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ランナウェイ・ブルー

 大事なものだけバッグに詰めこんで、月がいちばん綺麗に見えたときドアを蹴破ろうと思っていた。真夜中の街は私の部屋よりもずっと静かで、月さえも透明な渦の中に飲みこんでしまいそうだった。どこに行くのかなんて考えもしていなくて、けれどどうしても、ここに居たくなかった。母とあんなに喧嘩したのは初めてだった。

 中学生だから、今年は受験生だから、彼氏と遊んでいる場合じゃない、動画もSNSもゲームも禁止、ちょっと考えが古いと思う。私はちゃんと勉強しているし、なにごとも継続するにはきちんと息抜きの時間を作ることが大事なんだって、タイムラインでも何万回も言われているんだよ。お母さんよりずっと凄い人達がいつもそうツイートしてるって言い返したら、急にキレられた。

 「いつもっていつよ」って。いつもは、いつもだよ。

 気づいてしまった。親ってどんどん時代遅れの生き物になっていくんだ。つらい。

 こんな夜に出歩いてはいけないともよく言われていた、けれどどうせ、危ないことなんてなにも起きないじゃない。

 公園に行こうと思った。理由はないけれど、ブランコが漕ぎたい。ドラマや映画では家出少女はブランコに座るものって決まってる、あのどこにもいない少女達の群像が、いまは唯一の友達みたいに思えた。

 ブランコみたいにゆらゆら揺れる、私達。

 家出少女はブランコに乗って、世界のはてまで飛んでいきたいと願っている。

 べつに拐われたいわけじゃないけれど、公園についたってやっぱり誰もいなかったし、何も起きなかった。こうこうと辺りを照らすのっぽの街灯だけが、期待をはずした私をばかにしたみたいに見下ろしていた。

 長い長い影が、きのう子どもたちに踏み荒らされたままの砂場の上までのびている。黒くて細長いくらやみのばけものは、私とおなじようにしか動かないから、怖くも面白くもなんともなかった。

 ……家出って何をすればいいんだろう。

 思ったより、暇だ。やることがない。


「きみ、こんな時間にどうしたの。一人?」

 え。うそ、不審者のひと来ちゃった。


 誰かが私に話しかけている。私はバッグを抱えて、あわてて周りを見渡したけれど、どこにも人影なんてない。

 ここだよ、ここ、と、いやに一生懸命に訴えかけてくる声に耳をすませてみる。その声は不思議なことに、砂場のなかから聞こえてきているような気がした。実は夢でも見ているんだろうか。

 おそるおそる砂場の中をさぐっていると、やがて黒い耳がぴょこんと砂から飛び出した。猫の耳だ。

「ふう、助かった!」

 ずぼっと砂から頭だけをつきだして、彼はふるふると首をふるい、やわらかな毛にからまる砂を落とそうとする。

 砂場のなかに、ちいさな子猫が埋められていた。手のひらに乗ってしまうぐらいの、ちいさなちいさな子猫。

「君も家出したの? 僕も家出したんだ。そして、何故かこんなふうに埋まってしまったよ」

「すみません、人間なんですか?」

 まぬけな質問をしてしまった。だってこの子、確かに奇妙なのだけど、ぜんぜん怖くなかったから。私に発掘されたちいさな子猫は、人間くさくはあ、とため息をつくと、ブランコまで連れて行ってくれと、男の子の声で話しかけてきた。

 私は言われたとおりブランコの上に座って、ひざに子猫を乗せたままブランコをこぎ出した。彼がころがり落ちてしまうといけないから、力一杯は漕げなかったけれど。

 私たちはいろいろなことを話したはずだ。

 自分の名前や、どこに住んでいるか、何があって家出をして、どうしてこんなことになったのか。けれど、すべて忘れてしまった。

 バッグの中に入っていたチョコチップクッキーを一枚、子猫にあげたことだけは覚えている。こんな変なもの、うちにいた頃には食べたことがなかったよと、彼がハイカロリーな甘さにひげをひくつかせたことも。

「うまくできた物語なら、実は僕が君の恋人だったりするんだろうね」

 そしてこれから君も猫になって、あの月に向かって飛んでいくんだ。

「ないない。そんなの面白くないよ」

 子猫は私のひざにしがみついたまま、大きな瞳で月を見上げて、なんだか寒そうな顔をした。くしゅん、とくしゃみを一つ。

「夏風邪?」

「猫でも夏風邪をひくのかな。初めて知ったよ」

 私はブランコをこぎ続けた。やっぱりちっとも、空なんて飛べやしなかった。


「ただいま」

 ……なんて言ってみても、今は家族みんな寝ているけれど。明日も普通に授業があるのだった。帰らないつもりだったのに、親も先生も警察も、意味もなくみんなを困らせてやりたかったのに、なんか、嫌だな。

 たった数時間で家出に飽きてしまった私は、拾った子猫を連れて家に帰った。彼を部屋の押入れの中に隠して、あたたかい寝床とミルクを用意した。

「本当にここにいていいのかい?」

「いいよ。家出したんでしょ」

 青い鳥に乗ったどこかの誰かが言っていた。いつも、誰でも、息抜きの時間が必要なのだ。

 いつもって、いつもだ。

「きっと後悔するよ」

「しないよ。おやすみなさい」

 私の家出は誰も知らない事件になって、猫といっしょに月の果てまで飛んでいった。それくらいがきっと、身の丈とかいう流行りの服にお似合いだ。


 言われてみれば、いつか、タイムラインで見たことがあったような気がする。

 猫は飼い主に悟られないように、死ぬ直前にどこかへ姿を消してしまうんだってこと。

 夢みたいな話は、いいね。でも実物は全然、よくないよね。

 翌朝、押入れの中では年老いた知らない猫が、眠るように安らかな顔で、つめたくなっていた。


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