【児童文学評論】 No.89 2005.05.25
〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>
こんにちは。鈴木宏枝です。いつもお読みくださってありがとうございます。
2月に登場したTくんなのですが、当初、自分でも心配していたとおり、Tさんとまぎらわしいという声をいただきました。今号から、Mくんに改めたいと思います。
登場人物:
Tさん 2002年6月生 (姉)
Mくん 2005年2月生 (弟)
「さん」「くん」は実はジェンダー的に落ち着かず、Mさんにしたいところでもあるのですが、男女の記号とわりきるということで。
改めて、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
絵本読みのつれづれ(5) 読む、ということ
毎月取っているブッククラブの今月分に、『さむがりやのサンタ』(レイモンド・ブリッグズ、すがはらひろくに訳、福音館書店、1974)が送られてきたのだが、これは手持ちにあるため、あらためて別の絵本を届けていただくことになった。
新品の『さむがりやのサンタ』は、めくらずに返品したのだが、家にあったその絵本が急になつかしくなって、季節はずれだけど探してくる。それをめざとく見つけたTさんが「サンタさんのほんなの? よもうか」というので、早速読んでみた。
でも、音読する側からすると、マンガを読むのは不可能だ。Tさんも、私が読んでいるセリフとはあらぬところを見て、あちこちきょろきょろ目線を動かしている。
もちろん、何度か読むうちに、「やれやれ」とか「きり!」とか「クリスマスおめでとう」といった部分的なセリフを覚えるけれど、ほんとうにストーリーを読んでいるとは思えない。
細かくコマ割された絵をどう順番に読んで、絵とセリフをキャッチするか――これは獲得されるべき技術であり、Tさんは、吉村和真さんがおっしゃるところの「マンガの読み方が身体化される」以前の状態で、(私としては、そんなに急いで身に着けなくてもいいよとも思う親心もあるのだが)その意味で、Tさんは『さむがりやのサンタ』を読めていない。
ただし、読めないからといって楽しまないわけではない。その後も、置いてあれば「さむがりのやサンタ(語順が違います)読んで」と持ってくる。夜明け前にうすねず色の空がだんだん明るい黄色になる4コマは、しみじみ眺めいって「あさになるねえ」と言い、屋根の上でサンタとトナカイたちがお弁当を食べるページでは「ゆき、あめ、ちぇっ」とまねをする。最後にサンタがシャワーを浴びている小さなコマでは、バススポンジを差して「ポチね」と言うが、犬とスポンジを、どうくっつけて理解しているのだろう。
Tさんがもっと大きくなったら、クリスマスには、サンタが喜ぶお酒やケーキを置いておきたい。トナカイやクリスマス・プディングやビッグベンやイヌイットの氷の家など、見えるものが増えてくるのも、個人的に楽しみにしている。
今、ひらがなをすべて読めるようになったTさんが気に入っているのは『あいうえおうさま』(文:寺村輝夫、絵:和歌山静子、デザイン:杉浦範茂、理論社、1979/2005.2)である。調剤薬局の待合室で手にしたのだが、最初の数ページで名前を呼ばれた。全部読んでからでないと帰らないというTさんに「今度、図書館で借りよう」と言って帰宅し、その週に出先で購入しておみやげにしたものだ。
『あいうえおうさま』は、「あいうえおうさま あさの あいさつ あくびを あんぐり ああ おはよう」のように、あいうえお五十音それぞれに頭韻を踏んだテクストと、それに合わせたおなじみのおうさまの絵が描いてある。
Tさんは、「こ」では、「ココアをこぼしちゃったのよ」と笑い、「し」では、おねしょをした布団をかぶってしょげているおうさまを「シンデレラみたいね」と評する(たしかに、白くすそをひいたドレスに見えなくもない)。一番気に入っている言い回しは「べそかく」で、「べっどに ぺんきを べったり ぬったら へばりつくので べそかく おうさま」では最後を待ち構え、私が言うやいなや「べそかくだってぇ」とけらけら笑う。
この本では、おうさまのまわりにちりばめられた絵が文字と連動していて、「あ」なら、あんぐりあくびをしている王様の横に、雨やあざらしや朝顔が描いてある。その仕掛けを、Tさんはまだ気づいていない。「か」のところで、カーテンレールの上のかたつむりを見て、「こーんなところに、なんでかたつむりがいるのよー、あははっ」と必ず笑うのだが、いつか、絵の秘密に気づいたら、今度はどのページがお気に入りになるだろう。
今、Tさんが見せる「よめる」ことのうれしさは、見ていてすがすがしいほどである。最初は、『あいうえおうさま』の各ページの上にあたたかい字体で描かれているあいうえおを指差して読みあげていた。今は、大きな文字のあいうえおだけでなく「あくびをあんぐり」といったテクストのほうもぼちぼち読んでいる(たいていすぐ飽きるけれど)。
外では、「これ、なんてよむの?」とたずねてくるのは、駆け込み乗車に×をつけたサイン、ゴミ箱のびん、かん、燃えるゴミなどのマークになった。絵の意味を知りたがる様子は、あいうえおの読み方を知りたがったときと同じで、その興味の行き方に、逆に、ひらがなも日本人に共通のサインであることを再発見させられた。
他方で、Tさんの文字獲得の姿を見ると、抽象に過ぎないひとつひとつの文字をひとかたまりの意味として捉え、言葉として変換し、それを具体的に想像するのは実に高度な作業なのだなと思う。ひとつひとつの文字が読めても、それを物語や文章として把握するには、もちろんまだ至っていない。
「す、て、き、な、じゃじゃじゃ(Tさん用語で”漢字”の意)、に、ん、ぐ、み。すてきなさんぐんみんよ」と持ってくるのは、おなじみの『すてきな三にんぐみ』(トミー=アンゲラー、いまえよしとも訳、偕成社、1969初版/1977改訂版)だ。個別の文字は読めて、この絵本が『すてきな三にんぐみ』だということもわかっていても、文字と題名というテクストと絵本そのものの認知の間には、まだずれがある。
『すてきな三にんぐみ』で、Tさんは、黒に灰色の絵柄と目だけのどろぼうたちが最初は怖かったようで、「まっくらね、よるばっかり」と腰が引けていたが、「みんなでいっしょにくらすんだ」という言い回しは好きになったようで(これは、作品の肝だろう)、絵柄は暗いけれど素敵な話だと理解したようである。
最近、Tさんはしばしば、自作のおはなしもどきをしゃべっているのだが、『すてきな三にんぐみ』以降、「みんなでいっしょにくらします」が入るようになった。
猫の表紙のついた私のハーブの本を見ながら、Tさんはこんな風に読む。
むかしむかし
おかあさんとねこさんがすんでいました
ピンクののはらもすんでいました
ひゅーひゅーって
はなびがはじまりました
それから まいにちまいにち
おかあさんとくらしました
で、よるになりました
おふろにはいって 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と
かぞえながら あさになりました
おとうさんと シンデレラのあかちゃんに
おっぱいをあげました
よるになりました
おとうさん おかあさんと ごはんをたべました
あひるのあかちゃんがうまれました
おとうさん
シンデレラのあかちゃんと
かもめをみました
あさのあいさつ
なみだがでてきました
そして ふたをしました
ぱかぱか
おとうさんと おかあさんの はなしです
みて だっこ しようか
おとうさんのためにくらしました
みんなでいっしょにくらしました
おしまい
「すてきなさんぐんみん」同様、題名がちゃんといえない「ぴっちゃーぼうや」は『ピッツァぼうや』(ウィリアム・スタイグ、木坂涼訳、セーラー出版、2000.3)である。Tさんは、表表紙も裏表紙も同じ笑顔というつくりにまずひかれ、「あれ、あれ、こっちがはじめ? こっちがおわり?」という混乱じたいを楽しんでいたが、やがて「あかいほうがはじまり。みどりがおしまいです」と秩序を重んじるようになった。
絵本を読むとき、私たちはたいてい並んで座る。私は文字を読み、Tさんがめくる。手助けはしない。絵本読みの最初の頃は、息が合わなかったけれど、特に勝手に最後までめくることもなく、文の切れ目がページの終わり、という阿吽の呼吸を、Tさんは身につけてきた。『ピッツァぼうや』はその阿吽がとてもうまくいく絵本である。
『ピッツァぼうや』は、雨の日の家の中の見立て遊びが楽しい1冊だが、Tさんは、一連の流れるストーリーが好きなようで、ピートが外に出て行く最後に、ほっとした表情を浮かべる。ままごとのピザを手にして、「ぴっちゃーぼうやのぴっつぁね」と言う。なんで「ぴっつぁ」といえるのに、絵本の題は「ぴっちゃー」なのだか。
私は、ピッツァ遊びの中の「ほんとうは水なんだけどネ」「ほんとうはベビーパウダーなんだけどネ」という( )がどうもなじまず、舞台裏は言わなくてもいいのになあと残念な気持ちにもなる。もちろん、この絵本の完成度の高さも絵の素敵さも、開架に置いておくとピートの満面の笑みにうれしくなるほど、大好きなのだけど。
ウェブでの紹介を見てみると、実際にピッツァごっこをやっているご家庭や保育園もあるようで(http://www.yamaneko.org/dokusho/shohyo/osusume/2000/pizza.htm)、ぜひうちも、と思いつつ、最近めっきり重くなってきたTさんだから、ここは、パートナーの出番にしよう。
Mくんの方は、Tさんの声が好きだ。最初は、声。私の声にはもちろん安心するけれど、ざぶとんの上で3人で転がってわらべ歌で遊んでいると、Mくんは明らかにTさんの声に喜ぶ。口を半月形にしてうれしくほほえむ。そして、私とTさんの会話を喜んでいるように見受けられる。私とTさんが会話をしているだけで、テレビの声に反応するのとはまた違うアンテナが立つように(親ばかだが)見える。Tさんは「Mくん、うまれてきてよかったねー」と誰かの口真似をし、ひっついて添い寝し、たぶん、Mくんは、その身体的な快も、言葉と同様に、うれしい。
Mくんは、声はまだたまに「えっうー」といった程度だが、レム睡眠のときには、なぜか、新生児の頃から声を出して笑うことが多い。赤ちゃんは神々しいと、ある編集者の方がおっしゃっていたが、親の造作に似てお地蔵様のような笑顔のMくんは、いったいどんな夢を見ているのやら。
(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ Tさん2歳11ヵ月、Mくん3カ月、
「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm
【絵本】
児童文学書評2005,4
○オルファースの代表作の復刻
「ねっこぼっこ」ジビュレ・フォン・オルファース作 秦 理絵子訳 (1906/2005.4 平凡社)
1916年初版のこの絵本は不思議だ。ドイツで刊行されてから、1930年には英訳されて出版、スイスでは小さなメロディーを伴って刊行されている。さして有名でもない女流画家が作った1冊がこのように広く世界で読み継がれるようになったのはなぜだろう。小さなものたちが生き生きとうごめく様、身近な自然の移り変わりの不思議を幼い人の心が受けとめることのできる物語の形で描き出したからだろうか。
以前、福武書店で翻訳刊行された時のタイトルのまま、新たな訳で今回復刊された「ねっこぼっこ」は、より親しみやすく、口ずさみやすいリズムとやさしさにあふれている。2003年に童話館出版で翻訳された絵本は1930年の英訳版をもとにしており、オルファースの原文の持つ、歌うようなリズムや簡潔な表現の良さが失われてしまっていたため、今回のドイツ語版からの訳出は本当の意味での復刊となり喜ばしい。オルファースの絵本が今なお新鮮に読まれるのは、その端正なイラストの力と共に、詩の形で語られる物語のシンプルな美しさが強く心をつかむからにちがいない。
本書の巻末にはドイツ語版から転載されている、オルファースや「ねっこぼっこ」の魅力を語るヴォルター・シェルフの解説は、ドイツ絵本や美術の歴史の中でのオルファースの位置付けや絵を読むということ、絵本を読むということをきちんとなした、絵本批評としてもお手本になるような文章になっている。このような批評のもと、オルファースの絵本は今もなおドイツで何度も復刊され、広く読者を獲得しているのだ。
子どもの心象にぴったりとよりそい、そこに真実の光をそそぎ、心浮きたてるリズムと安心のストーリーを与える絵本。それはやすやすと創りだせるものではないだろう。とくに現代のような子どもを子どもとして過ごさせてくれない時代においては。子どもに向けて、子どもの目や心によりそい、世界の成り立ちのもともとの形を知りたいという欲求に誠実に向かい合う ことができる人こそが真の子どもの本の作者なのだ。オルファースは、ひざまづき、美を発見し、それを求めようとしてきた。そういう心の在り方が、子どもの心象と重なって稀にみる幸せな絵本となったのだと思う。
○その他の本
「それは すごいな りっぱだね!」いちかわけいこ文 たかはしかずえ絵 (2005.3 アリス館)
子犬があおむしやおたまじゃくしやひよこに「おおきくなったら なにになる?」とたずねると、それぞれちょうちょやかえる、にわとりに成長するのを「それは すごいな りっぱだね」と目を見はる。前作で「なにたべてるの?」と動物たちに聞いて歩いたねこの登場の仕方が上手い。このねこさん、おおきくなったらトラになるの? ライオンになるの?ときかれたら、「ぼくはうまれたときからねこだから、これからも いっぱなねこさ」とにやり。それまでのリズムを壊す猫の登場でこの絵本が生きた。
「そっとしておいて」井上よう子作 ひだきょうこ絵 (2005.1 佼成出版社)
空き地に家をたてようとやってきた家族。みみをすますと小さな生き物たちの声がきこえてきました。「そっとしておいて」 それはちょうちょうの声。かえるの声。小鳥の声。空き地はいろんな生き物たちの子育てする家でいっぱいだったのです。さて、どうしたものか。パパが考えた家というのは……。淡い色使いのデザイン化されたかわいいイラストで春らしい1冊。
「ぷかぷか」石井聖岳さく (2005.4 ゴブリン書房)
気持ちの良い日に、ぷかぷかと波間をただようタコくん。もし、空を飛べたらどうやってとぼう? 気球みたいにふくらんで? それともヘリコプターみたいに足をぷるぷるまわして? 雲にのっていろんなところにいってみたいな……と愉快な想像をふくらませます。たくさん考えて遊んでいるうちに、ざば~んと船がおこした波にのって、ひゅ~んと空へ。のんびりした雰囲気の心広がる絵本。
「はなちゃん すべりだい」中川ひろたか文 長 新太絵 (2005.5 主婦の友社)
赤ちゃん絵本「おとうさんといっしょ」シリーズの第2弾。今回はお父さんと一緒に公園に出かけたはなちゃん。お父さんに抱えてもらって、すべり台をひゅーんとすべると、ひこうきに。空から見ると、お家は小さい。どんどん広がる空想の世界。一緒にいるうれしさが、空想の大きさによく現れている。
「ドドとヒ- こぶねのぼうけん」おだしんいちろう作 こばようこ絵 (2005.3 金の星社)
絵本の公募展で最優秀賞をとった作品をもとにして刊行された、新人の絵本。ウリの村を舞台に、ドドとヒ-という動物やいろんな登場人物を配したつくりになっている。絵本の中では、そんなにも大きく扱われてはいないが、それぞれにきちんと名前をもらい、そでで紹介されていたり、見返しに村の細かな地図をのせているところを見ると、この絵本のストーリーはほんの一部を表わしているに過ぎず、もっと大きな世界をうしろに持っているのかな、と思わせる。うまくその物語世界を絵本のストーリーにとかし込めばもっと登場人物たちが生きるのに。そこが本書のストーリー展開の落ち着かなさになっているような気もして残念。絵は外国の絵本みたいに洒落ていて、今風。川の水があふれてベッドが流れ出してしまい、流れていく先々で、村に住む人たちに出会い、海まで出たら、また戻るというストーリー。途中、水がひいて、こぶね(ベッド)を引きずって歩くということになるのだが。行って帰ってくるという流れの中に、もう一つ必然があるといいのに。
こういう姿の主人公だからこその展開や登場人物との絡みなど、本当はもっと書き込んだテキストがあったのかなあ。
「うたうしじみ」児島なおみ作 (2005.4 偕成社)
1984年にリブロポートで刊行された絵本に一部描き直しを加え、復刊された絵本。鉛筆のやわらかな線で描かれた魔法使いと猫のトラジとしじみのかもし出す、そこはかとないユーモア。上質な笑い話を読むような、都会的でありながら、ほっこりとした落語のような読み口の絵本。また、手に入るようになってうれしい。
「どろぼう夫婦」も復刊されるといいなあ。
「絵本 アンネ・フランク」ジョゼフィ-ン・プール文 アンジェラ・バレット絵 片岡しのぶ訳 (2005/2005.5 あすなろ書房)
「絵本ジャンヌ・ダルク伝」に続くバレットの伝記絵本。アンネ・フランクの誕生の日からアムステルダムの隠れ家から連行されるまでを淡々と描いている。アンネの日記でかかれる隠れ家での様子よりもそれまでの暮しがだんだんと押しつぶされていく様を描く方にページが割かれているため、アンネの成長とともにきな臭くなる時代の流れをより強く感じる構成になっている。戦後、ただひとり戻ってきた父オットーにアンネの日記を手渡すミ-プの姿で絵本は終わっているが、その後、日記がどのように広まっていったかはきちんと解説されている。歴史や人物を絵本で描くという意味は大きな情報の固まりを解きほぐし、人物に寄り添った形でかたり直すことで、身近に感じ、共感し、興味を持ってもらうことだと思う。それは、何を描き、何をかかないかという、取捨選択のセンスにかかっている。作家も画家も、その難しさに負けていないところがえらい。
「騎士とドラゴン」トミー・デ・パオラ作 岡田 淳訳 (1980/2005.3 ほるぷ出版)
パオラのずいぶん前の絵本。騎士とドラゴンは戦うものときまっていますが、なんともやる気のないお二方に、お姫さまが良いアイデアを授けました。それぞれの得意技を使って、あら、やるじゃない、とにっこりできそう。ユーモラスで、牧歌的。こののんびりさ加減が、今の絵本にはない良さか。
「くまさんはおなかがすいています」カーマ・ウィルソン文 ジェーン・チャップマン絵 なるさわえりこ訳(2003/2005.4 BL出版)
「くまさんはまだねむっています」に続く第2作目。今回は春が訪れ、冬眠からさめてお腹がぺこぺこなくまさんが、ともだちの動物たちと一緒に、イチゴを食べたり、魚を食べたり……。最後はみんなでパーティーなのだけれど、くまさんばかりが食べていて、みんなは全然お腹いっぱいになりませんでした。春の森の様子がとてもきれい。
「三つの金の鍵~魔法のプラハ」ピーター・シス作 柴田元幸訳 (1994/2005.3 BL出版)
プラハ出身の作家シスの渾身の1作ではないか。緻密なエッチングを思わせる絵、幻想的で、イメージを重層化した構図、一つの絵の中にいくつもの絵を溶け込ませ、在るものや亡いものも感じさせようとする。プラハからロンドンへ行き、アメリカにたどり着いて絵本を描き始めたシスが、もう一度、自身を回復するためにこの絵本を描いたように思われてならない。このあと、シスは小さな息子のためのシンプルな「マットくん」シリーズやさまざまな暮しに生きる人々とかかわっていく「マドレンカ」のシリーズなど新たな境地を示す絵本を輩出しているのだから。プラハの町に息を潜めている伝説を一つ読む度に、金の鍵を一つ得る少年。それを3つそろえた時、幼い頃に過ごした家の中に入ることができるのだ。引用される絵。語り継がれる物語。幼い日々に戻るのに、こんなにも手をつくさなくてはならないシスという人は、どういう日々を送ってきたのだろう。
「ミミズくんのにっき」ドリーン・クローニン文 ハリー・ブリス絵 もりうちすみこ訳 (2003/2005.3 朔北社)
ミミズが主人公の絵本はアルバーグ夫妻の「大地の主の物語」というユーモラスなものがあるけれど、本書もなかなかおもしろい。ミミズの男の子の日記の拾い読みという体裁で描かれている。人間の暮しのパロディのような面もあるので、おもしろがるのは比較して、差の判るちょっと大きな子たちだろうと思う。ミミズの基本的な暮しは押さえてあるので、虫や生き物に馴染めない子どもに、こういう絵本で親しみを持ってもらうにはいいだろう。
「にっこりねこ」エリック・バトゥー作 石津ちひろ訳 (2003/2005.2 講談社)
色鮮やかなコラージュ?で描かれた絵本。今までのバトゥーの画風とはちょっとちがっていて、エリック・カールのように紙に色をぬりかさねたものを、ざくざく切って貼って、作ったような絵にみえる。お話もそのタッチにあった大胆なもので、なんとも人をくったような感じで民話のような大らかさ。
「かわっちゃうの?」アンソニー・ブラウン作 さくまゆみこ訳 (1990/2005.3 評論社)
ブラウンお得意のシュールに変化するものたちを描く絵本。毎日の暮しの中で目にするものが、なんだかちょっと変わって見える、そんな日。それには、理由があったのです。ラストに明かされる理由を見て、もう一度、最初から絵を見直してみると、変化して見えるものたちのなかに、男の子の心境が暗喩としてイメージ化されているのが判るはず。深読みしてもいいのだけれど、単に変化を楽しんでもOK。
「ひよこをさがして あひるのダック」フランセス・バリー作 おびかゆうこ訳 (2005/2005.5 主婦の友社)
めくっていく楽しさにあふれた仕掛け絵本。あひるのダックがひよこを探して歩くのだけれど、目の前にはちっともあらわれず、うしろにみんなそろっているのを発見するのが楽しい。カウンティングブックとしても素直で楽しめる造りになっている。
「バニーとビーの みんなでおやすみ」サム・ウィリアムズさく おびかゆうこ訳 (2003/2005.5 主婦の友社)
うさぎとみつばちのきぐるみを着た小さな子、バニーとビーのお話第2弾。今回はおやすみなさいの絵本。夜になって寝ようとしてるのに、動物たちが遊びに来てしまい、困ってしまうふたり。やさしい繰り返し、かわいらしいラストシーン。ベッドサイドブックとして。
「ロッテ ニューヨークにいく」ドーリス・デリエ文 ユリア・ケーゲル絵 若松宣子訳 (1999/2005.3理論社)
「ロッテ おひめさまになりたい」に続く第2作。刊行年を見ると、本書の方が先に描かれているようなのだけれど。今回、ロッテはお気に入りのひつじのまくらを持って、ママと一緒に、おばさんの住むニューヨークにやってきました。ホテルにまくらをおいて、出かけたロッテ。戻ってみると、きれいにベッドメイキングされた部屋にはひつじのまくらはなかったのです。泣いて、さがして、頼んでみると……。旅行する時にも、お気に入りのものがないと落ち着かないのは、小さな子の常。そういうものほど、行方不明になりがちなことも事実。幼い子に身近な不安な状況を、ちょっとしたファンタジーでくるんで、安心のラストにもってくる手際がみごと。
「くんくまくんとバケツおに」今村葦子作 菊池恭子絵 (2005.4 あすなろ書房)
「くんくまくんときゅんまちゃん」「くんくまくんとおきゃくさま」につぐ、シリーズ3作目。こぐまの兄妹の日常を切り取った小さなお話をおさめる。今回は子どもの小さなポケットの秘密を見せてくれる「たからもの」、なんともおかしな一人遊び「バケツおに」、わさわさとうれしい気分の「おおそうじ」の3話。どの話も、気持ちの安定した両親に愛され、自分を疑うことなく子どもという存在を思いっきり生きている子が描かれる。兄妹のやり取りのおかしさや落ち着いた両親の佇まいが安心の読後感を与えてくれる。
「ゆうびんやさんとドロップりゅう」たかどのほうこ作 佐々木マキ絵 (2005.4 偕成社)
1991年クロスロードで刊行されたものの改訂版。だるまさんみたいにお腹の突き出た郵便屋さんが主人公。
つりに出た小舟が故障して、たどり着いた不思議な島。どこからか「だるまさん」「ゆうびんやさん」という声が聞こえ、それにつられて歩いていくと水玉模様の不思議な動物に出会う。不思議で愉快なものの出てくる話といえば、この作家のお手のもの。心の奥に沈んでいた記憶が、その不思議なものたちと出会うことでしっかりと刻み込まれる様子を丁寧に穏やかに描いています。小さな子たちには愉快な冒険話として、おじさんの年齢になるものには、一緒に心の奥底をのぞきこんでみているような切なくなるようなお話として、読めてしまう。幼年童話というものの幸せな形を感じる。
「くまざわくんのたからもの」きたやまようこ作 (2005.3 あかね書房)
いぬうえくんとくまざわくんシリーズの4冊目。今回はたからものをかしてあげる、かしてもらう、だいじなものって何かしら……とくまざわくんがいぬうえくんとの暮しの中で、考えたり、思ったりすることが中心になっている。すごく微妙な気持ちの揺れや思いをきちんとすくいとって、毎日の暮しの中でおいてきぼりにされがちな疑問を小さな子にも伝わる言葉とストーリーでかたちにしているのがすごい。一言でいうとものを所有することの重さ、ということになるのかもしれないけれど、自分のもの、他人のもの、かす、かりる……自分と他者との関係性をものを通して考え直すということかしら。自分というものを認識しはじめるのは、自分を人から呼ばれている名前ではなく、「ぼく」「わたし」と呼びはじめる時期、5~7才頃としたら、この本を手にする子どもにも、このテーマは十分過ぎるほど身近なものなんだ。おもしろい!
「ふしぎな笛ふき猫」北村薫文 山口マオ絵 (2005.2 教育画劇)
千倉の民話「かげゆどんのねこ」をもとに、それを膨らました形でストーリー化された童話とよべばいいものか。いわゆる民話、伝承の再話というのとも違うし。笛好きのかげゆどんは村の庄屋さま。年貢米のお知らせのために泊まった宿で猫たちの集う不思議な光景を目にします。次の日、集まりが終わり、心重く自宅に帰ると、可愛がっていた猫がいなくなり、愛用の笛もなくなっていました。その後……という部分からが作者のふくらましになるという。この後日談があることで、物語としてはオチもつき、めでたしめでたしとなるのだが。巻末には作家、画家の対談がつき、猫についての思いやこの民話のもともとをさぐる様子がみえてくる。
「私の絵本ろん」赤羽末吉 (2005.4 平凡社)1983年偕成社より刊行されたものの再販。副題に中高生のための絵本入門とあるが、雑誌「飛ぶ教室」や「絵本とおはなし」(現在の月刊MOEの前身にあたる雑誌)や「母の友」や「びわの実学校」などに寄せられたエッセイや絵本時評、国際アンデルセン賞画家賞を受賞した時のスピーチ、自作の絵本のできるまでを描いた文章など、著名な絵本作家の自在な文筆の才を存分に感じることのできる本となっている。こんなにも絵本を作ったり、描いたり、読んだりすることについて、真摯に向かい合い、その姿を文章にして示した人であったとは。子どもを単に消費者としか考えていないものが横行し、真に子どもを対象とする文化に対して評価の低い今だからこそ、子どもが手にするものを作ることの喜び、自負、願いを作り手の側からきちんと伝えてくれる本書が、この機会に広く読まれてほしいと思う。黒沢映画や「ジョーズ」や「E.T.」や蜷川幸雄の舞台に心踊らせ、対抗心を燃やす絵本作家であったこと、中国の少数民族の姿や日本の風土を絵に定着させるために、どれほどの取材や文献探索をしていたかを本書で読み、改めてその感覚の自由さと厳格さを思い知った。(以上ほそえ)
【創作】
『ハリーポッターと賢者の石』(J.K.ローリング 松岡佑子訳 静山社)
主人公ハリー・ポッターは、赤ん坊の時から選ばれし者です。最強の闇の魔法使いであるヴォルデモートは、ハリーの両親を殺害したのですが、ハリーにだけは呪いが効きませんでした。それどころかにヴォルデモートは力を失いどこかに隠れてしまいます。「あの子は有名人です--伝説の人です」とマクゴナガル先生。「魔法界の子どもは一人残らずハリーの名前を知っている」とハグリッド。
最初からこんなに持ち上げられている主人公はめったにいません。その後も物語はことあるごとにハリーの優位さを描きます。
魔法界の人々はヴォルデモートを恐れていて、その名を口にすることができず「あの人」と呼んでいます。名前を口に出せるのは、ホグワーツ魔法魔術学校校長ダンブルドアとハリーだけです。
学生寮でハリーは生徒たちの注目の的です。
箒に乗ってする飛行訓練では、先生の言いつけを守らずに勝手に空を飛びますが、罰は与えられません。その飛行を見ていた寮監のマクゴナガル先生は、クィディッチという空を飛ぶ球技の有力メンバーにハリーを推薦し、みんなが憧れている最新型の箒、ニンバス2000までプレゼントします。
ここまで特別扱いの存在であっては読者の共感が得られないように思います。しかし、この物語はファンタジー仕立てにすることでハリーと読者を近づけます。まず人間界と魔法界を分ける。そして、人間を「マグル」と繰り返し呼ぶことによって、まるで人間界の方が異世界であるような印象を読者に与えます。そして魔法界を見渡すと、魔法を除けば普通の寄宿舎学校の日常が広がっています。そのことを印象付けるために物語は、入学用品を買いにいくところから細かく語ります。制服はローブに三角帽。いかにも魔法使いの姿ですが、「衣類にはすべて名前をつけておくこと」という注意書きは人間界らしいものです。教科書も列記されます。「魔法史」(バチルダ・バグショット著)と、ご丁寧に著者名も書かれています。魔法界だから教科書のタイトルが「魔法史」なのは当たり前です。しかしそれは「歴史」が「魔法史」になっているだけで、むしろ新入学、制服、教科書、学用品と、人間界の学校そのままであることに注目したいです。つまり、魔法界の子どもの生活も、主たる読者である子どもたちのそれとほとんど同じであることが強調されているのです。
同じであるなら、「子ども」から「魔法が使える子どもへ」の飛躍も、物語の中なら、それほど難しくはありません。そして魔法が使えるハリーになりきったとき、彼が選ばれし者である方が楽しいのです。
この物語はファンタジーというより、ファンタジー的な小道具や要素を付加することで、子どもたちがよく知る日常を冒険空間に描き変えているのです。(hico)(徳間書店「子どもの本だより」2005.03)
ずっと本当の両親だと思っていたら、実は違っていた。『うさぎのチッチ』(ケス・グレイ文、メアリー・マッキラン絵、二宮由紀子訳、BL出版、1300円)は、ショックなシーンから始まる絵本。でも、暗い話ではなく、とても温かいです。
チッチは子うさぎ。だから当然、親もうさぎだと思いこんでいます。ピョンピョン跳(と)べるようになったチッチは、親が同じように跳べないのを不思議に思う。
絵本ですから、ここで次のページを開きます。と、そこに描かれているのは、牛と馬。彼らは、子どもが多すぎて育てきれないうさぎからチッチをもらって育てたのです。トンネルをうさぎの巣穴(すあな)にみたて、毎日ニンジンを食べて、チッチがうさぎとして育つように配慮しながら。
家族一緒に川面(かわも)に立ちそれぞれの姿を水に映(うつ)して眺(なが)めたとき、チッチは自分が両親と全く違うことを知ります。自分だけが白くて、耳が長くて、シッポが短いのを。
家出をするチッチ。必死で探す父親と母親。
戻ってきたチッチは、体を泥(どろ)で茶色に、耳を洗濯(せんたく)ばさみで短く丸め、シッポには枝を結びつけて帰ってきます。
そんなことしなくてもいいのに。そのままのチッチでいいのに。
血のつながりではなく、一緒に過ごした日々が家族を作っていくことが、わかりやすく描かれています。(hico)(2005年5月2日 読売新聞)
【ノンフィクション】
身体障害者の友人が、同じ郵便ポストを、1枚は立ったままの姿勢から、もう1枚は車いすから撮った写真を見せてくれたことがあります。同じ風景を見ているつもりだったのに、実は見え方が違っていたのを、わかりやすく教えられました。
「ぼくがこの本を書いた理由の一つは、人生ってASの人の目には(略)どんなふうに見えているのか、みんなにわかってほしいからだった」。『青年期のアスペルガー症候群』(ルーク・ジャクソン著、ニキ・リンコ訳、スペクトラム出版社=(電)03・5682・7169、1900円)の中の一節です。まずは当事者の話に耳を傾けること。
ルークによれば、AS(アスペルガー症候群)は「コミュニケーションの不具合」があり、彼の場合だと「ことばづかいが堅(かた)苦しくて」、「自分がしゃべりだしたら、相手が退屈してても気がつかない」。大好きなコンピューターの話になると、もう止まらないわけ。そんな自分を隠さず紹介することで、AS以外の人たちからの返事を待っているのです。
ASに限らず子どもが何かの障害を持っているとき、大人はそれを隠さずに教えて欲しいともルークは書いています。何かがわからず不安なままでいるより、「自分で自分のことはようく知って」おきたい。隠すのは「たとえ善意で考えたことにしても、やっぱりそれはまちがっていると思う」。了解!(hico)(2005年5月17日 読売新聞)
あとがき大全(47)
金原瑞人
1.おわび
三月のチャールズ・オグデンの『世にも奇妙な動物たち』(松山さんと共訳)以来、新刊が出ていないうえに、前回の「あとがき大全」が休みというわけで、「だいじょうぶですか?」「まさか、病気?」といったメールがあちこちからきて、あ、ごめん、という感じ。すいません。
じつは、先月、今月、来月と、異様にハードなスケジュールで、時間があまり取れない。理由はいくつかあって、ひとつは四月から始まる大学を軽く見過ぎていたということ。昨年度サバティカルで、のんびり翻訳をしたり、資料や本を買いに海外にいったり、論文のひな形を作ったりしていて、今年の四月から大学に復帰したのだが、これが思いのほか重い。大学の授業そのものは、例年通りでたいした負担にはならないものの、うちの学部、なんと来年度からカリキュラムを大幅に変えることになっていて、そのための準備やら会議やらが次々に飛びこんできた。こちらは昨年度、大学にいなかったものだから、そのへん、事情もよくわからず、右往左往。そのうえ、ほかの委員会もあり、また入試問題の作成も始まって、右往左往×2。そのうえ、じつは、昨年末、飛びこみの仕事をふたつ、いろんな事情があって引き受けてしまった。
ひとつは、カプコンというゲーム会社から出る予定の『シャープ・ノース』の翻訳。去年末に依頼があって、今年の三月には出したいとのこと(こちらは期日までになんとか上げたのに、出版社の都合で、結局、本が出るのは六月になりそう) 訳し上がりは、原稿用紙にして900枚。ストーリーはとても面白いんだけど、あまりに時間に余裕がなさすぎ。あ、無理、無理、という感じだったのだが、声をかけてみたら、大谷さんが共訳者として名乗りを上げてくれ、さらに石田さんがつきあわせを担当してくれるということになり、なんとなく引き受けてしまった。この、「なんとなく」というのが曲者で、引き受けてしまってから、「あれ、だいじょうぶかな?」
というのも、考えてみると、昨年、『大地の子エイラ』第四部の翻訳を引き受けてしまったのだった。これは大久保寛さんが訳すことになっていたのが、入院とかで、急遽ピンチヒッターが必要となり、編集の木葉さんからこちらに話がきて、なんとかならないかとのこと。じつは、『エイラ』の第二巻の書評、ずいぶん昔に「図書新聞」に書いていて、ちょっとなつかしい作品だ。『スカイラー通り19番地』の下訳をしてくださった小林さんに共訳でどうかと打診してみたら、頑張ってみるとのこと。訳し上がりが、おそらく2700枚。上中下の三巻本で出ることになっている。一巻、約900枚。というわけで、現在、900枚の本四冊に追いまくられている始末。
はっきりいって、だめそう。どれかが犠牲になりそう。あ、犠牲になった本の編集者のかた、ごめんなさい。
とか言いながら、今月もなぜか、ちゃんと、カエターノ・ヴェローゾのコンサート、芝居(『王女メディア』)、文楽(『桂川』、落語(『桂文我、独演会』、映画(『Little Birds』)、歌舞伎(夜の部)には行く。とくに歌舞伎は勘三郎の最後の襲名披露。3月の襲名披露、17日のチケットを昼夜取っておいたところ、福岡から講演のお呼びがかかり、キャンセルして飛行機で行っちゃったこともあり、今月ははずせない。それに、もう四年も習っているわりにちっともうまくならない三味線のおさらい会もあるし。来月は講演がふたつに、なんと二泊三日のゼミ合宿もあるし。それに来月はコクーン歌舞伎もあるしなあ。こんなことでいいんだろうか。
しかしまあ、今までもこれでやってきたんだし、どこかに迷惑をおかけして、すいませんとあやまってきたことだし、首をくくることもあるまいと、腹をくくっている。
という、おわびにもならない、おわびですが、どうぞ、これからも、ごひいきに。
2.共感覚
じつは、うちのHPに法政の卒業生、細川さんからメールがきた。ウェンディ・マスの『マンゴーのいた場所』(金の星社)を読んでの感想。というか、彼女自身が軽い共感覚の持ち主らしい。そこでちょっとたずねてみたら、返事がきたので、ご紹介を。
私の場合は、『マンゴー…』のミアほど強くはないですけど。というか共感覚と確実にいえるかどうかもちょっとアヤシイですけど(苦笑)
数字と文字に色がある感じですかね。文字は組み合わせによって変わったりしてそんなに確実じゃないですけど数字は確実です。
小さい頃は一桁の足し算を色で丸暗記してたので「計算」が理解できずに算数苦手でした(^^;
白+茶、赤(ピンク系)+緑、黄緑+黄、赤(朱色系)+グレイ、青+青、これらが全部10でグレイ+緑、黄+黄、青+茶が14で…といった感じです。
(ようするに1から9まで順番に白、赤(ピンク系)、黄緑、赤(朱色系)、青、グレイ、黄色、緑、茶となっています。0はもっと透明な白っぽい色)
人の誕生日とか、歴史の年号とかは色の印象で覚えてましたよ。
誕生日は覚えるのかなり得意です。
音に関して言えば、ミアのように生活の雑音にすら色がみえてしまうようなことはなく、かなり限定されます。たいてい合唱だったりオーケストラだったりクラシックの楽器や音楽でハーモニーがきちんとしている音楽である場合がほとんどです。
今までは私自身が絵を描く人間だからそういうのが見えるんだ、くらいにしか思ってなかったのですが…これも共感覚の一種になるのでしょうか? そのへんはよくわからないですね。
私も針療法でもやってみようかしら(笑)
ではではまた!
細川さん、ミアと同じように絵が好きで、なんと、イラストレーター。興味のある方は、「絵描き屋URL:くじら亭画廊(http://www.kujira-tei.com)」を訪ねてみてほしい。
じつは、この「共感覚」、『マンゴー』を訳す前から、知っていた。というのも、サンフランシスコで知り合った角谷くん(当時、映画を撮る勉強をしに留学中で、現在もサンフランシスコでバイトをしながら、CMを撮ったりしている)から、「金原さん、共感覚って、知ってはりますか? それについてのドキュメントを撮るんですけど……」というメールがきた。なんだそれ、と思って調べてみたら、色々とわかってきたんだけど、はっきりいって信じられなかった。それから一年くらいして、金の星の編集者、東沢さんから、すごくいい本なので、読んでみてと送られてきたのが『マンゴー』。これはもう訳さないわけにはいかないだろうと思ったのだった。それを角谷くんにメールで知らせたら、「妙な縁ですね、面白そうだから読んでみます」という返事がきた。それが、細川さんとこまでつながるとは。
じつは細川さん、ぼくの教え子ではない。法政大学も昔は、夏休みを利用しての一ヶ月の海外語学研修というのを行っていて、ぼくも一度その引率をまかされたことがあって、そのときの学生のひとり。場所は、真夏だというのに、なんとテキサス州ウェイコウ(Waco)のベイラー大学(ロバート・ブラウニングを記念したブラウニング図書館があるので有名)。いや、暑かった。昼間は40度くらいになるし。朝方、青かった芝生がみるみる枯れていく。
「いや、金原くん、テキサスはたしかに暑いけど、乾燥しているから意外と平気だよ」とかいわれていったのだが、40度は40度である。それにウェイコウという町は、昔、テキサスから北へ牛を売りにいく途中にあった宿場町で、かつてはにぎやかだったらしいが、いまはさびれていて、あまり見るところもない。ただおもしろいのは、ドクター・ペッパーという炭酸飲料水ができたところなので、ドクター・ペッパー・ミュージアムがある。
そういえば、このときは色々あった。ベイラー大学に着いてすぐに、ひとりの男子学生が額を数針縫うけがをした。事情をきいてみたら、ベッドから飛んだら、額がドア枠にぶつかったという。やれやれ。彼は、グランドキャニオンあたりで抜糸をした……と記憶にはある。
まあ、そのうち、詳しく書くとしよう。
3.差別語
5月29日、NHKホールで「NHK古典芸能鑑賞会」というのがあって、出しもののひとつに『酒餅合戦』というのがあるという。なんか、よくわからないけど、酒と餅がけんかをして、大根が仲裁に入るとかいうナンセンス物らしい。杵屋正邦作曲の、長唄と常磐津と義太夫のかけあいが楽しいとのこと。女流義太夫の三味線を弾いている寛也さんがそれに出演するというので、楽譜を見せてもらったんだけど、歌の部分にチェックが入っていた。
「酒は気違い水と……」の部分の「気違い」が変えてあったのだ。そう、放送されるものについては、かなり厳しい言葉のチェックがある。「気違い」は使えない、というわけで、ほかの言葉に置き換えてあった。
おもしろいことに、芝居、文楽、歌舞伎、落語など、その場限りのものについては、差別語の規制はまったくない。あるとき、桂文我さんが「この話には差別語が出てきます。差別語というのは放送されるときには使ってはいけないということになっています。ということは、ここでは使えるということです」と断って、堂々と使っていた。また先月、蜷川幸雄演出による、アーノルド・ウェスカーの『キッチン』(小田島雄志訳)では、「気違い」がキーワードとして頻繁に出てくる。「もうひとり気違いを連れてくるんだな」(うろ覚えながら)というふうな科白が堂々と出てきた。
大人計画の『イケニエの人』という芝居でも「きちがい」はとても大きな役割を果たしていて、この言葉がなかったら、この芝居は成立しない。もちろん、この芝居はオンエアーされることは絶対にない(はず)。
じつはこういった差別語と呼ばれる言葉はずいぶんたくさんあって、「めくら」「びっこ」「いざり」「せむし」などの身体障害に関するものから、「屠殺」「穢多」といった部落差別に関するものまで、まあ、リストアップすれば一冊の本ができるくらいある(そういう冊子も実際にある) ついでに書いておくと、これらの言葉は、ワープロソフトからも除外されていて、漢字に変換できない。だからよく使う場合には、自分で単語登録することになる。
寛也さんが、古典芸能について目についたものをリストにして送ってきてくれたので、紹介しておこう。
①文楽の例
奥州安達が原 三段目 環の宮明御殿の段(通称・袖萩祭文の段)
NHKのテレビ放映のさい、以下のところを、カット・変更しています。
S57・10大阪朝日座公演 録画
演奏―竹本越路大夫・鶴澤清治
浄瑠璃に出てくる順に、
(ⅰ)カット「親に背いた天罰で目もつぶれたな」の「目もつぶれたな」
(ⅱ)カット「不幸の罰で目はつぶれる」
(ⅲ)言い換え「非人の子」→「不憫の子」
(ⅳ)カット「生れ落ちると乞食さす子を」
(ⅴ)言い換え「盲(めくら)」→「めしい」
以上です。
なお、「物貰い」「目無鳥」はそのまま放送されました。
国立劇場制作課の方に、先日聞いたところによると、
○国立劇場での上演は、原作(改作も含む)主義で、差別語などの規制は一切しない。
○NHKの放送のときは、NHKの放送コードにより、規制がある。
とのことです。
②歌舞伎の例
NHK中継(ナマ中継です。最近、生中継は死語ですね。年がばればれ・・・)の時、『助六由縁江戸桜』の海老蔵の助六が(襲名のときです。えっと去年?)、失念しましたが、何か放送コードに引っかかる事をいうのですが、海老蔵のマイクのみを切って、全体を拾うマイクは入っていたとみえて、遠い感じですが聞こえていました。まったく切る、とか、ピーを入れるのではない、苦肉の策と見えました。
今回、時間に余裕がないので、この差別語については、次回に続く、ということにしておきたい。
ただ、翻訳家としていわせてもらうと、まず、英語にはこういった言葉の規制はない。'blind, cripple, crazy, lame, hunchback, butcher' といった言葉はごく普通に出てくる。じゃあ、こういった英語の単語に差別意識はないのかといえば、ないはずはない。ある。
「あら、あんたの娘、めくらなの?」
「そういう言い方って、無神経じゃない」
といったふうに出てくる。だからといって、そういう言葉を画面や紙面からなくそうという方向性はほとんどない。そういう言い方をする人間の差別意識を表現するには最も効果的な方法なのだから。ところが、こういった場合でも、日本の児童書の出版社は、たじろいでしまう。
'hunchback' を「リーダーズ英和辞典」で引くと、「せむし。猫背の人」と出てくる。えらい。そして'Hunchback of Notre Dame' を引くと、『ノートルダムのせむし男』と出てくる。えらい。これはヴィクトル・ユゴーの歴史小説『ノートルダム・ド・パリ』のことなのだが、欧米でも日本でも、とくに子ども向けの場合、『ノートルダムのせむし男』として親しまれてきた。
これがディズニープロでアニメ化された。邦題は『ノートルダムの鐘』。おいおい、またかよ、と、英語の原題をみたら、'The Bell of Notre Dame' とあった。なんだ、アメリカでもタイトルを変えてたんだと思ってしまった。が、森達也の『放送禁止歌』(光文社文庫)を読んで、驚いた。彼もまったく同じように考えたらしいのだが、そこをしっかり調べるところが、ぼくと違う。えらい。以下引用。
「しかしそうではなかった。調べてみたらアメリカでのタイトルは、原題 'The Hunchback of Notre Dame' のままだった。日本の配給会社は、邦題ばかりかビデオパッケージに表記する原題まで、ご丁寧に変更したわけだ。それもあの著作権管理に世界一うるさいと評判のディズニーを相手に。それだけの情熱とエネルギーがあるのなら、表現と規制について、もっと突き詰めて考える時間だって作れたはずだと思う。」
この文庫本になった『放送禁止歌』、なんと、2000年に解放出版社から出ている。どんな内容かというと、岡林信康の『手紙』や赤い鳥の『竹田の子守歌』など、放送されなくなった歌がたくさんあるけれど、なぜ放送されなくなったかと追ってみたら、なんのことはない、ほとんどが放送局の自主規制であって、ほとんどどこからもクレームなんかついてなかった、というもの。
ぼくが中学生の頃は、フォーク全盛の時代で、みんなでこういう歌を歌っていた。『竹田の子守歌』なんかは、ある意味、スタンダード。ところが、ある時を境に、さっぱりきかれなくなった。竹田というのは、京都市竹田地区のことで、被差別部落。それが原因だというのは、よく指摘されるけれど、もっと詳しく知りたければ、ぜひ、この本を読んでみてほしい。差別とは何かという問題に、とても明解な答えが出されている。
それから、この歌に関して、もうひとつ付け加えておくと、じつはぼくも昔からよくわからなかった部分があって、それについて、詳しく書かれているのが印象的だった。問題の部分は、次の箇所。
早もゆきたや、この在所越えて
向こうに見えるは 親の家
当時よくいわれたのは、「在所」というのは「未解放部落」ということだった。しかし、この子守が被差別部落の子で、部落以外のところに子守にやってきているとしたら、「この在所越えて」は、なんとなくおかしい。じゃあ、この女の子は、部落以外の所から、この竹田にきて子守をしている……まさか! これについて、森達也も同じような疑問を持ったようで、そのへんも詳しく書かれている。
とまあ、書き出すときりがないので、あとは次回に回すけど、最後にひとついっておきたいのは、児童書の出版社も、せめて「四つ足の動物」とか「四つんばいになって」という表現くらいは使わせてほしい、ということだ。
知らない人のために付け加えておくと、「よつ」というのは、差別語に分類されているらしい。少なくとも、児童書の出版界ではそう考えている。
最後の最後に、ぜひ森達也の『放送禁止歌』(光文社文庫)、読んでください。
4.あとがき(『四つの風、四つの旅』『トラウマ・プレート』)
というふうな差別語の話をして、「四つ」は差別語だよとかいっておいて、この本のタイトルは『四つの風、四つの旅』(ローニット・ガラーポ作、ソニーマガジンズ)なのだ。正直いって、この本、解説するのが難しい。そして金原自身、感動しているかというと、そこもよくわからない。ともあれ、妙な本で、妙に気になる本なのである。
それから、もう一冊、『トラウマ・プレート』(アダム・ジョンソン作、河出書房新社)。これはとてもとてもお勧め。ただし、一般書であって、ヤングアダルト物でも児童書でもない。中身はかなり強烈だ。やけどに注意。
訳者あとがき(『四つの風、四つの旅』)
長いこと翻訳の世界にいると、思いがけない本に出会うことがある。たとえば、この本。『四つの風、四つの旅』(Strong Winds from Nowhere、そのまま訳せば『どこからともなく吹く強い風』)が手元に送られてきたときには、戸惑ってしまった。なにしろ、十八の穴が空いた紙を、背で針金でとめてある。内表紙の下を見ると、'Tel-Aviv 69080, ISRAEL' と書いてある。まだ校正途中の仮とじかと思って問い合わせてみたら、完成品とのこと。なにより驚いたのは、文字が鮮明でくっきり浮き上がっていて、字面がとても美しいことだ。指でなぞってみたら、もうほとんど日本では見られなくなった活版印刷だった。
この作品は、こんなふうに始まる。その年の冬はことに厳しく、作物はすべて枯れてしまった。村では長老たちが集まって、なにが原因だろうと話しあった。村人は働き者だから、怠惰が原因ではない。貧しいから、貪欲が原因でもない。醜いから、虚栄心も原因ではない――いや、ただひとり、美しい少女がいた。ターシャだ。そういえば、ターシャが生まれた春はとても美しかったが、あれ以来、そこまで美しい春は来ていない。ターシャが生まれた春、神々はこの村に美の扉を開いてくださったのに、ターシャが美をひとりじめしたのだ。ターシャが死ねば、村に美がそそぎこみ、幸運がもどってくるに違いない。しかし、春の第一日に生まれた者は、神聖だといわれる。村人はターシャを殺すのはやめ、世話をする者をつけて、村から追い出すことにした。祖父のシーヨンは世話役をひきうけ、ターシャとともに砂漠の旅に出た。
さて、たぐいまれな美しさと特別な力を持って生まれた少女、ターシャは運命にしたがい、町から町へ放浪するうちに、世界に憎しみと恐怖が広がっているのに気づく。争いを避け、世界に愛をとりもどすため、ターシャは四つの風の王国にのりこむ……。
なんとなく、ファンタジーっぽい。波瀾万丈の冒険が展開しそうだ。が、その手の作品を期待している人には、「読まないように」と自信を持っていっておく。
これはいわゆるファンタジーではない。物語性も薄いし、物語の展開もほぼ最初から予想がつくし、起伏もほとんどない。ファンタジーというよりは、淡々と語られる「教えの書」といった感じだ。『アルケミスト』に似ていなくもない。
自分がこれまでに訳した本のなかでは、ベン・オクリの『見えざる神々の島』(青山出版社)が、これにもっともよく似ている。しかしオクリの作品は、めくるめくようなイメージや禅問答のようなレトリカルな問答が飛びかうが、この作品は、言葉もイメージもわかりやすく平明で、少しも飾ったところがない。が、言葉や文のひとつひとつが、表面上の意味以外の意味をふくんでいる。ターシャの名前でもある「海にたどりつく者」に出てくる「海」という言葉にしても、「世界の果て」「イアン」「新しい世界」「愛」と、ざっと四つの意味が重ねられている。じっくり考え、意味を咀嚼しながら、一ページ一ページ大切に読まないと、この本の魅力は伝わってこない。
つまり、そういう読み方のできる人には、とても魅力的な本ということだ。そういう読者には、ぜひ、ターシャといっしょに、心の旅をしてみてほしい。
最後になりましたが、リテラルリンクの奥田知子さんと原文とのつけあわせをしてくださった片桐美穂子さん、多くの質問にていねいに答えてくださった作者のガラーポさんに心からの感謝を。
二00五年四月十二日 金原瑞人
訳者あとがき(『トラウマ・プレート』)
久々にしんどい思いをした。これほど翻訳がつらかったのはベン・オクリのブッカー賞受賞作『満たされぬ道』以来かもしれない。ダン・ローズの『ティモレオン』や、J・T・リロイの『サラ 神に背いた少年』なんかも、しんどいといえばしんどかったが、これほどではない。
とにかくこの作品は手強かった。すさまじい迫力、ゆるむことのない緊張感、突飛な発想、意表をつくイメージ、あちこちで噴き出す攻撃性、きついアイロニー、おおらかなユーモア、とにかく最初から最後まで圧倒され、翻弄され続けた。
「サンドッグ」「ニューイングランド・レビュー」「エスクワイア」といった雑誌に掲載された短編を収録した、アダム・ジョンスンの処女作『トラウマ・プレート』は出版と同時に、「ニューヨーク・タイムズ」「サンフランシスコ・クロニクル」「サンフランシスコベイ・ガーディアン」「シカゴ・トリビューン」「エスクワイア」を初め数々の雑誌や新聞の書評でとりあげられ、絶賛された。まさに大型新人の登場である。
ここに収められている九編、テーマも題材も設定も語り口も味わいもそれぞれにユニークでおもしろい。
たとえば、「ティーン・スナイパー」は、パロアルト警察の狙撃班リーダーを務めている十五歳の少年が主人公。射撃の腕は天才的だが友達はいなくて、唯一の話し相手は、ROMSと呼ばれる爆弾処理ロボット。スコープ越しに標的の姿をとらえるとき、相手をよく知っているような錯覚に襲われることがある、この少年がふと恋をする……
たとえば、「みんなの裏庭」は、警官を辞めて動物園の夜警になったマックと、ますます暴力的になり、手に負えなくなっていく九歳の息子との物語。マックは、増えすぎた動物を殺すという仕事もしなくてはならない。そのいやな仕事と、息子があるとき結びつく……
たとえば、「死の衛星カッシーニ」は、毎週木曜日、癌患者のセルフヘルプ・グループのチャーターバスを運転しているベンの話。癌患者たちはカテーテルを挿しこんだ身体で夜の街に繰り出しては人々をぎょっとさせる。そんなある夜、ベンはグループに新しく加わったばかりのスーという女性と知り合う……
たとえば、「トラウマ・プレート」ルースは両親が防弾チョッキのレンタルショップを経営しているため、毎日、防弾チョッキをつけて高校に通っているうちに、それなしでは不安でたまらなくなり、水泳部もやめてしまうが、ボーイフレンドができて……
とりあえず四編ほど紹介してみたが、どれも強烈なインパクトをもって迫ってくる。プロットも構成も驚くほど巧みにできているが、なにより無駄のない文体が快い。どれも奇抜な設定ながら、どの主人公も普遍的な問題を抱えている。肉親や親しい人との別離、孤独、喪失感、トラウマ、不確かな未来に対する恐れ、自分の限界を超えられない閉塞感、いらだち、そういったものが奇妙なストーリーのなかで不思議な説得力をもって語られる。まさに現代の短編を読む快感がここにはぎっしり詰まっている。
この短編集のなかで、そういった作品とはまったく色合いの違うものがひとつあって、これがまたすごい。タイトルは「カナダノート」。
一九六三年、カナダ情報局の指示にしたがい、殺人光線の開発に取り組んでいた連中にもとに、ソ連が月ロケット打ち上げを計画しているという連絡が入り、カナダの有人ロケット開発を引き継げとの命令がおりるが、できあがったロケットがなんと、小さすぎて、だれも乗れそうにない、そこで……というふうなナンセンスSFなのだが、これがただのナンセンスでは終わらない。ばかばかしくも、なぜか爽快なヒロイック・ファンタジー風不条理劇になっていく。
じつはアダム・ジョンスンの第二作目 Parasites like Us は、この短編を思い切りダイナミックに展開させたような長編なのだ。
一万二千年前、初めて北米大陸にわたってきた人類、クロービス人。アメリカ中部で、彼らの槍先型尖頭器が発見される。発見した学生が、実験として、その槍先で豚を殺したことから、旧石器時代の恐ろしい疫病が発生。まず豚インフルエンザが発生して各地で豚の処分が始まり、アメリカは豚のアウシュビッツと化する。疫病はまたたくまに鳥に伝染し、そして人間へと。生き残ったのは……
といった具合に、破天荒な物語が、強烈な皮肉と、抱腹絶倒のユーモアと、絶妙のペーソスをまじえて、展開していく。またそれを構成するユニークな登場人物たち。たとえば、エガーズ。いくつもの奨学金を受けている優秀な学生だが、論文のために一年間ほど旧石器時代の生活をしていて、食肉加工場でもらってきた動物の毛皮を着て、大学構内にマンモスの骨と動物の毛皮で作った小屋に住んでいる。そして、未来の科学者にあててこの物語を語る主人公もいい味を出している。この作品、ぜひ訳したい。が、訳すには、『トラウマ・プレート』の数倍の体力と気力を必要としそうなので、目下思案中である。
ともあれ、まずはこの短編集、存分に楽しんでいただきたい。
本書の翻訳についてひとつお断りしておきたい。じつは二人称の短編がふたつ入っている。欧米では、このような作品がたまにある。日本でもいくつか翻訳があって、今までは「君は」とか「あなたは」とか「おまえは」というふうに訳されてきた。しかし、これはあまりに不自然だ、ということで訳者ふたりの意見が一致した。もちろん、日本でも二人称の小説がないことはないが、欧米にくらべるとかなり少ない。それに日本語の二人称の小説と、英語の二人称の小説はかなり違う。そもそも英語において二人称は 'you' しかない。
そこで作者と相談のうえ、二人称の短編は少し手を加えることにした。
まず「死の衛星カッシーニ」は二人称の作品だが、一人称で訳した。
次に「トラウマ・プレート」。原書はちょっと凝った構成になっていて、全体が三部に分かれている。第一部は父親の視点から、第二部は妻の視点から、第三部は娘の視点から描かれているのだが、それぞれ一人称、三人称、二人称で書かれている。翻訳ではこれをやめて、すべて一人称にした。作者からは、「それ、おもしろいかもしれない」という返事をもらっている。
最後になりましたが、編集の木村由美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった野沢佳織さん、質問や相談に快く応じてくださったアダム・ジョンソンさんに、心からの感謝を!
二00四年三月三日 金原瑞人