【児童文学評論】 No.95  2005.11.25

   あとがき大全(52回目)

1.ジュリアン
 「ジュリアン」といっても人の名前ではない。出版社の名前だ。
 以前、この「あとがき大全」で書いたのだが、二年ほど前、青山出版社からドナ・ジョー・ナポリの作品がシリーズで出ることになった。Beast、Crazy Jack、Zel、Breathの四冊だ。それぞれ、『美女と野獣』、『ジャックと豆の木』、『ラプンツェル』、『ハーメルンの笛吹き』のパロディ。ところが、青山出版社が出版方針を変更し、すべて出版が中止になった。Beast などは、すでに訳し終わって校正の段階だったのだが、これも中止。そこで、この場を借りて、「どこか代わって出版してくれませんか!」と呼びかけたところ、ありがたいことに、編集者の倉澤さん、牧野出版の佐久間さんが協力してくださって、ジュリアンの出版局から四冊すべて(じつは、青山出版社から出ることになっていて中止になったものが、あと二冊あったのだが、これもふくめて、六冊すべて)、出してもらえることになった。心からほっとした。もう感謝、感謝、である。
 なにしろ金原が選書して、翻訳を頼んだり、共訳を頼んだりしていたので、心苦しくて。
 そしてまずそのうちの二冊がジュリアンからめでたく出版の運びとなった。『野獣の薔薇園』と『クレイジー・ジャック』。
 『逃れの森の魔女』でナポリを知ってからというもの、彼女の作品は出るたびに読んでいるのだが、読むたびに驚かされる。元になっている作品を信じられないほどユニークに語り直す、あの想像力。また、ナポリの場合、各作品を必ず、ある時代のある場所を舞台に決めて書くのだが(たとえば、『逃れの森の魔女』の場合は中世のドイツらしい場所)、その舞台について徹底的に調べて、とてもリアルに描写していく、その緻密さ。こういった特徴は『野獣の薔薇園』や『クレイジー・ジャック』にもそのままあてはまる。
 ともあれ、『逃れの森の魔女』の好きな方はぜひ読んでみてほしい。『野獣』は久慈さんの訳。『ジャック』は金原と小林さんの共訳。

2.『四月の痛み』『トロール・ミル』『クレイジー・ジャック』
 今月は、この三冊のあとがきを。
 『四月の痛み』は一般書。

   訳者あとがき(『四月の痛み』)

 わたしはかつて、三十歳までに死ぬと誓っていた。二十八歳になると、四十歳に延期した。その次はたしか七十歳だった。明日、わたしは八十六歳になる

 この老人が老人ホームでつづった日記がこの本。四月二日に始まって、次の年の四月六日に終わる。
 ここにはホームでのいろいろな出来事、仲間とのふれあい、過去の回想、日々近づいてくる死に関する考察、日々生きていくことへの思い……などが語られている。
 仲間といえば、ユーモアのセンス抜群で、いつも脱走やいたずらを考えては、たまに実行に移すウェーバー。主人公は「不朽の名声が欲しいし、死んでからも人々にわたしのことを考えてもらいたいと」と思っていたが、ウェーバーは「自分以外に人間になりたがることなどけっしてない」
 そんなウェーバーを見て、主人公はふと考える。

 そもそも、他人より優れた者とか劣った者などいないのではないか? おそらく、ウェーバーはそれが真実だと信じているのだろう。だからこそ、死を恐れないのだ。わたしは生まれてこのかた、毎日、死を恐れている。死にともなう痛みだけでなく、哲学的な意味でも死が怖い。死という概念と、それにまつわるこまごまとしたことすべてが怖い。

 全編に流れる、こういった主人公の思索と感慨はとてもユニークで、われわれとは少しずれた視点から世界をながめているようであると同時に、鋭くおもしろいところをついてくる。

 目には匂いをかいだり、音を聞いたり、味わったり、触れたりするためにもある。想像したり、悩んだり、実在しない世界から実在する星を見つけるためにもある……わたしの目は目に見えるものすべてであり、見えないものすべてである。両目が開いているとき、わたしの目には無限大の二倍の能力がある。閉じれば、能力はさらにあがる。

 これを読んだときすぐに、後藤繁雄の『五感の友』(リトルモア)を思い出した。この本にこんな文章がある。

 すべての見えるものは、見えないものに触っている。聞こえるものは、聞こえないものに触っている。感じられるものは、感じられないものに触っている。おそらく……これは志村さんがご自身の本の中で引用されていたノヴァーリスの言葉である。僕は、この言葉に出会った時、すぐさま日記ノートに書き写した。自分がずっと言いたかったもどかしさが、見事に簡潔に記されていたからだ。

 文中、「志村さん」とあるのは、もう亡くなった染織家の「志村ふくみ」のこと。「ノヴァーリス」というのはドイツ初期ロマン派の詩人・作家。
 そう、『四月の痛み』を読んでいると、「ずっと言いたかったもどかしさが、見事に簡潔に記されて」いる文章によくぶつかる。
 それだけでも十分に、いや十二分におもしろい。たとえば、次のような部分もそうだ。

 わたしが妻と結婚したのは、ほかに選択の余地がなかったからにすぎない。彼女を自分のものにせずにはいられなかった。それだけのことだ。この考えは、いささかも変えるつもりはない。変えてどうなる? 長い目で見れば、正しい選択とか間違った選択などというものはない。あるのは選択をしたかしなかったか、その違いだけだ。

 そう、そうなんだ、と思わずいってしまいそうになる言葉や考察に、この本はあふれている。どこを読んでも、はっとさせられ、次の瞬間には納得させられる。
 しかしこの本はエッセイ集ではない。そういったことを考えている、いや、考えざるをえない老人が主人公の小説だ。だから、その老人のいらだちや恐怖も語られる。いうまでもなく、「死」を目前にした人間の思いだ。それがまた、驚くほどリアルに描かれていく。しかしいうまでもなく、死んだことのない人間は死を知りようもなく、そこで語られるのは死ではなく生なのだ。そのパラドックスは、生きている限りどこまでも追いかけてくる。この本は死を目前にした老人が語る「生」についての本だといっていい。
 この作品の最後の部分にいたったとき、読者はそれを、ある種の甘い切なさとともにかみしめるに違いない。
 それにしても、この八十六歳の老人の話は、フランク・ターナー・ホロンが二十六歳のときに書いた最初の小説。装いはずいぶん古い感じがするものの、よく読むと、若い。自分にはとても想像もできない老齢を想像し、「老い」というものをしっかり手元に引き据えて書いたこの小説、信じられないほどリアルだ。生も死も、人生も死も、老いも死も、若さも死も、すべてがこの薄い一冊に凝縮されている。
 読み飛ばしたくなる小説が量産される今日、ゆっくりじっくり読みたくなる一冊だと思う。

 最後になりましたが、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さん、この作品をぽんと投げてくださった編集の中村剛さんに心からの感謝を!

   二〇〇五年八月二十二日      金原瑞人

   訳者あとがき(『トロール・ミル』)

 すさまじい風と降りしきる冷たい雨の中、ひとりの女が駆けてきて、ペールの手に赤ん坊を押しつけ、去っていった。若い漁師、ビヨルンの美しい妻チェルスティンだ。チェルスティンはそのままふり返りもしないで海岸へ走っていくと、灰色の波に飛びこんだ。
 ペールは赤ん坊を抱いたまま、大急ぎでビヨルンに知らせにいく。

 ビヨルンは舟に勢いよく飛び乗った。ガラガラ転がるオールをひっつかむと、猛烈な勢いで水をかきだし、体を右に左にくねらせて、海の上にチェルスティンの姿を必死に捜した。ビヨルンのひび割れた叫び声がペールの耳に届いてくる。
「チェルスティン! チェルスティン、もどってこい……」
 舟は白く砕ける波頭を飛びこえ、雨と闇のなかに飲みこまれていった。
 ペールは目をみはった。まるで小さなしみのように、つやつやした頭が海面で浮いたり沈んだりしているのだ。夢中で走り出したが、それはすぐ消えてしまった。ところがそこへ、また別の頭が。と思う間もなく、さらにまた別の頭が――それからはもう、次から次へと現れて、波のうねりにあわせてぽかぽか浮かんだり沈んだりしている。波のまにまに黒っぽい体がさっと現れては、また消えた。
「アザラシだ!」
 ペールの声がかすれた。

 『トロールフェル』でもそうだったが、キャサリン・ラングリッシュという作家は物語を作るのがうまい。とくにはじまりかたが素晴らしい。
 『トロールフェル』の続編『トロールミル』でも、そのうまさは舌を巻くほどだ。
 トロールの地底王国からもどってきて三年、ペールは十五歳になる。あくどい叔父たちもいなくなり、ペールは親友のヒルデの家族の一員として幸せな毎日を送っていた。そこへ、いきなりこの事件。ペールはしかたなく、世話になっているヒルデの家にもどる。そして耳にしたのが、アザラシ女のうわさだった。チェルスティンは、ビヨルンが漁にでかけたときみつけて無理やり妻にしたアザラシだというのだ。
 チェルスティンは海に消えたままもどってこない。ビヨルンはうわさについてはなにもいわないが、不安で居ても立ってもいられないのは、だれの目にもわかる。そして、ペールがあずかった赤ん坊は不思議と静かで、いつもおとなしい。あのうわさは本当なのか。
 いっぽう、ヒツジが次々に盗まれ、しばらくおとなしかったトロールたちがあちこちで不穏な動きをみせだした。いったい、なにが起こっているのか。
 また、ペールの叔父たちがいなくなってから、使われていなかったはずの水車小屋の水車が夜になると回り始める。いったい、だれがなんのために動かしているのか。
 そういった不気味な事件と謎がからみあって、物語が大きく動いていく。これにペールの、かわいい少女ヒルデに寄せる気持ち加わる。
 今回も前と同じようにトロール、ニース、グラニー・グリーンティース、ラバーなどが登場して、物語はユーモラスにもりあがったかと思うと、ぞっとするような場面になったりする。
 北欧の香りたっぷりの冒険ファンタジーの第二弾。どうぞ、ゆっくり楽しんでください。
       二00五年九月               金原瑞人

   訳者あとがき(『クレイジー・ジャック』)

 妙に相性のいい作家というのがたまにいる。もちろん、どんな作家であれ、書いた作品がすべておもしろいということはないし、まれには駄作もないとは限らない。しかし作品の出来は善し悪しがあるとしても、なぜかどれもがしっくりくる、読んでいて心地よい、そしてエンディングも深くうなずけるうえに深く迫ってくる、そんな作家が何人かいる。日本の女性作家でいえば、江國香織、川上弘美、森絵都、三浦しをんあたりがそうだ。英語圏の女性作家でいえば、フランチェスカ・リア・ブロック、ジェラルディン・マコーリアン、ドナ・ジョー・ナポリあたりがそうだ。新しい作品が出ると、つい読んでしまう。ここに異色の新しい作家をひとり付け加えれるとすれば、オーストラリアのシンシア・ハートネットだろうか。
 さて、そのうちのひとり、ドナ・ジョー・ナポリだが、とにかく出会いが強烈だった。作品は『逃れの森の魔女』(青山出版社)。原書は表紙も装丁も、はっきりいって、むちゃくちゃださい本だった(日本語版を送ったところ、作者から「とても美しい本で、思わず泣いてしまいました」というメールがきた。表紙は出久根育さん) なぜそんなものを読み出したかというと、まず薄くて、ちょうど電車の帰りに読み終えることができそうだったのと、冒頭の情景が息をのむほどあざやかに浮かんできたためだった。そして電車の中で読んでいくうち、いつの間にか、主人公の気持ちに自分の気持ちがとけ合っていった。
 ナポリの心理描写は、舌を巻くほど巧みで、的確で、きびしく、やさしい。とくに印象に残っているのは、主人公が魔法陣のそばに転がってきた金の指輪を見つけるところだ。容姿が醜いために、いっそう美しい物や宝石にあこがれる主人公は、「天上の美」に輝いている金の指輪を心からほしいと思うが、ふと考える。いや、これは自分のものではない、これは美しい娘アーザのものだ。この指輪はアーザの身を飾り、そのお返しにアーザの輝きがわたしの世界を明るく照らし出す。それでいいのだ。
 そう思って手をのばした瞬間……というこの展開は、何度読み返しても切なく恐ろしい。こういったとてもリアルで、読者の胸を突くような心理描写(主人公のコンプレックス、娘への愛情、美しい物への渇望、それを正当化するための方便などなど)が、ナポリの作品の大きな魅力だと思う。
 その魅力はこの『クレイジー・ジャック』にも十分にうかがえる。これは「ジャックと豆の木」をヒントに作り上げられた小説、いってみればパロディだが、一種の心理小説であり、また、主人公ジャックの成長小説でもある。そしてなにより、見事な発想の切り返しによって作り上げられた冒険小説でもある。
 大道具は、七色の豆、豆の木、巨人、金の卵を産む鶏、金の入ったつぼ、歌う竪琴といった、昔話でおなじみのものだ。が、ナポリの魔法にかかると、それらが昔話という衣を脱ぎ捨て、その本質をむきだしにする。こうして魔法の物語がリアルに、生き生きと、しかし昔話のおもしろさはそのままに展開していく。だから、巨人は巨人であって巨人ではないし、金の卵を産む鶏は、金の卵を産む鶏であって、金の卵を産む鶏ではない。また、この作品のなかでは、ジャックの父親とかわいいフローラという女の子が大きな役割を負っている。いや、それだけではなく、巨人といっしょに暮らしている女もまた、大きな意味をもって登場してくる。
 ナポリは昔話やおとぎ話の魔法をはぎとって、その奥に隠された現実を引き出し、それをまた巧みに紡ぎ上げて、現代の昔話を作り上げる。まさに現代の語り部といっていい。
 どうか、存分に楽しんでいただきたい。

 なお最後になりましたが、編集の津田留美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった高林由香子さんに心からの感謝を! 

    二〇〇五年七月二十四日             金原瑞人 

3.おわび
 『メジャーリーグ、メキシコへ行く』のあとがきで、「原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さんと野沢佳織さん……」と書いたのだが、野沢さんからメールがきて、「あの、わたし、つきあわせ、してないんですけど」とのこと。ううん、まいった。もうひとかた、だれだっけ? この作品、翻訳があがって出版社に放りこんでからずいぶん時間がたっているから、記憶がどうも……。「わたしです!」というかた、ぜひご連絡を。

4.八重洲座公演
 11月は女流義太夫で『仮名手本忠臣蔵』を。これに橋本治+岡田嘉夫の対談がつく。八重洲座初の満員札止め。120席すべて埋まった。
 ごひいきのみなさまに、心からの感謝を!
 ただ、心配なのは12月の八重洲座の公演。こちらは上方若手ナンバーワンの落語家、桂文我さんをお呼びしての企画。金原とのトークと、文我さんが掘り出してきた、いまではだれもやらない落語との組み合わせ。絶対におもしろい! なのに、なぜ心配かというと、公演日が24日、なんと、クリスマスイブの1時と4時の二回なのだ。彼女や彼氏を放っておいて、いや、いっしょに連れて、いやいや、家族総出で、ぜひ、八重洲座へお越しください。

5.エッセイ集
 なんと、この「あとがき大全」からの抜粋を中心に編集した、金原初のエッセイ集が12月上旬に出版の予定。タイトルは『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』(牧野出版)。
 この場を提供してくださったひこさん、また、飽きもせずおつきあいくださった読者のみなさまに、心からの感謝を!


【絵本】
絵本読みのつれづれ(10) おひめさまの話
(Tさん 3歳5ヶ月、Mくん 9ヶ月)

 先日、フィンランドのポスドクのマルティナさんという方が家に見えた。アリスのイメージの研究などをなさっていて、日本でのリサーチも、ビジュアルな資料にご興味をお持ちだったからのようなので、見せるほどのものでもないが、日本の一般家庭の絵本や『Bookend』『Pee Boo』などの雑誌をご紹介した。
 Tさんはお客様がくるとすっかりシャイになってしまうタイプなのだが、自分の絵本がわさわさ出されているのを見て「そういう集まり」なのだと理解したようで、なんだかまわりをちょろちょろしていたが、やがて、山積みになった中から、ふと、お客さんを忘れて『わたしのワンピース(にしまきかやこ絵・文、こぐま社、1969年)を読み始めた。

 『わたしのワンピース』は、1年半前にTさんとの絵本読みの記録を『子どもプラス』に初めて書かせていただいたとき、入れようか迷った絵本だから、2歳になる前にはもう読み聞かせはじめていた。小さいTさんがすぐに暗記してしまった本でもあり、ワンピースの次々に変わる模様にひきつけられ、自分で「ミシン カタカタ」とまねをする。うさぎが眠って星空を横たわる場面にはテキストがなく、ばんばんページをたたくTさんに「字のないページもあるのよ」と、絵を読むことを初めて教えたのもこの絵本だった。
 NHK教育の「テレビ絵本」で映像になったものを見たときは、CHARAさんのちょっと不思議なふわふわした声が、うさぎのモノローグによく合っていたのも思い出す。クレヨン風の一見単純な線と色合いの、だけどとても深みのある画のそれぞれが、私にもTさんにも魅力的な絵本だ。

 だけど、この絵本、2歳前で読んだときから食いつきがよかったのに『子どもプラス』に書かなかったのは、まさに初めて見たときに「これがジェンダーのはじまり?」と戸惑ってしまったからだった。それまでは、バムとケロにしろ「012」のシリーズにしろ、Tさんが読んでいたのは「こども」向けのものだったのだが、『わたしのワンピース』が、とりあえずはとても「女の子」向きであったことに、それまでそういう絵本をほとんど見てこなかった中で、ものすごく強烈に感じたのだった。

 ところが3歳半の今では、最初に読んだときに感じたあの「女の子らしさ」を、それほど強くは感じない。それはTさんの周りに、もうすでに1年半かけて女の子らしいものがどっぷり進出してきたからであり、彼女の宝物の中には、例えばおまけでもらったディズニープリンセスのカレンダーやプリキュアのティッシュが入っている。
 マルティナさんに「この絵本はすてきね。でも、なぜうさぎなの?」と聞かれたとき、そういえば昔は驚いたのだ…と思い出しながら「たぶん、うさぎは白くてふわふわしていてかわいいから女の子のシンボルで、テーマもワンピース作りだから女の子向けで、出版されたのは1969年だからジェンダーのバイアスがかかっているかもしれない…」と、もごもごとしゃべった。最初は強烈に感じた『わたしのワンピース』は、他の記号にまぎれて当たり前になっていっていて、いつのまにか、Tさんは女の子になり、うさぎは女の子であることに私は慣れてしまっていた(なるべくそういう差異に意識的であろうとしていたのだけど)。

 ごく低月齢の赤ちゃんのうちは男女がはっきり分からないことが多いから、他人にとっての目印に、女の子は赤、男の子は青のベビー服が選ばれる。その名残でいきおいTさんの場合は(頂き物が多かったこともあり)赤やピンクの服が多かった。もちろん青やオレンジや黄色や緑など他の色もあるけれど、「どのお洋服着ようか」とコミュニケーションができるくらいの年になると、「ピンク、Tちゃん、ピンク!」と主張するようになり、赤系で揃っていればコーディネイトもしやすいし、という実用的な理由もあって、見事に女の子色の服になっていった。
 だけど、たとえばその先で他人にいわれる「やっぱり女の子ねえ」という言説は、社会性をおびている。そういう言い方には心の底で反発しつつ、そうですねえなどと適当に相槌を打ち、「着ないともったいないから、本人の喜ぶ服を買おう」「本人の喜ぶ服を着せよう」という意識に助長されるうち、少なくとも、Tさんの女の子服への方向性ができてしまった。デニムの服もシックな服も、Tさんは小躍りするほどは喜ばない。そのへんは、やっぱり子どもの喜ぶ顔が見たい親の気持ちで選んでしまうのである。
 
 ジェンダーは少しずつ伸ばしたり叩いたり変形されたり整えられたりしていく。
 ここで、私は記憶をひもとく。Tさんがピンクとふりふり好きになったのは…。
 2歳半のときに買った、今まさに着て寝ているパジャマだった。買ったのはサイズが大きくなったからというまったく実用的な理由からだったのだが、本当になにげなく、「こういうのは喜ぶかな」と思って選んだのが、白地に薄いピンクの水玉で、綿レースとピンクのリボンがアクセントになっていて、上着はベビードール風のデザインの、まさに「可愛い」ものだった。
 そうだ、あれが引き金だった、と今思う。Tさんはまさに一目ぼれで、「かわいいパジャマ」がいたくお気に入りになった。そして、ピンクと白とフリルとリボンに目覚めてしまったのだ。
 何か潜在的なものを激しくゆすぶる記号が、Tさんの場合は「ピンクのお姫様風」だった(しかもパジャマ)。これは人によってそれこそ様々だろうから(キティちゃんが好きな人もいれば、ヴィトンに目がない人もいる)、Tさんのスイッチがたまたまピンクとリボンだったのだろう。そこには、文化的な縛りもジェンダーもない。
 だけど、それをそのまま受け入れ、引き伸ばしたのは親も含めて周囲だと思う。パジャマ以来、「Tちゃん、ピンクが好き!」と叫んでも誰もそれを否定せずにピンクの服を着せた。修正しなかったものの結果が、彼女の好みを助長し、今のところはまさに「女の子」に要請された形を満たして現時点に至る。
 もちろん、こんなパジャマだっていつかは卒業するだろう。彼女の選択はどんどん変わるだろう。だけど、変わっていく中で、Tさんが選択するコードと、社会的規範と、親の好みと、フィクションからのメッセージはどう複雑化していくのだろうか。

 さて、そういう前提を踏まえて今Tさんが好きなのは『シンデレラ-小さなガラスの靴』(天沢退二郎訳、東逸子絵、ミキハウス、1987年)である。東逸子さんの絵はいつだってゴージャスで西洋的で、そのめくるめくきらきらの世界は、すっかりTさんを魅了している。「これすてきねえ」とかぼちゃの馬車の前に立つピンクのドレスを着たシンデレラをうっとり眺め、その見開きの場面を開いて書架に立てかけている。ペローの再話は宮廷文学だから、描写もまたゴージャス。その勢いで、保育クラブでは、ピンクのスカート(教室内のおもちゃで着て遊べる)をはいて「おひめさまになってパーティごっこ」で遊び、七五三の写真は着物以外に「ピンクのドレスも着る!」と主張した。

 また、あいかわらずパーティごっこも好きで、Tさんはブッククラブで届いた『おばけパーティ』(ジャック・デュケノワ作、大沢晶訳、ほるぷ出版、1995年)で、アンリのパーティに喜び、『たんじょうびのまえのひに』(かるべめぐみ作、こどものとも586号、福音館書店、2005年1月)はかれこれ数ヶ月以上何度も読み続けている。
 『たんじょうびのまえのひに』は、お隣のディエゴおばさんが、おたんじょうびの前の日に、まきちゃんに布やボタンやリボンを選ばせ、その材料で猫に変身できる着ぐるみを作ってくれる話だ。ディエゴおばさんの飼い猫のディエゴは、まきちゃんとは遊ぶペースが合わなかったのだが、まきちゃんが衣装で猫になったので、ディエゴと楽しく遊べるようになる。少しくすみの入った色と登場人物の表情に味がある。衣装を作る楽しみ、四角いボタンが好き、緑の布が好き、という選択が楽しく、Tさんは、「あーん、ディエゴだめ」というまきちゃんのセリフを、まさに弟に何か取られたりするときと同じ臨場感でしゃべっている。

 Mくんの方は、今、「本棚から手の届く限りの本をなぎ落とす」遊びに夢中である。ペーパーバックや文庫本を深夜に片付けても次の日にはまた落とされ、親にとっては賽の河原だが、Mくんが落とす文庫本はすべて表紙が取られていて、本棚の下から三段目以上は無傷である。ということは、これは、かつてTさんが同じ遊びをしていたこと、Tさんはなおかつ文庫本のカバーも全部取る、という今よりハードな遊びをしていたこと、そして、三段目に手が届くくらい大きくなった頃にはこの遊びは卒業、ということだ。今だけ、今だけこうして遊んで楽しい。Mくんは文庫本とペーパーバックに埋もれ、ウェストールの原書をなんとなくめくっているが、それがつかのまであることを知っているから、寛大にもなれる。
 絵本読みのときにTさんに読んでいると、Mくんは私の側からハイハイで絵本を乗り越え、Tさんにのしかかりに行き、ついでに、自分もページをめくりたくてしょうがなくて絵本のページをくしゃっとする。Tさんは「きゃあ、やめてよー、Mくん」と半ばゲラゲラ笑いながら絵本を引っ張る。
 Mくんも、しかし、だんだんに男の子になっていくはずである。話しかけ方ひとつとっても、「ぼくのなんだよね」といった風に言語そのものが男性化されているし、お母さん同士のおしゃべりでは「もう離乳食もずいぶん進んでね」「二人目は早いよね」「でも、まだまだ母乳大好きなの」「そういうところは男の子だよね(笑)」といった会話が日常的になされている。彼を男の子にしていく社会や見方はすでに始まっている。TさんもMくんも、自分の好きなようにいろんなものを選んでいってほしい。やがて彼らが何か息苦しさを感じたら、それはそのときに考えよう。

(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/)

『ぼくのえんそく』(穂高順也:作 長谷川義史:絵 岩崎書店 2005.10 1300円)
 風邪を引いてえんそくに行けなくなったぼく。でも、気持ちは行くぞ!
 ということで、今にも雨が降り出しそうな空も、ぼくの「気持ち」が晴れにする。
 画は横に縦にと見開き上に自由に飛び回り、文もそれに呼応します(逆かな)。長谷川の画の奔放なセンスや膨らみが良く生きています。
 そう、「気持ち」が上手く描かれているのです。(hico)

『ふようどのふよこちゃん』(飯野和好:作 理論社 2005.10 1200円)
 ああ、もうタイトルで、飯野の勝ち。
 ふよこちゃんはふようどの一番下の女の子です。ああ、すごいことだ。
 このノリだけでOKなのですが、里山、農村風景が、変わっていき、農薬が使われ腐葉土があまり使われなくなりと、押さえるところはちゃんと押さえてあります。
 けっこう腐葉土好きの私としては、ふよこちゃんがとてもかわいいのだ。(hico)

『ふゆのまほうつかい』(ジュリー・モックス:さく 代田亜香子:やく 小峰書店 2004/2005.11 1300円)
 イギリスで2004年Best of Illustrationを受賞した絵本。
 雪が降り、その幻想的な風景の中で遊ぶ子どもの姿。冷たそうですが、心は温まる。静かな白い世界に子どもの声がしそうです。
 ただ、この画がBest of Illustrationというは正直驚きました。イギリスでは新鮮な画に見えるのかな~。ふしぎ。(hico)

『ちびうさ いえで』(ハリー・ホース:作 千葉茂樹:訳 光村教育図書 2005/2005.11 1400円)
 まいごになったかと思ったら、今度はいえでです。ちびうさは忙しい。もっともまいごと違って今回は自覚的ですから、やっぱ成長しているのですね。
 色んな「大冒険」をちびうさと一緒に楽しみます。ちびうさは必死なんですがね。
 最後はもちろん幸せな結末。(hico)

『ゆきがふったら』(レベッカ・ボンド:さく さくまゆみこ:やく 偕成社 2004/2005.11 1600円)
 『あかちゃんのゆりかご』のレベッカ・ボンド最新訳。
 雪が降り、除雪車がそれで山を造り、子ども達が遊ぶ。
 たったそれだけのことなのに、暖かな気分になるのは、画の力。寝ていた子ども達が起きて、遊ぶために気合いを入れて服を着るところからもう、ワクワクしてきます。併せて訳文のリズムがスキップさせてくれます。(hico)

『まいごのマイロ』(大島妙子 あかね書房 2005.10 1300円)
 こわがりな子犬のマイロはいつも母犬のそばにいるのですが、ある時迷子になります。どうしていいかわからないときに、ヘンな生き物の子どもに会って一緒に遊ぶ。ヘンな生き物(かいじゅう)の子どもは呼び声で母親のもとに帰る。それを見たマイロも元気になって、帰り道をさがす。
 シンプルな展開ですが、「帰れない」で嘆くことから「帰りたい」に変わり、「帰ろう」へと至る意志力開花の道筋は、子どもにも大人にも分かりやすく楽しい。(hico)

『小さな 小さな おとうと だったけど』(高橋妙子:作 山本まつ子:絵 あかね書房 2005.10 1300円)
 突然死(SIDS)をテーマにした作品。
 五歳になった男の子は、新しく家族になる弟を心待ちにしていますが、亡くなってしまいます。残された家族の痛み、ぎくしゃくし始める両親に不安を抱く「ぼく」。そこからの再生までを描いています。
 残念ながら当事者以外はまだなかなか余り関心を持たないSIDS。もっと知られることが、なにより力となるのです。(hico)

『おひさまえんの さくらのき』(あまんきみこ:作 石井勉:絵 あかね書房 2005.10 1300円)
 入園式のあと園に行きたくなくなった女の子。おばあちゃんが話してくれます。昔、同じような女の子がいたことを。
 それは、おばあちゃんの娘、女の子のお母さんのことです。
 子どもの不安を柔らかく包んでくれる物語。(hico)

『おもちぶとん』(わかなべゆういち あかね書房 2005.10 1000円)
 あはは。おもしろい。
 それ以上言う必要もなし。
 あはは。(hico)

『子どもとよむ日本の昔ばなし(かさじぞう)』(おざわとしお:ぶん しのざきみつお:え くもん出版 2005.11 450円)『子どもとよむ日本の昔ばなし(いっすんぼうし)』(おざわとしお:ぶん たしろさんぜん:え  くもん出版 2005.11 450円)『子どもとよむ日本の昔ばなし(花さかじじい)』(おざわとしお:ぶん ふくだいわお:え  くもん出版 2005.11 450円)
 日本の昔話は、昔話であるからして子どももみんな知っていると思うのは、近頃では間違いで、案外知りません。だから悪いとも思いませんが、基礎知識としては知っておいても悪くありません。
 これなら手軽にシンプルに、どうぞ。(hico)

『チリとチリリ まちのおはなし』(どい かや アリス館 2005.11 1200円)
 読めばなんとなく幸せになるタイプの絵本。シリーズ3作目ですから、物語のリズムもおなじみとなり、チリとチリリの世界を堪能できます。(hico)

『かくれんぼ(たくさんのふしぎ249号)』(岩瀬成子:文 植田正治:絵 福音館 2005.12 700円)
 植田の写真に「かくれんぼ」というコンセプトで岩瀬が文を付けている(という順番かはわからないけど)。
 写真は別にかくれんぼをしているものではない。それを「かくれんぼ」で読み解くと、別の顔が見えてくるわけ。一見普通の写真にドキドキしてきます。
 うまい。(hico)

『クリスマスをめぐる7つのふしぎ』(斉藤洋:作 森田みちよ:絵 理論社 2005.11 1100円)
 クリスマス物です。
 斉藤洋の腕の見せ所。いきなり、「サントクロースはパパ?」ときました。そうじゃないよと、教えてくれます。(hico)

『だれも知らないサンタの秘密』(アラン・シノウ:さく 三辺律子:やく あすなろ書房 2004/2005.11 1500円)
 クリスマス、サンタがプレゼントを持ってくる。というだけで楽しい時代もありましたが、今はそう、サンタ達は何者なのか、あの衣装の中はどうなっているのか、ちゃんと知りたいのです。ちゃんと教えてくれるのがこの絵本。これを読めばサンタが身近になります。身近になるとサンタのありがたみがなくなる? それはあなたの想像力しだいです。(hico)

『チビねずくんのクリスマス』(ダイアナ・ヘンドリー:作 ジェン・チャップマン:絵 くぼしまりお:訳 ポプラ社 2005/2005.10 1200円)
 チビねずシリーズのクリスマス版です。
 初めてのクリスマス、初めての雪。チビねずくんの興奮が真っ直ぐ伝わってきます。
 子どもの恐怖感は美味く描けていて、大人にサポートされる安心感もほんわかと。
 こうした展開は子どもが安心するためか、大人がそう思いたいためか? ってことをいつも思います。(hico)

『ちょろちょろかぞくの あがります』(木坂涼:さく 大森裕子:え 理論社 2005.11 800円)『ちょろちょろかぞくの のばします』(木坂涼:さく 大森裕子:え 理論社 2005.11 800円)『ちょろちょろかぞくの ひらきます』(木坂涼:さく 大森裕子:え 理論社 2005.11 800円)
 言葉と体のリズムを考えている木坂の幼児絵本。「あがります さがります」「のばします まるめます」「ひらきます とじます」。ただそれだけが繰り返され、様々な場面での「あがります さがります」「のばします まるめます」「ひらきます とじます」が大森の画で描かれます。ただそれだけなのですが、登場する生き物たちの動作と声に出してみる言葉が共鳴すると、呼吸しているだとか、生きているだとか、普段気にも留めないことが意識されてきます。子どもが画面を見ながら同じ動作をして楽しむといった使い方もできるでしょうし、動かず呼吸をためて、言葉の力を確認してみることもいい。(hico)

【創作】
『ぼくのプリンときみのチョコ』(後藤みわこ 講談社 2005.11 950円)
 春彦と真樹は幼なじみ。真樹が市立の通っているので学校は別々。真樹は両親がドイツに行った関係で今晴彦の家にいる。
 ある日晴彦は同じ学校の志麻子を誘ってテーマパークへ三人でデート。いつも晴彦からマキ(真樹)のことを聞かされている志麻子は、マキを女の子だと思いこんでいたので付き人気分。本当は晴彦が好きなんだけど・・・。が、マキは男の子、しかも美形。晴彦は晴彦でマキと志麻子がお似合いのカップルなもので、なんだか居心地が悪い。幼なじみのマキは好きだし、志麻子のことだって・・・、あ、どっちが好き?
 マキと志麻子は100万人目の入場者となり、係の人も二人をカップルだと思うし、でも、志麻子は晴彦のことが好きだし、いつも晴彦と一緒にいるマキがうらやましい・・・。
 100万人目の記念イベントは、願いを叶えてくれること。もちろんそんなのウソだと思う。志麻子の晴彦への想いをさっした真樹は「ぼくが志麻ちゃんだったら・・・」と書く。志麻子は志麻子で「真樹くんになりたい!」と。
 願いが叶ってしまったらしく、志麻子のふくらみ始めた胸が真樹の胸に、真樹の男の子の胸が志麻子に。事情がわからない晴彦は、真樹の胸に気づき、体が勝手に反応してしまうのだった。
 真樹に勃起してしまう晴彦は、自分は真樹を好きだというのですが、真樹はぼくではなく志摩ちゃんの体の反応しているんだと指摘。といった辺りの鋭い分析もちゃんと入っています。
 初恋物語にBLをふりかけ、ジェンダーへの視点も盛り込んだ、でもエンタメの基本もしっかり押さえた出来の良いストーリー。
 プリンとは乳房、チョコとは勃起したチンチンのことです。(hico)

『いつもそばにいるから』(バーバラ・パーク:著 ないとうふみこ:訳 求龍堂 2000/2005.10 1200円)
 だいすきなおじいちゃんスケリーが、アルツハイマーとなり、それをどう受け入れていくのか、受け入れることができるのか、ジェイク少年の心の動きを描いています。
 また、癒し系かよ。と思って読み始めたのでですが、そして確かにそうして売り方もなされていますし、それでなにが悪いとも言えない(単に私がうんざりしているだけで)のですが、この物語は簡単に「号泣」などさせてはくれません。というのは、ジェイクの痛みが、とまどいが、うんざりが、愛おしさが、かざることなくストレートにあがかれているからです。それらを受け入れ咀嚼しないことにはこの物語を読めませんから、号泣なんかしている暇はないのです。(hico)

『炎をもたらすもの ファイヤーブリンカー01』(メレディス・アン・ピアス:作 谷泰子:訳 東京創元社 1985/2005.07 1900円)
 ユニコーンが主人公のファンタジー。
 彼らはワイヴァーンに彼の地を追い払われたという神話があり、いつかファイヤーブリンカーと呼ばれる英雄が現れ、ワイヴァーンに打ち勝つと信じています。
 王子コアの息子ジャンは、好奇心旺盛で、腕白。であるためか、用心深い父からたびたび叱られます。父に失望されているという思いはジャンの心を重くしています。それでも、ジャンは、掟からはみだしてしまいます。
 群れから離れたジャンは、自分達の世界、自分達の価値観と、外の世界は違うことを身をもって知っていく。パンにはパンの、ワイヴァーンにはワイヴァーンのそれがあることを。
 自分の所属する社会を相対的に眺めていくことで成長していくジャンの姿は、正統派の物語の面白さそのものです。
 神話動物を使ったハイファンタジーかと思いきや、物語の終わり頃、どうも人間らしいものの存在がちらつき始めます。この先どう展開しますやら。楽しみ楽しみ。(hico)

『レベル4』(アンドレス・シュリューター:作 若松宣子:訳 岩崎書店 1994/2005.09 1500円)
 コンピューター&ゲーム好きの少年ベンは、新しいゲーム『子どもたちの街』に夢中。レベル4まで行きたいのだが、レベル1で何度も失敗してしまう。
 ある日、両親がいない。外を見ても車は走っていない。いや、大人がいない!
 友達とも連絡をとるけれど、どうやらそれは、どこでも同じらしい。
 ベンは気付く、これはゲームと同じ状況だ、と。『子どもたちの街』・・・。
 子どもたちだけで、レベル4まで達しないと、ここからは抜け出せない。しかし、大人のいなくなった世界で、悪ガキのコーリャは、ボスになろうとたくらんでいた。そして、15歳になると、世界から消えてしまうこともわかり・・・。
 大人は必要かどうか? でもこのままの『子どもたちの街』では、15歳で消えてしまうこと。冒険を絡ませながら、そうしたかなり基本的な問いかけがなされていきます。
 魅力的な設定ですが、ゲームが単純すぎます。レベル1をクリアするまでに多くの時間が割かれ、あとは一気です。この辺りの割り振りがうまいっていればもっと説得力があったのですが。続編もあるようなので、期待します。(hico)


庄司なぎさ十一歳。パパは単身赴任で不在。ママはパリで怪我をしたおばあちゃんの介護で帰国できません。自宅に一人取り残された彼は、三反崎おばさんの家にお世話になることに。 今、主人公の名前が「なぎさ」と聞いて、男の子だと思った? 女の子だと思った? 答えは男の子。 『おれとカノジョの微妙Days 』(令丈ヒロ子 ポプラ社 八八二円)は、おもしろおかしいユーモア小説ですが、さりげなく大事なことを語っています。 美少年のなぎさくん、三反崎家にやってきたとき、女の子だと思われてしまいます。訂正しないといけないとは思うのですが、おばさんの家は母親と三姉妹の家族で、大の男嫌いらしい。ってことは、自分が男の子だとばれたら、家を追い出されるかも知れないと思ったなぎさくん、なんとそのまま女の子のふりをし続けます。 ここからは、三反崎家の人たちの誤解と、なぎさくんの秘密のせいで起こる、ドタバタが展開していきますから、大いに楽しんでください。 でね、そんなお話しだから、なぎさくんは、女の子は男の子にどう見られて傷ついているかや、女の子だけが共有している秘密なんかを知っていくわけ。女の子の視点で、世界を眺めるのです。つまり相手の立場から物事を考えるようになる。 男の子にこそ読んで欲しい物語。(読売新聞2005.11.14)(hico)

【時評】あたしの世界は、どうやら再生しはじめたらしい。

         ひこ・田中

 住んでいる集合住宅のエレベーターで下に降りていると、九階で小さな男の子を連れた母親が乗り込んできました。少し肌寒い日。男の子は半袖姿。「やっぱり、子どもは元気やね~」と顔見知りであるその母親に話し、確か五歳の男の子にも笑いかける。「でも、ズボンは長いのをはかせているんです」「どうして?」「転んでけがをするので」「は~、なるほど」 ありがちな会話。一階で親子はエントランスの方へ、私は裏口へと別れる。先に歩く母親。が、男の子は立ち止まり、上を向いて私に、「ぼく、けがしてもいたくない」と言いました。 なるほど。 彼は、半ズボンをはかせてもらえないことへの不満か屈辱感があり、そのうえで頭越しの「大人」の会話に腹が立ったか、傷ついたかしたのでしょう。笑いかけはしたけれど、確かに私は彼の前で彼を抜きにして、彼の服装(プライド)にかかわる話を母親としていたのですから。 子どもであることの不自由さ。 忘れていたことを思い出しました。

さて、児童文学。 何かもう一つ自信が持てないアキラ。唯一自信があったサッカーで、新任先生の前でエエカッコウしようとしたが見事失敗。家では、おしゃまな妹にやりこめられっぱなしだし、母親の小言に反発する気力もなし。 だからアキラは、なんとなく、ついつい、でしょうが、「もう何もかもが、どうでもよくなっていた」。 そんな設定からスタートする『あぶくアキラのあわの旅』(いとうひろし 理論社 千五〇〇円)。そこから物語がアキラをどうするかといえば、泡にしてしまうのです。落ち込んでいるアキラは風呂場で体を洗うのですが、そのとき使った見慣れない竜の模様の石けんがくせ者。あらら、体が泡になってしまうわけ。 泡になったアキラは、風呂場から母親によって洗い流されてしまう。下水道でドブネズミのハラヘラシに救い出されます。再び人間に戻るための術を教えてくれるらしい、カエルのソコナシばあさんの依頼を引き受ける。それは、竜(と言われているが、ただのヘビかもしれない)のドラドンから緑のレインコートを奪い返すというもの。相棒は、ハラヘラシと、謎の多いモグラのオオブロシキ。冒険物語が始まります。 動物たちのネーミングの仕方や、登場人物(動物)個々が抱える暗部、そして敵となるクマネズミのネコノツメのエピソード(個と組織)など、どうしても先行作品『冒険者たち』(齋藤惇夫)や『ひげよ、さらば』(上野僚)を想起させてしまうけれど、この物語を特徴立てるのはそこではなく、泡となるアキラ(子ども)です。 アキラの体は泡ですから冒険の間に何度もバラバラになったり、ちぎれたりします。それは一見、おもしろおかしい設定のように思えますが、次のような記述を読むと、単にそれだけではないようです。「アキラは、痛む体をくねらせながら、あわを拾いだした。ひとつひとつ、体全体で抱きこむようにして集めた。あわはすぐにくっついて、その度に痛みは減っていく」 つまりは、この物語の中ではバラバラになったり、ちぎれたりすることは、おもしろおかしいわけではなく、痛いのです。 泡になったからこそ描かれるこの事態は、身体のパーツ化や、アイデンティティのとりとめのなさといった、現代の子どもが抱える意識とシンクロしているように見えます。 最後にアキラは自分の体を取り戻します。「ほら、これがおれの足。人間の足だぜ。この足、ハラヘラシやオオブロシキに見せてやりたいな。ちょっと短めだけど、ちゃんとした生き物の足だ」 幸せな結末の一つではあるのですが、自分の足を「ちゃんとした生き物の足だ」と再確認するその姿は、一度自分自身を解体した後だからこそあるものです。 長い冒険で時間が過ぎてしまい、アキラは家族のことを考えます。「こんなに遅くなっても帰らないんだから、ちょっとやそっとの心配のしかたじゃないだろう。(略)でも、もしかしたら、全然心配してないかもしれない」 結局、現実の時間は全く過ぎてはいないことが最後にわかります。それはそれでホッとするのですが、「もしかしたら」と、いったんわき起こった不安は取り残されたままです。 もちろんそれは必ずしも物語の中で解消しなければならないものではないし、解消する必要があるとも言えません。残された不安は、爽やかなラストとともに、読者が持ち帰るものなのです。 一方、体がバラバラになるどころか、グングン伸びて、ただいま身長一八一センチなのは、中野けやきさん一四歳(『フルメタル・ビューティー! 1』(花形みつる 講談社 九五〇円)。女の子が身長一八一センチだって別にいいのだけれど、それでもやっぱり何かと言われてしまうし、悪いことに本人も気にしているし、だから、本当は力だってあるし、きっと強いのに、意気地なし。なもんで、学校では友達関係とかも決してうまくはいっていません。 家に帰ったら帰ったらで、パパが単身赴任して、ママと二人きりの生活だから気を遣って学校でのクラーイ日々を見せません。 要するに、じわじわと出口なし状況になってきている。 そんなある日、小学校三年の頃の自分の日記を発見。と、そこには今の自分とは全然違う中野けやきがいる!「なんか、小学三年生のあたし、キャラ変わってきてないか?」という感じ。 もちろんどっちも中野けやきさんなんですが、そして一四歳のけやきにはこれまでの人生が連続してあったので(当たり前か)、気付かなかったけれど、それを切断して小学校三年のけやきと対面すると、その落差はそのままけやきが本来持っている可能性の幅なのがわかるわけです。連続した「成長過程」を一度切断して振り返ることの有効性。 そしてもう一つ。けやきを見かねた知り合いの鷹子。彼女はけやきが自分への評価を誤っていることを指摘し、体躯を活かした生き方をすすめます。何か。近寄ってくる男たちを振り払うために鷹子は、けやきを偽のBF兼ボディガードにします。何だ鷹子、結局自分のためじゃん。そんなことはいいのです。それでけやきが自身を受けとめられるようになれば。「一八一センチで筋肉女な外見も、意気地なしな中味も、みんなまとめて自分じゃん。そのまま全部、自分で引き受けるしかないじゃん」。そうそう。「メツボーしかけていたあたしの世界は、どうやら再生しはじめたらしい」。よしよし。 魔法使いの女の子レイナは、人間世界を知りたくて、両親を説き伏せ、ペットショップを開きます。ただし魔法を三回使ってしまうと、マジカル王国に帰り、家から永久に出てはいけないことになってます。執事チェンバレンはネコのニャー太に、侍従のチアーズはコーギーの子犬ペロに姿を変えてレイナを守ります。という風に『謎のオーディション』(石崎洋司 フォア文庫 五六〇円)は、物語を楽しむための敷居を低くし、誘い込みます。もちろん誘い込んだ世界もわかりやすく、そして期待に違わぬ楽しさが約束されます。 レイナが人間世界に行きたくなったわけは、「だってパパ。人間のほうが、ずっとすごい魔法をつかっているのよ」ってこと。だって、電話でしょ、テレビでしょ、飛行機でしょ、デジタルカメラでしょ。 開店早々現れたのが、アイドル志望のはるかちゃん。オーディション用に提出する写真を、かわいい子犬と撮りたいから。レイナは協力することに。と、そこに、美少女で、才能もあり、だけど超いじわるな樹里亜ちゃんが登場。さてどうなりますか。 ものすごい冒険をしている物語ではありませんが、読む楽しさをちゃんと保証しているところが、とてもいいです。 他に印象に残ったのは、日本の古代歴史ファンタジー『青き竜の伝説』(久保田香里 岩崎書店 一三〇〇円)。権力と個の問題も書き込まれていて、なかなかの出来。『金魚島にロックは流れる1』(かしわ哲 講談社 九五〇円)は、熱いロックバンド物語。「自分のほうから、こころを開くと、相手は待ってましたとばかりに胸襟を開いて、ふたりの間に立ちはだかっていた壁は、いとも簡単に崩れる」、「ちょっとしたきっかけで、世界は、やってられないものにも、超ステキなものにもなる」、「いちばんいけないのは、なげだしちゃうこと、自分の夢に無関心になること」といった言葉が浮いてしまわないのは、その熱さ故でしょう。 フィクションではないですが、『10代のフィジカルヘルス』(全五冊)の刊行が始まりました。『タバコ』(加治正行・笠井英彦 大月書店 一八〇〇円)からスタートして、『おしゃれ・プチ整形』、『ダイエット』、『アルコール』、『薬物』と続くようです。『10代のメンタルヘルス』(全一〇巻)という翻訳物のシリーズを受けての日本版。一〇代に身近な問題を真正面から採り上げていて好感。学校図書館なんかに置いてほしいです。(『飛ぶ教室.夏号 2005.08』)

いいなと思ったら応援しよう!