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ニンジャなう

 騙すつもりなんてなかったんだと言ったって、彼女はもうどうせ、僕のことなんか信じちゃくれないんだろうと思った。まだ誰にも汚されていないテスト用紙と、整理整頓のされすぎた事務机を前にして、互いを疑うように視線を交わした僕らは滑稽な蛇と蛙だった。今やうるさいばかりの沈黙で満たされた、この職員室とかいう直方体の箱には、いくつかの物理的な抜け穴があったが、窓から校庭に飛び降りたって心の逃げ場はどこにもありそうになかった。

 気まずいとき、窓から見える空は、いつも感傷的な夕暮れであってほしいのだ。

 なのに、今日にかぎって、眩しいばかりの早朝だ。

 どうして、僕は、宮原さんは、ここにいるんだろう。答えなんてお互いに分かりきっている。

 僕らの関係が、同級生から共犯者に変わるまでの猶予は、あと数秒しか残されていなかった。

「小田くんは秀才じゃなかったんだ」

 開口一番、宮原さんはひどく残念そうに言った。

 せめて天才じゃなかったんだ、と言ってくれれば、人よりちょっと成績がよかっただけの僕にも、まだ救われようは残されていたかもしれない。彼女は一切合切の逃げ場を塞ぎぎって、僕の良心にかかっていた最後の鍵を、こなごなに踏み荒らして、壊していった。

 良心とプライドは同じ材料からできていたのだと、僕は頭の中の真っ白な答案用紙に書きつけた。いったい誰が答え合わせをしてくれるのだろう。スマホをカメラモードに切り替えながら、そう思った。

「見ての通りだよ。期末テストの問題を盗み撮りにきたんだ。そうしたら、こうしてきみと鉢合わせになった」

「どうやって鍵のかかった職員室に入ったの」

「先祖代々忍者なんだよ、うちの家系は」

 嘘だ。ピッキングの入門書で勉強したのだ。

 はぐらかしてやったつもりだった。けれど、宮原さんの答えは、想像の斜め上にすっとんでいった。


「それは奇遇だね。実は宮原家も忍者なの」

「そう。忍者か。それは古式ゆかしいね」

「お互いさまでしょう。変なの」

 どうして宮原さんもこんな早朝に職員室にいるのか、その答えを追求したら、僕はなんだかよくわからない忍術で、木の葉にでも変えられてしまうんだろうか。

 宮原さんは僕をじっと見ている。問題用紙をすっかり収めたスマホのカメラは、どうしても、シャッターを切ってはくれなかった。

 気まずくなって窓の外を見たら、まだ冬なのに桜が満開で、これはすべて彼女の忍術にかけられて、桜に変えられた人間なんじゃないかと思った。ああ、いっそ僕も桜になって散らせてくれ。忍者がこんな綺麗な葬式をあげてくれるなら、この世から火葬場もどろんと消えて、すっかり無くなってしまうことだろう。

「それで、君は何をしに来たの」

「えっ、それ聞く? 期末テストの問題用紙を盗み撮りに来たに決まってるじゃない」

「忍者もそういうことするんだ」

「小田くんだって人のこと言えた身じゃないでしょ。忍者だって、期末テストでいい成績を収めないとやっていけないんだから」

「東大に潜入でもする気?」

「そうそう。適当なインテリと仲良くなっておいて、将来の社長から個人情報を盗んでやるの。で、それを、然るべき筋に売り捌く」

「ふうん……もうその発想が馬鹿っぽいけど、忍者もずいぶん庶民的になったもんだね」

「そりゃあ今の日本に戦なんてありませんからね。あー、戦がしたいなあ。戦があったら、勉強なんてしなくてすむのに」

 とんでもないことを言う。自称忍者は自称忍者っぽく、彼女との会話を全部録音して、SNSに流して拡散してやろうかと思った。そんなことをしても僕に得はないから、やらないけれど。

「それで、君が忍者でも僕が忍者でも、もうなんでもいいけどさ。僕らの間にこうして横たわっている絶望の期末テストは消えないわけだ」

「消しちゃえば? 手品みたいに」

「忍者みたいに?」

「そうそう。だって、小田くんは忍者なんでしょ」

「まさか。君がやりなよ」

「そっちこそ」


 そんな問答を何往復か続けたのち、クラスで三番目ぐらいにはかわいかった宮原さんは、わかったよ、と、それはもうしょうがなさそうに、両手をあげて降参した。

 小さくばんざいしていた宮原さんの両手が、セーラー服の胸元で組まれる。

 ピース。まったく見たことがない、変なピースだ。勉強するふりばかりしている僕だから、いまの流行りを知らないんだろうか。

 いや、これは印ってやつだ。たぶん。

「うやむやにしておこうよ。忍者的にさ」

 ……まじか。


 僕らの間に横たわっていた大問題は、煙になってどろんと消えてしまった。もちろん、二人ともテストの結果は散々だったし、その後、宮原さんとは話していない。噂によると、印刷前の元データまで消滅してしまったので、先生はテスト問題を全部作り直すことになったらしい。憔悴した顔を見て、僕はかなり反省した。

 赤点でもけろっとしている宮原さんが、万が一忍者の出世街道を進んだとしても、なにも見なかったような顔で、春にはずっと、桜が咲きつづけるのだろうか。

 どちらでも良かった。その朝を境に、僕は適当なインテリを目指すことをやめた。忍者と個人情報を売買するなんて、まっぴらごめんだ。

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