【児童文学評論】 No.103 2006.07.25
あとがき大全(59回目)金原瑞人
1.自主規制、差別問題、ブラッドベリ
サンフランシスコで映画関係の仕事をしている角谷君から、メールがきた。
そうそう、こっちで禁煙推進団体とか何とかが喫煙シーンをR指定にするように、って抗議行動を起こしたらしい。未成年に悪影響を与えるから、というのがその理由。R指定を避ける為に、下着を着たままの unsafe sex シーンがPG-13で、喫煙シーンがR? そういう臭い物に蓋をするような rating をして、ホンマに子供が悪影響を受けへん、って考えとうのが馬鹿馬鹿しい。まさか、「はい、そうですね」とホンマに喫煙シーンがRになったりせぇへんやろうけど、もしなったりしたら、『華氏451度』の世界が現実になりそうな雰囲気。
ちょうどそういう自主規制が気になっていたところなので、このメール、使わせてもらっていいときいてみたら、次のようなメールがきた。
そういう事なら、僕の記憶違いで金原さんに恥をかかしても、と思い、僕が読んだ記事を探して拝借。
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(eiga.com - 07月18日 11:00)
アメリカの禁煙運動グループが、映画のレイティング審査をするアメリカ映画協会(MPAA)に対し、喫煙シーンのある映画をR指定とするよう求める動きが活発化している。非営利の禁煙運動グループ、アメリカン・レガシー・ファウンデーションは、映画の中に登場する喫煙シーンが未成年者に与える悪影響を考慮し、他の団体と団結して、MPAAの本部まで抗議行進することを明らかにした。今後は、喫煙シーンも、ヌードや過激な暴力描写と同様に扱われることになるかもしれない。
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この記事を読んで、バカバカしいやら、腹立だしいやら、で何人かにメールを送ったんですけど、ほとんど「レイ・ブラッドベリって誰?『華氏451度』って何?」と、僕の焦点が伝わっていない様子。ちなみに、僕は本よりも映画の方が好きなんですけど、金原さんは映画、見ました?
はいはい、トリュフォーの映画みてます。そのまえにブラッドベリの小説、読んでます。たしかに原作のほう、ちょっとだるいかな。映画はその点、すっきりしてて、よくできている。
というふうな返事を書いておいた。
ところで、7月、銀座のシネスイッチで『プルートで朝食』を観て、わ、すごいじゃん! と思い、パンフをみたら、ニール・ジョーダン監督、パトリック・マッケイブ原作! これって、『ブッチャー・ボーイ』を作ったコンビじゃんと、ふたたび感動。
この『ブッチャー・ボーイ』、じつは劇場公開もされず、そのままビデオに(DVDにはなっていない)。そして原作のほうは、翻訳は仕上がったものの(ぼくじゃないです)、出版社の上のほうで、「やっぱりやめよう」という判断がおりて、結局、日本では出版されないまま。
『ブッチャー・ボーイ』、翻訳家の冨永星さんが教えてくれた。すっごく読みごたえのある作品なんだけど、タイトルをみてもわかるように、差別問題がからんできそうなので、出版は見送り、ということになったらしい。
このへんのことは、アイルランドがらみで、「小説すばる」に詳しく書いたので、興味のある方は、そちらを読んでみてほしい。
それにしても、アメリカも日本も自主規制、強すぎ!
みんな、森達也の『いのちの食べ方』(理論社)や『放送禁止歌』(光文社)を読めよといいたい。
2.あとがき(『ラスト・ドッグ』『虎の弟子』)
今回は二冊。
訳者あとがき(『ラスト・ドッグ』)
十四歳の少年ローガンには、大嫌いなことがいくつもある。しかしその大嫌いなものリストの最後はいつも「自分が腹を立てていること」だ。
リストの最後はいつもかわらない。なぜなら、気持ちのいい六月の午後でさえ――夏休みにはいったばかりで、太陽は輝き、車の窓からはさっと風が吹きぬけていく――そんなときでさえ、ローガンには絶対、何かしら腹の立つことがあるからだ。なんにもなくたって、母さんがロバートみたいなやつと結婚したって思うと、いつも腹が立つ。クレーターだらけの惑星みたいなあばた面をした、〈なんでも知ってる独裁者〉になるために生まれてきたと思ってるやつなんかと。それに、ローガンが七つのときに父さんがでていって、いまはどっかの山奥に自分で建てた家で優雅に暮らしてるっていうのにも腹が立つ。もしかしたらそこには大型の温水浴槽とかトランポリンとかがあるのかもしれない……それからもちろん、自分がいつも何かに腹を立ててることにも腹が立つ。腹を立てるってのが気持ちのいい感情なわけがない。
まわりのことすべてに腹を立てていて、そのことにまた腹を立てているローガンは、あるとき、野生の雌犬を飼うことになった。ローガンはジャックという名前をつけて、思いきりかわいがってやる。やっと心の通じ合える相手がみつかったのだ。ところが、ある事件のせいで、ジャックから引き離されて、遠くのスパルタ式のキャンプに放りこまれてしまう。一方、地元で恐ろしい犬の伝染病がはやりだし、それがみるみる広がっていく。やがて、その伝染病は人間にも感染することがわかってくる。
まるで軍隊のようなキャンプ生活のなかでローガンはどうするのか。ローガンと離れて、ひどい扱いを受けることになったジャックはどうなるのか。そして、次々に犬を襲っていく伝染病をくいとめることはできるのか。
ローガンは? ジャックは? 伝染病は? いくつもの「?」がひとつにまとまった瞬間、このSFっぽい物語は一気に加速して、最後まですごいスピードで突っ走る! ローガンがキャンプを脱走しようと考えだすあたりからは、もうページをめくるのが面倒なくらい、先が気になってしょうがない。
そして文句なしのエンディング!
ヤングアダルト向けの作品はこうでなくちゃいけない。これこそヤングアダルト向けの小説のだいごみだ。
ローガンを取り巻く大人たちは、そろって、ろくでもないやつばかりだ。横暴な養父のロバート、そんなロバートにろくに反論でず、息子を守ってやることもできない母親。社会から落ちこぼれて殻にこもり、息子を捨て家族を捨てて孤独に暮らす実の父親も情けない。そんななかでローガンは、愛犬ジャックを救うため命がけで、あちこちに体当たりしていく。
最後には、話はみごとに終わる。こう終わるしかないし、こう終わらないと納得できない。しかしそれでも悲しいし切ない。もちろん、ほのかな希望の予感はあるが、手放しのハッピーエンドではなく、ある種の苦々しさや、やりきれなさや、あきらめのようなものも残っている。だがなにより、主人公ローガンのたくましい成長ぶりがうれしい。それが最高の救いだと思う。
読んだら、けっして忘れられない本になると思う。
最後になりましたが、編集者の木村美津穂さん、原文とのつきあわせをしてくださった石田文子さんに、心からの感謝を!
二〇〇六年五月六日 金原瑞人
訳者あとがき(『虎の弟子』)
カリフォルニア州サンフランシスコのチャイナタウンを知っているだろうか? ゴールデンゲート・ブリッジや、ユニオン・スクエアや、フィッシャーマンズ・ワーフや、アルカトラズ島とならぶ観光名所だ。カリフォルニアに金がたくさんあることがわかった十九世紀の中頃、中国人の人たちがたくさんやってきて、やがてこのあたりに集まって暮らすようになった。いまの大通り(グラント通り)は観光客ばかりだが、そのまわりの地域には中国系の人たちがたくさん住んでいる。
魚屋には日本でもおなじみの魚が並んでいたり、水槽で泳いでいたりするし、肉屋には、いろんな種類の肉が並んでいるし、そのほかにも、生きている鶏、烏骨鶏、アヒルなんかも売っている。ごくたまに、生きたアルマジロも足をくくられて、軒先に転がっている。
それに中国映画専門の映画館もある(年に何回かは、京劇が上演されたりもする)。ここでかかる映画はおもしろいことに、というか、当然なんだけど、英語の字幕がついている。これを見ると、ああ、アメリカのチャイナタウンだなと、思ってしまう。ここには中国の文化とアメリカの文化がほどよく混ざり合っているのだ。そこで生活している人々の多くは、国籍はアメリカ人だが、どこかでしっかり中国の文化を引き継いでいて、それをけっして恥ずかしいこととは思わず、「どうだ、おもしろいだろう、いいだろう! 素晴らしいだろう!」という形で、みんなにアピールしている。
中国料理、中国茶、中国の文化、中国の歴史……そういったものを大切にしている人々がいるのだ。
そんななかから登場してきたのが、ローレンス・イェップという中国系アメリカ人の作家だ。しっかりアメリカ人なのに、ちゃんと受け継いできた中国文化やそのよさや楽しさをうまく作品のなかに生かしている。現代のアメリカを舞台にした作品もたくさんある。けど、中国の神話や民話をたくみに取り入れたファンタジーも書いている。日本でも翻訳されているものでは『竜の王女シマー』(早川書房)が抜群におもしろい。続刊もあるのに、なぜでないのか、不思議でしょうがない。
さて、この『虎の弟子』は、サンフランシスコを舞台にした、〈中国+アメリカ〉のハイブリッドなファンタジーだ。現代のサンフランシスコに住む少年トム・リーが、ある事件から、とんでもない冒険に巻きこまれてしまう。
おともは師匠のミスター・フー(虎)、七十二変化の術を持っていて雲に乗って天空を駆けめぐるモンキー(猿)、口は悪いけど心はやさしいミストラル(竜)。
ローレンス・イェップは、中国の『西遊記』や『山海経』からいろんな登場人物、登場怪物、エピソードを借りてきて、驚くほど楽しくて、わくわくするファンタジーを作り上げた。いままでのどんなファンタジーとも違う、チャイニーズ・テイストのアメリカン・ファンタジー。絶対におもしろい。
なにしろ中国の聖獣である虎と竜が顔をだして、孫悟空がしゃしゃり出る……それに……なにより主人公のトム・リーがいい。どこにでもいそうな少年で、最初は命がけの冒険や使命から逃げようとするけれど、いやおうなく事件に巻きこまれていくうちに、勇気を持って立ち向かうようになっていく。そのへんの描き方が、うまい。
このファンタジー、最後まで読んでもらえればわかると思うけど、もちろん、続刊があって、これがまた、いい。
中国系アメリカ人作家の書いた、〈中国+アメリカ+昔+今〉の大冒険ファンタジーの幕開けだ。
なお最後になりましたが、編集者の三浦彩子さん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さんに心からの感謝を!
二〇〇六年六月十五日 金原瑞人
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*以下、ほそえです。
○絵本
「ふわふわ くもパン」ペク・ヒナ文と絵 キム・ヒャンス写真 星あキら、キム・ヨンジョン共訳 (2004/2006.4 小学館)
平べったい顔や体に立体感のある背景。不思議な遠近の画面が、くもパンを食べたら、ふわふわ飛んでしまうというお話に、なんともいえないリアリティを与えている。見れば見るほど、どうやって画面を作ったのかなあと目が点になってしまう。表情はコミカル、色味はシック。おはなしはよくある感じなのだけれど、このような画面で見るのは初めて。むかしのトッパンの人形アニメ絵本のかおりもするけれど、今風の軽やかさがひと味違うところか。(ほそえ)
「ハンダのびっくりプレゼント」アイリーン・ブラウン作 福本友美子訳 (1994/2006.4 光村教育図書)
ハンダはケニヤに住むルオ族の女の子。おおきなかごに果物を七ついれて、ぼうしみたいに頭に乗せて、お友だちの村ヘ出かけます。歩いている女の子のかごから、つぎつぎ動物たちが果物を持って行ってしまいます。ページをめくる度にあらわれる動物と少なくなる果物に、読んでもらう子どもは気が気ではありません。でも、友だちにあう頃には、ちゃんとくだものはかごいっぱいになっていて、びっくりうれしいラストです。出てくる動物の名前もきちんと見返しにかかれ、オーソドックスに絵を読む楽しさのある絵本。ケニアの村の暮しぶりもしっかりと絵になっていて、こういう絵本で遠い国のお友だちのことをしっていけるのは良いなあと思う。(ほそえ)
「ぷしゅ~」風木一人作 石井聖岳絵 (岩崎書店 2006,6)
海に遊びにいっていた家族が家に帰ろうと、うき輪の空気をぷしゅ~と抜いていく場面から始まります。それは、名残惜しいけれど、ちょっとおもしろい気分。ぷしゅ~だものね。すると、電車もぷしゅ~。海の家もぷしゅ~。ページをめくるごとにいろんなものがぷしゅ~、ぷしゅ~とぐにゃぐにゃのへろへろになってしまう、その有り様の絵がすごくおもしろい。なんだ、こりゃ、おっかしいぞ、と思って見て、ラストのページで手がとまった。男の子のおへそにあのうき輪の口とおんなじ栓がついていた。これをとったら? なんともブラックなオチになりそうなニヒヒと笑う男の子の顔がちょっとこわかった。(ほそえ)
「ベアベアくんのいそがしいあさ」ハリエット・ジーファート文 アーノルド・ローベル絵 きたやまようこ訳( 2004/2006.5 新風舎)
フラップ式の質問絵本。朝起きてからお昼ごはんを食べてお昼寝するまでを時間ごとに朝ごはん、おえかき、おやつ、そとあそびと、それぞれに4つの選択肢を絵柄で問いかけ、フラップをめくるとベアベアくんの選んだものがわかるという仕掛け。単純だけれども、温かみのあるローベルのイラストが小さな子どもの幸せな時間を切り取っている。同じような仕掛けでおかいものを舞台にした「ベアベアくんのおかいもの」も刊行された。
「ファルファリーナとマルセル」ホリー・ケラー作 河野一郎訳 (2002/2006.5岩波書店)
ファルファリーナはいもむし、マルセルは鴨かしら?ひとりぼっち同士が仲良くなってすごすうち、ファルファリーナはさなぎからちょうへと変わっていく。マルセルも羽の色も変わって、お互いにわからなくなってしまうのだが……。よくある設定のお話なのだけれど、やさしいイラストの美しさとラストのすがたが心に残る。(ほそえ)
「ヤンヤンいちばへいく」周翔 作 文妹訳 (2006.6 ポプラ社)
日中同時刊行の絵本。都会に住むヤンヤンという男の子が田舎にいるおばあちゃんのお誕生日のお祝にやってくるところから始まります。田舎の市場は川のそば。いろんな場所から様々なものが運ばれ、市場で売られます。このような風景は中国でもなつかしい風景になってしまっているようですが、単にノスタルジックな絵本になっていないのは、男の子が今の空気を持って市場に立っているから。アップに描かれるお芝居を見る観客の中にも、ロングに引いた風景のなかにも、赤い帽子と上着を着たヤンヤンの姿が必ずどこかに描かれ、それを探し出すのが楽しく、次のページをめくるきっかけにもなっているよう。しみじみと絵がすてき。(ほそえ)
「ヨンイのビニールがさ」ユン・ドンジェ作 キム・ジェホン絵 ピョン・キジャ訳 (2005/2006.5 岩崎書店)
現代の子どもを描く韓国の絵本はまだまだめずらしい。ヨンイの登校中に目に入ってきたのは雨の中、うずくまるものごいのおじいさん。どうしても気になってしまい、学校を抜け出して自分の傘をさしかけるヨンイ。
その時のイラストは表情をあえてカットした構図でかかれている。めくって、学校へ戻る様子を書くシーンはかけさる後ろ姿だけ。おじいさんの様子はうすい緑色の影に隠れている。言葉少なに絵の構図だけで、むずかしい行為をぽんと描き出した。このページがうまくいっているので、雨が止み、壁にビニール傘がたてかけてあるラストシーンのすがすがしさに読者も安堵する。(ほそえ)
「ルイーザ・メイとソローさんのフルート」ジュリー・ダンラップ&メアリベス・ロルビエッキ文 メアリー・アゼアリアン絵 長田弘訳(2004/2006.5 BL出版)
若草物語を書いたオールコットと「森の生活」のヘンリー・D・ソローの人生が重なった時があったとは、この絵本を手に取るまで知らなかった。ソローの思いや暮しぶりを材にとった絵本にD.B.ジョンソンの「ヘンリ-」シリーズ(福音館書店)があるが、本書は史実にそったかたちで、ふたりのかかわりと本当の教育とはどういうことなのかを教えてくれる。ルイ-ザの体のなかに閉じ込められていた言葉が、春の訪れをことほぐロビンの歌声を文字にしたいと願った時、はじめてほとばしったというエピソードに、胸を打たれた。自然のなかで実際にからだを動かし、耳をすまし、触り味わう体験がいつの時代にも、言葉を培うのだなあ。(ほそえ)
「せいくんとねこ」矢崎節夫作 長新太絵 (1987/2006,5 フレーベル館)
せいくんにたべられるより、ねこにたべられるほうが、さかなはしあわせだ、なんて、急にねこにいわれたら、どうする? 猫に食べられた魚は、猫になって物干で一日中ひなたぼっこしたり、きれいな夕焼けを見たりする。せいくんが食べた魚は、せいくんになるんだから、宿題したり、おこられたりしてかわいそう、なんていわれたら。でも、せいくんもときどきさかなのことを思い出すんだって。おふとんのなかで……。ふふふとわらってしまうような理由だけれど、そうだな、とねこといっしょに納得させられてしまう。微妙な表情でふんわりとおかしみを包んでしまうイラストが、やっぱりいいです。(ほそえ)
「おばけのもり」石津ちひろ作 長谷川義史絵 (2006.7 小学館)
神社のお祭りで買ったたこやきが転がっていくのを追い掛けていくと、そこはおばけの森。おばけはお汁粉やバナナやケーキが好きなくいしんぼう。ページをめくるごとにろくろっくびや一ツ目小僧などがひとりづつ出てくるが、それぞれの名前の文字をあたまにした短い文章で紹介される。それが絵になって展開していく趣向。たこやきを道案内においかけるとまた、最初の神社の入り口へ。あんまりこわそうでなく、ちょっとおまぬけなおばけたちはこの画家の得意とする分野ですねえ。うひゃひゃと笑いながら、自分でもおばけの紹介文を書きたくなる。(ほそえ)
「リスとアリとゾウ」デイジー・ムラースコヴァー作 関沢明子訳 (BL出版1982/2006.5)
体の大きさがこんなにもちがう三匹の生き物が同じ洞くつで暮している。大きさがちがうと視点もちがうので同じことをしても、それぞれちがいます。リスが拾ってきたどんぐりは、アリには多すぎていつまでも終わらないようなごちそうに見えるのに、ゾウにとっては腹の足しにもなりゃしない。リスはそれでも3匹で暮らすのが好きという。リスが狩人に捕まってしまうという事件が起きて……。ふしぎな雰囲気のイラストが、ありえなさそうな3匹の暮らしをしっかりと描いていて、寓話的なこの物語にある種のリアリティを与えている。(ほそえ)
「ちいさな曲芸師 バーナビー~フランスに伝わるお話」バーバラ・クーニー再話、絵 末森千枝子訳 (1961/2006.6 すえもりブックス)
クーニーの幻の傑作本がやっと翻訳された。本書は最初にコルデコット賞をとった「チャンティクリアときつね」(ほるぷ出版)と同様の手法で描かれている。特色4色で印刷されるページと墨一色のぺージが交互にあらわれる美しい本だ。お話の元になった伝説はトミ-・デ・パオラが「神の道化師」(ほるぷ出版)という絵本にしているので知っている人もいるだろう。パオラが描いたのは、本書のような小さな少年ではなかったし、ラストもちがっているけれども。パオラの方が絵本の形にするために、よりお話を刈り込んでいる。クーニーは絵で描くとともに、文章でバーナビーの境遇や修道院での暮らしをきめ細やかに語り、神の前で人はどんなに祈り、身を捧げるものなのかを伝えるのだ。彼女が息子の名前に選ぶほどに、このバーナビーの伝説を追いかけ本にしたのはどうしてなのだろう。彼女の母を描いたといわれる「おおきななみ」の少女や代表作である「ルピナスさん」を思い出す。一途に一つのことを思い、やり遂げようとする姿がバーナビーと重なって、その後ろに銀色の髪を結い上げたクーニー本人が見えた。(ほそえ)
「特急キト号」ルドウィッヒ・ベーメルマンス作 ふしみみさを訳 (1938/2006.6 PHP研究所)
マドレーヌ・シリーズで人気のベーメルマンスのこれも幻の絵本。原書でみていた時は、かわいいお話だが、セピア一色で描かれているのが、ちょっと地味かなあと思っていたのだけれど、コンテのタッチも生き生きと楽しい絵本になりました。これは語り口が大事な本だったのね。はいはいしかできない赤ちゃんなのに、特急キト号にのりこんでしまったペドロ。いつのまにかキトの町に着き、やっとまいごだと見つかるのです。それから、それから……。長い長い道のりを走る特急だから、ペドロのすむ村に戻るまで4日もかかってしまいます。ガラス窓を走り去る風景のように、ペドロと一緒に過ごすやさしい車掌さんの姿をさらさらとスケッチしたぺージが続いたあと、無事、お姉ちゃんの待つオタバロの村について、安心です。ベーメルマンスの人となりや本書の出来るきっかけを短い中に興味深く紹介している訳者あとがきがうまい。(ほそえ)
「いちばんのなかよし~タンザニアのおはなし」ジョン・キラカ作 さくまゆみこ訳(2004/2006.7 アートン)
一昨年に「チンパンジーとさかなどろぼう」でわあっ、こんな絵描きがいるのかといっぺんに愉快になったのを覚えている。その作者の2作目。本作もタンザニアの動物たちが人間のように暮らす動物村でのお話だ。大きなゾウと小さなネズミは一番の仲良し。だから、ネズミの集めた穀物を屋根のあるぼくのうちで預かってあげるというゾウを信頼していたのに、反対に自分勝手な理由で食べられてしまったので大げんかをしてしまいます……。お話は教訓的で昔話っぽいのだけれど、おびえて木から落ちたゾウに注射をしたり、包帯をぐるぐるまきにしたり、ティンガティンガ派の画家らしくくっきりと描かれた動物たちの表情やしぐさが妙で、本当に笑ってしまう。この絵だからこそ、こういう話でもOKなんだなあ。(ほそえ)
「たべる」谷川俊太郎文 井上洋介絵 (2006.7 アートン)
ぺろりと指をなめる顔がアップになった表紙。お菓子でお腹をいっぱいにして、夕御飯も食べずに寝てしまう男の子。そんな子の見る夢は……。食べるものがない世界で、食べられそうになってしまう自分。お金を持っていても使えない世界。子どもから大人が横取りし、もっと強いものがひとりじめする様子。虫でもなんでも食べてしまう状況。寒くて、ひもじくて、うとうとして見る夢は……。夢の中の夢は明るくて、楽しくて、現実につながっていく。その展開が見事だった。ストレートな物言いは本を読んでもらっている子どもによりも、読み聞かせている大人にささるものだった。子ども問題は結局のところ大人問題だということはわかりきっているのだけれど。(ほそえ)
「ウィンクルさんとかもめ」エリザベス・ローズ文 ジェラルド・ローズ絵 ふしみみさを訳 (1960/2006.6 岩波書店)
ケイト・グリーナウェイ賞受賞作。このなんとも懐かしい感じの絵本は50年代後半から60年代にかけて、人気のあった子どもの本のイラストの流れにのっているように思う。人の表情の描き方など、アート・セイデンなどゴールデンブックスで活躍していたイラストレーターたちとよく似ている。現在、この年代の絵本が世界的にも人気となり、古書で多く流通しているのは、温かみのある手仕事の跡が残っているかのようなイラストの魅力からだろう。お話はさかなもあまりとれず、おんぼろボートで漁をするウィンクルさんが主人公。かもめにエサばかりやっていると、みなにばかにされています。さかながとれず、漁に出る船がいない時も、ウインクルさんは海へ出かけていました。するとあるひ、かもめが教えてくれたのです、さかなのいるところを……。オーソドックスな展開のお話に安心して、読めるのがこの年代の絵本の強みでしょうか。(ほそえ)
「あまいね、しょっぱいよ」ふくだじゅんこ絵
「くんくん、いいにおい」たしろちさと絵(ともに、2006.7 グランまま社)
Book of Sense シリーズの2冊。味だけではなく、食感や音、様子など食べる時に関わるあらゆる感覚を絵とシンプルな言葉で示してみせた「あまいね、しょっぱいね」。匂いを手がかりにもの、状況、生活へ視点を広げていった「くんくん、いいにおい」。今まで刊行された五感の絵本とはちょっと違う方向を持っている。感覚を解きあかすのではなく、感覚を広げ、見つけていく方向を目指しているようだ。それは、なかなか新鮮な感じ。この絵本のページをめくりながら、子どもが自分の毎日を思い返し、確かめ、また、毎日へとかえっていくようなものを目指しているのだろう。かたちとしてはカタログ的な作りの絵本と言えるかもしれない。けれども、どんなシーンを選び、どのように構成するかで、絵本はどうしても一つの流れや納まりを求めてしまう。「くんくん、いいにおい」は、それがおおよそ上手く納まっているような気がする。 「あまいね、しょっぱいね」はそこのところが、ちょっとよわかったかも。(ほそえ)
「かっぱのかっぺいとおおきなきゅうり」田中友佳子作・絵(2006.6徳間書店)
「こんたのおつかい」でデビューした作家の2作目。かっぱときゅうりはお馴染みのコンビだけれど、日照りに悩む土地にすむかっぱとしたところが、おもしろい。とちゅう、緑色のものが見えるたびに、とびつくかっぺい。さぼてん、わに、きょうりゅう!まで出てくるところが大笑い。だけど、それも次の展開へときれいに結びつき、わあとびっくり、そうなんだとにっこり、よかったねえと安心できるお話に仕立てあげている。オーソドックスななかにもオリジナルなアイデアがあるので、おっと心に残る。(ほそえ)
「わらっちゃった」大島妙子(2006.8 小学館)
目に炎の燃えるまっかな顔が表紙。それでこのタイトル。くるっと返して表4では一転、大口開けて笑った顔。ほんとはこっちが表紙じゃないの?と聞きたくなるけれど、ページをめくると、納得。女の子ふたりがおこった顔で向かい合っているんだもの。友達とけんかして帰って、悪いことなんでも、友達のせいにして、怒りが納まらなくなったあたし。そうしたら、頭がごつごつしてきて、角が生えて鬼になっちゃった!たんすの奥に引っぱられてやってきたのが「おばけよせ」。おばけが出演して、おばけのお客が見ている寄席。寄席だから、漫談も音曲も曲芸もあって、さいごは落語で締め。そこでわはわは笑えば……。ちゃんとお話がきちんと納まるべきところに納まり、ラストのオチにもあらあらと笑い、表4の笑顔へと無事着地。けんかしてたって、ひょんなことで笑っちゃって、けんかが終わるなんて、小さな子にはよくあること。それを、ダイナミックな展開で、あれあれあれえと異世界に連れていき、ぽんとそ知らぬ顏して、また日常へと戻してしまう手腕が見事。見返しのちょうちんがかわいい。(ほそえ)
「ちゅうちゅうこねずみ」きくちきょうこ (2006.7 主婦の友社)
貼り絵と線画の組み合わせがかわいい絵本。巻末にハンカチで作るハンカチネズミの作り方が書いてあり、絵本のことばをそのままに、ねずみちゃんを動かして、子どもと一緒に遊べるように、という作りになっている。だから、えほんのねずみちゃんはチェックの布地で描かれているのだ。シンプルな画面に質感のある画材。小さな子が手をのばして剥がしたくなるような、視覚と触覚が同時に刺激されるようなふしぎな感じがする。(ほそえ)
「バーガーボーイ」アラン・デュラント文 まつおかめい絵 真珠まりこ訳 (2005/2006.8 主婦の友社)
このハンバーガー見たいな格好のものは、ハンバーガーばっかり食べていた男の子だったんです。ハンバーガーしか食べないで過ごしたドキュメンタリー映画がありましたが、この絵本もなかなかすごい。ハンバーガーしか食べないとハンバーガーになっちゃうよ、とママがいって、ほんとうに、そうなっちゃった様子が絵で示されると、あまりのそのまんまに笑ってしまいます。おいしそうなバーガーだと犬に追い掛けられ、走って逃げる様は昔話のジンジャーブレッドマンと同じ。その後の展開も同じで、ラストはハンバーガー店のお店の車にのってしまい……。ベニーはママに助けられ、もう二度とハンバーガーを食べず、今度は野菜ばかりを食べて……。ラストのオチもわかりやすくて、かわいくて、読み聞かせに楽しそう。(ほそえ)
「きょうりゅうたちがかぜひいた」ジェイン・ヨーレン文 マーク・ティーク絵 なかがわちひろ訳(2003/2006.6 小峰書店)
前作の「きょうりゅうたちのおやすみなさい」はどんな怖そうな恐竜でも最後は静かにおやすみなさいをするのがおかしかったのだけれど、今回の恐竜たちはみな風邪をひいて機嫌が悪い。だけど……。自分がやっていそうなことでも、恐竜がしていると「だめなんだあ」と優位にたって、画面を見下ろし、くくくっとわらう子ども。お馴染みの展開だけれど、やはりヨーレンのテキストはうまい。(ほそえ)
「ひみつのもり」ジーニー・ベイカー作 さくまゆみこ訳 (2000/2006.6光村教育図書)
「海と森のであうところ」という自然のものを貼り込んで作ったコラージュ絵本で一躍注目されたオーストラリアの作家。日本で紹介されるのはこれで2作目となる。自然環境の移り変わりを実際のもので表現することで、強いインパクトを与え、忘れられなくする。本書ではタスマニアの海に実際に潜り、海草やカイメン、砂などを用いて、作っているという。陸上の森と海の森の関係は、古くからいわれていたのに、近代の人間は大事にしてこなかった。それが海中破壊の原因でもある。画面にリアリティを求める作家の執念を思わせるような水面の輝きや半透明な海草がすごい。引き込まれてみてしまう。(ほそえ)
「なつのかいじゅう」いしいつとむ作 (2006.6 ポプラ社)
夏の虫取りのお話は多いけれど、夜、ライトをつけておくと集まってくる虫たちのお話はあまり記憶にない。窓ガラスにライトを照らし、窓に集まる虫ややもりなどマジックでガラスに写して描くということを、きっとこの作家はやったことがあるのだろう。兄弟のやりとりも、ラスト、闇夜にかげを大写しして叫ぶ様子も懐かしいような、雰囲気のある絵で描かれる。よるのぬるい空気やガラスにぺとりとくっついているやもり、音もなく舞う蛾が、その匂いや感触を思い起こさせる。(ほそえ)
「エイサー!ハーリー」きゅーはくの絵本3 山崎克巳絵 (2006,6 フレーベル館)
南蛮絵巻を絵解きしたり、皿に描かれた小鳥が花鳥文様を訪ねて飛んだり、博物館のもの絵本に取り込んで、その世界を広げていったきゅーはくの絵本第3巻は沖縄のお祭りに使われるハーリーを主人公にした絵本となった。実際のハーリーは写真で最後に現れ、ページごとに詳しく解説を加えるのだが、絵本は祭りの準備から、レース、お祈りまでをシンプルに描いている。海の青緑色と朱色のコントラストが鮮やかで勇壮な祭りの様子をよく表現しているのではないかしら。さっと読むだけでも雰囲気はつかめるし、より知りたくなれば解説を読んで、絵に描かれた細かなものの用途や意味を知ることができる。(ほそえ)
「うわさのがっこう~へんなしゅくだいのうわさ」 きたやまようこ作(2006.6 講談社)
虫たちのうわさ話をするの野原の喫茶店の様子と、そのうわさ話が交互に語られる、ちょっとおもしろい構成。虫たちがうわさするうわさの学校はへび先生と新入生が9人います。それも動物だかなんだかわからないけどかわいいものたち:いぬぼう、ねこぼう、ぼっくすくん、ふらわあちゃん、はなながくん、みみながくん、ぶうたん、らんらんちゃん、めだかっぷくんです。そこでのべんきょうはうずまきをみつけたり、丸まって転がったりすることです。へびせんせいとこどもたちのべんきょうの発見に満ちていること、楽しそうなこと。読んだ子も一緒になって、うずまきを見つけて、その意味を考えたりしたくなったらすごく素敵。この作家の本を読むと具体から考えることの強さをいつも感じる。(ほそえ)
*以上、ほそえ。
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*以下。鈴木宏枝です。
絵本読みのつれづれ(13)「絵本を介して」(鈴木宏枝)
(Tさん 4歳1ヶ月、Mくん 1歳5ヶ月)
Mくんは、まわりよりやや遅かったけれども、1歳3ヶ月で歩くようになり、いまや、ずいぶん高いところを上りたがったり、好奇心旺盛にいろんなものに手を出したりしている。保育所では、親の知らない世界ではぐくまれ、同年齢のお友だちと元気に過ごしている。Tさんは、無事に幼稚園に入園して楽しい1学期をおくった。様々なことに配慮の行き届いている幼稚園で、成長に沿うていただいているような気がする。Tさんは、6月には誕生日を迎え、幼稚園では、お誕生会があった。1,2,3本とろうそくをともしていき、私があらかじめ書いた「お母さんのお腹の中にいたとき」「生まれたとき お母さんが思ったこと」「0歳の頃は…」「1歳の頃は…」の思い出を、先生が読み上げる。4本目のろうそくがともって、ひとつ年を重ねたことを感じ、贈り物に蜜蝋のろうそくと、先生のお手製のひよこの編ぐるみ人形を頂いた。親からの贈り物はドールハウスで、これは、遊び場になっている二段ベッドの上に設置され、中には、赤いテーブルと椅子が並んでいる。
この赤いテーブルと椅子は、春前に、作家の末吉暁子さんのお宅で開催されたガレージセールで買わせていただいたものである。モダンなご趣味のお母さまがお買い集めになった様々な可愛らしいものが出されていて、そのときは、まだTさんにはドールハウスはなかったのだけど、いつか使おうと、陶器の蓄音機やミシンの小間道具と、このテーブルと椅子を買ったのだった。
このとき、Tさんは、素敵な洋館の窓辺の階段の下に座り、私が買い物をしている間、末吉さんご放出の絵本を読み、頂戴した『バニーといっしょにやってみよう』(ドロシー・クンハート/エディス・クンハート すえよしあきこ訳、講談社、1999/2003)を読んでいた。それは、親がいうのもなんだけど、まるで絵のような、柔らかい日差しがあたった特等席の、Tさんだけのすばらしい絵本空間だった。
毎月届くブッククラブももちろんそうなのだけど、4歳になるTさんには、親が買い与える絵本や図書館で借りてくる絵本以外に、いろんな絵本との出会い方のバリエーションが生まれてくる。『バニーといっしょにやってみよう』は仕掛け絵本の一種で、指を入れてバニーを指人形のように使いながら、厚手のページをめくれる。「おててをぱちぱち」や「さあわらいましょう」と遊べる絵本は、家に帰ると、むしろMくんの方が楽しみ、まずはひっぱったりかじったりしていた。
ついでながら、末吉さんに頂いてきた絵本の中でMくんは『オリコウサウルスくん』(ミック・インクペン、きたむらまさお訳、大日本絵画、1993/1994)もお気に入りである。手のひらサイズの小さな仕掛け絵本で、開くと、オリコウサウルスくんがはみがきしたり、どろんこあそびしたりしている。そのコンパクトさが、あまりに大掛かりな仕掛け絵本よりも、ちょうど目線と彼のサイズに合っているのかもしれない。
「読み聞かせ」じたいも、私以外の人から行われる場合もある。もちろん、図書館のお話会に行けば、1対大勢でそのような場はあるけれど、2月に、群馬県で学校司書をしている小柳聡美さんが遊びに来てくれたときは、私の読む淡々とした棒読み調の絵本読みではない、豊かで優しく語り掛ける読みを味わわせてもらった。
小柳さんと一緒に来てくれたお嬢さんのYちゃんは、Tさんと同じ学年で、年に1度くらいは会う機会がある。二人の子どもが両側から小柳さんをのぞきこむような形で『リサといもうと』(アン・グットマンぶん、ゲオルグ・ハレンスレーベンえ、石津 ちひろやく、ブロンズ新社、2001)を読み聞かせてもらっているのを、私は少し離れたところから見ていた。Tさんにとって、それは、「家で」「自分の絵本を」「自分の想像とはまったく違う読み方で」読んでもらう、ものすごい新鮮な体験だったに違いない(と思う)。
『リサといもうと』では、犬のリサが、これから生まれる赤ちゃんに嫉妬。家族で名前を考えているときに、ゴミバコとかゴキブリとかいう。だけど、実際に妹が誕生して、だんだん近づいていってみると、とってもかわいい赤ちゃんであることに気づく。いまや、妹のリラはリサのご自慢だ。だけど、ママにもやっぱり甘えたい計算が働く。
リサのセリフを読みながら、子どもたちに「ゴミバコだって」と話しかけたり、大げさではなく声色を変えたり、目に入るものについて話しかけてくるYちゃんに答えたりしながら、小柳さんは、そっとページを繰っていく。Tさんにとって、まったく違った『リサといもうと』体験だった(と思う)。本職の絵本読みを贅沢にプライベートで聞いたひとときだった。
それから、3月に三辺律子さんに遊びに来ていただいたときに頂戴した『ねずみくんのちいさなおうち』(ペトル・ホラチェック作・絵、さんべりつこ訳、フレーベル館、2006.01)も、良かった。大きなりんごを見つけたねずみちゃんが、自分の家を出て、自分とりんごが入れるだけの大きな穴を探して歩きまわる。うさぎさん、あなぐまさん、どこも断られたねずみちゃんが見つけたのは結局、一番居心地のいい場所。実際のページに、それぞれのお家の「穴」が開いていて、家の内と外とを同時に体験できるような仕掛けも楽しい。また、鮮やかな色彩と、切り絵と貼り絵の手法から生まれる質感もいい。ねずみちゃんも、その所作も、なんとも幼児らしいのだが、他の動物の表情は意外にリアルで、優しいうさぎの顔あり、あとずさってしまう迫力のくまありで楽しめる。
この絵本を、本当は、三辺さんが読んで下さろうとしたのだ。だけど、Tさんは、遊びに来てくれたお兄ちゃんお姉ちゃんが気になって心がお留守。少しだけ読んでくれたあと、それを察した律子さんは、「気になるよね、今はいいよ」と本を閉じ、Tさんは遊びに参加しに行った。私は恐縮だったけれど、たしかに、もちろん、子どもには、絵本を楽しみたい時間と、そうでない時間がある。律子さんも、それはよくご存知なのだ。逆に、子どもの時間と絵本がはまるときに、絵本読みは、突然に始まる。
その後、Tさんは、何度も『ねずみくんのちいさなおうち』を読み、よく堪能している。じっと絵を眺めいり、だんだんに黙読も始まるようになってきて、字を追いかけ、動物を見つめる。絵本はやっぱり全身で感じてほしいと、私は改めて思う。音読しながら、うさぎさんの表情がいいなあ、優しい目だなあ、ねずみちゃんは後ずさっているし、声はおっかないみたいだけど、大きなクマも、いい味を出しているなあ、とあちこちに目をやる。Tさんも、物語を聞き、絵を読んでいる。
昨年の夏は、白百合女子大学で、蔵書整理のため、関係者限定の蔵書放出があった。そのとき、Tさん(当時は3歳1ヶ月)は私と車で出かけて、私が本を物色している間、裸足で本の山の間をてけてけ歩き回って、時折ぺたんと座っては、好きな絵本をめくっていた。このとき私が頂いた本の中で、Tさんのお気に入りになったのは、『ジェインのもうふ』(アーサー・ミラー、偕成社、1973)と『わたしのぼうしをみなかった?』(原作・ジョン・ノドゼット、画・フリッツ・シーベル、ウエザヒル出版社、1966)だった。
『わたしのぼうしをみなかった?』は、頂いてきた頃何度か読み、最近、再びTさんに大ブームがきている。原作の題もなく、訳者は「ウエザヒル翻訳委員会」。しかし、監修委員には三島由紀夫、ハル・ライシャワーなどの名前がある。調査をしたわけではないけれど、なにやら時代の志を感じる、そして今でも素敵な絵本だ。
古い茶色の帽子がお気に入りだったおひゃくしょうさん。あるとき、その帽子が風に飛ばされてしまう。動物たちにたずねるが、リスが見たのは「そらをとんでいくふとったまるいちゃいろのとり」、ヤギが見たのは「へんなまるいちゃいろのうえきばち」。帽子は、見るものによってアイデンティティを変えながら、飛ばされていく。最後に、おひゃくしょうさんが見つけたのは、その帽子を巣にしている鳥だった。おひゃくしょうさんは納得して、「りっぱなまるいちゃいろのすがたいへんすばらしい」といい、自分は新しい茶色の帽子を買いにいく。そして、その帽子もお気に入りになる。
おひゃくしょうさんののんびりとした表情も、線画で表される動物たちの様子も、探しに探すこっけいな様子も、ちょっと古風な教科書風のフォントも、なんだか落ち着く絵本である。蔵書放出だから、セロテープの修復のあともあるし、万年筆で消えた字をなぞっているし、全体にいかにも古書なのだけど、ぴかぴかの絵本ではなく、この年代を経た絵本で、このお話に出会ったことが、Tさんにとっては良かったのかもしれない。手渡されてきた時間の重みを、この絵本の全体から感じるのである。
「だいがくいこうよ、ごほんのところ」いまだに時々Tさんはいう。大学は、Tさんにとってはどんな場に見えているのか、聞こえているのか。幼児の知的好奇心も閉ざすことのない、すてきな場所だとインプットされていれば、幸いである。
最近のTさんのお気に入りは、この『わたしのぼうしをみなかった?』と『もしもこぶたにホットケーキをあげると』(ローラ・ジョフィ・ニューメロフ文、フェリシア・ボンド絵、青山南訳、岩崎書店、1999/1999)、それから『ぶたぶたくんのおかいもの』(土方久功さく/え、福音館書店、1970.10/1985.02)で、3冊をまとめて持ってくることが多い。『ぶたぶたくんのおかいもの』は特に好きで、しばしば夜のお休み前の一冊になる。
長い話なのだが、しだいにそらんじ、何度もせがむ。ぶたぶたくんが、おかあさんに頼まれて、ぱんやとやおやにお買い物。用がすんだあと、偶然友だちのからすのかあこちゃんに会い、一緒におかしやへ。さらにこぐまくんに会い、一緒に帰る。四辻でさようならして、しばらくひとりで歩くと、無事家にたどり着く。ぶたぶたくん「ひとり」の時間と、お店の人とのやりとりの時間と、仲間が増えていく重なりの部分のバランスがとてもいい(ことに今気がついた)。
Tさんが一番楽しんだところは、まず、3匹が一緒に歩く場面の軽快なせりふ「くまくま どたじた どたあん ばたん」というユーモラスな言葉で、次に、やおやのはやくちおねえさんのセリフだった。「おかいものは なにと なにと なにと なに、きゃべつ きゅうり とまと ねぎ、 ばななに りんごに なつみかん、あまい しょっぱい すっぱい にがい…」と大変な早口で言う場面。最初読んだとき、Tさんはげらげら笑い、やがて覚えて、ここにくると「みててね、Tちゃんが読むの…なになになになに きゃべつ きゅうり なななに りんご なつみかん あまい しょっぱい すっぱい…」と本人にしては思いっきり早口で読む。覚えているものを口にするのではなく、テクストを見て、それを早く読もうとしていくのが、年齢にふさわしい進歩かもしれない。
この絵本には、最後に、ぶたぶたくんのたどった場所の地図がついていて、Tさんは最後にその見開きで「めいろやろうよ」という。ぶたぶたくんのうちから出発して、「ぱんやさん、やおやさん、ここでかあこちゃんがこっち、こぐまくんがこっち…ぐるっとまわってとうちゃく!」
私は、この絵本の絵はそれほど好みではないのだが、読みながらのセリフが、読んでいて本当に気持ちがいいことに気づいた。「いけにさかながおよいでたっけ はやしには ことりたちが ないてたっけ とんでたっけ…」~っけという言い方は、確認の言葉であり、本来、今現在進行している会話で使うものではない。だけど、「くもも ふわり ふわり うかんでたっけ……へりこぷたーが とんできたっけ」と「っけ」をくりかえすのんびりした話し言葉に、なぜだか、涙が出そうになるのである。そうすると、好みではない、ぱんやさんの妙にリアルな顔も、「かんしん かんしん」といってくれる本当にやさしいにこにこおじさんに見えてくるから不思議だ。
Mくんの方は、Tさんの同時期に比べてけっこう遅くになってから、絵本や本に興味を持つようになった。ふざけて新聞の上を歩いたりして、私に叱られるのだが、「本」という形は、好きなようである。少し前まで、大変気に入っていたのが『こどもとお母さんのあそびうたえほん』(小林衛己子編、大島妙子絵、のら書店、2000年)だった。たぶん「見て」か「読んで」か分からないけれど、自分の意思で私に持ってきた初めての本だったのではないだろうか。
わらべうたをいくつか歌うとうれしそうだが、必ずしも、読んでもらうことにこだわるわけではないので、途中でしまいになってしまう。「あんたがた どこさ ひごさ…」ぱたん「あら、もうおしまい?」くらいである。だけど、自分でめくって、それに合わせて私の声が聞こえて、最後にぱたりと閉じるという「全体」が、たぶん好きなのだろう。
ブルーナの中でもなぜかよく持ってくる『うさこちゃんのおじいちゃんとおばあちゃん』(ディック・ブルーナ ぶん・え/松岡享子やく、福音館書店、1988/1993)も、「おじいちゃんはだいくしごとが…」「うさこちゃんはすくーたー…」「うさこちゃんが はじめてあんだものが なにか わかります? おばあちゃんが さむいとき かたにかける しょーるです。」「さて、こんどは おやつのじかん。お…」というくらい、次々に好きなページを好きなだけめくり、ページの終わりまで読めたためしがない。そして、私が「おしまい」というと、再びうれしそうに開く。
Tさんに『ぶたぶたくんのおかいもの』を読んでいると、Mくんは、閉じたくてしかたない。それは、絵本がいやなのではなく、絵本が大好きだから、今、ぼくが絵本でやる中で一番やりたい部分をやりたい、わけだ。当然Tさんは力づくで阻止し、やがてMくんはあきらめてソファから降り、うろうろして、やがて勝ち誇ったように、これまた手近な絵本を持ってきて、かなり上手にめくったり、シールの部分を指でほじったりしている。たまに2人一緒になることもあって、ソファの上で3人ぎゅうぎゅうに絵本を囲むときは、まれなこととて、楽しい。
絵本への興味の発露はだいぶ違うが、姉弟は本当に仲良しで、愛し合っている。パートナーが、Mくんをお着替えさせている最中、Mくんが私に抱っこされたくて泣いたりすると、Tさんは、「Mくん、ママがいいっていってるっ」と自分も涙目で猛抗議する。Mくんが初めてたっちできたとき、「カメラ、カメラ」とあわてていたら、Mくんが「あーっ」と怒った。それを見て、Tさんは「ちゃんと見ててっていってるっ」というので、ごめんごめんと、しっかり見ていると、Mくんはうれしそうに立ったり座ったりをくりかえした。Tさんも、「Mくん、立ったねえ」とまわりでぴょんぴょん跳ねていた。(鈴木宏枝)
*****
*以下、ひこです。
【絵本】
『むしプロ』(山本孝 教育画劇 2006.06 1000円)
虫プロではありません。むしプロ、つまり、むしのプロレスです。
それは何かというと、まあ、あの、虫のプロレスです。
だって、そうなんですもの。
楽しいぞ。様々な虫がプロレスするから。どっちかって言うと、相撲のノリなのだが、まあそれはいいではないか。
楽しいぞ。
山本の画は、昭和の映画の看板のように、子ども雑誌の表紙のように、正しい安っぽさを巧みに装って、子ども読者のドキドキを高めてくれる。(hico)
『雪窓』(安房直子:作 山本孝:絵 偕成社 2006.02 1400円)
安房直子作品絵本化シリーズ作品。
正直言って、山本の画がこんなに安房世界と合うとは思っていなかった。編集者に脱帽。
「雪窓」という名のおでんや。娘を亡くしたおやじがやっている。そこにたぬきがやってくる。おでんの作り方を習いたいたぬきは、おやじの弟子に。美しい娘がお客でやってくる。たぬきは雪女だというが、おやじはそこに娘の面影を見る。
不思議と切なさと、おでんの温かさ。山本は奇をてらうことなく、しっかりと描いていく。画は決して文の前には出ようとはしない。でも、画は山本の『雪窓』を雄弁に語っている。
良いバランスの安房と山本のコラボです。(hico)
『野はらの音楽家 マヌエロ』(ドン・フリーマン:作 みはら いずみ:訳 あすなろ書房 2006.06 1400円)
夏の夕暮れ、音楽会の演奏に耳を傾けているカマキリのマヌエロ。自分も奏でたいと思いますが、コオロギでもキリギリスでもないマヌエロは、なかなか演奏ができません・・・。
音楽へのあこがれが、とてもストレートに伝わってきます。幸せな結末も無理なく、気持ちよく。
上質って言葉がぴったり。(hico)
『ナツメグとまほうのスプーン』(ディヴィッド・ルーカス:作 なかがわちひろ:訳 偕成社 2005/2006.06 1300円)
毎日毎日あじけない食事。朝昼晩・・・。うんざりしていたナツメグが、ある日海辺で拾ったビンをあけると、魔神が出てきて3つの願いを叶えてあげるという。
ここまでは、まあ、おきまり通りですが、なんとナツメグは、「ばんごはんに なにかちがったものを たべたい」と一つめのお願い。勢いで、「あさごはんに・・・」で、2つ目も使ってしまいます。だめだ、3つ目は慎重に! とはならず、あっさりと「ひるごはんに・・・」と言わせてしまうのが作者の腕。
魔神はまほうのスプーンをくれて、それは、とってもおいしいばんごはんを作ってくれます。
ここから物語は楽しく飛び立ちます。夜中の台所がうるさくて見に行くと、スプーン
が台所をかき回していて、止めることもできないうちに家ごと海に乗り出してしまい、たどり着いた島で、とってもおいしいあさごはん。
なら、ひるごはんは?
この物語は、「飛躍」をしていくのですが、前と次とが連関しておらず、でもとってもおいしいごはんの一点でつながっていきます。「飛躍」しながら「着地」はちゃんとルートに乗っているわけです。最初のビンから魔神が出てきて3つの願いを叶えてくれると言って、3つとも一気に言ってしまうという、昔話の常道からの「飛躍」とまほうのスプーンをもらって願いが叶うという「着地」も同じ手法です。
この「飛躍」と「着地」のプロセスにドキドキ・ワクワクと「安心」が生まれ、楽しい物語となっています。
できのいい絵本とはこのこと。(hico)
『アンジェロ』(デビッド・マコーレイ:作 千葉茂樹:訳 ほるぷ出版 2002/2006.05 1400円)
マコーレイの画に関しては、何も言うことはありません。おだやかなタッチと、アングルの素晴らしさ。平面の絵本にこれほど入り込ませる作家はそうそういないでしょう。
アンジェロは壁塗り職人。今は教会の修復中。体の弱ったハトを発見して連れて帰り、いつの間にか飼ってしまいます。月日は流れ、修復も終わりに近づいて来た頃、アンジェロの寿命も尽きかけてきます。彼の心配は残されたハト。そこでアンジェロが最後にしたのは?
心温まる物語です。と同時に、職人が職人として死んでいく様を、マコーレイはきっちりと描き込んでいます。単なる「ええ話」ではありません。
とても良いです。(hico)
『ねこのなまえ』(いとうひろし:作 徳間書店 2006.05 1300円)
いとうひろしワールドです。
散歩をしているさっちゃんに、のらねこが名前をつけて欲しいとやってくる。
「なまえがないって どういうことでしょう。」「だれでもない じぶんって、どんなかんじでしょう」。
そしてさっちゃんは、「あしのしたに、ふかくて くらいあなが ぽっかり あいたようなきもちに なりました。いまにも そのあなに ひきずりこまれそうです。いっしゅん あたたかなひかりが きえて、ぶるっと からだが ふるえました」。
名前とアイデンティティを巡る物語ですね。それをズバリと年少物でやってしまう作者の目線は鋭い。
ただし、勝手に名前をつけられた「さっちゃん」(「さち」)と、自分から名前をつけてもらおうとするのらねこでは、名前の位置づけが違います。だからのらねこがさっちゃんと友達になろうとすることと、さっちゃんのそれとは微妙にズレています。(hico)
『鯨を捕る』(市原基:写真・文 偕成社 2006.07 1800円)
1982-1984に、計2回6ヶ月にわたって捕鯨船に同乗取材した市原の写真絵本。商業捕鯨停止前の貴重な記録です。現地へ向かうまでの日々から、鯨の発見、捕獲、解体、保存、帰路までが事実として淡々と示されていきます。迫力というより、事実の強度を感じ取ることができます。
市原の言葉は、当時の物でしょうか? それとも今回書き下ろされたものでしょうか? それが気になるのは、写真と比べて言葉が弱いからです。
「不安いっぱいの船出であったが、見知らぬ世界への期待が、それをすこしだけ上まわっていた」
「(母船は)海に浮かぶ巨大な城だ」といった言葉は、写真の熱を冷ましてしまいます。
それでも、「今」この作品が出版されたのは収穫です。忘れかけていた(そして知らない若い人には、新鮮な)、この仕事(私たちは子どもの頃学校で捕鯨については学んでいました)を再確認させてくれたのですから。(hico)
『森の いのち』(小寺卓矢:文・写真 アリス館 2006.05 1400円)
森の夜明けの写真から始まって、生まれ来るもの、朽ち果てていくもの、命の力など、緊張感あふれるシーンが続いていきます。最後の青空で、ホっとため息。木の実を食べているリスのなんと「どう猛」に見えることか。それは「命」の必死さを見事に捉えています。
残念なのは「文」。「ととととと かんかんかん」などの擬音は必要でしょうか?「このきは いったい どれくらいの つきひを こうして すごしてきたのだろう」なども。つまり、せっかく写真が語っているのに、言葉がそこにせり出してきてしまうために、膜がかかったようになってしまいます。「文」には慣れていないということでしょうか?(hico)
『きみのうち、ぼくのうち』(ヤン・ホアン:文 ホアン・シャオイェン:絵 中由美子:訳 岩崎書店 2005/2006.05 1300円)
今時にしては、ずいぶん牧歌的だなと思ったら、半世紀以上前に書かれた児童詩に画をつけた絵本でした。
いい詩です。「葉っぱは 毛虫の ゆりかご。」「花は ちょうちょうの ねどこ。」「うたう鳥には みんな きもちのいい うちがある。」と、ごく普通に始まって、様々な生き物には家があると謡い、そこから「かわいそうな 風には うちがない」と、視線を変えていくのです。「うちがない」風の自由を、この詩で詩人は謡いません。それはいずれわかること、今子どもに伝えたいのは、「ぼくといもうとは しあわせだ。うまれたときから あんしんして くらせる うちが ある。」ですから。
ホアン・シャオイェンはこの詩にふさわしい画をつけています。タッチは素朴でありながら、あらゆる線はうねっています。まるで風のせいであるかのように。(hico)
『さかなをたべる』(ともながたろ:え なかのひろみ&まつざわせいじ:ぶん アリス館 2006.01 1400円)
毎回言っている、素晴らしい企画シリーズです。これ、「絵本・すいぞくかん」の「たんけん編1」で『さかなをたべる』なんですね。すごい。すいぞくかんのたんけんが、さかなをたべる、ですから。この辺りのノリも、いいセンスです。
内容はタイトル通り。様々な魚の解説と食べ方。きっちり仕事をしています。(hico)
『どこ? もっとみつけられる? とびらのむこうの さがしもの』(山形明美 講談社 2006.07 1400円)
はいはい、お持ち申しておりました!
『どこ?』シリーズ第三弾であります。その作り込みの素晴らしさは今更申すまでもありません。良い!
今回は「とびらのむこう」ですから、扉を開けた先へのドキドキ感も加わりますし。入ったら、内部空間のまさに、あっちここっちも「さがしもの」で興奮し盛り上がってしまいます。「アリス」的。
このシリーズは一人で見るのも楽しいが、みんなでみるともっと楽しいですよ。(hico)
『にんじゃおばけ どろろろん』(のぶみ:作・絵 岩崎書店 2006.06 1300円)
かんちゃんがにんじゃごっこをしていたら、おばけが出現。何でも食べておしりからおばけにして出す、どろろろんです。
かんちゃんはどろろんを仲間にして、ママを襲う化け猫を戦うのだ!!
子どもが描きそうなタッチの画を描くのぶみなのだ、という風に見えるが、描かれた人物たちの目線などを眺めていると実に巧いのだ。
これ、シリーズ化希望します。(hico)
『トゥートとパドル きみがそばにいてくれたら』(ホリー・ホビー:作 二宮由紀子:訳 BL出版 2005/2006.07 1500円)
友情ってやつをクサくなく、素直に描くのは結構難しく、このシリーズがいつもそれを易々とやってのけるのには感心してしまいます。
今作ではトゥートがボルネオに出かけるのですが、現地で「スミレ病(体がスミレ色になる)」に罹ってしまい、さてパドルはどうする?
もちろん「幸せな結末」です。(hico)
『「和」の行事えほん1春と夏の巻』(高野紀子:作 あすなろ書房 2006.06 1600円)
3月のカレンダーから始まって、雛祭り、お彼岸と、この国の行事が紹介・解説されていく。ただそれだけっちゃあそれだけの企画ですから、あとは見せ方。で、これが実にいい。文と絵でわかりやすくそして細かく丁寧に伝えてくれます。難しく深く突っ込んでいったりはしていません。でも、一般の知識よりはちょいと多くの情報が入っていて、それが好奇心をくすぐります。
この国の伝統を一杯知っておく必要もないと思いますが、ある国の文化のおもしろさを知りたくなるのは大事ですから(だって、好奇心=幸せでもありますから)、その辺りをくすぐる出来なのは、やはり良いのです。世界は広いな~、です。
後編も楽しみにしてます!(hico)
『まっくら まっくら』(いちかわけいこ:文 たかはしかずえ:絵 アリス館 2006.07 1200円)
「まっくらまっくら はこのなか はこのなかみは なにかしら?」から始まって、まっくらの先に驚きを用意します。別に驚くような物や事じゃないのですが、まっくらがあるから生じるドキドキや発見。
このまっくらの部分の描き方の難しさ以上に、まっくらが先にあって初めて驚きや発見に変わる部分の画、たかはしが好奇心一杯の猫の表情で表現しています。(hico)
『ふしぎで すてきな おたんじょうび』(林とも子:案 林春菜:文・絵 ポプラ社 2006.04 1200円)
ふたごのきょうだい、ミントくんとレモンちゃんが、おたんじょうびにもらったのは一本のかぎ。どこに使うのかな?
で、楽しい世界の扉が開きます。
喜びとは何か? ってことを描いています。
体裁が縦開きなので、こちらが慣れていないからか、非常に捲りにくいですが、縦開きである必要はもちろんあります。
でも、やっぱ開きにくいな。(hico)
『ヒッピ、南の島で大かつやく』(A・リンドグレーン:作 イングリド・ニイマン:絵 いしいとしこ:訳 徳間書店 2006.06 1500円)
「ヒッピ」の絵本シリーズ2作目。
「長くつ下のピッピ」の名付け親である、A・リンドグレーンの娘カーリンによる抜粋で物語が成り立っています。彼女は母親からピッピの物語を聞いて育ったのですから(そしてそれが作品として結実していった)、自分の聞きたい物語を作るのに、これほどふさわしい人はないでしょう。
画はオリジナルのニイマンのに、ヨーナス・イェルムが彩色しているというのも楽しい。
子どもがドキドキ、ニヤニヤする物語のお手本の一つです。(hico)
『うみがだいすきさ』(ほんままゆみ:さく みちいずみ:え ポプラ社 2006.06 1500円)
『うまれたてのいろ』の卵の中から、青い卵が孵りました。海が大好きなのに泳げないあおくんと、彼を励ます海の動物たちの物語です。
ってだけなのですが、あおくんがだんだん泳げるようになって、海で楽しむ姿は、やはり見ていてウキウキしてきます。青い海と空に、あおくんがとけ込まず弾んでいると言えばいのでしょうか。(hico)
『川をわたるペペ』(ヒサクニヒコ:さく・え 草炎社 2006.06 1200円)
「きょうりゅうペペのぼうけん」シリーズ4作目。
わにのいる川を、わたらなければならないペペたちの姿を描きます。犠牲になってしまう仲間たちもちゃんと示されています。それがいい。今後どう展開していくのか興味を持っています。(hico)
『ばけばけ町で どろんちゅう』(たごもりのりこ:作・絵 岩崎書店 2006.06 1300円)
ばけばけ町に、どろんちゅうが出現。おいしいチーズケーキに感動して、ケーキの材料と作り手たちを泥棒!
ばけばけ町シリーズは、いいリズムの物語。今回もいい味出してます。(hico)
『お野菜戦争』(デハラユキノリ 長崎出版 2006.07 1500円)
地球の野菜不足を解消するために、宇宙にあるお野菜ステーション。ニンジンのキャロラインは、両親が帰ってこないので心配。という風に始まりますが、なんだか妙にヘンな展開。友達とバーガー店に寄ったキャロライン、「パパとママのことを忘れるために、もう3コ注文しよう」。ね、ヘンでしょ。
肉ばっかり食べていると野菜ランクが「粗悪」となり、ウサギのえさにされてしまうらしいし、でも大学まで行ったナス美さんは、つけ物になってしまった・・・。
やがてミックスベジタブル社がステーションに送り込んできた巨人と戦いが始まり・・・。
デハラが作成したフィギアを使って子どもが勝手に物語を作っているような雰囲気。これって、才能です。(hico)
『雲をみようよ』(トミー・デ・パオラ:作 福本友美子:訳 光村教育図書 1975/2006.06 1400円)
『ポップコーンをつくろうよ』的、なんでも知ろうよの雲編です。わかりやすい解説が、分かりやすい画と共に雲への興味をかき立てます。
トミー・デ・パオラの画はやっぱりいいよな。(hico)
『うさぎのしるし』(ひだきょうこ:作 あかね書房 2006.07 1000円)
ひよちゃんはニンジンが大嫌い。だから家のニンジン畑のニンジンを食べてしまうウサギが大好き。ある日ウサギに送る招待状が間違ってひよちゃんに届いたみたい。ウサギのパーティに行ってみたいひよちゃんは、特徴を考えてウサギに成りすます。
と、楽しく物語は進んでいきます。一所懸命ひよちゃんが、ウサギらしい格好を考える姿は、本当にかわいらしい。
実はこの招待状は、ニンジン嫌いのひよちゃんをニンジンすきにするためのものだったのがわかります。ウサギのパーティでおいしいニンジン料理とお菓子を食べてニンジン嫌いが治ったひよちゃん。
最後の1ページ、オチは「ゆうごはんは にんじんスープでした。「いただきまーす。」 ひよちゃん あっというまに たべちゃいました。おかあさんが おどろいたこと!」となっていますが、これはどうでしょうか? ニンジン嫌いが、好きになる所まではまあ、ともかく、最後までそれではしつこい。食べないで終わって良かったのでは? まだニンジン嫌いだとおかあさんは思ってしまって、でも本当は、うさぎのパーティでさんざん食べたのですから というのはいかがかしら?
「はじめての読み聞かせにぴったり」(帯のキャッチ)なら、ニンジン好きになることより、絵本好きになってもらいたいので。(hico)
『くうちゃんが ないた』(みなみ くうくう:作 アリス館 2006.07 1200円)
赤ちゃんのくうちゃんが、泣いて、泣いて、泣いて、笑うまでの表情を描いた赤ちゃん絵本。
アクリル版にアクリル絵の具で描かれています。とても濃い画なので、文は、もう少し削ってもいいのでは?(hico)
『ちゅうちゅうこねずみ』(きくちきょうこ 主婦の友社 2006.07 700円)
ファーストブック赤ちゃん絵本。布地のコラージュによる絵は、布を切り取ったほつれも残っていて、それが「手作り感」を高めています。
言葉のリズムが命。ちょうど手拍子を打ちながら発することができるようなリズムで(もちろん手拍子を打ちながら読むのではありません。念のため)、跳ねています。
ただし、物語の展開に目配りがさほどあるわけでもなく、とにかく終わります。「物語」以前の赤ちゃん向けだから?(hico)
『あかいセミ』(福田岩緒:作 文研出版 2006.07 1200円)
するつもりもなかった万引きをしてしまった男の子の、それからの悩みと不安をきっちりと描いています。福田の画と物語がもっともフィットした絵本です。(hico)
『カッテイングルース』(マイクル・Z・リューイン:作 田口俊樹:訳 上下巻 1999/2006.05 各1500円)
時は19世紀末。男に姿を変えて、黎明期のメジャーリーグで活躍していたジャッキーは、親友を殺害した犯人、それも自分が子ども時代、女であったことを知っている男を追って、イギリスに飛ぶ。
というだけでもう、おもしろいだろうことが判る。ミステリーとしては弱いけれど、この設定と、メジャーリーグが生まれるまでの歴史や、ロンドンのショービジネスの世界など、読みどころは満載。
ジャッキーの祖母の時代と、章を交互に描いていますから、19世紀初めのアメリカもたっぷりと。
実力派ミステリー作家がYAに参入です。(hico)
『森の大あくま』(二宮由紀子:作 あべ弘士:絵 毎日新聞社 2006.02 1500円)
二宮という作家が、近代がその輪郭の価値を保証した「アイデンティティ」を、ある時は解体し、ある時は転倒させ、ある時は曖昧にさせるのはいつも指摘していることだ。おそらくそれは、近代の枠組みがゆるんできた現在を二宮のアンテナが鋭く捉えているからに違いない。長新太が近代と遊び倒したとするなら、二宮は近代のしっぽをいじくりながら、次の世界を思い描いているのだろう。
などど書かなくても、妙ちきりんにおもしろいから、別にいいのだが。
今作は、ドジなあくまのお話です。この人色んな物に変身できるけれど、どこか抜けている。マクロのお寿司を食べたいと、マグロのお寿司に変身したら、お醤油がない! で、お醤油に変身したら、マグロのお寿司がない! 仕方がないのでケーキに変身したら、「たべようとして、おどろきました。なんと、ケーキをたべるはずのじぶんじしんが、いないのです」よ。(hico)
『ぼくはアイドル』(風野潮:作 岩崎書店 2006.06 1200円)
テレビの司会をしている母親に頼まれて、女の子のふりをして番組にでた坂口美樹は、それ以来、美少女アイドルのミキちゃんとなってしまう。そんなことしたくないけど、母親の頼みでもあるし・・・。
エンタメ系ですが、そこに「自分らしく生きるって?」といったマジのテーマが無理なく織り込まれていて、読ませます。(hico)
『ヘブンショップ』(ダボラ・エリス:作 さくまゆみこ:訳 すずき出版 2004/2006.04 1600円)
ビンディは、ラジオドラマの声優もする女の子。棺屋ヘブンショップを営む父親、姉・兄と幸せに暮らしています。でも父親がエイズで亡くなって、何もかもが変わってしまいます。親戚に引き取られ、召使いのような生活。学校ももう行けません。そんな境遇から抜け出すお金を得るために姉は「男に優しくする」仕事まで始めます。
そうしてこっそり蓄えていたお金も親戚に見つかって取り上げられ、逃げ出すことに。姉はお金を貯めたら必ず迎えにくると、ビンディを祖母ゴゴの元に預ける。
ゴゴ「事実にふたをして秘密にしておくと、恥ずかしい気持ちが大きくなる」。
アフリカを舞台に、貧困とHIVへの偏見などを描いていきます。
ビンディの怒りや悲しみ、そして、勇気を持って前進していく姿が良いです。
子供読者が、HIVとエイズへの理解を深めてくれたら、うれしい。(hico)
『ひなぎくの冠をかぶって』(グレンダ・ミラー:作 伏見操:訳 板垣しゅん:絵 KUMON 2006.03 1200円)
グリフィンの妹は名付けられる前に亡くなってしまい、そのショックで母親は別の場所で療養中。グリフィンは不安と寂しさに包まれています。
グリフィンの教育は今まで家庭で行われていたのですが、学校に通うようになります。でも、巧くとけ込めないし、からかいの対象にもなってしまいます。グリフィンの孤独は増します。そんな彼に近づいて良き友達になってくれたのはライラ。初めてであったときにひなぎくの冠をかぶっていたので、グリフィンはライラ姫と呼びます。
亡くなった妹をグリフィンはティシュキンと名付けています。心の中でそっと呼んでみる。
誕生日会、グリフィンは別の日にしてもらいます。誰も気づかないのですが、それは亡くなった妹の誕生日でした。
グリフィンの心の揺れが巧みに描かれ、とても繊細で暖かい物語です。(hico)
『よくいうよ、シャルル』(ヴァンサン・キュヴェリエ:作 シャルル・ヂュテルトル:画 伏見操:訳 KUMON 2005.11 1000円)
クラスできらわれもののシャルル。彼がけがをしてしまったので、「ぼく」はノートを届けに行くことに。本当はいきたくないけど・・・。
でも、学校じゃないところでにシャルルはおもしろいやつだった。
「ぼく」とシャルルの、しょうがない「子ども」らしさったら、なかなか見物です。原作が、『バスの女運転手』のヴァンサン・キュヴェリエですから。
KUMONの伏見操訳、短い物語の海外児童文学シリーズはその体裁・装丁が「児童文学」をしていなくて、印象深い。物語も一癖ありで、よろしいのだ。
20冊くらいの固まりになるまで出し続けてください。(hico)
『うわさの がっこう』(きたやまようこ:作 講談社 2006.06 1100円)
虫たちの学校なのだが、どうもへんなうさわがあるみたい。
入学式では、「おめでとう」だけでなく。「おきのどくさま」って言われるみたい、とか、「うずまき」を探してくるなんてへんは宿題がでるらしい、とか。
という風にして、一見ナンセンス学校物のようですが、いやいや、「学校」そのものをコーティングせずに描いたら、こうなった、ということです。「ある、ある」です。その意味では結構ストレートな物語。
続編あるかな? 読みたいな。(hico)
『シルバー・チャイルド』(クリフ・マクニッシュ:作 金原瑞人・中村浩美:訳 理論社 2004/2006.06 全3巻 各1500円+税)
レイチェルシリーズの作者の待望の新訳。
地球の生き物を食い尽くそうとやってくるロアに立ち向かう子どもたちの物語。と書けば、きわめてシンプルな冒険ファンタジーなのだけれど、マクニッシュのすごさは、その想像力のとてつもなさでしょう。
今回もそれは健在で、ってかますます磨きがかかってます。地球の一番目の守護者となるミロがシルバー・チャイルドへと変貌していく様だとか、手がドリルとなっいく子どもたちとか、なんでもありです。でも、この作者の基本はレイチェルの時とさほど変わってはいません。地球を、そこにいる生き物を救うのは、子どもたちなのです。大人は残酷なほど介入させてもらえません。だからといって子どものピュア性なんぞを描いているわけではありません。そこが新しい。
ライトノヴェルズにもホラーやスプラッタ的YAはありますが、その多くは血を描いてナンボなのに対して、マクニッシュ作品は、想像力の怖さで伝えていきます。(hico)
『恐怖の館へようこそ』(R・L・スタイン:作 津森優子:訳 照世:絵 岩崎書店 1992/2006.07 800円)
「グースバンプス」シリーズ第一弾。『デルトラ・クエスト』と同じコンセプトのホラーシリーズです。『デル・クエ』がど派手でチープな装丁で勝利したのに比べると、今回はおとなしめです。もっともこれは表紙がテカっているからで、デザインそのものはパルプフィクションのノリですから、間違ってはいない。
ページ数少なめ、ひねりは一つだけというのも読み捨てにはもってこい。で、物語はというと、結構しっかりしているのです。
アマンダとジョシュ姉弟の一家は、見知らぬ叔父が遺してくれた屋敷へと引っ越す。アマンダは子どもの姿を見たりしておびえるが、両親は気にもとめない。愛犬のピーティだけが何かにほえている。実はこの家に案内してくれた男にも、ピーティは異様な反応を示したのだが、ことの重大さを誰もまだ知らない・・・。
ただいま、一巻目と二巻目には、眼窩が光るドクロがおまけで付いています。(hico)
『わたしは生きていける』(メグ・ローゾフ 小原亜美:訳 理論社 2004/2005.04 ¥1280)
父親の再婚等で、摂食障害になったデイジーは、亡くなった母方のおばさんの家に療養をかねてやってくる。ニューヨークからイギリスへと。4人のいとこたちとデイジー五人だけの不思議な生活が始まる。その中でも人の心を読む能力を持つエドモントにデイジーは惹かれる。エドモンドもまた。そんな日々、テロ事件をきっかけとして戦争が起こる。家が軍に撤収され、デイジーとエドモンドは離ればなれに。果たして二人は再会できるのか? デイジーはどう生き延びるのか?
2005年のロンドン多発テロ以前に書かれている作品です。
テロや恋愛は物語の根幹ではなく、やはり、デイジーを幼いいとこのハイパーのサバイバル、「生きていく」ことの困難さと、そこから「生きていける」に至るデイジーの「成長」が読み所。近未来小説なのですが、リアルなのは、そうしたことが描かれているからです。(hico)
『トトの勇気』(アンナ・ゲヴェルダ:作 藤本泉:訳 すずき出版 2002/2006.02 1300円)
注意欠陥障害(ADD)の少年が主人公。両親の理解もなかなか得られず、学校も次々変わっていきます。そんな彼の支えはおじいちゃん。おじいちゃんは言います。「ふたりはおまえにひどいことをしているなんて思ってもいないだろう。あれほどまでおまえに注ぎ込んで、そのせいでおまえが傷ついているなんて思ってもいない」。これは、両親にADDの知識も理解もないからとも言えますが、おじいちゃんだってないわけだから、子どもへのスタンスの差なのかもしれません。でも、おそらく知識と理解があれば、両親だって子どもへの接し方は変わっていたはず。読者もまた、この物語からADDへの理解が広がれば幸いです。
でも、ラストはちょっと甘いです。(hico)
『ラクリッツ探偵団』(ユリアン・プレス:作・絵 荒川みひ:訳 講談社 2000/2006.03 1200円)
装丁や、持ち心地も含めて、シンプルでおしゃれで楽しい作りの本です。見開きごとに左に本文、右に画。本文の最後に読者への問いかけがあって、画の中から答えを見つけると次のページの物語につながっていく。ただそれだけの繰り返しなのですが、そのシンプルさ故か、これが飽きない。感動!だとか、超意外性だとかはありませんが、気持ちよく時間をつぶせる仕上がりです。これって案外難しいことなのです。
今「持ち心地」って書きましたけど、それは、感触やカバーせずに持っていても決まる心地よさのことです。極端に言うと、読まなくても持っているだけで楽しい。もちろん、外見がそういう仕上がりの本は中身も外さないわけですけれどね。
この「持ち心地」は、子どもにとっても大切だと思います。(hico)
『エドガー&エレン 世にも奇妙な小津物たち』(チャールズ・オクデン:作 リック・カートン:絵 金原瑞人・松山美保:訳 理論社 2003/2006.03 1200円)
「悪い子ども」の物語は結構ありますが、この双子のコンビは、いじわるで悪いことにしか興味がなくて、もう最低なやつらなんですが、お互いに対してもそうなので、コンビパワー炸裂! とはなかなかいかないで、かなりドジなのです。だから、少しも憎めない。などといったら、この双子は悔しがるでしょうけれど。
今作では、町の子どもたちのペットを捕まえてきて(子どもたちが悲しんでいる、なんてもちろん気にも掛けません)、色を塗ったり何かを貼り付けたりして、インチキ動物を作って売ろうと企んどります。
大人を懲らしめる悪ガキってスタンスではありません。清々しく悪いことが好きなのです。
続編も出ています。(hico)
『ジュディ・モードはごきげんななめ』(メーガン・マクドナルド:作 ピーター・レイノルズ:絵 宮坂宏美:訳 小峰書店 200/2004.10 1300円)
まずなんといっても、リアルな子どもたち。「いるいる」って感じ。展開も非常にスタンダードで無理がない。で、本当に無理なく展開できると、3年生くらいの子どもの日常は、ファンタスティックなのだ! ということがよくわかる。
ジュディのご趣味は、なんだか「ゲテモノ」が多いみたいだけと、そう思うのはきっと「大人」だからで、彼女にとってそれらは「興味深い」だけなのだ。
今「いるいる」って書いたけど、子ども読者はこう思うはず。「わかる、わかる」って。(hico)
『ブーフーウー』(飯沢匡:作 土方重巳:え 理論社 1977/2006.01 1200円)
理論社の幼年復刻シリーズの一冊。ってか、『ブーフーウー』本が出ていたのを知らなかった私。TVでは妙にメキシカンなオオカミくんが出てきていたのを覚えていますが、昔話の「三匹の子ぶた」を飯沢がメキシコに舞台を移したからなのだとは知らなんだ。(hico)
「クジラは真実しか語らない。(略)正確な答えをすぐに知りたければ、クジラになるしかない」とは、主人公T・Jの義父が述べる言葉です。これがタイトルの出所です。もちろん私たちはクジラにはなれませんから、人はどう生きるべきかの正確な答えを簡単に知ることはできないのです。 と書き始めると、なんだかお堅い物語みたいですが、そんなことはありません。 T・Jが通うカッター高校では、スポーツで優秀な成績をおさめた者にスタジャンが与えられます。ある日T・Jは、特殊学級生のクリスが、アメフトの中心選手であるマイクにいじめられているところに遭遇します。クリスが今は亡き兄のスタジャンを着ていたので、おまえには着る資格はないと難癖をつけていたのです。怒るT・J。それならばクリス自身にスタジャンを勝ち取らせようと彼は決心します。ちょうど、シメット先生から、顧問になるので水泳クラブをやれといわれていたところ。さっそくT・Jはメンバーを募集します。集まったのはおよそ水泳とは縁がなさそうな連中ばかり。小難しく、運動より勉強に向いているダン。美声のボディビルダーのテイ、巨漢のサイモン、ほとんど話をせず影の薄いジャキー、義足のアンディ。そしてアフリカ系で日系で北欧系アメリカ人であるT・Jとクリスを含めた、てんでバラバラな個性を持つ七人のメンバーが、いろいろな大会で戦い、いかにしてスタジャンを手に入れられるだけの成績を得ていくのか? つまり、設定は『七人の侍』なのです。 そんなわかりやすい物語の中に、人間が抱えている様々な問題が描き込まれていきます。T・J自身は、本当の母親から遺棄された子どもですし、三十年前に恋人の娘を自らが運転するトラックに巻き込んで死なせてしまった義父はその記憶から解き放たれることはありません。T・Jの家にかくまうことになった、自分が黒人であることを嫌悪するように育てられた女の子ハイディはタワシで肌から色を落とそうと血だらけになります。彼女の母親は暴力をふるう恋人リッチと何度もよりを戻してしまいます。友人のクリスティンも、BFのマイクが支配欲の固まりだとわかっていてもなかなか別れることができません。リッチやマイクもおそらくマッチョに育てられてしまい、そうしたやり方しか知らないのです。 どれも簡単には片づくはずもありませんし、また片づけられるとも思えません。クジラではない私たちは人生における正確な答えを簡単に得ることはできないのです。 でも、七人の侍は見事にスタジャンを手にいれます。めっちゃかっこいいです。これは答えの出る問題です。それを描くことで、答えが簡単にでない問題を浮かび上がらせているのです。最後にT・Jは言います。いつか「人間同士がもっとわかりあうことができたら、お互いうまくやっていける」と。(徳間書店子どもの本通信 2006.07-08)(hico)
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*以下、西村醇子です。
【創作】『アーサー王宮廷物語1:キャメロットの鷹』映画『キング・アーサー』(二〇〇四)をテレビで視聴した。アーサー王伝説をもとに、アーサーと騎士たちがローマ帝国支配を補強する立場に置かれている様子を描いた話だ。印象に残ったのが過酷な物語展開に見合った画面の暗さだった。自然光と、たいまつやろうそくなどがおもな光源であった時代を思えば、それほど意外なことではないのだが。 ひかわ玲子の描くアーサー王世界はそれと比べ、なんと明るく輝いていることか! 城も調度品も衣装も武器も、ぴかぴかしている。豪華で美しい正装の衣装を着た、ため息がでるほど美しい王妃ギネヴィア、王冠を戴き黄金に輝く煌びやかな衣装のアーサー王、そして人目をひく美形ぞろいの若い騎士……。こうした描写を読めば、<剣と魔法>の物語はともかく、古典とはあまり縁がなかった(と思われる)読者でも、物語世界に違和感を抱かないですむだろう。 ひかわはまた、王妃に仕える女官メイウェルを視点人物に選んでいる。アヴァロン育ちのメイウェルは魔力こそあるが、好奇心が強く、素直で心優しい少女だ。冒頭は、メイウェルがミソサザイに変身し、塔に幽閉されているシャロットのエレイン姫を訪れる場面。姫には友情を、サー・ユウェインにはほのかな慕情を寄せるメイウェルは、宮廷のガイド役としてうってつけである。 三部作の一巻目の本書は、アーサー王の宮廷に、オークニー、ガルロット、ゴールの三王国から王と王妃、王子たちが顔をそろえる宴、騎士たちの槍試合、森の中での狩りといった行事を扱っている。その裏で、アーサー王を憎むモーゲン王妃が、暗殺の陰謀を企てていた。メイウェルはミソサザイの姿で計画を立ち聞きしたが、声を一時的に奪われ、肝心の情報をうまく伝えられない。幸いアヴァロンから来た湖の貴婦人が乗り出し、企みは阻止される。もっともモーゲンは大事なエクスカリバーの鞘を奪っていく。また母モーゲンの命乞いをしたサー・ユウェインは宮廷から追放され、それに従兄弟サー・ガウェインが同行する。 こうやって述べると、アーサー王物語の大筋を踏襲しつつ、メイウェルたち脇役と各種の魔法をうまく使うことで、<ひかわ版>の物語になっているのがわかる。そしてメイウェルの役割は、予想以上に重要である。ひとつには、彼女もふたごの兄フリンも、マーリンによって送りこまれた密偵だからである。宮廷の仲間、騎士と交わす会話とマーリンへの報告は、複雑な人間関係や過去の経緯をわかりやすく解説する働きをする。もうひとつはメイウェルを通して行われる、女性の視点から見たアーサー王世界へのコメントである。モーゲンが母親から憎悪と殺意を継承したことの是非はさておき、強い王権維持のために、姉妹を戦利品として扱うことへの疑問、予言能力をもつがゆえに若い娘を幽閉することへの異議申し立てなど。 アーサー王物語は魅力的な素材で、多くの作家が挑戦している。ケビン・クロスリー=ホランドによる、少年の冒険物語としての再生も記憶に新しい。ひかわは女性たちの運命にこだわることで今、自分が書く意義を見出したのであろう。絶頂期にあるアーサー王の宮廷。『キャメロットの鷹』はその華やかさの裏でどろどろした女の戦いがあったことを明かす。続く第二巻『聖杯の王』第三巻『最後の戦い』と、王国の悲劇が展開されるようだ。日本の女性作家によるアーサー王物語、どのような華麗なエンディングが待ち受けているのか、楽しみである。西村醇子(にしむら じゅんこ)週刊読書人2006年4月14日付け掲載