働く人が父になること。
望まない世襲制や差別がいまだ根強く残る現代の日本。

これらの対比として
あるいは皮肉をまじえるために、
「皇帝ナポレオン」が使われたのだと思った。

食物連鎖

サナギが通う小学校での授業のシーン。
こまむすび先生が教科書を見ながら、食物連鎖のことを教える。

一方サナギは、授業中にもかかわらず
大好きなウシのすけの絵を原稿用紙に描いて、
こまむすび先生に見つかって怒られてしまう。

食物連鎖とは、生物界において「食べる」「食べられる」の関係が連なっていることを指す。
今回の物語だと
干し草などの農作物を 牛が食べ、
その牛を 人間が食べている。

ここでのシーンは同級生3人を含めて教室を激しく動き回り、
コミカルに演じられたシーンになっている。

仲良し(?)3人組と、転校生のサナギ

そのなかでソバッカスとヤマビコが
こまむすび先生に向かって
「サナギくんを、先生が食べる?」
と、頭の上に疑問符を浮かべて尋ねる。

その問いかけに対し、こまむすび先生は
「先生がサナギくんを食べるわけがない」
と呆れたように答える。

これらのやりとりは、サナギを叱る先生の気を逸そうと
ソバッカスとヤマビコが苦し紛れに言った
冗談のように思えるが、実際に

「サナギくんを、先生が食べる」

という食物連鎖の関係にあることを指しているのだと思った。

こまむすび先生は高等教育を経て教員免許をとり、先生になっている。
職業を理由に後ろ指をさされることはない。

私たちと同じ、捕食者だ。

ミゾレの歌

ミゾレが劇中で歌うのは、職業差別にまつわる歌だ。

観劇初日に初めて耳にしたとき、
ミゾレの歌がウシのすけに関する曲じゃないことを意外に感じた。

なぜなら、渋谷クロスFMのラジオ番組
「あまり かなり のおもてなしぶるーす」に
さっほーがゲストで出演した回で、
プロデューサーを務めるあまりかなりさんが

『さっほーは重要なテーマを伝えている歌を任されている』 

と話していたからだ。

この舞台を観る前は「食育がテーマの物語」だと思っていたから、
直接的に食育のことを歌う曲ではないことに驚いた。
そして物語を終わりまで見届けて、
今回、職業差別も考えるべき
大きなテーマの一つであることを感じた。

ラジオ番組「おもてなしぶるーす」での写真

ミゾレの歌は職業差別に関する内容で、

封建時代の日本において
身分が下(と決められた)人間に屠殺の仕事をやらせた
私の先祖が屠殺の仕事をしていた
そして私にはその血が流れている

そんなことを、
苦しむような 悲しむような
諦めてしまったかのような表情で
ミゾレは歌う。

こういう仕事は世襲制なのか、と疑問を抱いて調べると
1871年以前の日本において
封建時代には被差別階級が存在していた。
屠殺の仕事は「部落民」とされた人たちが
命じられて請け負う仕事の一つだったそう。

記事をいくつか読んでみたところ、
現在は昔ほどは誹謗中傷も減り、
もしそのようなことが起こった場合には
裁判で損害賠償の支払いを命じられるような結果になるなど、
改善には向かっていると書かれていた。

しかし完全になくなったわけではなく、
今も嫌がらせの手紙が届いたり
職業や結婚において差別を受けたり
子どもたちがいじめられたりしている。

きっとミゾレもそうだ。

彼女は父・タモツの仕事を知って絶望した。
今回サナギが怯えたように親の仕事を友達に知られたくないと思っただろうし、
もしかしたら知られて、いじめを受けたのかもしれない。

ミゾレがわざわざ小学校に出向いて先生に説明して
作文が白紙のままでもサナギが怒られないように配慮したのは、
同じ苦しみを あるいは もっと辛い経験を
したからなのではないだろうか。

このまま依然として根強く差別が残った場合、
ミゾレは誹謗中傷を受ける恐怖に晒され続けるのだろう。


部落民の出であることを理由に、好きな仕事に就けないかもしれない。

愛し合える人と出会えたのに、反対されて結ばれないかもしれない。

人生をとおして、ずっと傷つけられるのかもしれない。


私たちは、
生きているものの命を食べて生きている

…だけではなくて。

その仕事に就かざるを得なかった人たちを
ミゾレような子どもたちを
数多くの人たちの【人生】を【犠牲】にして、
食べて、
私たちは生きている。


そのことに行き当たったとき、

『“感謝” 程度で、済むのだろうか?』

そう思った。



劇中のミゾレは非常に闊達で明るい。
サナギがうんざりするほどだ。

しかし、差別がいまだ残る地で生きるミゾレの人生を思うと
明るく振る舞う様子とのコントラストが強まって、
その影はよけいに濃く、脳裏に焼き付いた。

= = = = = = = = = = =

<参照元リンク>

政府広報オンライン『「食べる力」=「生きる力」を育む 食育 実践の環(わ)を広げよう』(公開日:2023年3月13日)
https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201605/3.html

東京都中央卸売市場『偏見・差別について』
https://www.shijou.metro.tokyo.lg.jp/syokuniku/rekisi-keihatu/rekisi-keihatu-02-01/

BBC NEWS JAPAN『【視点】日本の被差別民――隠れた階級制度』(公開日:2015年11月27日)
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-34918485.amp

やさしい世界史『ナポレオン時代をわかりやすく解説』(公開日:2021年9月6日、更新日:2022年1月13日)
https://easy-sekaishi.com/napoleon/

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