児童文学評論】 No.108 2006.12.25


〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>
【絵本】
児童文学書評2006.12
○詩のある絵本
「ひとり」「おひさま」のうさぎのおはなしえほん 片山令子文 片山健絵 (2006.11 ビリケン出版)
 絵本ってものには<詩>がないとだめなんだよ。言葉とか絵のなかに。言葉のなかの詩は、いつもの使い慣れた言葉が、こんなふうにこの場面で使われるなんて、という驚きをもってくる。いつもの見慣れた物事が、こんな言葉で表現されるなんて、なんて素敵なんだろう、という喜びをもってくる。いつも見ているはずの光景なのに、この絵で描かれるといつもよりもっと美しく愛おしく見えるというのも、詩の現れだ。そういう<詩>というものを絵本を読むという行為で子どもと共有できるのが、本当にうれしい。子どもと<詩>は親しいものだから、子どもの発する言葉にときどきハッとさせられることがある。それは自分の持てる限りの感覚を総動員して、今自分の中に起こっているものを伝えたいという思いが言葉にのってこぼれた時、<詩>と近づくような気がする。<詩>は伝える思いをビビットに活性させるんだな。「ひとり」「おひさま」にも、子どものように物事にまっすぐ対するのうさぎさんがいる。自分のまっすぐさ加減を子どもは知らないが、この絵本を読むことで、そうなんだ、だから、おひさますきなんだあ、と思うかもしれないし、みえないけれど、ぼくのなかにはいろんなものがいるんだ、とハッとするかもしれない。同じように、一緒に読む大人もまた、のうさぎさんと目の前の子どものまっすぐな思考の凛々しさが重なって、しゃんとさせられるのだ。
 年に2冊づつ刊行されて完結したこの「のうさぎのおはなしえほん」シリーズは、最初、アーノルド・ローベルの絵本のようなものを、という依頼で、雑誌に連載された。単行本になる時に、一話一冊の小さな絵本の形になった。かなり印象が違って見えたのだが、この形を得ることで、言葉の中の<詩>はよりしっかりと読者にうけとれるようになったのではないかしら。絵という目をもち、短いセンテンスの重なりの中で、はっとする言葉のつらなりを聞く。それがこの形だとしっかり心に届くような気がするのだ。この言葉は、いつも日常で使われる言葉ばかり。でも、この絵本の中で出会うと、すっくとたって、とてもきれいにみえる。こういう絵本こそ、幼い子どもに語ってやりたいものなのだとつくづく思う。(ほそえ)

○その他の絵本
「名なしのこねこ」とりごえまり作(2006.10 アリス館)
片目が潰れたように小さい子猫の顔が印象的な絵本。著者が実際に出会った子猫にとまどいながらも関わっていく様子が絵本になっている。子猫を保護しても、病気の場合や既に家にいる猫たちとの相性が悪い場合は飼えなくなると、名なしのままで子猫と過ごす著者。それは生き物を飼うことの責任の重さを充分に知っているからに他ならない。その厳しさがこの絵本を描かせたのだろうし、あとがきの思いにも表れている。ペットと暮すことを夢見る子どもたちにこの思いがきちんと伝わることが、このような子猫を増やさないことにつながるのだと思う。(ほそえ)

「なーらんだ」三浦太郎 (2006.10 こぐま社)
「くっついた」についで出された絵本。今回は小さな子どもが好きな遊び、何でも並べて遊ぶ動作から発想された絵本と言える。巻末のあとがきを見ると、ちょうど2歳のお子さんの動作に「なーらんだ」と声をかけたところから、この絵本の創作が始まったようだ。ならべる、つみあげるなどの動作をともなう遊びを絵本にする一つの典型がこの絵本のような構成だし、それはシンプルな言葉と絵によってとても美しく絵本の形になっている。ただ、これを喜ぶのはやはり、このような動作をおもしろいとくり返すようになった年齢以上のこどもだろう。もっと小さな赤ちゃんには、この絵本をもとに、読む時に遊びの音を読み手が加えて、聴覚としてのおもしろさをプラスしないと、視覚的な表現だけではちっともわからないだろうと思われる。まあ、どんな絵本も読み手が赤ちゃんの反応を見ながら、音や動作を付加して刺激を与えたり、伝える要素を絞ったりすることで、赤ちゃんと楽しめる絵本(広義の赤ちゃん絵本)となるのだから、べつにかまわないのだけれど。(ほそえ)

「日常の短歌 そこにいますか」穂村弘編 西村敏雄絵 (2006.11 岩崎書店)
「オノマトペの短歌 サキサキ」穂村弘編 高畠那生 (2006.12 岩崎書店)
ひらいてびっくり短歌絵本のシリーズ。短歌の絵本というのははじめてかな。これは片開きの3ページ分をイラストに使って、一つの短歌を表現し、折ってある面には小さく作者の紹介がのっている。短歌の鑑賞文はおりこまれたページに小さく載っていて、読みたかったら読んでね、みたいな感じ。これはこの構成を考え付いたところで「やった!できたぞ!」という企画だなとおもうくらい、斬新。一首の広がりをいかにビジュアル化するかに、本の成立がかかってしまう際どさもあるけれど、それはイラストレーターの起用の仕方、短歌の選び方でカバーするということなのでしょう。聞いたことのある古典的な作家のものもあれば、こんなのも短歌ですか気分の若手のものもあり、たぶんに選者の好みが反映された、キャッチーな造りの絵本。(ほそえ)

「おおきなかしの木」エリザベス・ローズ文 ジェラルド・ローズ絵 ふしみ みさを訳 (1970/2006.10 岩波書店)
おおきなかしの木の一生を、人間とのかかわりのなかで描いた絵本。最初はリスが口からおとしたドングリが、徐々に大きくなり何百年か経って、人間の暮しのなかに取り込まれていく様子を描き、その後は、人のくらしの変遷とともに、おおきなかしの木への変わらぬ思いが丁寧に描かれる。ラストは雷の大火事で焼け落ちてしまうのだけれど、また、ドングリをくわえたリスの登場でラストとなり、最初のシーンへと続く大いなる循環を内包する。木の生活は絵本のテーマとして幾度もいろんな作家で描かれている。生き物たちのよりしろとしての木を生物学的なアプローチで描く絵本が多いなか、本書は人の暮しと共に描かれているのがちがう。(ほそえ)

「アストンの石」ロッタ・ゲッフェンブラード作 菱木晃子訳 (2005/2006.11 小峰書店)
スウェーデンの作家のデビュー作。スクラッチで描かれたような独特なイラストレーションにまず心ひかれるが、作家がアニメーションの制作に関わっていたと知り、なるほどと思う。この人はきっとノルシュティンが好きなんだろうなとわかるから。お話はアストンが寒い秋の晩に、水たまりのなかに石を見つけ、かわいそうになって家に連れて帰ったところから始まります。それ以降、いたるところでアストンはかわいそうな石を見つけては家に連れて帰り、あたたかなふとんとベッド(箱)を用意するのです。家のなかは石でいっぱい! これは小さな子どものいるおうちなら一度は経験する光景。石、木の実、葉っぱ、枝……いろんなものが家のなかに持ち込まれ、場所を与えられ、大事にされる時期というものがあるのです。この幼い子を夢中にさせる行動をこういう形で絵本にしたということが、まずおもしろい。オチもきれいにきまっています。ただ、絵本の構成という点では、すこし整理したほうがわかりやすくなるのかなと思うページもあり、アニメーションの画面の切り替えと絵本のページの展開ではすこうしテンポが違うんだなあと再認識させられました。(ほそえ)

「島のみみずくトゥトゥウ」何 華仁文・絵 中 由美子訳(2004/2006.11 童心社)
版画家であり、ナチュラリストである作家の特色がよくあらわれた絵本と言えるだろう。ランユイとい台湾の南東に位置する火山島に生息するランユイコノハズクの子がこの島特有の生き物たちに出会って、飛び立つことを覚え、自分の住処を見つけるという構成。物語というよりも、トゥトゥウが案内役となってこの島の暮しや生き物たちを読者に出会わせてくるというスタイルと言えよう。巻末の説明があることで、本文の言葉少なな画面をしっかりと堪能できるし、より深く知りたい人にはよき手引きとなるだろう。版画の単純で力強い画面は夜の世界の生き生きとした姿を伝えてくれる。まあるい目でじっと出会う生き物たちを見ているトゥトゥウが愛らしく、同じような目でこの絵本を見つめる子どもの目と重なる。(ほそえ)

「ぬすまれた月」和田誠(1963/2006.10 岩崎書店)
1998年にプラネタリウムの番組の企画で、1963年に描かれたこの絵本の物語が取り上げられ、新たに絵を描いて上映されたものをもとに、絵本化されたという。「ぬすまれた月」を子どもたちが空に返すまでを追った物語に、月のめぐりや見え方や潮の満ち干き、月の成り立ちなどの科学的な知識を織り込んであるところがおもしろいところ。なるほど、プラネタリウムの企画らしい。黒いバックで描かれるイラストのコマの構成はすっきりとリズミカルで、はさみこまれた知識編も、気分転換になってちょうどよい感じ。(ほそえ)

「ベンジーのいぬごや」マーガレット・ブロイ・グレアム作 わたなべてつた訳 (1973/2006.11 アリス館)
アリス館でのベンジーシリーズ3作目。毎晩、子供部屋にいって、子どもたちのベッドの上で丸くなって眠っていました。でも、ある日、父さんが、ベンジーは大きくなったんだから、外で自分ひとりで寝るようにしなくちゃね、と犬小屋を作ってくれたのです。ベンジーは、夜、どこかあたたかな良い居場所はないものかと町を歩いて探しました……。夜、誰と寝るかは、小さな子の一大関心。あたたかなおふとんとは誰かのお隣のおふとんのことなのですから。ベンジーの行動や心情にぴったりと寄り添い、お話に入り込んで、ああ、よかったと顔をあげる。何気なく展開するお話のように見えますが、丁寧につみあげられたエピソードや言葉は出せないけれど、表情豊かなベンジーの様子が、子どもの心を捕らえるのでしょう。(ほそえ)

「オオカミだー!」ステファニー・ブレイク作 ふしみみさを訳(2005/2006.12 PHP研究所)
「うんちっち!」で多くの読者を獲得した作家の最新作。前は何を聞かれても「うんちっち」としか答えなかったうさぎの子のお話だったが、本作もいつも「オオカミだー!」とみなを驚かせて、好き勝手なことをしているうさぎの子が出てくる。いわゆるオオカミ少年のお話のパロディになっているのだが、オチが2段構えになっているのが、ブレイクらしい。はっきりした色使いでコミカルなイラストと、繰り返しの妙、こどものすきな<おしっこ>場面など、今回も大勢の前で読み聞かせると受けそうなテイストだ。オチのパワーとしては「うんちっち」のほうに分があるかな。(ほそえ)

「てんぐちゃんのおまつり」もりやまみやこ作 かわかみたかこ絵 (2006.11 理論社)
幼年童話として2冊刊行されているてんぐちゃんのお話が、今回は絵本に。てんぐちゃんおんどという歌や踊りまでついて大にぎわいです。村のお祭りが見たくて、こっそりやってきたてんぐちゃん。仲良しのおにのこたちに出会って、一緒に夜店をのぞいたり、踊りを踊ったりするはめに。ばれやしないかとドキドキしたり、いじわるな男の子をつい懲らしめてしまったり、祭りが見れないかっぱちゃんを背中に乗せて、空を飛んだり、と様々な体験をした一晩でした。この絵本を初めて手にとった子は、ぜひ童話の方も読んでみてほしいなあ。(ほそえ)

「えほんをよんで、ローリーポーリー」リリ・シャルトラン作 ロジェ絵 徳永玲子訳 (2005/2006.11ポプラ社)
人間をおどかすのが大好きな怪物たちがすんでいる森。ローリーポーリーがいつものように女の子をおどかすと、四角い緑のものを放り投げていきました。なんだろう?ドラゴンばあさんに、絵本というものだと教わり、中身を知りたい一心で文字を覚え、とうとう読めるようになったのです。それから、ずっと本を読みどおし。人間を襲うなんてことはしません。ローリーポーリーにお話を読んでもらううちに他の怪物たちも、すっかりお話好きに……。ポップな色使いでオシャレなイラストがフランスらしい絵本です。お話好き=穏やかなやさしい怪物というのが、ちょっとありきたりな気もしますが、展開としてはおもしろいのではないかしら。(ほそえ)

「のんびりオウムガイとせっかちアンモナイト」三輪一雄作絵 (2006.11 偕成社)
生きている化石と呼ばれているオウムガイと、絶滅してしまい、クルクルまいた大きな化石で有名なアンモナイトが同じ殻を持つイカ・タコの仲間であり、オウムガイのほうがより原始的な種であることなど、発生の時期から説明している絵本。進化することを選んだアンモナイト、進化しないで生き続けられる場所をみつけたオウムガイ。その差はどう現れたのか、読むことで地球の歴史にも目が届き、進化の不思議から現代の人間へと思いは広がるでしょう。(ほそえ)

「とらとほしがき~韓国のむかしばなし」パク・ジェヒョン再話、絵 おおたけきよみ訳(2002/2006.11 光村教育図書)
韓国の子どもたちに親しまれている民話の絵本化。民画調のこってりした絵がお話の雰囲気をよくあらわしています。お話の骨子は日本民話のふるやのもりに似ています。同じような展開の民話にインドのたまごから馬というのもありますね。陰で人間の話を聞いていたとらが、干し柿と聞いて泣き止んだ赤ん坊の様子から、自分より強くておそろしいものと干し柿を想像し、逃げ帰るときに鉢合わせした泥棒に背中にのられ、互いに怖がるという展開。おそろしいのにちょっと間抜けで愛嬌のあるとらの様子、互いにアイゴーと叫ぶ様子が声を出して読むとよりおもしろい。(ほそえ)

「ゆきのしたのなまえ」クロード・マルタンゲ文 フィリップ・デュマ絵 ときありえ訳(2003/2006.11講談社)
フランスを代表する絵本作家が孫とおじいちゃんの会話で描く、人のつながりの不思議。イラストは過去のお話の場所と今、ここで会話されるふたりの散歩の歩みを自在に行き来して、映画のようなカットバックやロングショットでたゆたうようなリズムを作る。ふと目にしただけの物乞いの男の人に手紙を出してしまうおじいちゃん。住所も名前もない手紙を届けるために、みんなで町中を探した小学生たち。そして、中に入っていた返信用の封筒で手紙を書いておくった男。おじいちゃんは、なぜ男の人が犬を連れていたのか、手紙でしったし、その人の名前も知った。でも、孫に聞かれても、そのおとこの人の名前は教えないのだ。ふたりのひみつとして。名前を知ることで、この人との出会いは生活の中のひとこまになってしまうのかしら。名前を雪の下に隠すことで、ふたりの出会いは、出会った時のひりりとしたまなざしの強さを保つのかもしれない。(ほそえ)

『とらとほしがき』(パク・ジェヒョン:再話・絵 おおたけきよみ:訳 光村教育図書 2002/2006.11 1600円)
 自分がこの世で一番強い・怖いと思っている虎。ある夜、人間の子どもが泣きやまないのを母親が、オオカミがくるとか言ってなだめすかしているだけれど、虎がくるといっても泣きやまないのにショックの虎。で、ほしがきでどうも泣きやんだ(実はおやつにもらっただけだが、虎は知らない)らしい。ほしがきって、そんなに怖いのか?
 日本の昔話では「ふるやのもり」ですね。文化の伝播を考えるのにもおもしろいでしょう。
 といったヨーモラスな展開なのですが、画がとってもいいです。日本で言えば民芸風となるでしょうか、力強い! その力強さと、物語の可笑しさのミスマッチがより笑いを誘います。
 いちいち観光発絵本って言わなくてもいいでしょう。関係なくできがいいですから。でも、やっぱり韓国発なのと言っておきたいです。(hico)

『草原の少女プージェ』(関野吉晴:作 小峰書店 2006.12 1300円)
 探検家の関野が、モンゴルで出会った遊牧民の子どもプージェとの交流を記した写真絵本。遊牧民が旅人をもてなす時の暖かさがよく伝わってきます。悲しい結末だけど、そこまでのプージェの笑顔はどこまでも明るいです。
 社会主義から自由主義国家に変わったことで、遊牧民がどう変わってしまったかなど、現代の遊牧民の置かれている現状もあとがきに詳しい。(hico)

『小さな小さな魔女ピッキ』(トーン・テレヘン:文 マリット・テルンクヴィスト:絵 長山さき:訳 徳間書店 2005/2006.12 1800円)
 オランダの絵本です。
 ピッキは、小さいので魔女としての力に自信がありません。自分を確かめに出かけていきます。小さい体ですので、生き物の鼻の穴から中に入ることができます。すると、生き物を操れるのがわかって・・・。
 話はどんどん広がって、王様まで失脚させてしまいます。どう転んでいくかわからない話の展開は、ドキドキものです。
 メルヘン的お話に、マリット・テルンクヴィストの絵は、リアルな表情で応えます。(hico)

『こぐまのムースとねずみのロゼッタ』(オリヴィエ・ド・ヴィレーシューヴェル:文 エミール・ジャドゥール:絵 石津ちひろ:訳 ほるぷ出版 2002/2006.12 1500円)
 こぐまのムースは何か忘れている。だから友達のロゼッタと一緒に、それが何かを探しに出かけます。その途次で、色んな頼まれごとをこなしていくのですが、でもどうもそのどれも、ムースの探している事柄ではない。ではそれは一体?
 頼まれごとをこなしていくムースとロゼッタの姿がとても仲良くて気持ちいいです。
 そんなに意外なオチではないですが、嬉しくなれますよ。(hico)

『仕事の絵本1 仕事って何?』(岩川直樹:文 後藤範行:絵 大月書店 2006.10 1800円)
 「仕事」のどんなところにあるんだろう? この絵本は、様々な「仕事」をしている人の言葉に耳を傾けることで、子どもたちに「仕事」を具体的にイメージしてもらおうという試み。仕事内容より、むしろ「やりがい」や「生きがい」にバランスがおかれていて、「仕事」って悪くないなって思わせてくれます。大変だけど、大人になったら頑張るんだよ、ではないのね。(hico)

『ベンジーのいぬごや』()マーガレット・ブロイ・グレアム:作 わたなべてつた:訳 1973/2006.11 アリス館 1400円)
 アリス館ベンジー、3巻目です。今回は、少し大きくなったベンジーを家の中ではなく犬小屋で寝させようとするお話。当然ベンジーはそんなことは嫌です。夜、家を出てさまよっていると、パン屋さんと出逢い、そこで泊まらせてもらうことに。こうして毎晩ベンジーは夜はパン屋さんで眠ることにします。けれど、いなくなっていたパン屋さんの飼い猫が戻ってきて、ベンジーは家に帰るしかなく、でもそこでは、夜一匹で眠る犬小屋しかなく・・・。
 独り寝をすることになった子どもの不安がよく描かれています。これはいつの時代でもあることですが、この物語では、パン屋さんという大人がフォローしてくれます。大人への信頼感があるんですね。それは2006年ではなかなか難しい設定です。かといって1973年頃にまだあったかというとそれも実は疑問なのですが、今から眺めると違和感なくそう思えてしまいます。
 良かったねベンジー。(hico)

『いっぽ にほ さんぽ!』(いとうえみこ:文 伊藤泰寛:写真 ポプラ社 2006.11 1200円)
 『うちにあかちゃんがうまれるの』待望の続編です。
 生まれ、はいはいをし、たっちし、すこしづつ歩き出す。その時間がゆっくりと切り取られていきます。
 表情がいいんだな~。本当に生きている顔です。
 自分に下の子が生まれた子供なんかは、とても興味を持ってくれると思うよ。(hico)

『しあわせなブタ』(パトリク・ルーカス:作 若松宣子:訳 ほるぷ出版 2006/2006.10 1400円)
 肉として食べられてしまうのがいやなブタのおじょうさんは、町に出てオペラ歌手になります。人気が上がり世界的なスターになるのですが、何故か幸せではない。そんなとき、歌など知らないオオカミと知り合い恋に落ちる。彼女はオペラ界から姿を消してしまい、オオカミと結婚。ひつじを飼い、育てながらほんとうの幸せを感じる。
 オペラ歌手であることにアイデンテティを見出せなかったブタのおじょうさんなんですね。ブタであるとか、オオカミであるとかを取っ払ってしまうと、この結末でいいのか? になってしまいます。オペラ歌手を止めないままで幸せはつかめなかったのかな?(hico)

『名画の中の世界・描かれた四季』『名画の中の世界・水』 (ウエンディ&ジャック・リチャードソン:編 若桑みどり監修 福間加容・森泉文美:訳 小峰書店 2006.3 2500円)
 紹介が遅れてしまいましたが、すばらしいシリーズの第二期完結です。これで12冊。古今東西の画を一つのテーマで串刺しにして見せる一冊一冊がすばらしいです。絵画が苦手なYAにはぜひ薦めてください!(hico)

『ちいさい いすの はなし』(竹下文子:文 鈴木まもる:絵 ハッピーオウル社 2006.12 1280円)
 ちいさないすが、赤ちゃんのいる家にやってきて、少し大きくなった子どもの愛用となって、大きくなった子どもに使われなくなって・・・。
 そんな、ちいさないすの幸せな結末までの、かわいくて愛おしいお話です。(hico)

『ゆきの したの なまえ』(クロード・マルタンゲ:文 フィリップ・デュマ:絵 とき ありえ:訳 講談社 2003/2006.11 1500円)
 おじいちゃんと孫が語り合う絵本。
 昔、おじいちゃんがドイツの小さな町の教会の前で出会った、物乞いの青年と犬。帰ってからも気になっていたおじいちゃんは、届くともわからない手紙を出す。奇跡的にその手紙は青年に届き、返事が返ってきた。
 おじいちゃんはその青年の名前を、だから知っている、でも、孫には教えてくれない。「ふたりのひみつにしておきたいのさ」。どうして? 答えはそれぞれの解釈でいいのでしょう。「ひみつ」であることが、おじいちゃんと青年の大切なつながりを維持していく要素ってことかな。
 それがタイトルの「つきの したの なまえ」になっています。
 フィリップ・デュマのスケッチ風の絵は繊細で良いです。言葉で語られる、少し哲学っぽい物語を柔らかくしてくれています。
 忘れられない絵本になるタイプですね。(hico)

『いわたくんちのおばあちゃん』(天野夏美:作 はまのゆか:絵 主婦の友社 2006.08 1500円)
 楽しい運動会、みんなが記念写真を撮っている。でも、いわたくんのおばあちゃんは撮られたがらない。そのわけは・・・・。
 広島原爆をテーマにした絵本です。起こった事実を淡々と描いていくだけに、伝わり度は高いです。(hico)

『えほんを よんで、ローリーポーリー』(リリ・シャルトラン:作 ロジェ:絵 徳永玲子:訳 ポプラ社 2005/2006.11 1200円)
 人間を脅かすのがお仕事のモンスターのローリーポーリー。でも、女の子が落としていった絵本に夢中になってしまいます。やがて、それはモンスターたち全員に伝染していく。お仕事より物語が好きになってしまうんですね、みんな。
 ロジェの絵がいい味を出しています。(hico)

『もしも空が落ちてきたら 朝食に雲をいただきましょう』(クーパー・エデンズ:作 角田光代:訳 ほるぷ出版 1979/2006.11 1000円)
 『パレアナ』にジョイゲーム(アニメでは、「良かった探し」になってました)ってのがありますが、それの現代版です。もっともパレアナの場合かなり理屈オチで無理矢理喜ぼうという精神があったのですが、こちらはもっと詩的です。「思ったことをうまくいえないときは 鳥たちにうたいかたをならいましょう」ですから。(hico)

『あかさたなっちゃんの はつおんえほん』(もとしたいずみ:文 大沢幸子:絵 講談社 2006.12 1500円)
「あきまつりで あやしい あなぐまが あひるの あかちゃんの あんずあめを あじみしたのは あまりにも あつかましい」と「あ」からはじまって「ん」まで、リズムのいい言葉が並んでいます。声に出して読むことを前提として作られているので、確かに体が気持ちいいです。無理矢理「あ」なら「あ」で一文を作るので、奇妙な世界が広がります。大沢の絵はそれをよくフォローしている。(hico)

【創作】
「愛をみつけたうさぎ」エドワード・テユレインの奇蹟の旅」ケイト・ディカミロ作 バグラム・イバトーリーン絵 子安亜弥訳 (2006/2006,10ポプラ社)
陶器でできたうさぎのエドワードがお金持ちのおうちの子のお人形だった頃から、数奇な出来事に巻き込まれ、海辺の老夫婦や貧しい子どもなどの手を転々とする。よごれ、くたくたになるにつれて、愛されるということ、愛するということに目覚めていく姿がしんと心にしみる。イバトーリーンのイラストもエドワードの冷たさから心の動きまで精緻なタッチで描き出し、物語に奥行きを与えている。お人形物として、王道を行くような物語。(ほそえ)

「天国にいちばん近い場所」E・R・フランク作 冨永星訳 (2000/2006.9 ポプラ社)
ブルックリンの公立学校に通う11人の男の子や女の子のひとりひとりにフォーカスしながら、7年間描き出した13話を集めた短編集。それぞれの子どもたちのつながりあい、ちょっとした関わりあいを短い物語に見い出すのが楽しみだった。詩的でセンシティブな年頃の人たちを鮮やかに描き出し、少し心に痛い。(ほそえ)

「孤島のドラゴン」レベッカ・ラップ作 鏡 哲生訳 (1998/2006.10 評論社)
夏休みを沖合いの孤島で過ごすことになった3人の兄妹。家族と島の管理人だけで一夏を過ごすという計画にうんざりしていた子どもたちだが、いざ、出かけてみると……。タイトル画にあるように、この孤島には3頭をもったドラゴンがおり、それと出会い、3つの記憶(頭)を共有することで信頼を勝ち得るまでを描いている。竜が語るそれぞれのお話は、3人の子どもたちに対応するように構成されており、それぞれの時代での子どもと竜のかかわりを語りながら、その話を聞く子どもをの根本のところを開放する内容を持っている。その見事な呼応がこの物語の巧みな重層性を際立たせる。(ほそえ)

「ことばあそび玉手箱」石津ちひろ作 つちだのぶこ絵 (2006.11 小学館)
回文、早口ことば、文字の並べ替え 、同じ音のことば、折り句ということばあそびをいろいろ紹介して、楽しくことばに触れながら、その成り立ちを体感する本。不思議なことばの組み合わせを即物的に絵にすることで、よりその楽しさを知らせてくれる。これは、自分でも作ってみようと思ってくれればより楽しい本。(ほそえ)

「教室の祭り」草野たき作 北見葉胡絵 (2006.10 岩崎書店)
最近の草野たきの描く現代の子どもの姿には、一種の凄みさえ感じる。今回は不登校になった友だちをめぐって、おこる教室の騒ぎを<祭り>ということばで象徴し、なにか、感覚のこわれてしまっている子ども達の生態を描く。でも、これは自分の子どものいる学校で見聞きする、ほんの些細なきっかけで現れる子どものたちの心象をうまく形にしているなあと思うのだ。
おとなしい直子と一緒にいたのに、塾で同じクラスになったにぎやかなカコたちに取り込まれるようになってしまった澄子。直子が不登校になった時、自分がひとりぼっちにしてしまったせいだと悩む。それを知って、みなで直子を迎えに行こうと言い出すカコたち。物見高く直子の家に押し掛ける同級生の女の子。それぞれにきちんと描かれているのだが、一番印象的なのは、直子の親だ。この年代の子どもを描く時、どうしても親をどのように描くかで、その作品の立場や視点の在り方が決まってくる。直子の母親はまっとうに生きている大人だけれど、偉そうに高みから物をいう人ではないし、何があってもどんと構えているような人でもない。直子から結局コンビニの店員で良いのかと問われれば、充分努力してなれなかったのだから、諦めもついたし、今の仕事で満足していると答え、のんきなお母さんだ、なんかかっこわるいと思われてしまうような人なのだ。でも、諦めるということの効用を選び直すことだ、しっかりと選んで、選ばなかったものは諦めてほしいと直子に語る場面はこの本の山場と言えるだろう。他の大人をほとんど描いていないため、唯一、この物語の全体を把握する大人として、もう一つの視点として描かれている。この描き方が微妙だけれど、この案配でしか成り立たないというところで描かれていて、見事だと思った。(ほそえ)

「おねがいの木 ともだちの実」ほんだみゆき作 戸田ノブコ絵 (2006.11 ポプラ社)
5年生になったばかりのミオは転校生のサワコとともだちになる。なんとしても友だちにならなきゃいけなかったのだ。ミオはちょっといじめられっ子だったから。ふたりの距離はどんどん縮み、互いにおうちを行き来するような友だちになった。でも、拾った子犬をめぐって、けんかしてしまい、サワコが転校して元のおうちに戻ることになっても、仲直りできなかった……。それから後の、ふたりの行動が、この本の真摯で素敵なところ。タイトルにあるおねがいの木は、葉っぱが葉書のかわりとなるタラヨウの木。ともだちの実は一緒にシロップを作ろうね、と待っていたざくろの実のこと。たくさんの植物の名前の出てくる物語は、生き物の物語でもあって、それらに支えられながら、惑う気持ちときちんと向き合う子どもの姿が描かれる。それを見守る大人の姿も。どうしようもなく、自分でも持て余してしまうような気持ちを切り捨てないで、持ち続ける強さをもっと、子どもに知ってほしい。それがこの物語には描かれている。静かな、でもしっかりとした物語。(ほそえ)

『レンアイ@委員 はじめてのパパ』(令丈ヒロ子:作 理論社 2006年07 560円)
 シリーズ8作目。主人公ワコのママがいよいよ再婚。ワコは本当のパパのことが知りたくなります。会いに行くのですが・・・。
 いろんな問題を子どもも抱えていて、それは時に言葉にならず、言葉に出来ず、モヤモヤしてしまって。そんな気持ちを言葉にしていってくれるのが、このシリーズのおいしさです。今回は、パパへの気持ち、再婚するママへの気持ち、男の子ってどういうハートの持ち主、などです。
 メッセージを強く打ち出すことなく、あくまでエンタメ小説のなかで語っていく作者の腕はますます磨きがかかっています。(hico)

『マジカル少女レイナ4 魔のフラワーパーク』(石崎洋司:作 栗原一実:絵 フォア文庫 岩崎書店 2006.11 500円)
 シリーズ4作目。それぞれのキャラもおなじみとなってきて、どんな舞台が設定されるかが勝負となっています。今回はフラワーショー。バラ園のコンテストに、黒魔法の影が・・・。レイナの初恋も描かれ今後の展開が楽しみとなっています。(hico)

『キキ・ストライクと謎の地下都市』(キルステン・ミラー:作 三辺律子:訳 理論社 2006/2006.12 1900円)
 ニューヨークには、昔犯罪組織が使っていた地下都市、シャドウ・シティがあった。キキとその仲間、すべて女の子で組織されたイレギュラーは、それが再び犯罪に使われないようにすべく、地上に通じるすべての出入り口を封鎖しようとするのだが・・・。というところから始まって、話は思いがけない方向へと進展していくのですが、それがプリンセスにまつわる辺りがちょいと女の子物かな。でも、全員女の子の冒険物語ってところで、買い。女の子であることを巧く利用するしたたかさはいいと思いますよ。6人それぞれが特技を持っているなんてのは、定番なんですが、やはりあきません。デビュー作でこのレベルなら、今後が楽しみなところです。(hico)

『砂漠の歌姫』(村山早紀:作 森友典子:絵 偕成社 2006.12 900円)
 砂漠の町の音楽院に通う少女ユン。親は既に無く、学校では自らが意識しすぎなのか、あまり学友となじんではいない。砂漠に出かけたユンはそこで、記憶を無くし目が見えない少女を救う。しかし彼女には追っ手がかかっていた。彼女は誰なのか? そして、この町に隠されたという魔法水晶の謎とは?
 壮大な歴史を背景に置いて物語は進みます。ただ、その歴史が描かれるより語られることの方が多いのが少し残念。280ページとヴォリュームが少ないので仕方なしか。
 愛と勇気は、いつもの村山ワールドです。(hico)

【他】
『未来のきみが待つ場所へ』(宮本延春:著 講談社 2006.12 1100円)
 いじめられっこだった時代、九九が2までしか出来なかった学力、貧しい生活。様々な苦難を乗り越えて教師になった宮本の自伝。
「未来の自分の居場所は、いまの自分が決める以外に方法はないのかもしれません」「目標があるのとないのとでは天と地ほどの違いがあります」「たとえ後悔するとしても、やらなかった後悔だけはしないようにしようと思っていました」「大切なことは自分と向き合うことです」。
 宮本自身の体験から来た言葉ですからリアルですが、目が覚めるような言葉でもありません。と思うのは、私が大人だからでしょう。子ども読者にとっては、シンプルでよく伝わるのかもしれません。(hico)

『ギネス世界記録2007』(クレイグ・グレンディ:編 ポプラ社 2006.11 1800円)
 恒例ギネス本。写真が豊富なので、様々な記録が楽しめます。こういうのは、次から次へと読んでいて飽きないですね。挑戦しようとは思わないですが。もちろん、子どもたちに、挑戦を薦めています。(hico)

【評論】「大人のファンタジー読本」やまねこ翻訳クラブ編 (2006.12 マックガーデン)ハリー・ポッター以後、書店の平台には厚いファンタジーのシリーズがひしめいていて、何をどう手にすればいいのやらと迷う人が多かったはずだ。翻訳家や翻訳を勉強している人たちの切磋琢磨の場であり、貴重な情報を広く発信している人たちが選んだ、ファンタジー本のリストブック。紹介される本の幅の広さ、量に圧倒されることだろう。新しい本の紹介も多いし、原本での紹介もあるのが、このクラブらしい。大人のとタイトルにあるが、小学校高学年以上の読書巧者の子どもには、宝の山のような本ではないかしら。読んだことのある本も、自分とは違う目線で紹介されていると、また読んでみようと手がのびるし、ファンタジーというジャンルに倦んでいる人にも、ぜひ。(ほそえ)

*****
   あとがき大全(62)

1.なぜ日本人は外を見なくなったか
 理由はよくわからない。けど、それって、あまりいいことじゃないと思う。
 音楽は邦楽、小説は国内作家。そして、日本は美しい国であるという押しつけ。日本人の目が内側へ内側へ向いていって、上からも締めつけられて、ずいぶん窮屈になってきたような気がする。
 たしかに、邦楽のレベルも上がってきたし、国内作家の作品のレベルも上がってきたから、それで十分、そもそも、親しみやすいし……というスタンスはわかる……けど、世界は広いし、そこには信じられないほどの可能性が潜んでいる……ということを忘れてはいけない。日本なんて、ほんとに小さい。世界のごくごく一部に過ぎない。そのなかの東京はもっと小さいし、その私鉄沿線に住んでる自分はもっと小さい。そんなに小さな自分が日本のなかのものだけで充足していていいのだろうか。もちろん、いい。いいけど、外に目を向ける楽しみというものもあるのに、もったいないじゃん。
 いまでも、ある種の本が読めない国がある。国の方針に大きくはずれた本を禁書にする国がある。いうまでもなく、日本でもそういう時代がかつてあった。そういう国や、そういう時代においても、ごく一部の人々は、こっそり隠れて、そういう本を読んだし、そういう本を広めようとした。
 それなのに、いま、これほど自由な(そうでない部分も最近増えてきたけど)日本で、自ら文化的鎖国状態を選んでいる人々の気が知れない。
 とは思うものの、こういう論議というのは難しくて、あくまでも趣味の問題だから、押しつけられないし、押しつけるものでもない。考えてみれば、邦楽だったら、歌詞は歌詞カードがなくても大体わかるしね。翻訳物より日本作家の作品のほうが、入っていきやすいしね。
 となると、なにをかいわんや、である。
 しかし、翻訳文学で中高大学時代を過ごしてきた自分としては、なにかいいたい。
 というわけで、『12歳からの読書案内(海外作品)』(すばる舎)という本を作ってみた。執筆者は次の通り。
 「月刊MOE」の編集者の位頭さん、翻訳家で書評も書いている三辺律子さん、児童文学の研究者で、とくに英語圏のエスニック物に強い鈴木宏枝さん、産経新聞社文化部の宝田茂樹さん、自らもめった斬りにされながら、軟弱な作品をめった斬りにして気炎を吐く書評子、豊崎由美さん、センスの良さと斬新な言葉遣いでめきめき頭角を現してきた歌人の東直子さん、この「児童文学書評」サイトの主催者、ひこ・田中さん、フランス物の翻訳ならまずこの人という、平岡敦さん、フリーランスの編集者で書評も書いていて、来年から理論社の『ミステリーYA』を立ち上げようとしている光森優子さん、そして現役の大学生7名。それに、あさのあつこさんと森絵都さんの特別寄稿もあり。
 まずは、紹介されている100冊の本の、数行の概要だけでも拾い読みしてみてほしい。絶対に日本の作家には書けない作品、驚きに満ちた作品がずらりと並んでいる。
 というわけで、この本のまえがきとあとがきを。

 まえがき
『12歳からの読書案内』が好評なので、海外編を編まないかという話が編集者からきた。むちゃくちゃうれしい。じつは海外編を出したくてたまらなかったのだ。いまの日本、若者も年輩も、またその中間もみんな目が内側に向いて、日本しか見なくなってきている。音楽も邦楽なら、読書も国内作家ばかりだ。
 たとえば、大学の生協書籍部で「読書マラソン」というのをやっていて(大学四年間で本を百冊読もうという企画)、こないだ「読書マラソン五十選!」というのが書籍部の雑誌に載った。『ラッシュライフ』『4TEEN』『つめたいよるに』『カラフル』『センセイの鞄』など、ヤングアダルト向けの本が多いし、なにより文庫が多いのもほほえましい……のだが、よく見ると、圧倒的に日本の現代作家のものが多い。翻訳物は『異邦人』『あなたに似た人』『夏への扉』など、古典、ミステリ、SF、ノンフィクション、ごちゃまぜにして八点のみ。それもたいがいが古い。
 また、集英社の今年の夏の文庫フェアのリストをながめて驚いた。翻訳物はほとんどない。光文社の「本が好き!」という小冊子に毎号載っている「書店員さんのお勧め本」のコーナーも、九割以上が日本作家の作品だ。
 集英社の「青春と読書」という読書情報誌の二〇〇六年十一月号に、石田衣良がこんなことを書いている。
 「なぜ、これほど日本人は外を見なくなったのだろう?」と始まるこのエッセイは、日本人は洋楽をきかなくなり、翻訳物を読まなくなり、「ひどく内むきになってしまった」と訴える。そして日本だけが「美しい」という発想の貧困さを指摘し、「すべてはほかのたくさんの国との調和から、国々の美しさというものが生まれる」と主張している。
 石田衣良らしい、きっぱりとした、いいエッセイだと思う。
 世界は広い。そして世界の想像力は驚くほどの可能性と意外性に満ちているし、なにより楽しい。ぜひぜひそれを味わってほしい。

 あとがき

この本で紹介を担当したのは、最年長は金原で、最年少は大学生。作家、歌人、批評家、編集者、翻訳家、学生、その他の人たち。趣味も性格も状況もそれぞれに違うが、本好きという一点では共通している。そしてまた、金原が心から信頼しているという点でも共通している。自分のブックガイドとして、また図書館のヤングアダルトサービスの手引きとして、そしてなにより、一冊の短編小説集風の読み物として楽しんでいただければ、うれしい。
 ただ、注意してほしいのは、斎藤孝風の「親子でいっしょに読むブックガイドではない」ということだ。おそらく、この本は人畜無害、文部省推薦のよい子のための読書案内ではないし、国語教育のたしにもまったくならない。ものによっては、子どもは親に隠れ、親は子どもに隠れて、こっそり読むべき本もある。読書というのは元来、危険なものなのだと思う。つきつめれば、「生・死・愛」しかない。いや、「性・狂気」も追加しよう。
 そのわくわく、はらはら、ぞくぞくする感触は親や子どもとは恥ずかしくて共有できないこともある。いっしょに読むなら友だちや恋人という本だ。そのへん、お間違いのないように。
 二〇〇六年十一月吉日                金原瑞人 

2.その他のあとがき(『ダークタワーの戦い〈エリオン国物語 II〉』『小鳥たちが見たもの』『アナンシの血脈(上)(下)』

   訳者あとがき(『ダークタワーの戦い』)

 ――さあ、出発するのだ、アレクサ!
 第一巻『アレクサと秘密の扉』で、動物たちの助けを借り、自分の住む町を邪悪な陰謀から救ったアレクサは、その大活躍から一年後、ウォーヴォルドから手紙をもらい、旅へ出るよう命じられる。
 死んだウォーヴォルドがどうして? 不思議に思いながらも、アレクサは{もちろん/傍点}胸を踊らせ、また秘密の扉からこっそり町の外へ抜け出す。
 旅の仲間は、前回でおなじみの小人のヤイプスとリスのマーフィー。オオカミのダライアスは現役を引退して、奥さんのオデッサが代役をつとめることに。そして今回は新たに人間の仲間が加わる。第一巻の終わりに名前が出てきた元囚人ジョン・クリストファーだ。
 ところが、アレクサはもう動物とは話ができない。魔法の石の力は消えてしまったのだから。ところが旅の始まりでアレクサはふたたび魔法の石を手に入れる。しかも、今度のはただの魔法の石じゃない。エリオン国の運命を握る石で、創造主エリオンを滅ぼそうともくろむ邪悪な存在アバドンが必死になって手に入れようとしてきたものだった。
 つまり、国の運命、創造主の生死がアレクサの手にゆだねられたのだ。
 なぜ、そんな大事なものが自分に託されたのかわからないまま、アレクサは国を守るために旅をつづける。
 やがて、ひとつひとつ、謎が明らかになっていくが、その先に待ちかまえていたのは……!
 第一巻は、裏切り者をつきとめるミステリー風の物語だったが、この第二巻は、手に汗握る本格冒険ファンタジーだ。
 守るものが町から世界にスケールアップするとともに、敵は囚人から創造主を倒そうともくろむ何者かにスケールアップ。冒険のスケールも難度も危険度も一気に高くなる。
 人食いコウモリの群れ、毒が塗られた棒が無数に立ち並ぶ針の谷、狂暴な野犬、悪徳の限りをつくす残酷な男、そのしもべである巨大な鬼!
 少女、小人、リス、オオカミ、囚人というグループが、この困難を乗り切れるのだろうか。敵味方入り乱れての、わくわく、はらはらの物語が始まる。
 そして最後の最後でアレクサを待っている秘密とは……?
 物語の完結編、エリオン国物語3も、まもなく刊行されるのでどうぞお楽しみに!

 なお、最後になりましたが、編集の野田理絵さん、原書とのつきあわせをしてくださった海後礼子さん、そしてなにより、細かい質問にていねいに答えてくださった、作者のパトリック・カーマンさんに心からの感謝を!

      二〇〇六年十月二十九日
                      金原瑞人・小田原智美

   訳者あとがき(『小鳥たちの見たもの』)

 一九七七年。中国では副首相の座を失脚していたトウ小平が復活し、ディスコ・ミュージックがダンスフロアを席巻し、スペースシャトル〈エンタープライズ号〉が有人の飛行実験を成功させ、映画〈スター・ウォーズ〉が何百万もの観客を動員し、ある漁船が太平洋の底から死骸を引きあげ、恐竜の屍かと話題になった。
 オーストラリアのとある地域のなんのへんてつもない住宅地では、三人の子どもがアイスクリームを買いに出たまま、もどらなかった。
 同じく、オーストラリアのとある地域のなんのへんてつもない住宅地で、エイドリアンという男の子が、朝刊の不鮮明な写真をじっと見ていた。そこに写っているのは、怪物。頭をがっくりさげている姿は、みじめな敗北者のようだ。冷たい水の墓場から引きずり出されて、さらし者にされるなんて、恐ろしい怪物でも、悲しかった。

 こんなふうに始まるこの物語はいったい読者をどこに導いていくのだろう。
 最初から、この物語には漠然とした恐怖、不安、そして謎……敗北、悲しみ、そして切なさが漂っている。
 主人公は九歳の少年エイドリアン。両親は離婚し、母親が精神を病んでいるため、祖母に引き取られている。が、祖母は厳格なうえに、もう子育てをする自信も気力もない。いっしょに暮らしている、おじ(母親の弟)のローリーは二十五歳だが、ある事件以来、ほとんど家から出ようとしない。エイドリアンは内気で、運動オンチで、学校では目立たないし、友達もひとりしかいない。いつも何かにおびえ、おどおどしていて……
 あるとき、エイドリアンは公園で泣いている女の子ニコールに出会い、死んだ小鳥をいっしょに埋葬することになる。ニコールは近所に越してきたばかりで、家には男の人(父親?)と、妹と弟がいるのはわかっている。そういえば、歩いて十五分ほどの店までアイスクリームを買いにいったきり、いなくなってしまったのも三人の姉弟だった。もしかしたら、ニコールたちは失踪したあの三人なのかも……。
 この作品は、エイドリアンの恐怖と不安と孤独を驚くほどたくみにすくい上げていく。それは置かれている環境のもたらす不安であるとともに、子ども時代特有の恐怖でもあり、ニコールもそれらをエイドリアンと共有している。
 ほとんど事件らしい事件も起こらないまま、エイドリアンの不安はつのっていく。
 そして……。

 気がつくと、エイドリアンは声をあげていた。激昂した鳥が鳴き叫ぶ声だ。エイドリアンは両肩から大きな白い翼を広げ、ビニールの上に飛びたった。ニコールが消えた地点に向かって。

 不安に満ちた冒頭から、この鮮烈で静けさに満ちた美しいエンディングにいたるまでに、なにがあったのか知りたい方はぜひ、ゆっくり、最初から読んでみてほしい。この詩とも小説ともつかない、不思議な雰囲気の漂う物語は、ささやかだが、どこまでも広がっていく宇宙をそのなかに秘めている。
 ハートネットの『木曜日に生まれた子ども』を訳したとき、そのあとがきで、こんなふうに書いた。

 一般書の世界でもそうだが、ヤングアダルトむけの本の世界でも、信じられないほどの個性と想像力で新しい領域を切り開いていく、魔法使いのような作家がたまに出てくる。たとえば現在、イギリスならデイヴィッド・アーモンド、アメリカならフランチェスカ・リア・ブロック、オーストラリアならこのソーニャ・ハットネット。三人ともほかの作家とはまったくちがう「何か」を持っていて、ちょっとずれた作品や不思議な作品を投げかけてくる。そして、どの物語も激しく強烈なのに、どこかやさしい。

『小鳥たちが目にしたもの』は、『木曜日に生まれた子ども』とはまったく手触りがちがう。もっともハートネットは、ふたつと同じ風合いの作品を書かない。書くたびに新しく、書くたびに読者を驚かせ圧倒する。が、どこかですべての作品がつながっている。それは、主人公や登場人物への思いやりと共感、子どもたちをとりまく無関心な社会や人々に対する厳しい眼差しと、心からの怒り、そしてこの独特の文体だろう。
 それにしても、『木曜日』の主人公の弟ティンが地下に迷路のようなトンネルを掘り進んでいくのに対して、『小鳥たち』のエイドリアンは最後、空に羽ばたく。まるで、救いは地下か空か水のなかにしかないかのようだ。

 なお、最後になりましたが、編集の田中優子さん、原文とのつきあわせをしてくださった菊池由美さんと秋川久美子さんに心からの感謝を!
        二〇〇六年九月              金原瑞人

   訳者あとがき(『アナンシの血脈』)

 二〇〇三年、ニール・ゲイマンが子ども向けに書いた『コラライン』(ヒューゴー賞、イギリスSF協会賞受賞 )を翻訳したとき、ちょっと評判になってうれしかった。「子どもにとっては冒険小説、大人にとっては恐怖小説」という感じのゴシック・ファンタジー、かわいいことはかわいいけど、不気味なこともまた不気味で不思議な作品だった。
 『コラライン』は、SF作家テリー・プラチェットの言葉を借りればこんな感じの本だ。
「震えが背骨を駆け下り、靴から駆け出し、タクシーに飛び込み、飛行場までいってしまうだろう。この本には、素晴らしいフェアリーテールがもっている、なんとも言葉にできない恐怖がある。まさに傑作。この本を読んだら最後、これまでと同じ目でボタンをみることはもうできなくなってしまう……」
 そのゲイマンが書いた大人のためのファンタジー『アナンシの血脈』(Anansi Boys)がついに日本の読者にお目見えとなった。
 さて、作品の紹介の前に、簡単にゲイマンの紹介をしておこう。
 まず、イギリス生まれで、アメリカ在住。「サンドマン」というグラフィック・ノヴェル・シリーズ(いってしまえばアメコミなのだが、そのユニークな内容とカルト的な人気のせいか、こう呼ばれることも多い)の原作者。そしてSF・ファンタジー作家で、『ネバーウェア』で世界幻想文学大賞を受賞、American Gods(角川書店より出版の予定) でヒューゴー賞とブラム・ストーカー賞を受賞している。ついでに書いておくと、宮崎駿の『もののけ姫』の英語吹き替え版の脚本を書いたのもゲイマン。
 そのゲイマンの最新作がこの『アナンシの血脈』だ。
 アナンシというのは、アフリカの民話や神話に登場するトリックスターで、クモでありクモ男であり神様でもある。驚くようなことをなしとげる英雄のこともあるが、おばかなことをしでかしてしまう道化のこともある。ゲイマンはこのアナンシを、作品のなかで「物語の神」として登場させ、次のように説明している。
「アナンシは、物語に自分の名前を与えた。すべての物語はアナンシのものだ。そうなる前はトラ……のものだった。物語は暗く、邪悪で、苦痛に満ち、ハッピーエンドでおわるものなどひとつもなかった。けれど、それは大昔のこと。いまでは、すべての物語はアナンシのものなのだから」
 さて、田舎町でファット・チャーリーという青年の父親が死んだ。じつはこの父親というのがアナンシだった。え、神様が死ぬの……というつっこみたくなる気持ちはわかるが、それは最後まで読んでみてほしい。ともかく、とりあえず、アナンシは死ぬわけで、その葬式あたりからこの物語は始まる。ファット・チャーリーは父親の葬式のときに、自分には双子のきょうだいがいることを知って、呼び寄せてしまう。これがスパイダー。チャーリーはなんの取り柄もない、ださださ男だが、スパイダーはハンサムでスマートで、女の子にもてるうえに、不思議な能力まで備えている。そしてチャーリーの生活に土足で踏みこみ、ガールフレンドまで自分のものにしてしまう。チャーリーは失地挽回とばかりに、異世界に飛びこんで鳥女と約束をかわし、スパイダーを追い出そうとするが、これを境に、この物語と世界が大きくゆらぎはじめる。チャーリーとスパイダーの運命や、いかに!?
 まあ、「サンドマン」や American Gods を読めばわかるが、ゲイマンの知識と興味の広さには驚くしかない。そしてなにより、斬新なイメージを使いながら、それを現代にからめて生き生きした物語を作り上げる才能にもまた、驚くしかない。それはこの『アナンシの血脈』を読んでもらえばすぐにわかってもらえると思う。まさに「現代のアナンシ」と呼ぶしかない。
 
 最後になりましたが、編集の津々見潤子さん、翻訳協力者の圷香織さん、原文とのつきあわせをしてくださった秋川久美子さんに心からの感謝を!

        二〇〇六年十一月二十日 金原瑞人

3.最後に
 今年もまた、おつきあいくださって、ありがとうございます。来年もまた、こんな調子でやっていきたいと思います。
 どうぞ、よろしくお願いします。


絵本読みのつれづれ(15)「転換」(鈴木宏枝)

Tさん(4歳6ヶ月)&Mくん(1歳10ヶ月)

数ヶ月あくだけで、絵本読みはぐんぐんと変わってしまう。秋からこちらのことを。Mくんは、今、めざましく絵本が好きになっていて、Tさんは、長いお話を聞く楽しみを知りはじめた。

秋口、めずらしく私とMくんだけだった夜(Tさんは先に寝てしまった)、私はMくんをひざに乗せて、オクセンバリーの『しごと』を見せた。字のない絵本でいろいろしゃべりかけながら読む。絵本読みに関しては、こんなふうにMくんとだけ向き合ったのは久しぶりか初めてか。そのとき、Mくんは、突然、「この絵本というものはこうやって読む(読んでもらう)もので、しかも、それがすごく楽しい」ということに気づいた。

『しごと』はシンプルな、見開きで10ページだけの絵本で、厚紙製なので、ちいさな手でもめくりやすい。ベビーいす、おまる、乳母車、離乳食、おふろ、哺乳瓶、ベッド。「おまるだね、チーッってしてるね」「Mちゃんも好きでしょう、おんもに行くベビーカー」「うまうまって食べてるね、にんじんだね」。ごく当たり前に話しかけて指をさす。Mくんは最初、でたらめにめくっていたのだけど、おまるのページをめくると、私がさっきと同じ「おまるだね、チーッってしてるね」と言うことに気づいた。この絵本にはテキストはないけれど、言葉と絵は合致していて、それをめくると、私が語りかけてくる。彼はそのことに、本当に突然気づいたようだった。何度も何度もおまるのページをさし、私の顔を見て、なんともいえないうれしそうな顔をする。くりかえし、私の言葉を聴く。

絵本読みとして、親としては至福の瞬間だった。子どもが絵本に気づいた時に立ち会えた。まさに感動だった。『しごと』の次に、たまたまその前にMくんが遊んでいた『がたんごとん』も読んでみた。ブックスタートの一環で、3ヶ月検診で自治体からもらった1冊だ。「がたんごとん」と走る列車に、おさじやコップや犬や猫が乗せてもらい、終点の食卓で降りる。なんとも単純で、だからこそ楽しい絵本なのだが、Mくんは、「がたん ごとん」と列車が走っていき、「のせてくださーい」と少しずつお客が増えていく様子を、すっかり気に入ったようで、何度もめくって「がたんごとーん」と私が電車のまねをすると笑った。

ヘレン・ケラーのwaterではないけれど、Mくんは、絵本を発見した。さかさまに見ていても気にしていなかった絵本を、以後、ちゃんと上下左右正しく見るようになり、読むようになり、そして、せがむようになったから。Mくんにとって、このときから、絵本はおもちゃから絵本になった。

今、彼がこよなく愛しているのが「こどものとも年少版」の『くだものだもの』(2004.8)である。リズミカルで、くだものの名前と情景が掛詞のように書かれている、石津ちひろさんのテクストである。「かいすいよくには いかない スイカ」 「キウイ うきうき うきわで およぐ」。バナナラブのMくんは、最初の「かいすいよくには いかない スイカ」で、スイカを海水浴に誘いにくるキウイといちごとバナナをじーっと見つめて「バナナ!」と叫び、指をさす。正確には、「ナナナ!」だったのだけど、最近は、発音が「バナナ」に近くなってきた。お得意の「バナナは なんばん? ななばんよ!」のページでは、めくるやいなや得意げに「バナナ!」である。ここまで反応がいいと、こちらも楽しい。今のところ、Mくんが認識している果物は、バナナ、「カン」(みかん)、「リー」(りんご)だけなのだが。そういえば、冬至のゆず湯を見て、「ワー、カンラー」(わあ、みかんだ)と言ったのはおもしろかったっけ。


Tさんは、絵本からお話にスイッチしつつある。11月17日に、幼稚園で有志のお母様たちに人形劇を見せていただいた。事前に題目は聞かなかったのだけど、帰ってきてから、「どんなお話だったの?」と聞くと、にっこり笑って少し考え、「ちいさなおなべや、にておくれ」と言った。「ああ、ちいさなおなべか」と、いつもは、寝る前、布団の中で、その日にあったことをお話仕立てで振り返るのだが、その日は薄暗くして『おはなしのろうそく』から「ちいさなおなべ」を読んだ。Tさんは、そこで、寝る前の暗がりの中でぬくぬく布団に入りながらお話を聞く楽しさに目覚めたらしい。次の晩から、一日の振り返りがなくなり、絵本や物語をせがむようになった。

実際は、9月ごろから、寝る前にソファで絵本を読む代わりに、『完訳グリム童話』などのお話を読んでいたという前段階があるのだが、本当に、リラックスして寝る前というのは、まさにお話がしみこんでいく時間なのだろう。11月はくもん出版の日本昔話シリーズから『ねずみのすもう』『三まいのおふだ』『かにかにではれ』などを読み、それから、ピーターラビットのシリーズを持ってくるようになった。

ピーターラビットは、数年前には食卓のすぐそばの奥行きの浅い棚に並べていたのだが、当時2歳だったTさんが「落として遊ぶ」ことがあまりに多かったので、しばらくお蔵入りにしていたものだ。学生のときに、原書とどちらを買おうか迷って、いずれ自分の子どもができたら、自分で読めるものがいいな、と思って翻訳版にしたシリーズである。

きっかけはジャムだった。いただきものの黒すぐりのジャムを朝ごはんに出したら、いたく気に入って、TさんもMくんもよく食べた。「くろすぐりってなあに?」と聞かれたので、「ピーターラビットがいたずらをして、お姉さんたちは晩ごはんに食べられたけど、ピーターは食べられなかったでしょう?」と言ってみた。実際は、くろいちごの間違いだったのだが、Tさんがそれできょとんとしていたので、ああそうか、シリーズをしまいっぱなしにしていた、と思い出して出してきたのだった。星の子で読んだピグリンブランドの記憶もあったか、家の中にあるいくつかのピーターラビットグッズにも啓発されたか、以来、Tさんは、がぜんシリーズが好きになり、10日ほどつづけて持ってきた。

11/26『ピーターラビットのおはなし』
11/27『フロプシーのこどもたち』
11/28『2ひきのわるいねずみのはなし』
11/29『フロプシーのこどもたち』
11/30『ピーターラビットのおはなし』
12/1『ティギーおばさんのおはなし』
12/2『ベンジャミンバニーのおはなし』
12/3『カルアシチミーのおはなし』
12/4『ジンジャーとピクルズや』
12/5『こねこのトムのおはなし』
12/6『のねずみチュウチュウおくさんのおはなし』
12/7『パイがふたつあったおはなし』
12/8『まちねずみジョニーのおはなし』
12/9『りすのナトキンのおはなし』
12/10『キツネどんのおはなし』

Tさんは、フロプシーのこどもたちやピーターラビットのように、生存へのスリルと救出される爽快さが好きなのではないか。グリム童話でも、よく口にするのは「オオカミと7ひきのこやぎ」のことである。子どもは、根源的に無力感や不安感を抱えているのかもしれない。危機をあざやかにこえて、悪いやつをやっつけたり、へこませたりする、まさに昔話一流のパターンは、幼い子どもの真実と願望なのだ。

それにしても、ポターの世界の凄さといおうか、ウサギやリスやキツネの世界の、動物の生態にものすごく忠実な部分と、ものすごくぶっとんでいる部分のミックスバランスは、ポター以外にありえない。ティギーおばさんが最後にはりねずみに戻っていく後ろ姿。キャベツをかじる悪さをするのをつかまえようというマグレガーさんのふるまいは農夫としてはまっとうで、だけど、当たり前のようにピーターが着ている上着をカカシに着せている。フロプシーの子どもたちの不幸と処遇はまさに動物のものなのに、それを助け、いたずらをしかけて笑う人間らしさがあり、しかし、フロプシーの子どもたちを助ける手段はきわめて動物的(ねずみが袋をかじる)だ。だが、そのねずみは贈り物にウサギの抜け毛をもらってマフラーを作っている。人間らしさと動物らしさの、ものすごい飛躍と、飛躍しているのにつながっている、まさに完璧なファンタジーに、私も読みながらひそかに興奮する。

残念ながら、『キツネどんのおはなし』があまり明るいものではなく長かったため、途中でやめたので、ピーターラビットは今中断中。Tさんは違う絵本を持ってくる。

12/11『ルラルさんのにわ』
12/12『テディベアのハミッシュ』
12/13『白雪姫』
12/14『いつもちこくのおとこのこ』
12/15『はじめてのおつかい』
12/16『ロサリンドとこじか』
12/17『もくようびはどこへいくの』
12/18『バムとケロのにちようび』
12/19『おうじょさまのぼうけん』
12/20『11ぴきのねこ』
12/21『かぐやひめ』
12/22『あひるのジマイマのおはなし』
12/23『てぶくろ』
12/24『テーブルがおかのこうめちゃん』
12/25『ブレーメンのおんがくたい』

そして今日は『三びきのこぶた』だった。

大きいベッドに3人で寝ながら、Tさんは仰向けに寝て絵本を聞く。聞くのだけど、やっぱり絵が気になって、腹ばいになって絵本を覗き込む。絵を確認してまた寝転ぶことも多い。Mくんはごろごろ転がったり座ったり落ち着かなく動きながら聞いているという感じだろうか。ピーターラビットは持ちやすいから、どうかすると、すべてお話が終わって電気を消したあとにむくりと起き上がって、真っ暗な中で本を広げて凝視していたりする。興味は大いにあるらしい。

上の絵本の中では、『11ぴきのねこ』が二人とも反応がよかった。「ねんねこさっしゃれ」をうたうところで、Mくんは「ねんねん ねんねん」と言い、Tさんは、魚が骨だけになる場面で「あーあ、ぜんぶ食べちゃった」と合いの手を入れた。

お話にいざなわれる睡眠がうらやましい。「おしまい」と本を閉じて、ふっとTさんの顔を見ると、本当に満ち足りた顔をしていて、にっこり笑ってねむりに入る。そして、その経験は、なんとなく、彼女と彼を、いずれ強くするものであるように思える。

鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/


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『子どもの本を読みなおす―世界の名作ベストセレクト28』(チャールズ・フレイ&ジョン・グリフィス著、鈴木宏枝訳、日本語版序文神宮輝夫、原書房、2006.10)
ペローやグリムから『宝島』『ジャングル・ブック』などまで、いわゆる世界の名作古典の作品論です。古典といわれる作品の底力を解説し、新たな読み方を示唆します。

『12歳からの読書案内―海外作品』(金原瑞人監修、すばる舎、2006.12)
多くの読者に寄り添い、力を引き出してくれるような物語100作品を取り上げたブックガイドです。ここ10年くらいに出版された新しい作品ばかりなのも特長です。

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