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紙と詠う獣

 わかった、月が出る前に別れてしまおう。

 だから言ってくれ、つまり君はなんだったんだ、問いかけてもうつむくばかりの君はちっとも答えてやくれない。君の唇にはみえない鍵がかけられていて、その鍵は森の井戸の底に落としてきてしまったと、君はスケッチブックを広げながら紙の上に鉛筆を走らせる。

 僕は鉛のにおいが何よりもきらいで、アロマを炊いて香りを消そうと試みる。鼻を塞いでも、目から、耳から、口から、鉛筆のにおいは音と共に僕のからだの奥底まで染みこんで、血を巡って頭まで蹂躙して、脳細胞のひとつひとつに君は聞こえないはずの言葉を書きこんでいく。ああ太陽が落ちれば煩わしい君の言葉なんか聞かなくてすむのに、だって真っ黒な鉛筆は月の下で輝けるものじゃない。

 君は唇にしっかりと鍵をかけたまま、すこしうすい鉛筆を握って、喉が渇いたの、お茶をいれてくるわね、なんてお上品な言葉をかきつけて席を立った。

 お茶なんかいらないのだから、僕は一刻も早くこの場所から立ち去ってしまいたかった。廃墟になった喫茶店のテラスを、墜落しそうな夕日が照らしている。君の淹れるお茶が泥水でできているなんてことは予想がついた。エプロンをつけた背中が見える。その下のお尻から尻尾が生えていて、僕は蔦の縄で椅子にしばりつけられたまま、厨房に立つ背中をずっと見せられている。

 お待たせ、の一言もなく。

 君はやけにかわいらしい欠けたティーセットを、僕の目の前の丸テーブルに置いた。

 君がお茶と言って出してきたのは名前も知らない葉っぱの出汁で、濁った水からはつんと鼻に染みるにおいがした。けれど鉛筆のにおいを消してくれるなら、毒草だってかまわなかった。

 このまま前後不覚になるまで酔いつぶれてしまえるならばきっとそれがいい、月が落ちる頃には僕は鉛筆のにおいも忘れて、自分の部屋のベッドですやすやと寝ている。その時においしいお茶を飲んで、泥水の味も痺れる舌先も、蔦の縄で縛られる感触も君の正体もすべて、綺麗さっぱりと忘れてしまえたらいい。

 かり、かり、かりと、鉛筆がスケッチブックの上を滑っていく。

 僕の中のなにかがいま、君に書き換えられている。

 僕は君の色を忘れる。僕は君のにおいを忘れる。僕は君の顔を忘れる。そして最後に、僕は君の名前を忘れて、君という少女のかたちをすべてそっくりこの心から追い出してしまう。

 忘れる順番はこれで合っていただろうか。

 問いかけても、君のスケッチブックは、今度は白いままだ。


 目の奥の奥まで刺すような、純白よりももっと白い、漂白された朝日が、痛いぐらいに僕の瞼を踏みにじってくる。光の透けたカーテンが幽霊みたいに揺れる部屋で、僕は平穏を噛みしめていて、けれど何かが足りないような感覚が耳の奥で暴れ回っている。

「ほんとうに好きだったんだ」

 僕はきっと、世界一どうしようもない失恋をしてきた。

 枕元から鉛のにおいがする。サイドテーブルのうえに置かれたメモ帳が真っ白なことが、なぜだかひどくまちがいに思え、おしよせる泥の涙で胸をぐしゃぐしゃに潰された心地がした。

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