【児童文学評論】 No.92  2005.08.25


〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>

絵本読みのつれづれ(8) 夏の成長(鈴木宏枝)

8月はじめに穂高町(安曇野)で5日間の夏休みを過ごした。
「自然と子供」にロマンを見るのはおとなの視点か。借りたコテージで、Tさんは「おもちゃがない、絵本がない」と不満をいいつつ弟をおもちゃにし、私の持ってきたマンガを眺めていた。

が、清流での川遊びにはすっかりはまっていたし、出かけた国営アルプスあづみの公園では、汗だくになって遊ぶ。さわやかで強い陽射しの中運動して真っ赤になったほっぺには頭から水をかけてやりたい気分になったし、じゃぶじゃぶ池の水は冷たく、私もついでに足を浸して涼をとる。

この公園には、清流が人工的に流されていて、ミニトレイルが作られている。高低差に出来て、段々状に水が流れおりてくるところで、Tさんは、ときどきしぶきを受けながら橋からじーっと長い間水を見つめていた。
そして、「もう帰ろう」と手をつないで歩き出したとき、突然「むかしむかしねえ、おとうさんがこのかわにぼっちゃーんってはいってね、おぼれちゃったのよ」と言った。

パートナーが川で怖い目にあったことはないし、そういう話も聞かせたことはない。でもTさんはここではじめて「おはなし」をつくった。聞いたことのある言葉と状況から考えた言葉で、まったくちがう話をぽん、と。

おはなしがフィクション=虚構である、と、そのとき、どきんとした。
たしかに、Tさんはこれまでよくしゃべってきたし、絵本も自分で声に出してめくっている。だれど、それは、読んでもらって耳でおぼえた話を再現しているだけだった。ひたすら聞き、ある程度まで満たされたら、絵本を手に「読み」はじめるが、それは心におぼえた言葉を再生する作業に近い。

だけど、清流でTさんが言った「むかしむかしねえ、おとうさんがこのかわにぼっちゃーんってはいって、おぼれちゃったの」というのは、本当に、フィクションだった。つぎはぎでもなく、絵本の断片でもなく、たぶん「おぼれる」という言葉の本当の意味も知らず、頭の中での「想像」を言語化しはじめた瞬間。
内容的はいかがなものかと思うけれど、おはなしがおはなしになった時を目撃したのは貴重だったと思う。
限りなく模倣をくりかえしたのちに、ほんの少しの独創性が、何かのはずみで振れる。その振れが大きくなって、次の複雑化のステップにいくのだろう。

他の遊びでも、この夏に変化が起きている。
何ヶ月も一年以上も、ひたすら高く高く、一直線に高く積んでいくだけだったレゴ・ブロック遊びでは、今、にわかに、幅も奥行きも広がり、すばらしい「動物園」や「横浜」が展開されるようになった。動物やパーツの複雑な使い方は、私の思いもよらない楽しい工夫に満ちている。
それから、人形やぬいぐるみに名前がつくようになったのも最近だ。今までは、どんなお気に入りも「いぬ」「ひつじ」「あかちゃん」と味もそっけもないネーミングだった。

ユニセフの作っている布おもちゃに、四角錐のピラミッドにセットされた動物と王族たちのセットがある。日本人のセンスでは考え付かないアメコミ風の顔つきの、15cmほどの布人形たちである。この前、Tさんが遊んでいるところを聞いていると、「よろしくね、これは、はだかのはーくん(と腰巻姿の男性の人形を手に取る)。これはね、ぎゅうにゅうのぎゅうくん ぎゅうぎゅうかぞくでしょ(白い服を着た女王の人形)。これは、たてがみがあるから(エジプトのミイラのマスクにあるような角ばった頭の人形)たーくんね。Tちゃんとおんなじね。こっちは、赤があるからあかくんちゃん。こっちはねえ、ラクダのビーバー。(他の人形を全部指差して)これとこれとこれとこれとかばとぜんぶなかよしなのよ。これは、かばのさい(サイ?)くんよ」と、紹介させあい、それからままごとに移行していった。

きっと、今の状態は、「子供の想像(創造)力は限りない」と(半ばロマンチックに)いわれたり見られたりするものではないかと思う。
だけど、私は、「創造性のかけらもなかった」、ひたすら塔を高く積んでいるだけだった、人形に名前をつけることをしなかった長い時期を忘れないでおこうとひそかに思う。
それから、知っていることばの知識と自分の想像がブレンドしてできた「むかしむかしねえ、おとうさんがこのかわにぼっちゃーんってはいって、おぼれちゃったの」というフィクションの瞬間を。

そういえば、白い女王のネーミングに出てきた『ぎゅうぎゅうかぞく』(ねじめ正一作、つちだのぶこ絵、すずき出版、2002.09)は、数ヶ月前にいただいたときに集中して読んでいた絵本である。
八百屋を経営しているとしおくんの家は、おとうさん、おかあさん、おじさんおばさん、おじいちゃんにおにいちゃん、おばさんのあかちゃんに、としおくんのいもうとなどなど大家族だ。「としおくんちって いっぱい ぎゅうぎゅうかぞくで いいなあ」と思う「ぼく」の目から描かれた絵本で、つちだのぶこの絵柄と色彩と、ド迫力の家族たち、狭いながらも楽しい我が家な感覚がページいっぱいにひろがっている。
商売で忙しくて子供に拘泥しないから逆に子供が適当にのびのびしていて、それでいて横目でしっかり働くおとたなちを見ている「感じ」も、私はとても好きな絵本だ。

Tさんは、「ぎゅうぎゅうかぞく、わあ、ぎゅうぎゅうだって、おもしろいね」とその響きを気に入り、おふろで抱きしめると「ぎゅうぎゅうよー」、私とTさんとMくんで狭い布団に入ると「わーせまい、ぎゅうにゅうよ(時々間違える)」と笑って叫ぶ。
絵本は絵本、遊びは遊びなのではなく、すべては複合的にからみあっている。そんなわけで、おそらくは、白い上下服から連想した「牛乳」に「ぎゅうぎゅうかぞく」をTさんは思い出したのだろう。

さて、安曇野滞在中に、安曇野ちひろ美術館にも行った。Tさんは、外の池に入って遊んだり、「にじみ絵体験」をしたり(これは、私たちもやったけれど、地元中学の美術部さんにいただいた若い空気が素敵だった上、どうやったって失敗のない美しさがありがたかった)体感的に遊んでいた。
たまたま、長新太さんの追悼展がされていたので、「あっちに『キャベツくん』の絵があるよ」とパートナーと二人で行かせてみて、あとでベビーカーのMくんと見に行くと、Tさんは、原画そっちのけで絵本を読んでもらっていた。何も知らないものより、少しでも知っていて共感できるものにまず近づいていく幼児。さんざんひとつのものに慣れ親しみ、レゴを高く積むようにひたすらひとつのものに向き合ったなら、次には原画を見る方にいくのかもしれない。

Tさんはおかっぱの日本人顔なので、私はちひろの描く絵になんだか既視感をおぼえてしまう。「夏草のパーティー」という原画には「Tちゃんとおともだちたちがいる!」と見入ってしまったほどだった。一方、パートナーは、『ぽちのきたうみ』(岩崎ちひろ/絵と文、武市八十雄/案、至光社、1974)を気に入って購入。飢えた本の虫さながらに、Tさんは何度も何度もコテージでその絵本を私たちに読ませた。

『ぽちのきたうみ』の主人公は、夏休みに、飼い犬のぽちと離れてお母さんと一緒に、おばあちゃんちの海に来たちいちゃんである。赤い水着に浮き輪も持って、楽しみにしていたのだけど、やっぱりぽちがいないとつまらない。「ぽち、はやく、はやくきてね」という手紙を出したら、お父さんが連れてきてくれた。ぽちが来るまで海にも入らず眺めるだけで待っていたちいちゃんの、ほんとうの夏休みが、ぽちと一緒にはじまる。

Tさんにはぽちはいないけれど、大好きな愛犬との充実した夏休み、大きな海の楽しさは存分に味わえたようだ。祖父母に手紙を書くと言い出したので、ミュージアムショップで買ったとっときのカードを渡した。

帰京すれば、また普段の絵本読みが始まる。その中に『ぽちのきたうみ』が加わったことが、なんだかうれしい。安曇野の澄んだ空気や、清流の中のTさんとMくん(足だけだけど)までが、表紙を見るだけでぱあっとよみがえる気がする。

今日、Tさんは、『ぽちのきたうみ』『はらぺこあおむし』の次に『まよなかのだいどころ』を持ってきた。「よんで」と言いながら、表紙を開けると自分で読み始める。私はMくんを抱っこしながら聞いている。Mくんは手を伸ばし、足でけり、絵本にかぶりつこうとする。Tさんは、きゃっきゃと「だめよー」とさわぐ。さわぎながら、ミッキーの話をまた読む。
6月に比べて、Tさんは格段にストーリーを追っている。

  まよなかのだいどころ。セイディーとフィリップに。
  ミッキーのはなし しってるかい くらやみにおっこちて はだかになって 
  はだかに なっちゃって はだかになっちゃって おりて…
    「あー、てへへへ(Mくんが手を伸ばすのをさえぎる)」
  くらいにおっこちて はだかになっちゃって えっと ママとパパとのへやをとおり  おりたところは まよなかのだいどころ。パンやさんたちは よるもねないで
  あさのケーキをやいている
    「これよんで」
      ――(私)Tちゃん、読んで
  パンやさんたちは あさのケーキをやいている しあげはミルク しあげはミルク   しあげはミルク しあげはミルク さあ これでケーキがやけます。
  できたねりこはオーブンへ やければおいしいミッキーケーキ!
  ああいいにおい さっきのにおい そうおもったまっさいちゅう 
  ミッキーがあま あたまをだしていった。
  こいで うん オーブンからとびだして。
  うんうん これでよさそうだ。 こいでミッキー まいあがって とびたった。
  こうさけぶ。ミルク ミルク ミルクがないと あさのケーキがつくれない。
  うーん、あそんでもだいじょうぶ あ、あわてなくてもだいじょうぶ。
  ぼくはミッキー パイロット そこにはミルクがいっぱい 
  あそこにミルクとりにいく。
  ぐーんぐーん まよなかのだいどこを あまがわをすすんでいく。
  びんのとこにとびこんで はだかになって ぼくがミルク 
  ミルクばんざい ぼくばんざい。
    「うふっ、ひゃあっ へへへ」(Mくんが絵本を奪おうとするのを阻止)
  しあげはミルク しあげはミルク。さあ これでケーキがやけます。
  これでいうことはありません。 こいで ふ、わ、あ こいで すべっどをおりると    (絵本のひらがなを指差してたどる)
  そ、こ、で、だ、い、ど、こ、ろ、の、う、え、で、ひ、と、こ、え、さ、け、    ん、で、す、べ、え、つ おりると すべっておりると まっすぐベッドにもどって  ……やれやれぬくぬく。
  ミッキーどうもありがとう。こいですっかりわかったよ!
  まいあさケーキがたべらるわけが。おしまい。

Tさんが読む絵本に手を伸ばすMくんは、下の歯がちいさく顔をのぞかせ、ハイハイが始まった。お盆休みの間にお尻が上がるようになり、ずりばいになるまで3日間。目ざす先は、ダントツに紙が多い。しかし、家にある紙は、ゲラやらカタログやら大事な本やら。ほとんどのものは、Mくんの目の前から、十戒の海のように遠ざかっていき、ひーんと泣くこともしばしばなのだった。

(Tさん:3歳2ヶ月、Mくん:6ヶ月
 鈴木宏枝: http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ 
「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)


【絵本】

『ぼくのシチュー、ままのシチュー』(ほりかわりまこ:ぶんとえ 1280円 ハッピィーオウル社 2005.08)
 ほりかわの画は、何度も心を暖かくしてくれる。『しろくまたちのダンス』『ふつうのおひめさま』『きつねのスケート』etc. クールであることより、ほほえみを選んだかのよう。といったらほりかわは怒るかもしれないけれど。
 共に作品を作り上げる文とガチンコするでなく、余裕を持って寄り添う画。
 で、今作は、「ぶんとえ」を自身が担当。
 くまのママがお出かけ。残された子グマ、その名前が「くまちゃん」! いいね~。で、お絵かき。好きなのを描いていく。リンゴ、ニンジン、ブロッコリー、シャケ、クルマ。みんなはさみで細かく切って、お鍋に入れて、グルグルかくまわして、シチューだ!
 子どもの独り遊びがいい具合に展開していきますよ。
 うまいなあ、ほりかわさん。(hico)

『ゆうひのしずく』(あまんきみこ・ぶん しのとうすみこ・え 小峰書店 1300円 2005.07)
 動物園のきりん。遠くをみつめるきりん。さみしいきりん。
 ありがやってきて、きりんの角までのぼって、初めて遠くの世界を知る。きりんは束縛されているけれど、ありに世界を見せる。
 そして、友達になる。
 閉じこめられた体と、そとに広がる心。
 やっぱり、あまんさんの物語です。(hico)

『ペンちゃんギンちゃん おおきいのをつりたいね!』(宮西達也:作 ポプラ社 1200円 2005.04)
 ペンちゃんギンちゃんが、氷に穴を開けて釣り。それぞれ釣り逃すのですが、やっぱりまあ、獲物は大きかったと主張して・・・。
 というのを、絵で見せてくれるのが、笑いを誘います。
 小売りから顔を出した頭の辺りは小さいけど、氷の下は、う~んと大きい!!
 んなわけないだろ! なんですが、ペンとギンの想像を絵にしているからね。
 涼しい(寒い)けど、熱いぞ。(hico)

『日本の恐竜』(ヒサクニヒコ:絵・分 パッピーオウル社 1500円 2005.08)
 ヒサの恐竜大好き子どもを育てる絵本の最新作。
 タイトル通り、日本(福井県ね)で発見された化石から始まって、日本と(の)恐竜の話が展開されます。
 恐竜ってだけでワクワクなのに、日本ですからね。
 ヒサの恐竜物は、詳しくて、分かりやすくて、好きです。(hico)

『ステラのほしぞら』(メアリー・ルイーズ・ゲイ:作 江國香織:訳 光村教育図書  1400円 2005.08)
 シリーズ物の良さの一つは、数冊目だと、その作品のイメージからすると意外な世界を描いても受け入れられることです。
 今作は『ステラ』世界からはちょいと外れています。赤毛のステラの肌が夜空の下で、なんだか不気味。
 これが第一作だと、引いてしまうでしょう。でも、もう4作目ですから大丈夫。かんなステラも見てみたい。
 ストーリーはいつもの温かさです。(hico)

『「知」のビジュアル百科・武器の歴史』(マイケル・バイアム あすなろ書房 2000円 2005.08)
 シリーズ19巻目。
 リクエストはたった一言。
 もっと続けてください!!(hico)

『いつでもおなかペッコペコ』(岡本颯子:作 ポプラ社 1200円 2005.06)
 5匹のコブタのパロディ。
 ミュージカル仕立てで、言葉にリズムがあります。
 パロディはよくできています。当然オオカミがやっつけられるのですが、最後は、オオカミを食ってしまおうか、まで行ってしまいますから。(hico)

『ぼく、うまれたよ』(みうらしーまる:さく 教育画劇 1600円 2005.07)
 パノラマ絵本。
 生まれたてのウミガメのあかちゃんが、「ママ」を探すという趣向で、親と勘違いしてしまった魚たちに近づくと、実は・・・のところで、パノラマが巧く使われてます。話のパターンは繰り返しですが、そのパノラマの見せ方が毎回違うので、飽きることはありません。
 ウミガメの子どもは「ママ」を探さんじゃろ? ってところで、ちょっと引いてしまいます。ストーリーを吟味して欲しいです。(hico)

【創作】
『イヤー オブ ノーレイン―内戦のスーダンを生きのびて』(アリス・ミード/横手美紀訳、鈴木出版、2003/2005.01)

 スーダンやエチオピアというと、干ばつやユニセフの支援などの報道を覚えている。当時、自分と同い年くらいの子どもへの激しいシンパシーの感覚も。
 『イヤー オブ ノーレイン』では、干ばつだけでなく、南部と北部の内戦、部族間抗争、国境を越えた戦火や難民の問題など、事態はいよいよ複雑になっており、その中で、それでも生きていく子どもを描いている。「雨のない年」が3年も続き、やせ細った牛だけが頼みの綱である村に、赤十字からの援助物資が飛行機で落とされれば、政府軍の兵士も反乱軍の兵士もやってきてそれらを強奪し、少年は兵士にするため、少女は奴隷に売るために拉致していってしまう。
  主人公はステファン少年。兵士の足音を聞いて、仲間と一緒に森に逃げ、帰ってみると母は殺され、姉の姿は見えず、家々は焼け落ちている。村から逃げるように、どこかを目指して歩き始めた3人は、渇きと恐怖と病気の危険に、歩いていても休んでいても、心落ち着くことはない。やがて、ステファンは、胸に手を当てて改めて考え、情報や想像に従うのではなく、本能的に自分がよいと思う方向に戻ろうと決意する。
 途中での他の少年たちやおばさんたちや医師との出会いに、読者に希望を与えるべき児童文学のひとつの立場を思い出させられた。だが、これが1999年を描いた2003年の作品であるということや、政治的に内戦が終結した今、この物語よりひどい混乱状態と、醜い人間性どうしの衝突が起きているであろう現実も、喚起される。 (鈴木宏枝)

『キリス=キリン 森の王』(1)(ジム・グリムズリー/澤田澄江訳、中央公論新社、2000/2005.04)
 同じ翻訳ファンタジーシリーズとして刊行されている『盗賊の危険な賭 エイナリン物語第一部』『闇の守り手1 ナイトランナー1』と同様、世界像がくっきり見え、登場人物がしっかり立っている作品である。主人公のジェセックスの回顧の語り形式。
 青の女王の圧政下で民衆が苦しんでいる世界が舞台。女王に敵対する赤の王(森の王キリス=キリン)はアーセンの森の中に自分の領土を持ち、反撃の機会をねらっている。彼は、民衆の最後の希望の砦でもある。
 平凡な農家の末子に生まれたジェセックスのところに、ある日、かつて狩の途中で森に消えた伯父が使者として現れる。キリス=キリンのところで儀式をサポートし、朝夕の歌を歌う「キヴィー」役として、ジェセックスが夢で予見されたのだ。
 境遇が一転したジェセックスが知っていく森の暮らし、森の王キリス=キリンをはじめとする、一癖ある登場人物たちの造形、また、見習いとしての仕事以外にジェセックスがひそかに三人の魔女たちに招かれ、のめりこんでいく魔術師修行など、複数の線がからみあい、次刊以降の展開が楽しみである。
 「魔術」の捉え方とその学びのリアリティがおもしろく、ジェセックスの成長と魔術の習得、そしてキリス=キリンが抱くアンビバレントな思いが三部作の見所になるだろう。少年の美声を思い描くのも、楽しい。(鈴木宏枝)

『ひな菊とペパーミント』(野中柊:作 理論社 2005.06 1300円)
 結花は13歳ってだけでも、もう大変なのに、パパとママが離婚して、二人ともなんだか子どもだから、気を遣って大変なのに、ちょっと好きな子ができたかもしれないってことも結構大変なのに、パパが再婚? ん? で、再婚相手の息子が、同じ学校の一コ年上で、ボーイズラブって噂の、だから美形の、よって女の子にごっつい人気の奴で、ママの再婚を阻止しようと、結花に近づき、共同戦線の申し出。もちろん手を結んだけれど、作戦は、二人がラブラブってことにして、親が再婚したら、ラブラブの中学生が義理の兄妹として同じ屋根の下で暮らす事態になるぞっと脅すというもの。ま、いいけれど、あ~、ってことは、学校の女の子の多くを敵に回してしまうのだ・・・・。大変。
 物語は、コミカルに仕掛けながら、13歳の息づかいを描き留めていきます。
 印象深いこの作家の仕事の中では、「渾身の」でも、「会心の」でもなく、むしろスタンダードですが、心地よく肩の力が抜けたスケッチに仕上がってる様は、エンターテイメントはこの辺りまで翼を拡げているんだなと思わせてくれます。(hico)

『ローラ・ローズ』(ジャックリーン・ウィルソン:作 尾高薫:訳 理論社 1380円 2003/2005.07)
 ジェイニーのママは宝くじを当てる。お、幸せ! かといえばそうでもなく、というのは、パパは仕事もろくにしない暴力夫で、宝くじが当たったことなんか秘密にしておいた方がいいけれど、ママはそんな夫に従順で、殴られてもパパは愛してくれていると信じ込んでいるから、たぶん話してしまうし、そうなると・・・・。
 最初は隠していたけどやっぱり話してしまい、でも、何故すぐに教えなかったとパパは難癖を付けて、ママを殴ろうとし、止めたジェイニーにも手を出してくる。
 娘の暴力をふるう夫を見て、ついにママも逃げる決心。大金抱えて、ロンドンに出て行くけれど、ママにさして生活能力があるわけでもなし、どっちかというとまだ子どもって言ってもいい大人で、娘のジェイニーが大人をしなければならない。そうそう、ロンドンで隠れ住むにあたって、ジェイニーは(ママも弟も)名前を変える。それがローラ・ローズね。
 ママは若い男を恋人にして舞い上がり、一緒に住むことに。彼にお金をつぎ込むことつぎ込むこと。ついに賞金は底をつき、恋人に逃げられ、頼る者がなくなったママは絶対に連絡をしてはいけない男に電話を・・。
 ウィルソンのこれでもかこれでもかという、主人公の追いつめ方は、やはり上手いです。ユニークではないけれど、読み物として楽しませてくれる。幸せな結末も心地よし。(hico)

『あなたへ』(河崎愛美:作 小学館 1365円 2005.05)
 緊張感のない古びた紋切り型の言葉が、中味のないまま、見事に羅列されています。
 作者自身が、描かれた出来事とも「小説」とも向き合っていないのですから、「小説」で物語を読むつもりの人は、みんなはじき飛ばされます。
 閉じきった自己愛。それが開かれて、書かれれば、「小説」になるのですが、閉じたままなので、それにひれ伏す(癒されたい、号泣したい)欲望がある人だけが、こっちもまた自己愛だけでコミットできるのでしょう。
 「ために」だけ設定された「恋人」は「交通事故」で作者に殺されます。
 作者が「15歳」であることが「売り」となっていますが、それは「15歳」に失礼でしょう。(hico)

『MONNA探偵事務所・怪盗ベースボール事件』(新庄節美:作 ポプラ社 2005.06 840円 2005.07)
 ポプラ社の新シリーズの一冊。
 ホントかウソは少しボケの入った老人と、タイムとメモリ、二人の子どもによる探偵物語。
 この老人、警察に力があるらしく、その辺りはまだ謎。
 ミステリィはシンプル。驚きを求めるよりも、謎解きの段取りを納得する形。つまり、ミステリィ入門。
 ボケ風老人の設定が、エイジズム的に引っかかります。(hico)

『忍剣 花姫伝1めざめよ鬼神の剣』(越水利江子:作 ポプラ社 2005.06 840円)
 ポプラ社の新シリーズの一冊。
 おもしろさてんこ盛りです。
 忍者、妖剣、貴種流離、裏切り、謎、謎、ほどよい謎解き。
 何かを学ぼうとか考えなくていいです。読みやすいレベルで、期待を裏切らない展開。目から鱗はありません。楽しく読めればOK。まだまだ続くぞ。(hico)

『ココの森と夜のおはなし』(とき ありえ:文 高山ケンタ:絵 パロル社 2005.07 1200円)
 夜の森で繰り広げられる、動物たちの物語。もちろんみんなしゃべります。つまりは、ときありえの「心象世界」が描かれるわけです。
 それぞれの動物たちは親しみやすく、好感。
 ただし、「耳おれロネ」において、生まれつき難聴の子ギツネのロネが出てくるのですが、現実の声が聞こえない分、心の耳が良く聞こえるといった設定は弱いでしょう。なぜならそれは、ときありえの世界観ではなく、ありがちな「ええ話」の設定ですから。(hico)


 時代は半世紀ほど前。子どもが自分と世界の関係を知っていくお話が、『勉強ができなくても恥ずかしくない1~3』(橋本治 ちくまプリマー新書)です。
 そんな大昔の子どもの話なんか読んでも、今の子どもが抱えている問題を具体的に解決するためには、何の役にも立たない?
 はい、役立ちません。なぜなら半世紀前と今では社会のシステムも変わり、子どもが置かれている環境も全く違うからです。
 でも、このお話には、一人の子どもが学校生活や親との関わり方にとまどい、自信を失い、何かの切っ掛けで元気になり、人生が楽しくなり、時に退屈になり、といった心の動きがこと細かく報告されています。つまり、このお話を読むことで、子どもが未知の世界に触れて、だんだん解っていくプロセスを、ゆっくりとたどって行けるのです。
 そう、ここには「解っていく」とはどういうことかが丁寧に書かれています。「自分に自信が持てたら、自分の目の前にあるものがはっきり見えて、こわいものはなくなってしまう」。「もしかして、自分達が幸福になっていると、ほかの人達も幸福な気分になるのかもしれない」。
 即効薬にはならないけれど、特効薬にはなりそうな言葉がいっぱい詰まっています。
 大昔の子どもと出会ってみてくださいな。(hico)読売新聞2005.08.09

『子供たち 怒る怒る怒る』(佐藤友哉:作 新潮社 2005.05 1600円) 帯に「書き尽くせ、たたき尽くせ、壊し尽くせ! こんな世の中も、文学も。」と威勢のいい言葉が置かれていり短編集。 表題になった「子供たち 怒る怒る怒る」は、何かの秘密があって長崎から神戸に逃げてきた母、少年、その妹の物語。少年は世間に目立たなく生きようとしているが、この地では謎の「牛男」による連続殺人事件が(本当に?)起こっていて、少年が所属することとなったグループでは、今度いつどこで「牛男」が犯罪を犯すのかを当てるゲームが流行っており、少年は「目立たなく」生きるためにそれに加わる。 kobeboy や都市伝説をイメージクリップし、子供の側から、「反逆」というより、破壊の先に「希望」の先っぽを見ようとする試みなのですが、何せ少年の「秘密」は割と使い古されているし、事件の残酷度も今更ですし、なにより、何故子供の側なのかがイマイチ判りません。(hico)

【小説】
『しずかに流れるみどりの川』(ユベール・マンガレリ/田久保麻理訳、白水社、1999/2005.06)

 読み終わると、「ああ、プリモ、きみって…」と語りかけたくなる。大人には単に無邪気と見える少年が、心の内で、どんなに父さんを愛し、心配し、父への責任すら感じているか。きっとプリモは、大きな目をした細身の少年で、落ち着いた鳶色の髪の毛と、少しぶかぶかの服を着ているのではないか…などと私の空想もふくらんでいく。
 うすうすと大人の事情を察しつつ、草の中に作ったトンネルをひたすらに歩きながら、プリモは、考える、考える、考える。
 『おわりの雪』で主人公の少年が、雪でまっしろの野原を歩きながら、犬のことやトビのことや死を考え続けたように、ここでも、一種「包まれた」空間で、プリモの空想の言葉は、表に出てくる話し言葉よりもはるかに饒舌だ。
 「つるばらを売ってたくさんお金をもらったら、何を買うか」「父さんは、子どもだった頃、素手で何匹マスを取ったのだろう」。どの空想も、記憶の世界そのものと混交するかのように白い光の中でのみ輪郭を持つ。「しずかに流れるみどりの川」は、その象徴であり、入り江も支流も、プリモの中で、いつまでも澄んだ水、マスでいっぱいの豊かさな川でありつづけよと、私はねがう。
 父さんは、プリモがこんなに聡明でまっすぐな少年に育ったことだけで、人生のすべてに感謝しているのだろう。父さんや暮らしを心配するプリモの子どもらしさと、そんな浮世のことより目の前の宝物に満足している父さんの、おとな的な部分との、普遍的な小さなズレが、この本をしみじみ幸福にしている。(鈴木宏枝)

【マンガ】
『火星探検』(旭太郎作・大城のぼる画、中村書店/小学館、1940/2005.03)
 戦前の名作漫画の、当時の装丁のままの復刻版。くすんだカラーに味がある。
 火星探検の話というよりは、天文へのドラマを軸にした子ども(と父親)のおもしろくて楽しい日常の話である。天文学者の星野博士の息子のテン太郎と、友達の犬のピチくんと猫のニャン子。天文台に行って、お父さんから火星の話を聞いたり、家で幻燈を見せてもらったりする。火星への興味を読者もかきたてられながら、笑えるのは、たとえば、星野博士と同僚の月野博士との子どもっぽい掛け合い(とそれを見るテン太郎たち)や、テン太郎の見た奇想天外な夢に本気で「それは違う!」とむきになってしまう星野博士の姿である。
 もちろん、火星探訪の場面もあり、科学的な教示もありで、ひとつのテーマをふくらませるおもしろさを感じ、当時からの日本の漫画の水準の高さに納得した。「学者の研究に無駄はない 研究さえして置けば他のことにも応用できる」(p.22)ニャン子に向かっての「天気の変わり目をちゃんと知るのは天文学者より偉いんだよ」(p.142)(いずれも旧字体)など、含蓄のある言葉もあり、とても楽しく読んだ。
(鈴木宏枝)

【評論・研究書】
『小説の自由』(保坂和志:著 新潮社 2005.06 1700円)
 帯は「小説を読む人も、書く人も、もうこの本なしに 小説を考えられない!」。
 ここでの「読む人」とは読者のことで、評論家だの批評家だのは含まれません。タイトルの「自由」も何からの自由かといえば、手前の解釈論の範囲で小説を解釈・誤読・読替する評論家、批評家からの「自由」です。作者と読者の間に介在しようとする輩からの自由とでも言いましょうか。
 ピント外れの批評をする連中への作者の苛立ち、です。
 社会や時代に還元して読んでしまう、小説絵を小説として読もうとしない者達から小説を奪い返す、です。
 これは、もうしょうがない苛立ちでしょうから、ご自由にとしか言いようがありません。「解釈する自由」を生きている批評家達と議論が噛み合うわけはないのですから。(hico)

【ノンフィクション】
『エンピツは魔法の杖 物語・詩・手紙…ニューヨークの子どもたちに「書くこと」を教えた作家の奇跡のような3年間』(サム・スウォープ/金利光訳、あすなろ書房、2004/2005.06)

 副題の通り、子どもの本の作家であるサムさんが、「教師と作家の協同作業」という機関の依頼を受けて、ニューヨーク・クイーンズの公立小学校の3年生のクラスに入るところからドキュメントが始まる。
 当初、10日間の予定だったクリエイティブ・ライティングのプログラムは、子どもたちとのふれあいにのめりこんでいったサムさんの意思で、ボランティアの形で3年間も続き、サムさんがそのクラスの子どもたちの卒業を見届けることでプログラムは終わる。そのかん、彼は、生徒の進路に心を砕き、校長に交渉して、使われていなかった小部屋を自分の職員室に整頓する。生徒の父母にも会い、生徒たちを自宅に招く。
 サムさんは、子どもたちにメタファーを教え、協同作業でもって忍耐強く子どもの着想にストーリーラインを与え、宿題を出し、詩を学ぶ。1年目は「箱」、2年目は「島」、3年目は「木」というプロジェクトを考え、それに添って、ものを観察して書く方法やおはなしを広げていく方法を学ばせる。6年生の「ツリー・プロジェクト」は、子どもたちが、それぞれに木を養子にし、木に語りかける形で詩や散文を書くものだ。木の理科的な勉強をし、セントラルパークに出かけて観察したり葉っぱを拾ったりしながら、子どもたちはネイチャー・ライティングを試みる。
 教室や公園での子どもたちの一瞬の情景を見逃さないのが作家の目であり、気乗りのしない子どもとコラボレーションして物語づくりに導いていくのは教師としての手腕だろう。その冷静さは裏を返せば楽しいユーモアにもつながる。
 この本の何より読ませるところは、この3年間の「奇跡」がプロジェクトXのような成功譚になっていないことだ。授業の準備に没頭し計画を立てても、思うような反応を引き出せないこともある。すべての生徒に好かれたいという危険な誘惑に陥りそうになることもある。実際の担任の先生のキャラクターによって、授業の重みが変わってしまう試練の時もある。傷つく言葉を投げつけられることもあれば、子どもたちに飽きられることもある。宿題もやってこないことも日常茶飯事だ。3年生当初の28人のクラスは出身国が21カ国、母国語は11にもなり、移民の親世代は貧しくて子どもの勉強にまで心を砕くことができなかったり、英語を話せなかったりする。先生と親の仲立ちにすらなる子どもたちは、家族や暮らしの問題も抱え込み、それが暴力的に出る場合もある。作文に身が入らないことも多々ある。
 宗教の教えと現実とのはざまで悩む子ども、両親の不仲に傷つく子ども。彼らに対して無力でもあるということを、サムさんは冷静にありのままにとらえている。
 だけど、だからこそ、ことばと書くべき対象と書き手の心とが合致した幸福な瞬間には、子どもたちの書いた文章が読み手にしみじみ響くものになる。I Am a Pencilという本書の原題は、クラスが4年生に進級したとき、ジェシカという賢い少女が「自分のメタファー」として書いた詩の一部である。「わたしはエンピツ/わたしの暮らしを/書くじゅんびができている」(p.149)。エンピツになった子どもたちが、少なくともその瞬間、創作・作文を通じて、自分と世界をつなぐという困難にとりくんだこと、3年間という線ではなく、その瞬間、瞬間の点がいかに珠玉のものでありえたかが、いくつかもの詩や作文から感じ取れる。
 この3年間を通じて、悲喜あわせてすばらしい経験を得たのはサムさんの方だとサムさんは言う。だけど、誰か大人が少なくとも一生懸命自分に関わったことを、どこかで感じ取り、ツリー・プロジェクトの最後にできあがった「ツリー・ブック」を抱きしめられたことが、もちろん、子どもにとっても、そのときいつか、振り返ったときに何かの力になるだろう。
 最後の方に一瞬だけ出てくる、バンド指導のミスター・フォルティとサムさんとの出会いから、子どもたちの生活が様々な要素がパッチワークされていることにも気づかされる。そのときのサムさんと同様、スジュンのもうひとつの顔を知れて、私も驚き、そして嬉しかった。  (鈴木宏枝)


☆お詫び(hico)
以下の鈴木宏枝の書評は先月掲載のはずが、hicoのミスで今月号掲載となりました。ごめんなさい。

【ノンフィクション】
『エンピツは魔法の杖 物語・詩・手紙…ニューヨークの子どもたちに「書くこと」を教えた作家の奇跡のような3年間』(サム・スウォープ/金利光訳、あすなろ書房、2004/2005.06)

 副題の通り、子どもの本の作家であるサムさんが、「教師と作家の協同作業」という機関の依頼を受けて、ニューヨーク・クイーンズの公立小学校の3年生のクラスに入るところからドキュメントが始まる。
 当初、10日間の予定だったクリエイティブ・ライティングのプログラムは、子どもたちとのふれあいにのめりこんでいったサムさんの意思で、ボランティアの形で3年間も続き、サムさんがそのクラスの子どもたちの卒業を見届けることでプログラムは終わる。そのかん、彼は、生徒の進路に心を砕き、校長に交渉して、使われていなかった小部屋を自分の職員室に整頓する。生徒の父母にも会い、生徒たちを自宅に招く。
 サムさんは、子どもたちにメタファーを教え、協同作業でもって忍耐強く子どもの着想にストーリーラインを与え、宿題を出し、詩を学ぶ。1年目は「箱」、2年目は「島」、3年目は「木」というプロジェクトを考え、それに添って、ものを観察して書く方法やおはなしを広げていく方法を学ばせる。6年生の「ツリー・プロジェクト」は、子どもたちが、それぞれに木を養子にし、木に語りかける形で詩や散文を書くものだ。木の理科的な勉強をし、セントラルパークに出かけて観察したり葉っぱを拾ったりしながら、子どもたちはネイチャー・ライティングを試みる。
 教室や公園での子どもたちの一瞬の情景を見逃さないのが作家の目であり、気乗りのしない子どもとコラボレーションして物語づくりに導いていくのは教師としての手腕だろう。その冷静さは裏を返せば楽しいユーモアにもつながる。
 この本の何より読ませるところは、この3年間の「奇跡」がプロジェクトXのような成功譚になっていないことだ。授業の準備に没頭し計画を立てても、思うような反応を引き出せないこともある。すべての生徒に好かれたいという危険な誘惑に陥りそうになることもある。実際の担任の先生のキャラクターによって、授業の重みが変わってしまう試練の時もある。傷つく言葉を投げつけられることもあれば、子どもたちに飽きられることもある。宿題もやってこないことも日常茶飯事だ。3年生当初の28人のクラスは出身国が21カ国、母国語は11にもなり、移民の親世代は貧しくて子どもの勉強にまで心を砕くことができなかったり、英語を話せなかったりする。先生と親の仲立ちにすらなる子どもたちは、家族や暮らしの問題も抱え込み、それが暴力的に出る場合もある。作文に身が入らないことも多々ある。
 宗教の教えと現実とのはざまで悩む子ども、両親の不仲に傷つく子ども。彼らに対して無力でもあるということを、サムさんは冷静にありのままにとらえている。
 だけど、だからこそ、ことばと書くべき対象と書き手の心とが合致した幸福な瞬間には、子どもたちの書いた文章が読み手にしみじみ響くものになる。I Am a Pencilという本書の原題は、クラスが4年生に進級したとき、ジェシカという賢い少女が「自分のメタファー」として書いた詩の一部である。「わたしはエンピツ/わたしの暮らしを/書くじゅんびができている」(p.149)。エンピツになった子どもたちが、少なくともその瞬間、創作・作文を通じて、自分と世界をつなぐという困難にとりくんだこと、3年間という線ではなく、その瞬間、瞬間の点がいかに珠玉のものでありえたかが、いくつかもの詩や作文から感じ取れる。
 この3年間を通じて、悲喜あわせてすばらしい経験を得たのはサムさんの方だとサムさんは言う。だけど、誰か大人が少なくとも一生懸命自分に関わったことを、どこかで感じ取り、ツリー・プロジェクトの最後にできあがった「ツリー・ブック」を抱きしめられたことが、もちろん、子どもにとっても、そのときいつか、振り返ったときに何かの力になるだろう。
 最後の方に一瞬だけ出てくる、バンド指導のミスター・フォルティとサムさんとの出会いから、子どもたちの生活が様々な要素がパッチワークされていることにも気づかされる。そのときのサムさんと同様、スジュンのもうひとつの顔を知れて、私も驚き、そして嬉しかった。  (鈴木宏枝)

【小説】
『しずかに流れるみどりの川』(ユベール・マンガレリ/田久保麻理訳、白水社、1999/2005.06)

 読み終わると、「ああ、プリモ、きみって…」と語りかけたくなる。大人には無邪気と見える少年が、心の内で、どんなに父さんを愛し、心配しているか。責任すら感じているか。きっとプリモは、大きな目をした細身の少年で、落ち着いた鳶色の髪の毛と、少しぶかぶかの服を着ているのではないか…などと私の空想もふくらんでいく。
 うすうすと大人の事情を察しつつ、草の中に作ったトンネルをひたすらに歩きながら、プリモは、考える、考える、考える。『おわりの雪』で主人公の少年が、雪でまっしろの野原を歩きながら、犬のことやトビのことや死を考え続けたように、ここでも、一種「包まれた」空間で、プリモの空想の言葉は、表に出てくる話し言葉よりもはるかに饒舌だ。 「つるばらを売ってたくさんお金をもらったら、何を買うか」「父さんは、子どもだった頃、素手で何匹マスを取ったのだろう」。どの空想も、記憶の世界そのものと混交するかのように白い光の中でのみ輪郭を持つ。「しずかに流れるみどりの川」は、その象徴であり、入り江も支流も、プリモの中で、いつまでも澄んだ水、マスでいっぱいの豊かさな川でありつづけよと、私はねがう。
 父さんは、プリモがこんなに聡明でまっすぐな少年に育ったことだけで、人生のすべてに感謝しているのだろう。父さんや暮らしを心配するプリモの子どもらしさと、そんな浮世のことより目の前の宝物に満足している父さんの、おとな的な部分との、普遍的な小さなズレが、この本をしみじみ幸福にしている。 (鈴木宏枝)

【マンガ】
『火星探検』(旭太郎作・大城のぼる画、中村書店/小学館、1940/2005.03)
 戦前の名作漫画の、当時の装丁のままの復刻版。くすんだカラーに味がある。
 火星探検の話というよりは、天文へのドラマを軸にした子ども(と父親)のおもしろくて楽しい日常の話である。天文学者の星野博士の息子のテン太郎と、友達の犬のピチくんと猫のニャン子。天文台に行って、お父さんから火星の話を聞いたり、家で幻燈を見せてもらったりする。火星への興味を読者もかきたてられながら、笑えるのは、たとえば、星野博士と同僚の月野博士との子どもっぽい掛け合い(とそれを見るテン太郎たち)や、テン太郎の見た奇想天外な夢に本気で「それは違う!」とむきになってしまう星野博士の姿である。
 もちろん、火星探訪の場面もあり、科学的な教示もありで、ひとつのテーマをふくらませるおもしろさを感じ、当時からの日本の漫画の水準の高さに納得した。「学者の研究に無駄はない 研究さえして置けば他のことにも応用できる」(p.22)ニャン子に向かっての「天気の変わり目をちゃんと知るのは天文学者より偉いんだよ」(p.142)(いずれも旧字体)など、含蓄のある言葉もあり、とても楽しく読んだ。
(鈴木宏枝)

【創作】
『イヤー オブ ノーレイン―内戦のスーダンを生きのびて』(アリス・ミード/横手美紀訳、鈴木出版、2003/2005.01)

 スーダンやエチオピアというと、私の小学生くらいの時期に、干ばつやユニセフの支援などの報道を覚えている。当時、自分と同い年くらいの子どもへの激しいシンパシーの感覚も。
 その記憶は、一過性のセンセーションではなく、私の中に沈殿した。栄養失調でおなかのふくらんだ子ども、目にハエのたかった子どもの姿。読むときに働く想像力のため、ガリガリにやせたエチオピアやスーダンの子どもの身体は、脳にやきつくように記憶された。 私の中では、その延長にこの物語がある。
 『イヤー オブ ノーレイン』では、干ばつだけでなく、南部と北部の内戦、部族間抗争、国境を越えた戦火や難民の問題など、事態はいよいよ複雑になっており、その中で、それでも生きていく子どもを描いている。「雨のない年」が3年も続き、やせ細った牛だけが頼みの綱である村に、赤十字からの援助物資が飛行機で落とされれば、政府軍の兵士も反乱軍の兵士もやってきてそれらを強奪し、少年は兵士にするため、少女は奴隷に売るために拉致していってしまう。
  主人公はステファン少年。兵士の足音を聞いて、仲間と一緒に森に逃げ、帰ってみると母は殺され、姉の姿は見えず、家々は焼け落ちている。村から逃げるように、どこかを目指して歩き始めた3人は、渇きと恐怖と病気の危険に、歩いていても休んでいても、心落ち着くことはない。やがて、ステファンは、胸に手を当てて改めて考え、情報や想像に従うのではなく、本能的に自分がよいと思う方向に戻ろうと決意する。
 途中での他の少年たちやおばさんたちや医師との出会いに、読者に希望を与えるべき児童文学のひとつの立場を思い出させられた。だが、これが1999年を描いた2003年の作品であるということや、政治的に内戦が終結した今、この物語よりひどい混乱状態と、醜い人間性どうしの衝突が起きているであろう現実も、喚起される。
 そこからはじまる物語。「考え」を促すという点で、その土台にある、子ども読者へ向ける児童文学の確固とした立場を感じる。(鈴木宏枝)

以上、鈴木2005.07.25号分


【絵本】
ほそえの絵本評

児童文学書評2005.7月号分
○やっぱり幼年童話がすき
のうさぎのおはなしえほん「あな」「みずうみ」片山令子文 片山健絵 (2005.6 ビリケン出版)
「おさるのやま」いとうひろし作 (2005.7 講談社)
幼い子どもの絵に打たれるものがあるのだとするのなら、それは自分の目線で、自分の目を見開いて、目の前のものと切り結ぼうとするその勢いなのだと思う。低く、狭い視界から見つめられる大きな世界。それがどのように見えているのか、その様を絵という形で見せられた時、同じ世界に生きる私たちが見ている世界と違ったように存在する様を見て、驚き感動するのだろう。子どものように絵を描くことはできないけれど、その絵のできてくる様を想像し、再体験することができる。それが絵本や幼年童話を読むということだと思う。最近の絵本は作家自身の目で見た絵を描くことでできているものが多いので、一概に今言ったような体験はできないものもあるが、真摯にかかれた幼年童話と呼ばれる本では、強く感じることができる。
動物や幼い子が主人公であることが多いからだろう。少ない語彙でシンプルな言い回しで、低く狭い視界からみた世界の大きさを見せてくれる。その世界の姿が大人であるわたしの見る世界とつながる。それがおもしろい。そういう本が今月3冊そろった。
こうさぎのおはなしえほんは「いえ」「ともだち」に続く2作。のうさぎさんはからっぽな気持ちになってしまって、庭に穴を掘って友だちを落としちゃったらおもしろいかな、なんて思ったり、どんどん機嫌が悪くなる友だちの気持ちをおさめたりする。どのお話も大きな事件が起こるわけでもなく、ほんのちょっとの気持ちの変化が大事なことを教えてくれる。からっぽの気持ちとつき合う方法を知ってる湖みたいな目をしたのうさぎさん。小さなお話が見せてくれるのは、心の深さだ。
「おさるのやま」では、山にのぼり、山と会話するおさるが出てくる。いつでも、ど~んと落ち着いて座っているみたいな山。山の秘密を知りたいなと、登ってみることにしたおさる。ただただ歩く。その時間の豊かなこと。てっぺんに登って見つけた山の気持ちの広いこと、大きなこと。大きな時間のなかで、山も海も木もおさるもいっしょに呼吸している。それがこのシリーズのよさだ。てっぺんを見て、かえってくるところがいい。山の気持ちのままでみんなのところには帰れない。一歩一歩小さなおさるに戻りながら、歩いていく。山を見つけにいって、自分の小ささもきちんと感じてきたということだろう。

○今時の工作本
「はじめてこうさくあそび」ノニノコ著 (2005,7 のら書店)
「はちみつのじかん~子どもの造形には物語がある」こやまこいこ著 (2005.6 フレーベル館)
「どうぶついっぱいかいちゃおう」あべひろし作絵+   (2005,7 にいるぶっくす ソニー・マガジンズ)
夏休み前だからか、親子で楽しむ工作本が目についた。今時の工作本は、センスが良くて、手軽で、敷き居が低く作られている。
「はちみつのじかん」は京都造形芸術大学が主催していた子ども工作教室のスタッフの本。紙コップや紙袋、折り紙など、おなじみの身近なものをつかって、わたしも小さい頃良く作っていた工作物を丁寧に作り方を図解してかわいらしく見せている。雑貨作家でもある著者のイラストは今風で、若いおかあさんや先生などには手に取りやすいだろう。ただ、副題にある<子どもの造形には物語がある>というところ、もっとしっかり見せてほしかった。せっかく子どもと造形を楽しんだ時間を持っているのだから、その時受け取ったことを本にのせてもらいたかったな。
「はじめてのこうさくあそび」は子どもとともに工作を楽しんできた家族が作った本。けずりえ、スタンプ、モザイク、紙版画……この本では実際、5、6歳の時に子どもが作ったという作品を写真にとって掲載してある。それがとてもいい。愛らしくてハッとする。子どもの手からこういうたからものが出てくることをじっと見て、大事にしてきた人が作った本なのだ。それが「はちみつのじかん」と違うところ。一緒に過ごしてきた時間をそっと分けてくれる本。きっと、この本を手にすれば、同じ空間で一緒に手を動かしながら、子どもとすごしたくなるはず。 
「どうぶついっぱいかいちゃおう」は動物園の飼育員として、なまに動物たちとであってきた作家のお絵書き絵本。それぞれの動物たちの身体的特徴を実際に自分で描くことで、動物の生態まで感じさせる。自ら手を動かすことではっきりとすることがある。お茶目なページもあって、楽しい。
 
○その他の絵本、読み物
「むしたちのおまつり」得田之久文 久住卓也絵 (2005.5 童心社)
「むしたちのうんどうかい」で人気のコンビの第2作。ここでは、虫たちの特技を生かした、いろんな出し物が楽しい。カミキリムシの葉っぱのお面屋やハチたちの壷作り屋、ダンゴムシのボーリング場、みの虫のセーター屋、ケラのトンネル迷路、など、楽しくゆかいで、知らず知らずに虫の得意技に親しんでしまえる工夫がされている。絵本のアイデア自体は、他にも類書があり、特別な感じはしないのだが、虫の擬人化がわかりやすく、なじみのない子どもには読みやすいように思われる。挟み込みにおなじみの虫や今回紹介される虫たちの一覧が印刷されているが、なくしてしまいがちなので、本紙にうまく組み込んで、入れられたらよかったのにと思う。

「ジャックのあたらしいヨット」サラ・マクメナミー作 いしいむつみ訳(2005/2005.6 BL出版)
「フリフリ」でかわいくデビューしたマクメナミーの2作目が、はや、翻訳された。今度は男の子のお話。コラージュしたり、のびのびとした筆の線を生かした絵は本作でもおなじ。

「リッキーとアンリ~みなしごチンパンジーと犬の友情物語」ジェーン・グドール作 アラン・マークス絵 赤尾秀子訳 (2004/2005.6 BL出版)
チンパンジーの研究者であり、保護活動にも熱心なグドールの絵本。リアルな動物たちの表情がこの物語の真実を強く訴えかける。

「くるま あらいます」サンドラ&スーザン・スティーン文 G・ブライアン・カラス絵 石津ちひろ訳
(2001/2005,6 BL出版)
達者なブライアン・カラスの絵がたのしい。どろどろになった車を洗車に行くというだけの話なのだが、車の中から、洗われる様子を見ていると、泡だらけの海みたい! そこから想像がどんどん広がっていき、珊瑚礁の海の中を行く車になってしまう。泥を落とすブラシは、巨大なタコの足、びらびらしたのは海草……。子どもたちの想像を楽しくビジュアル化するために、画家はみずたまやひとでや貝など、いろんなものをコラージュし、書き方そのもので、想像の世界と実際を分けて、愉快に見せている。

「しあわせのちいさなたまご」ルース・クラウス文 クロケット・ジョンソン絵 かくわかこ訳 (1967/2005,7 あすなろ書房)
マーガレット・ワイズ・ブラウンとともにアメリカ絵本の黄金時代をひっぱってきた詩人、絵本のライターがルース・クラウス。シーモントの「はなをくんくん」やセンダックの「あなはほるものおっこちるもの」菜ドで知られている。この人もたくさんのおもしろい絵本のテキストを書いていて、もっと日本で紹介されるべき作家である。本作は夫であるクロケット・ジョンソンと組んでいる。鳥が卵をあたためている姿は、たいていの場合、親鳥の目線から語られてきた。でも、この本では卵が主役だから、卵目線で話が進む。たまごはうたえない、とべない、あるけない、だけどあたためてもらうことはできるんだ、と。ちょっとした視点の転換で、いつも見ていたものが違って見える。そういうものをみつけて、本にするのが得意な人なのだ。そして、その本はいつも、ユーモラスでちょっとした発見があって、驚きが楽しさになるのだ。

「リリィのさんぽ」きたむらさとし (1987/2005,7 平凡社)
以前、大日本図書から出ていたものの復刊。リリィは散歩が大好き。いつも子犬を連れていくのだけれど、子犬は怪獣みたいな歯を持ったゴミ箱や川を泳ぐ恐竜や身を乗り出すドラキュラなど、不思議なものを見つけてびっくり顔をしている。文章はリリィの目線だけからかかれ、読者は自分で子犬の驚きを探さなくちゃならない。絵本の文法としてユニークな方法。

「なつのいなかのおとのほん」マーガレット・ワイズ・ブラウン文 レナード・ワイズガード絵 江國香織訳 (1940/2005.7 ほるぷ出版)
以前刊行された「おうちのなかのおとのほん」に続くNOISY BOOKシリーズの一冊。町中の家に住む子犬のマフィンは、夏、田舎に出かけることになりました。ひとり、箱の中に入って、汽車にのせられ、農場について、見知らぬ動物や虫などの鳴き声を聞き、最後は疲れて子猫と一緒に眠ってしまいます。この本でも、なにをきいたのでしょう?なんでしょう?と音を聞かせて(読ませて)、聞いている子どもに考えさせるような語り掛けになっています。

「コレットちゃんはおかあさん」「ねずみのちょびちょびサーカスのスターになる」フランソワーズ作、絵 ないとうりえこ訳 (1940,1952/2005,7  徳間書店)
最近、アメリカでも日本でも復刊が続いているフランソワーズの絵本。クッキー形のような暖かみのあるフォルム、キャンディーカラーのやさしさ。「コレットちゃん~」はフランソワーズ初期の作品でタッチが大らかで、止まったようなきっちりとした構図で描かれたページがおおい。どうぶつがすきでいろんなどうぶつのおかあさんになってしまうコレットちゃん。お家がいっぱいいっぱいになった時、コレットちゃんはおともだちにも動物のお父さんやおかあさんになってもらうことにしたのです。これで、大丈夫。「ちょびちょび」は働き過ぎのおかあさんを楽にさせようと、サーカスに就職し、いろんな芸で人気者にる様子を描いています。他愛ないといえばそうだけど、まっとうなくらしではあります。

「そっとそっと しずかにね」イワン・ホワイブロウ文 ティファニー・ビーク絵 おがわひとみ訳 (2003/2005,6 評論社)
「ともだちからともだちへ」(理論社)で人気の画家の新作。伸びやかな水彩のイラストがうつくしく、おやすみ前のベッドサイドブックにぴったりだ。ほんわりとにじむ色が夢心地に誘ってくれるだろう。おはなしは眠たくなった男の子が自分の家のベッドにたどり着くまで、あひるや、うまや、ひつじなどに出会って、いっしょに歩いていく。出会う動物たちの鳴き声を、あんまり元気よく読むと、子どもがはしゃいでしまうけど、さいごはそっとそっと静かに眠る。

「こどももちゃん」たちばなはるか作、絵 (2005,6 偕成社)
イラストレーターの初めての絵本。上を向いて踏ん張っている表情のこどももちゃん(股の顔をしている子どもだから)がなんとも気にかかる。ごきげんななめで、いつもなら一緒に遊ぶはずの動物たちに出会っても「あそばない」「さようなら」「あとで」とそっけない。こぐまとかあさんぐまに出会い、素敵などんぐりをあげるっていわれても、「やっぱり いらない」と。でも、その顔の悲しそうなこと。こどももちゃんをじっと見ていたかあさんぐまが気付いてくれて、一件落着。このオチのあたたかさに、この作家なかなかの人、子ども心の微妙なところやかあさんの本質をさらりと描いていて、いいぞ!と思った。こどももちゃんの表情の豊かさ(身体の仕種を含め)に比べると、動物たちの描き方がうすっぺらで、それがとても残念だった。

○よみもの
「ひげねずみくんへ」アン・ホワイトヘッド・ナグダ作 高畠リサ訳 井川ゆり子絵 (2000/2005.6 福音館書店)
小学校4年生の子が、2年生の子どもたちに、手紙を出す授業でおこるあれこれを親しみやすい文章と絵でまとめた童話。英語が読み書きのうまくできないサウジアラビアからやってきた2年生のサミーラと文通することになったジェニー。ねずみのふりをして手紙をかくなんておかしいし、手紙を読んだ子からくる返信をみんなの前で披露するのもいや。でも、サミーラを知ることで、コミュニケーションの方法を自分で工夫するようになっていくところが、よませる。先生や親がきちんと子どもに向き合って、うまく手助けしている様子も好もしいし、マルチカルチャーを知らず知らず体験できるような童話は小さな子ども向きには少なかったので、本書の訳出はたのもしい。

「ジュディ・モード 有名になる!」メーガン・マクドナルド作 ピーター・レイノルズ絵 宮坂宏美訳 (2001/2005,6 小峰書店)
気分屋さんでいろんなモードになっちゃうジュディの2作目。3年生のジュディの日常を舞台に、テンポよくよませるお話。今回のお話はなかなか粋で、いい感じ。クラスのジェシカが単語つづりの大会で優勝して、有名になったところからはじまる。みんなに聞いてみると、それぞれ、新聞にのったり、テレビにうつったりと有名になった時があるらしい。ジュディは有名になりたいと、変なものを作ったり、ペット・コンテストに出たり、ギネスブックに挑戦したりと大騒ぎ。そして……なんでもやってみる、思い立ったらすぐのジュディの姿は読んだ子どもにもエネルギーを与えてくれるのではないかな。

「小さな小さな海」岩瀬成子作 長谷川集平絵 (2005,7 理論社)
水の嫌いなよしろうは、プールになるとどうしてもお腹が痛くなってしまい、保健室で休むことに。そこで一緒になったのはかけっこがにがてなこうじくん。かけっこを教えてあげるといって、ふたりで公園にいって、追いかけっこをして遊んだ後、プールが苦手だとよしろうは伝えることができた。そうしたら、うちへおいでよ、と今度はこうじくんが誘うのだ……。
それからあとのは、なんとも不思議なお話。たんすを開くと海が出てきて、そこでふたりが遊ぶのを、本人たちが外から見ているという。たんすの中に小さな世界が隠れているというのは、民話なんかでもある話だけれど、それを本人が見ているのは、どういう感じなのかしら。その静かな不思議な時間を持つことでよしろうはちょっとだけ、プールに入ることができるようになる。まだ幼さの残る小学校2年、3年の男の子の不思議を不思議として飲み込んでしまう感じが、実際の子どもの生々しさを見るようでおもしろかった。

児童文学書評2005、八月
○「ピアノ調律師」M・B・ゴフスタイン作 末盛千枝子訳 (1970/2005.8 すえもりブックス)
仕事にするということ
 また、ゴフスタインの本が読めるなんて、うれしい。「ゴールディのお人形」に続き、この本でもひとつの道をしっかりと歩み、極めた人をさり気なく描く。本作の方はそれにあこがれ、近づこうとする子どもを配したことで、より明るく、あたたかな空気に満ちた本になった。
 ピアノ調律師の老人が二年前に、なくなった息子夫婦の忘れ形見の孫をひきとった。周囲の人たちは、小さな女の子を彼ひとりで、どのように育てていけるだろうかと心配してくれる。老人は女の子にピアノを教えることはできるから、演奏家になれるのではないか、と思っていた。でも、少女は、おじいさんのような調律師になりたい、わたしはなれると信じていた。だからこそ、ホールのピアノの調律をするおじいさんをたすけようと予約の入っていた家に調律をしにいったりする。この行動が、旧友のピアニストの心を打ち、大きくなったら、ニューヨークにきて、ぼくの弾くピアノを調律してほしいといわしめたのだ。
 ゴフスタインの文章は、くっきりとしていて、絵が見えるよう。本作はイラストが九枚と少ないのだが、だからといって、残念な感じはしない。そのぶん、ゴフスタインの絵で存在する老人や少女、パールマンさん、老人の旧友であるピアニストが、頭の中でお話とともに動き、舞台を見るようにストーリーが運ばれていくからだ。どのシーンを描き、何を描かないかをとても緻密に考えてあるように思う。絵と文の絶妙な関係がゴフスタインの本のすごさ。
 ピアノの調律は儀式のように、手順が決まっていて、おごそかなかんじさえする。そんな雰囲気をもった本だ。自分の進む道を見つけてしまった人の喜びと覚悟をことほいでいる。

○その他の絵本、読み物
「こぶたのみっぷちゃっぷやっぷ」筒井頼子文 はたこうしろう絵 (童心社 2005.7)
3匹の子ブタのおはなし。子ブタの家に鳥が運んだ種が大きくなった木があった。春、いいにおいがして、初めて花が咲いたんだって。実がなって、なんだろ、なんだろと季節を通して見ていると、黄色い大きな実になって、くまの紳士が「ぶんたんですよ」と教えてくれた。生き生きとした動物たちの表情が楽しい。丁寧にくらす毎日がすてき。

「ともだちのたまご」さえぐさひろこ文 石井勉絵 (童心社 2005/7)
丸い大きなものを抱えるうさぎの女の子の表紙。ともだちのたまご? ひっこしてきたばかりのうさぎの子が友だちさがして歩いていた時にカラスにもらったのが、ともだちのたまご。だいじにしてたら、仲良しの友だちが出てくるよ、なんていわれたから……。ひとつのものを間にして、出会う子うさぎと子ぎつね。その近づいていく心の有り様が丁寧に描かれる。緑あふれる森の中で見えかくれする、のびのびとした子どもたちの姿がお話によくあっている。

「フェアリー・レルム 金のブレスレット」「フェアリー・レルム 花の妖精」エミリー・ロッダ作 岡田好恵訳 仁科幸子絵 (童心社 2000/2005.6)
ファンタジー人気のエミリー・ロッダの妖精物語。思いっきりファンシーで女の子向けの造本になっている。小振りなハードカバー、文字はちょっと大きめ、かわいいイラスト付き。さらさらと読めてしまう童話だけれど、さすが、エミリー・ロッダにかかると、きちんとおとなや老人がかかれ、女の子が妖精の世界に入るところひとつ取っても、地に足のついたしっかりとした設定と描写になっている。他愛無いお話の姿を取っているが、この人の物語にはモラルがあるのがいい。

「川べの小さなモグラ紳士」フィリパ・ピアス作 パトリック・ベンソン挿絵 猪熊葉子訳 (岩波書店2004/2005.5)
最初は人間の言葉をしゃべる動物のファンタジーかと思ったら、ピアスの物語は運命をどういきていくか、というもっと大きなテーマをもったいぶらずに真摯に伝えてくれるものだった。魔法の力で死ねない身体を持ち、人間の言葉を解すようになってしまったモグラとひょんなことから親しくなった少女。それは少女は母親と離れ祖父母に育てられていたが、生活が安定し、新しい家庭を持った母が引き取ろうとしたりする、大きな変化に立ち向かう時期だった。同時にまた、魔法の力を持つモグラはその力を取り去って、生まれ故郷に戻り、ただのモグラとして死にたいと願っていた。二つの時を重ねて、少女がモグラの思いに力をかすことで魔法は消え去る。ラストは寂しいけれど、ほっとするような安堵につつまれ、あるべき姿であることの喜びと大変さを感じさせる。

「こぶたは大きい」ダグラス・フロリアン作 灰島かり訳 (2000/2005,7 BL出版)
のびのびとしていい絵だ。大きいものって、なんだろう?という最初のページからして、なんだかおかしい。下の方に小さなブタの耳の片方だけひょっこり見えているのだもの。それから、大きいのはぶただね、そのあとうしだね、くるまだね、とどんどんまわりが大きくなる。道、町、国、地球……と視界が広がっていって、最後は宇宙。となったとたん、コロンと視点はひっくり返されて、こんなに大きな宇宙だけれど、きみはたったひとりの大切なきみ。この転換の妙がわかるのは大人の方かしら。でも、小さな子はさいごに大きなチュウをもらって大喜び。

「イワシダラケはどこにある?」ヴェラ・エッガーマン作 小森香折訳 (1998/2005,7 にいるぶっくす ソニー・マガジンズ)
ドイツのかっこいいデザイン感覚あふれる絵本。最初に登場するネコや人たちの紹介があったり、テキストが縦になったり横になったり、斜になったり、大きくなったり、小さくなったり。デザインしてますよおって感じ。もし、おとなしく文章がふつうに入っているだけだったら、この絵本はどうだったのかな? 絵もインパクトのある描き方だし、おはなしも自在でテンポもあるし、わるくない。おなかがすいて、イワシの絵のついた車を追って、イワシダラケを探しに行くネコ二匹。そこに女の子が登場し、イワシ・ダラーヶに行こう!と船に乗るのだけれど……。一時の空想。

「カロンとコロン~はるなつあきふゆ 4つのおはなし」 どいかや作 (2005.7 主婦と生活社)
ふたごのうさぎが森の暮しの楽しみを4つのお話にして教えてくれる。春は食べられる野草を摘み、夏は川辺で冷たい桃ジュースをのみ、秋は木の実でリースやネックレスを作ったり、冬はスケートの後、かまくらに集まったり……。コマ割りの展開が楽しく、作ってみようのコーナーもあって、手軽に自然と親しめそう。

「きこえてくるよ…いのちのおと…」ひろかわさえこ作 (2005,7 アリス館)
詩画集のような作りの絵本。小さな女の子と自然との交感の様を柔らかいにじんだような絵とそれに添えられた詩。見開きごとに独立して読んでもいいのだけれど、きこえてくるよ、というリフレインを支えにページを読みすすめると、何ものにも成れる女の子が最後に自分という人間を選んだかのようによめた。きこえることは在るということだ。見えなくても在るものはある。

「もしもぼくが おとなだったら…」ヤニコヴスキー・エーヴァ文 レーベル・ラースロー絵 マンディ・ハシモト・レナ訳 (文溪堂 1999/2005.7)
ヨーロッパの各国で翻訳され、読まれているハンガリーの絵本。日本に紹介されるのは初めての作家ではないか。ハンガリーというと「ラチとらいおん」のマレーク・ベロニカが日本では有名だけれど、もともと子どもの文化の豊かな国であり、本作以外にも、紹介すべき本や作家が何人もいる。これをきっかけに広く紹介されると良い。
この絵本は、子どもより大人の方が楽しいよ、という男の子が主人公。大人になったら、文句ばかりいわれないし、好きな時に好きな洋服が着られるし、小さな声で挨拶してもなんにもいわれないし、テレビの一番おもしろいところで寝なくても良いもの……。だから、ぼくは大人になったら、ごはんの前に大きなチョコレートを1枚食べちゃうし、のらねこだってぜんぶさわっちゃう!何でも好きなことをして、家庭を持って、子どもができたら……とどんどん空想が広がって、大人になれば良いことがいっぱい!でも、どうしておとなって手を洗ったり、かたづけたりするんだろう? この本をあははと笑って読めるのは小さい子じゃないかなあ。

「えほん ねぶた」あべ弘士作・絵 (講談社 2005.7)
絵本作家が青森のねぶたの絵を描いて、祭りに出るまでを取材したドキュメンタリー絵本。写真も絵も豊富に入っていて、描く過程、作る様子、祭りの熱気など良く伝わってくる。飾らない、落ち着いた口調の文章がいい。

「おどります」高畠純 (絵本館 2005.6)
ぶたやうまやいぬやぞうやかばがただ、おどります、といって、次のページでメケメケ フラフラ、と踊るだけの絵本。さいごに、さあ、きみも! と呼び掛けられて、踊り出した人は、かなり読み込んでいる人と言えるでしょう。このメケメケ フラフラというメロディー(?)がずうっと頭で鳴ってしまうのですけれど。おかしい。

「闇の夜に」ブルーノ・ムナーリ作 藤本和子訳
幻の絵本、ムナーリの傑作といわれ、翻訳されることのなかった絵本がついにでた。イタリアのコライーニ社のムナーリ復刊シリーズはずいぶんと増え、いまもって、この作家のコンセプトは大きな影響を与えている。ページに穴があけられたり、半透明な紙に印刷して、絵が重なって見えることを利用したり、いろんなデザインのアイデアを本という形に放り込んだ自在さを子どもに見せよう。本ってこんなもの、と思っている頭をゆるめよう。この本のすごいところは、大きな時間を小さな本に閉じ込めるためにデザインを手段につかっているところだ。語るべきことのための方策としてのデザイン。それを読みたい。

「キップコップとティップトップ」マレーク・ベロニカ文、絵 羽仁協子訳 (2005.7 風涛社)
トチのみぼうやのキップコップシリーズ3作目。新しい友だちティップトップが登場する。今までのような生き物ではなく、キップコップと同じ、とみのみ人形の女の子。お話の前半はティップトップが、森の生き物たちと仲良くなろうと、木の葉をからだにくっつけて、まねっこ作戦。それを似てるとか似てないとかいって、おもしろがって良く見たあと、ふたりのトチのみ人形の出会いを喜ぶ。

「かぜっぴきのドラゴンたち」シェリー・ムーア・トーマス文 ジェニファー・プレカス絵 灰島かり訳 (2002/2005.7 評論社)
前作「さびしがりやのドラゴンたち」でドラゴンを見事眠らせた騎士が、またもやドラゴンたちの苦境にひとはだぬぐ。言葉遊びがちりばめられて、調子よくどんどん読める。魔法使いではダメだったのが、おかあさんなら大丈夫という展開も、小さな人にはうれしいかも。脱力系のイラストもほのぼのとたのしい。

「ちゅっ、ちゅっ!」マーガレット・ワイルド文 ブリジット・ストリーブンズ=マルゾー絵 なかがわちひろ訳 (2003/2005.9 主婦の友社)
朝、目をさまし、遊びに行こうと、ちいさなかばのこがどんどん進んでいくと、ぞうも、さいもらいおんもしまうまも、みんな朝の御挨拶をしていたよ。あっ、わすれてたあ、といそいでもどって、ママを探し、「ばあ」と沼から顔を出したのを見て、おおよろこび。そして、「ちゅっ、ちゅっ!」と御挨拶。シンプルな展開で繰り返される言葉のリズムが楽しく、小さな子がすきになりそうな要素がつまった絵本。

「ちいさなこぐまのちいさなボート」イヴ・バンティング作 ナンシー・カーペンター絵 千葉茂樹訳 (2003/2005.9 主婦の友社)
大きくなって、自分の大好きなものが身に合わなくなる、というのはキーツの「ピーターのいす」をはじめ、いろいろと描かれている。たいていは兄妹のものになるのだが、この絵本は、大きくなった小熊が、まだ小さい小熊をさがして、自分の大切にしていたボートを託す、というのが新鮮。ぼくらはおおきくなるけど、ボートはちいさいままなんだ、という言い方が、子どもの目線だなと思う。はっとする。大きくなるということが、単に身体的なことだけではなく、世界を広げ、自分よりも小さなものに思いを託す、ということまで、ひろげて、小さな子にもわかる表現で、気持ちよく描かれているのがいい。おとなしいがしっかりとして、美しいイラストもよい。

「とんでとんで サンフランシスコ」ドン・フリーマン作 山下明生訳 (1957/2005.8 BL出版)
1958年コルデコット・オナー受賞作。フリーマンの傑作をいわれ、今まで翻訳されなかったのが不思議。絵本にしてはページ数の多いのがネックになっていたのかも。
サンフランシスコの高いビルの屋上のネオンサイン。その看板のBの字のところにすんでいる鳩が主人公。ネオンサインの撤去で、巣までかけたBのネオンサインを失ってから、お話は急展開。自分の家であるBを探して、ふらふらになる鳩。でも、ラストはきちんと巣にも妻にもめぐりあって、大団円。勢いのある線と明るい色鉛筆の彩色が、麗しの町サンフランシスコをよく描いています。鳩の表情までも描きわける作家の力量も強く感じさせます。

「いすがにげた」森山京作 スズキコージ絵(2005.8 ポプラ社)おばあさんのいえからいすが逃げ出した!それを追い掛けておばあさんはどんどん歩く、やっと見つけて捕まえて、びしょびしょになったいすと一緒に野原で寝転んでいると、いすとともに過ごしてきた様子が思い起こされるのです。子どもにお乳を含ませていた時、子どもが大きくなり夫とふたりでくらした日々、ひとりになってからの毎日。そして、おばあさんは、どこへでもいきたいところへいきな、といすに言うと……。いすは物言わず、おばあさんが話すだけの物語なのに、大らかで豊かな雰囲気の絵本。おばあさんの造形が人間くさくて好き。



いいなと思ったら応援しよう!