思いやりと「普通」の使い分け
どうも、ひえんです。
この前、休みを利用して実家に帰りました。
その時の話をします。
コーヒーをつぐ量
我が家はほぼ毎日、誰かが声をかけると(コーヒーが苦手な弟以外)全員コーヒーを飲みます。
その時もコーヒーブレイクをしていたんですね。
私が声をかけて、母と妹の分も淹れていました。
カップを持っていくと、母が一言。
「淹れてくれてありがとう、でもね、普通はもう少し少ないかな」
その時のコーヒーは、口ぎりぎりまでなみなみと注がれていました。
母の言葉を聞いた瞬間、私は
「しまった!またやってしまった!母の言う『普通』にならなければいけなかったんだ!いやていうか普通ってなんだよ!普通になんか放っておけばいいんだよ!多様性の時代だろ!」
と心の中が自傷と逆恨みでいっぱいでした。
そんなぐるぐるしている私に、母が教えてくれました。
「世の中には『大体の人はこうだよね』っていう共通の認識があって、もしこれを会社でお客様に出すとしたら『おや?』って思われてしまうかもしれないね」
その言葉で落ち着きを取り戻した私は、もう少し話を聞いてみることにしました。
「○○(私の本名)はたくさん飲めたほうが嬉しいと思ってなみなみついでくれたのかもしれないけど、カップの大きさもよく見たほうがよかったね」
そういうと私のより一回り大きい妹のカップを指さしました。
「○○のカップだとちょうどよくても、こっちの大きいカップだと飲みきれないかもしれないじゃない。会社でお客様に出すコーヒーもそれと同じで、カップの7分目くらいが飲みやすいんだよ」
なるほど!と目からうろこでした。
世間の物差しと自分の思いやりがかみ合わない瞬間
私がコーヒーをなみなみついだのは「たくさんコーヒーが飲める」ということが私にとってうれしいから。これは私の物差しです。
けれど、世間一般の場合、カップの中のコーヒーの量は7分目になっています(お店のコーヒーを思い出した)。
確かに、レストランの食後のコーヒーがなみなみ入っていたらちょっと嫌ですね。
つまり、世の中には「世間一般の常識」に合わせなければならない瞬間があるのです。
そして、その時には自分の物差しによる「思いやり」は時として迷惑になる場合があるのです。この時ばかりは、多様性という言葉は世間知らずで自分を正当化したい人の言い訳に成り下がると思います。(多様性は大事だし、否定してはいけないと常々思っていますよ)
それを知っただけでも、有意義な経験だったと思います。
いやーそれにしても
普通って難しい!