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ともだちのわ

 土星は土星なんて名前をつけられた分際で、ぐるぐる回る氷の環をおしゃれに重ね着しては、きょうも太陽系をくるくる回っている。やたらとキャッチーなあの星の地表には、絶えず氷の雨が降りそそいでいて、いまから3億年後には、環だってすっかり消えてなくなってしまうのだそうだ。

 とても住環境がよさそうな土地には思えないのだが、土星人から見たら地球だってきっと、なんで生き物がすめているんだかよくわからない謎の惑星なんだろう。

 そんなわけで、私の心臓には土星人の女の子が住んでいる。

 あなたはこれを他言してはいけない。誰にも教えたことがない、私の秘密だから。


 土星の衛星タイタンにはダイオウイカが360億匹泳いでいるのだったか。だったら、わたしはきっとずっと昔、たぶん3歳ぐらいのときに、その土星ダイオウイカに住みつかれてしまったんだろう。

 イカはヒトではないから、土星イカと言ったほうがいいのかもしれない。けれど、それではなんだか間抜けなので、私は彼女を『土星人』というくくりに入れている。

 私の心臓に住みついた宇宙イカの女の子は、夜になるとイカのくせにさめざめと泣いて、私の眼から勝手に氷の涙をこぼす。枕元にころがった氷の粒が、ここに土星人の意識があるんだよと声高に訴えてくるのだ。

 安眠と引きかえに、私は寝ているあいだだけ、彼女に自分のからだを貸し出してあげることにした。彼女があんまりうるさいものだから、しかたなくだ。私が眠りについてしまうと、宇宙イカはきまって窓辺の手すりに頬杖をつき、夜空の遠くで氷とダンスしている故郷を見あげるのだった。

 晴れの日も、雨の日も。

 暑い日も、寒い日も。


 土星人のわたしを夢のなかから見おろして、地球人の私は思う。

 なにをやっているんだろう、この子。

 あのマンションにも、あのビルにも、まだ窓明かりがついている。

 氷の雨でも降れば、夜にだれもが眠れるときがくるのだろうか。

 うちの家の窓からじゃ、どうせ土星の環なんて見えない。


 ある日、むかし遠足で動物園に行ったときに買わされた双眼鏡を、枕元に置いておいてあげた。土星人はそれから毎日のように双眼鏡を覗いては、レンズの向こうに見える月にむかって、二本しかない手をのばした。

「わたしのふるさとは人間の手のひらにおさまるほどに小さくなってしまったんだね」

 土星人は私の声で言いながら、じっと手のひらを見つめる。

(それは月だよ。土星じゃない)

(土星はもっとずっと遠くにあるんだよ。知らないの。土星人のくせに)

 『地球人の私』が眠りの底でいくらあきれた声をだしても、『土星人のわたし』は無邪気にわらうのだ。


「わたしは、あの星がわたしのふるさとだとおもうよ。だって、あんなに綺麗にひかるのだから」

 そうして私は思う。

 かぐや姫は月から来たというけれど、ほんとうは、土星人だったんじゃないのかな。


(ねえ、土星もそう悪いものじゃないよ。いつか見せてあげる)

 きっと宇宙イカはイカのくせに土星のお姫様で、うっかり地球に落っこちてしまって、見たこともない母星からお迎えがくるのを、私のなかで待ち続けているのだろう。

「見て、おむかえ!」

 夜空の向こうを通り過ぎてく飛行機をあおぎ見ては、宇宙イカはそういって喜んだ。

 そうしてどこの星でもない、どこかの国へ飛んでいってしまう鉄の鳥を、いつもさびしそうに見送る。

 なにか、なにか、そうじゃないとでも、そうだねとでも、言ってあげられればよいのだけれど。

 そんなとき、眠れる私はいちばん近くて遠い場所から、お姫様をただ見ているだけだ。

(いつか見せてあげるから、)

 お年玉貯金の残額はいくらあったっけ。どうやら土星には望遠鏡がないらしい。

 それなのに地球にはやってこれたのだから、とても不思議だ。


 人間の寿命は長くてもほんの100年ぽっちで、3億年にはとても届かない。私が死ぬまでにつめたい土星人がきみを迎えにきてくれなくたって、ビールでも飲みながら、土星の環が消えてなくなるのを指さして笑ってやりたかった。

 こんな狭い部屋の窓から一緒に飛びだして、誰もいない夜の街を自転車で駆け抜けて、坂道を一気に下ればきっと、UFOやロケットにも負けないくらい速いと思うんだけどな。気持ちだけは。

 私と彼女のあいだには、私という壁がある。それが何より、悲しい。


 土星からとおい遠い地球に立って、左胸にそっと手をあてて。

 そうして今日もまた、言葉じゃつながれない星のひとを、待ちぼうけて眠ってしまうのだ。

 きっと地球と土星では、つかう言葉もちがっている。地球上でだってたくさんの言葉がある。どこか一文字だけでも私達、つながっていればいいのにね。

 宇宙にこれだけたくさんの星があるのなら、奇跡みたいに同じ意味の言葉だってあるかもしれない。『ともだち』とか。


 今夜も土星のお姫様は、あきらめずに月を観測している。

 だから私は、きみを静かに見つめる月になる。

 四畳半で静かにかがやく、きみだけの、息をする月になる。

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