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出版という事業に思う。書店という商売のあり方について考える。

最近、顧問契約をしていただいている小規模出版社からあれこれと相談を受けている。それ自体に特に思うことはないが、出版社の悲哀というか、どうにも割の合わない商売なのだな、としみじみ感じるのである。大規模な出版社であるならばそんなこともないだろうが、取次と再販維持制度に翻弄され、書店では返本可能であるばかりに乱暴に商品が扱われる。どうしてこんな商売のシステムが罷り通るのだろう、と部外者(完全に部外者というわけでもないのだが)目線では全く、理解に苦しむのだ。

流通コストが商品価格に転化されてしまうと、場所によって知識・文化のレベルに差異が生じてしまうという言い分には、なるほど、昭和の時代であるならば一理あろう。だが、現代社会においてはどうだろうか。わざわざ書店に出向かずとも、希望する書籍はネットで注文し最寄のコンビニや自宅に届けてもらうことができる時代だ。書店の役割は知識の集積場所・小売場所からショーケースへと変貌した。だからジュンク堂をはじめとして、立ち読み(ショーケース的閲覧)を前提とした店舗構造をとる書店が登場している。だが、この在り方が本当に正しいのだろうか。

紙の書籍を求める層、主には中高年層であるが、これら層が紙書籍を買い求めるうちは今のままのビジネスモデルでも良いだろう。ショーケースで閲覧した結果、これぞという書籍に出会えばその場での購入も多少は見込めるからだ。しかし、今後世代交代が進み、ネット・スマホネイティブ世代が社会構造の中心となった時に、果たしてショーケースとしての書店は必要なのか。これについて、私はNOだと思う。ショーケース的な機能をネットが代替できない理由がないからだ。紙媒体書籍が残るかどうかで言えば残るだろうが、書店というビジネスモデルはそう遠くない未来に完全崩壊すると私は思う。かつてどの街にもあった酒屋がコンビニになり、銭湯が「古き良き昭和」の文脈で語られるのと同様、「書店? あったねえそんなの」になる。随分前から同じようなことは言われているが、この未来はいよいよすぐ目前にまで迫ってきている。それこそ書店はショーケース化し、カフェやら何やら併設しなければ立ち行かなくなっているのがその証拠といえよう。

そもそもこのショーケースモデルの書店には大きな問題がある。それは商品の供給元が必ずしもこのショーケースへの陳列を容認しているわけではない、ということだ。出版社によっては歓迎する向きもあろうが、もう一段階、生産者というレベルまで落とせばそれを望む著者がどれだけあろうか。自分の書いた本が、自分の預かり知らぬところで、金を落とさない奴らの手垢に塗れていく。場合によってはその立ち読み(すわり読み)行為からレビューまでつけられるかもしれない。商品が売れない、客足が遠のいているからこそのモデルなのだろうが、そもそもの商品へのリスペクトが全く感じられないこのような歪な商売のモデルは駆逐されるべきなのだ。私は、それがあるべき形であると考える。

従来からの取次システム、再販価格維持制度も同様の文脈から私は完全否定する。AMAZONのKDPをはじめとして、書籍を彼らの手に委ねることなく購入者の手に届けることは容易にできる時代なのだ。取次が関わらなければISBN付番も必要ない。図書館に置かれなくなるかもしれないが、図書館に置かれたとしてなんだというのだろう。投下資本を回収することを資本主義社会の中で考えれば、エンドユーザーの手に届けることによって対価を得る、これで十分であるはずだ。

書籍のあり方、そのマインドをチェンジする。今回の顧問契約先から寄せられる各種相談は私にその必要性への気づきを与えてくれた。では、自分に何ができるだろう。小規模出版社、ISBNにも取次にも書店にも関わらない会社を作ろうか。その次には、その商品を売るための専門の書店でも作ろうか。そんなことをあれこれと考える、2024年冬の入口である。

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