死にたいガール
昔から私は何か人生に蹴躓くと、
死にたいなぁと思っていた。
本当に死にたくて、
自殺を測ったこともあった。
こういうことを考えたり、行動を起こす人を見る度に人は無責任にこう言う。
「生命は自分で終わらせてはいけない」
「あなたが生きている現在は他の人が生きたかった未来だ」などなど。
理屈も道徳も分かっちゃいるが、
そんなもので片付けることが出来るのなら最初からのんびり生きているはずである。
誰かに傷つけられたり、自分には納得が行かず現実逃避をしたり、生きる理由など今まで生きていてもちっとも見つからず、さっさと終わらせることに何の問題があるんだ!と言う人だっているだろう。
私の場合は実に様々な理由であった。
そもそもの始まりは幼少期からである。
私は随分と変わり者だった。
人には理解出来ない何かが見えたり、見えない者と話していた。
それだけに留まらず、媚びるくらいなら一人でいても構わないと思っていた。
誰かと馴れ合い、誰かに合わせ、誰かの為に自分の気持ちを折り曲げる。
そんなことが必要か?
ずっとそう思っていた。
そんな私は当然他人から理解されることは難しかった。
周りの大人や、親でさえも気難しい子どもだと思っていたと今でも言われる始末である。
そんな人生の中で、私が神様に貰った唯一のプレゼントは、
【無駄にお人好し】
【無駄に強い】
【無駄に器用】
この3つだ。
この3つの贈り物は非常にやっかいだ。
人に傷つけられまくるし、勝手に一人でやっていけると解釈され、人から妬まれる。
それさえ除けば本来ならあって、嬉しいものである。
私は変わり者の反面、
とてもお人好しだったので、最初は誰もいないが当たり前だった人生にいつしか周りに人が増え、大人になりそれぞれの道が別れた今も、連絡くらいは取り合っており、人間関係は幸いにも充実している。
愛し、愛される人も出来た。
そんな私だが、
若いときの私はこの世界に居場所がないと感じて死にたくなった。
20代の初め頃、摂食障害になり食べ物を受け付けなくなって、幸せを何も感じられなくなった時、死にたくなった。
23の時、車に轢かれて身体に障害が出来て夢を叶えられなくなった時、生きる意味が分からなくなり死にたくなった。
28の時、病気になりこのまま朽ちていくなら、と死にたくなった。
だがしかし、私はこうして生きている。
神様がくれた贈り物のおかげで。
【無駄にお人好し】の私はいつもなんだかんだ言って幸せだった。
人に親切にするからか、お人好しだからなのか人に助けられたり、励まされることが多かった。
【無駄に強い】私は、死にたくても死にきれなかった。
もう治らないと言われた身体にムチを打って一人で試行錯誤しながらも、動けるように独自のリハビリを続けていたら、人が見ても分からないくらい回復した。
未だに痛みや、動きの鈍さはあれど、
それでも、夢の形を掴むことはできた。
病気も持病となって、今も付き合っているが、昔から虚弱体質だった私の身体を強くする為の起爆剤として役だっている。
【無駄に器用】な私は、どこで生きていてもそれなりに適用する。
縛られなくても生きていける、それが私だった。
死にたくても死ねなかった私は今も時々、死にたいなぁと思うことがある。
だが、そういう時に限って
「もう少し生きようかな」と思うことがそばにあって、生きること余儀なくされる。
死にたいって気持ちを抱くことって、そんなに悪いことでもないなとふと思う。
今までの人生で豊かな部分があったことに気付かされることもあれば、人生に詰まってしまった時自分の在り方を見つめ直すキッカケにもなる。
どう考えても、どうあがいても、一線を越えなくてはならない程の想いを抱いてるときには、
「死にたい」
と思う前に行動に移すものなのだろう。
昔の私みたいに。
今は死にたいガールではなくなってしまったけれど、
いつまたその顔がひょっこり出てくるか分からない。
だが、今の
【無駄にお人好し】
【無駄に強い】
【無駄に器用】
を極めた私ならきっと死にたいガールを受け止めて対処する事ができるだろう。
人生は自分が想像するよりもずっと早く終わることをもう私は知っているから。
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