【児童文学評論】 No.91 20050.07.25

〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>

【絵本】
絵本読みのつれづれ(7) 3歳になった―おおきい、ちいさい

登場人物:Tさん(3歳1ヶ月)、Mくん(5ヶ月)

 昨年の4月、Tさんは1歳10ヵ月で、「たんぽこ」(=タンポポ)が大好きだった。NHKの子ども番組で流れていた「タンポポ団にはいろう!」という歌をこよなく愛していて、公園のタンポポを抜いては手に持ち、「たんぽこよ」と喜んでいた。「どこでタンポポ団したの?」「コーエン!」といった、意味の通る会話の始まりがその頃だったのも、よく覚えている。
 やがて数ヶ月が経つとタンポポも枯れ、「たんぽこ、ないねー」「来年の春になったらまたね」という会話が増えた。そのとき、来年の春なんて、どんなにか先と思っていたのだけど、夏を過ぎ、どんぐりに夢中になる季節がやってきて、冬は足早に去り、そして再び本当にたんぽこの季節になった。今年の春も、昨年ほどの情熱ではないけれど、Tさんはたんぽこに再会したことを喜び、綿毛を飛ばして笑っていた。

 春と同様、どんなにか先と思っていたTさん3歳の誕生日も6月にやってくる。昨年6月の満2歳の誕生日、友人仲間で誕生会をしてもらって、「おたんじょうびおめでとう、ハッピーバースディ」を覚えたTさんは、それからほぼ1年間、「ハッピーバースディ」のフレーズを口にして遊び、おままごとで見立て遊びをしてはごちそうを盛り合わせ、おめでとうパチパチパチと手をたたいていた。
 誕生日遊びを見ながら、私は、自分の子どもの頃の1年の長さを思い出して、彼女にとって本物のハッピーバースディはどんなにか遠いかしらと思っていたのに、やがて、3歳の誕生日も、本当にやってきてしまった(実感として「ほんとに誕生日ってくるんだなあ」という妙な感じだった)。
 何が欲しいの?と聞いたら、アンパンマンのおふろおもちゃとのこと。普段、Tさんのものは、服にしろおもちゃにしろ本にしろかなり親のバリアをかけて選んでいるのだが、年に2回、誕生日とクリスマスには、その年齢のときにこそキラキラ輝いて見えるものをプレゼントしたい。私は喜んで準備した。

 3歳は、数の概念とも多少関係している。
 Tさんが数を数えるようになったのは2歳何ヶ月頃だっただろうか、最初は、1、2、3、だったのが、だんだん長く言えるようになると1、2、3、4、5、6、8、10になる。長いこと、7と9は飛ばされていた。特に修正せず、おふろで数を数えるときにだけ一緒に唱えているうちに、Tさんは全体を暗記していった。
 今はさらに少しずつ増えて、「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、30、16、18、40」である。11、12で「に」というと、次は「さん」と自然に言いたくなるのだろうか。
 実際の数と抽象的な数はもちろん一致しているわけではなく、数えることはできても、数の概念的には1、2、3、わあいっぱい、くらいのものだ。

 数ヶ月前に、鈴木出版の濱野さんが下さった絵本の中で、Tさんが一番気に入ったのが『ねこのかぞえうた』(せなけいこ作・絵、鈴木出版、2001年1月)だった。せなけいこらしい色合いと切り絵細工の絵で、「ひとつ ひなたで ひとりでひるね にゃーんにゃん」から始まる、まさに「ねこの数え歌」だ。表紙の題字の「ねこのかぞえうた」もそれぞれ猫がポーズを取って描かれているのだが、Tさんは、「え」の猫だけ読めなかった(読みにくかった)。読めないけれど、「ね、こ、の、か、ぞ、う、た。ねこのかぞえうたね」と全体で理解していた。
 「ふたつ ふりむきゃ ふとった ねこが ふふふと わらう にゃーん にゃん」と続いていく、1から10までの猫たちの様子をTさんはうれしく私に読ませる。そして、「とおで とうとう ともだち じっぴき とっても うれしい にゃーん にゃん」まで読むと、おごそかにページをめくって、無言で手を上げて私を制し、最後のページだけ「Tちゃんがよむの」と言う。
 「ゆうやけ こやけ あしたもみんなであそぼうね、にゃんにゃんにゃんにゃん にゃーんにゃん」(本当は「ゆうやけこやけ あしたもあそぼう にゃんにゃん~」)。Tさんは、夕焼けを背にシルエットになっている猫たちを人差し指でテンテンテンテンと強く指差す。ちょうど、未就園児保育などで「みんなで遊ぶ」楽しさを知り始めた頃と、数への興味とが一致した頃に頂いた絵本だったのがありがたい。

 春が過ぎ、「もうすぐTちゃんは3さい」という意識が芽生えてから、Tさんは文字通り、1、2、3、と指を折り、「もうすぐさんさいよ、ハッピーバースディ、クリスマスおめでとう」といろんなものを一緒にして誕生日を心待ちにするようになった。

 『あなたがうまれたひ』(デブラ・フレイジャー/井上荒野訳、福音館書店、1999年11月)は、私にとって特別な1冊だ。妊娠中にBook Galleryトムの庭から頂き、出産前の荷物の一番下に詰めて、出産したその日の午後に、Tさんと指をつないで、読んで聞かせた絵本だった。
 だいたい親の思い入れというのはあまり伝わらず、この科学絵本にこめられた思想と、少しくすんだ色合いの美しさに私が惚れたのに反比例するように、Tさんはそっけなく、オープン棚に置いておいても持ってくることはなかった。
 だけど、Mくんが2月に生まれ、Tさんのもうすぐ3歳が射程に入った4月ごろから、Tさんは、不意にこの絵本を持ってくるようになった。お誕生日とは必ずしも結びつけていなかったのだが、自然にこの絵本を引っ張り出してきたのは、Tさんなりに感じるところがあったからなのか。
 最初のページだけ「おさかなが、とりとちょうちょにおはなしして、これはなに? かめさん?」と指さす。ページをめくって「ちきゅうは くるりとまわり」「ちきゅうは くるりとまわり」「ちきゅうは くるりとまわり」と同じことを何度も言う。これは、宇宙から見た地球、ぼうぼうとマグマを内部で燃やす地球、太陽の半円形、28日でひとまわりする月……と、絵が「くるりとまわる」(=球体)連続だからだろう。
 『あなたがうまれたひ』は、「あなた」が生まれる前、地球も地球上の生き物も、海も大地も月も星も太陽も、どんなにか「あなた」を待ち、「あなた」を迎え入れる準備をしたか。ひそやかでダイナミックな自然のうごきと、生まれてこようとする赤ちゃんへのメッセージと、最後の「あなたがうまれてとってもうれしい」という一言に至るまでのall for oneの豊かさが満ち溢れたすばらしい絵本である。

 3歳の誕生日当日は小さな遊園地に出かけ、メリーゴーランドや観覧車に乗った。係員さんは、大人ではなく子どもに「おねえちゃんいくつ?」と聞く。Tさんは、恥ずかしそうに、誇らしそうにOKマークを出して、「3さい」じるしを見せた。
 Tさんは、3歳になってお姉さんになり、お料理してみんなにふるまえるほどに「大きく」なった。「Tちゃんがやる!おかあさんあっちいって」と主張したり、今までは簡単にその下をくぐっていた冷蔵庫の扉にぶつかるようになって背が伸びたことを思ったり。 最近では、リサイクル資料で手に入れた『ジェインのもうふ』(アーサー=ミラー作、アル=パーカー絵、厠川圭子訳、偕成社、1971年)にもはまりはじめた。赤ちゃんのときの愛用の「もーも」(大好きな毛布)を、なくしたり取り戻したりしながら、最後に鳥がすべて持ち去るまでを見届けて、成長に一区切りつけるジェインの物語を、Tさんは、未来のシミュレーションに見ているのかもしれない。

 しかし、3歳は、同時に、それほど前向きだけというものでもない。テレビでローラーコースターを見て、Tさんは「Tちゃん、3さいになったら、あれにのろうね」とよく言っていたのだが、実際に3歳になってみると、「Tちゃん、まだ3さいだからのれないの」とちょっと腰が引けてきた。遊園地でも、コースターは見るだけで充分楽しい、といった表情で、スリリングなものへの怖れはしっかり持ったまま。3歳になったばかりなのに、「Tちゃん、もうすぐ4さい、もうすぐ5さいよ。そしたらのろうね」に変わった。
 週に2日の保育でプールがあると告げると、「Tちゃん、3さいだからまだはいれない」と言う。この場合は、「だいじょうぶ、3さいプールだから」とよく分からない理屈で励ましたら、結局ものすごくエンジョイして帰ってきた。慎重派のTさんは、初めてのものへの心の準備が必要なタイプである。うどん作りの企画でも「3さいだから、まだよ」と言うので、またもや「さんさいうどんだから大丈夫」と答えたが、まるで掛詞のようだった。

 Tさんの場合、「3歳」は、大きくなってOKのしるしであると同時に、まだまだ小さいからだめなのよ(=だからやりたくないことやこわいことはやらない)のエクスキューズにもなる。一直線に成長街道を走るのではなく、ゆるやかに行きつ戻りつしながら、彼女が3歳になじんだ頃、少しずつ4歳が射程に入ってくるのかもしれない。
 7月の初め、Tさんがすっかり気に入った『ぐりとぐら』のシリーズをもう1冊買おうと思って、『ぐりとぐらのえんそく』(なかがわりえことやまわきゆりこ、福音館書店、1979年4月)と『ぐりとぐらのかいすいよく』を手に取った。
 ところが、『かいすいよく』をぱらぱらめくると、大きなフォームで泳ぐ人間のすぐそばに、小さな小さなぐりとぐらが見えてしまい、私は焦って本を閉じた。ドキドキしたのは、魔法の種明かしのように、人間と比べたぐりとぐらの小ささを突きつけられたからである。ストーリーは追わなかったけれど、そうか、のねずみのぐりとぐらって小さかったんだ、というのが、とてもショックだった。『ぐりとぐら』で、2匹が見つけた大きな卵も、当たり前の卵だったのかもしれない。私は、本当に六畳間くらいある卵を想像していたのだ。
 ぐりとぐらが「実は小さい」ことに驚き夢破れるほど、私は、のねずみサイズにコミットしていた。本当は小さいムーミンの世界が、他と比べられることなくムーミン谷で閉じているように、ぐりとぐらも、幸福な林であって欲しかったというわがままで。

 結局、私は『ぐりとぐらのえんそく』だけ買った。たしかにぐりとぐらは小さいけれど、一応それは大きいクマとの対比だし、ぐりとぐらのたっぷりのお弁当でクマももてなされうる奇妙な大小関係は、まだ『ぐりとぐら』のカステラ・マジックを引きつぐものである。小さいばかりでなく、自分が一人前であるという感覚を、絵本の中で実感できるように、私はねがっていた。
 ところが、この前、何度目かに『ぐりとぐら』を読んでいると、最後のカステラをふるまう場面で、Tさんは「くまさん、かめ、わに!、うさぎさん、かたちゅむりもいるねえ、これは?ふくろう? これは?いぬしし?(=イノシシ)」と見ながら、「ひよこちゃんがねえ、ぼくもほしいなあっていってる」と言う。
 ふるまわれていない動物がいたかしらと思ってよくよく見てみると、オオカミの肩にちょんととまった黄色い鳥にだけ、たしかにカステラがなかった。「そうだね、今度、Tちゃんホットケーキ作ったら分けようね」と言いつつ、Tさんが「より小さいもの」に向かうシンパシーを強く持っていることにも、改めて気づかされた。
 3歳はお姉さんであるのと同時に「ちいさい」のだろう。幼稚園にもまだ行っていないひよこさん。幼稚園児が「お兄さん、お姉さん」であるほどに、自分はまだ小さい。ふとした瞬間に、Tさんはその「小ささ」をつきつけられる。自我の芽生え始める3歳は、大きい自分と小さい自分のバランスへの気づきの始まりでもあると思う。
 
 Mくんは、4ヶ月過ぎて寝返りをマスターし、違う世界の見え方に喜ぶようになった。口を▽の形にして笑い、美しい喃語でしゃべる。この前、Tさんに絵本を読んでいると、「ふぁふぁふぁふぁ」と笑い、それは何への反応かというと、ページをめくる音がおもしろかったからだった。
 抱っこしたり母乳をあげようとしたりしても、たまに(私が疲れて)無言だと、そのまま抵抗してぐずるMくんに、「なんなのよー、何が不満かねー」と思わず投げやりに言うと、投げやりな言葉なのにそれだけで笑顔になったりする。まこと、人間はコミュニケーションを糧として生きる動物なのだ。
 スーパーのレジ袋がくしゃくしゃいう音にも「ははーん」と笑う。「みょみょみょ」とか「もももも」とか変な擬音でつっついたりくすぐったりすると、やっぱり反応よく笑う。絵本を読んでいても、ページをめくる音でMくんが笑うと、私もTさんもおもしろくて、絵本読みは中断し、私が「もももも」とMくんをさすり、Tさんが「みょみょみょみょ」と真似し、Mくんが「ふぇふぇふぇーん」と笑うおかしな空間に変わってしまう。絵本もいいけど、こんなコミュニケーションも、ぐっと楽しい。

(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ 「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)


『宇宙たんけんたい全6巻』(フランクリン・M・ブランリー:文 エドワード・ミラー他:絵 神鳥統夫:訳 小峰書店 1800円 2005.01)
 調べ物学習的な絵本には、結構リアル画で攻めてくる物が多い中、こいつはコミックのノリ(絵描きはそれぞれ違うのでタッチは別々だが、ノリは同じね)なのがいい。
 子どもは、「ほんとう」の情報を知りたいわけで、もちろんそれは子どもがわかる形で欲しいわけで、なんで知りたいかというと子どもは大人ほど、この世界を知らないことを知っているからで(実は大人もそれほど知っているわけではないが、知っているフリをしないとやってけないから、知っているフリをするしかない)、だから彼らに伝えやすい方法が必要で、その意味このシリーズはいいのだ。(hico)

『楽園』(関屋敏隆:作 くもん出版 1600円 2005.06)
 関屋の北へのまなざしはますます強くなっているようで、この絵本は知床を舞台としています。というか、知床そのものがテーマです。
 シルクスクリーンに色をのせた画は、自然の荒々しさよりも、関屋の自然への愛おしさをよく伝えています。舞台を50年後に設定したのも、半世紀後の知床も今のように活き続けていることへの「祈り」です。
 話の中に、50年前の絵描きのエピソードが出てきますが、それは関屋自身と言ってもいいでしょう。
 ただ、50年後という設定が、物語の中で見えるように描かれているかは、やや疑問。「祈り」が前に出すぎたのでは? と思わせます。ちょっと力が入りすぎたかな。(hico)

『あっ おちてくる ふってくる』(ジーン・ジオン:ぶん マーガレット・ブロイ・グレアム:え まさきるりこ:やく あすなろ書房 1300円 1951/2005.01)
 半世紀前の絵本ですが、そのシンプルな物語構成は、今でも楽しいものです。
 はなびらがおちてきて、ふんすいからみずがおちてきて・・・・・・。
 おちてくるものとふってくるものが次々と画面中で季節を通って行きます。
 最後は、子どもがおちてくる! 父親の腕の中へ。
 何度読んでももらっても楽しくなる一品でしょう。画がいささか古いのは仕方なしか。(hico)

『絵かきさんになりたいな』(トミー・デ・パオラ:作 福本友美子:訳 光村教育図書 1400円 1989/2005.06)
 自伝的作品。
 とにかく絵を描くことが大好きなトミーの、小学校に入ったときまでの物語なのですが、心の動きが実にリアルです。
 トミーの絵をまるごと認めてくれている家族。彼の絵を部屋に、お店に飾ってくれます。一方学校は?
 トミーのとまどいと子どもながらの自負が、とっても気持ちいいです。
 トミー・デ・パオラは、いいのだ。(hico)

『みつあみみつあみ』(水野翠 小峰書店 1300円 2005.05)
 いかにも御あの子らしい女の子が、女の子らしい空想にふけるという話ですから「ジェンダー」を考えてしまいますが、「みつあみ」だけに絞れば、これはなかなかおもしろいです。
 女の子、いろんなみつあみを考えるわけ。
 3匹のキリンの首のみつあみでしょ、ぞうさんの鼻でしょ、カメレオンの舌でしょ、なんでもみつあみにしてしまう、ある意味でダークな空想をしている女の子が楽しいわけ。(hico)

『ずらーりキンギョ』(松橋利光:写真 高岡昌江:文 アリス館 1500円 2005.06)
 『ずらーり』シリーズ第3弾。
 この「ずらーり」ってコンセプトだけで、もう勝ちですね、このシリーズ。だって、そこがしっかりしているから、テーマはなんでもありなんですから。最初がカエルで、次がウンチ(うんこと言おう)で、今度がキンギョ。
 むちゃくちゃなラインナップ。
 でも、それがアリ。OK。
 それって、とっても楽しいでしょ。
 今作も、ただただずらーりで、アホくさいと言えばそうなのですが、制作側の真剣さが伝わってきて、より、おかしい(失礼)。
 とにかくキンギョだらけですので、キンギョをそんなに好きではないわたしはもう、うんざりとして、それがおもしろいのですよ。(hico)

『ウイリアムのこねこ』(マージョロー・フラック:ぶん・え まさきるりこ:やく 新風舎 1300円 1938/2005.03)
 70年前の絵本ですから、画はさすがに古い。その古さ故、子どもたちにとっては新鮮かもしれません。
 物語はなかなかよいです。
 ウイリアムがこねこをひろう。3人の飼い主が現れ、さあ大変。ウイリアムだって飼いたいのだし・・・。
 幸せな結末が、無理なく訪れて心地よいです。(hico)

『ぼくとくまさん』(ユリ・シュルヴィッツ さくまゆみこ:訳 1200円 1963/2005.05 あすなろ書房)
 シュルヴィッツというだけでもう、ワオワオ!なのですが、
「この へやには なんでも あります」といきなり言われて、やられたなって感じ。こどもの完結した世界が示されます。
 画面を贅沢に使った構成で見せていく、ぼくの一日。くまさんがいない! くまをさがす一場面一場面が、ちょいとだけせつなくてよいです。もちろん最後はめでたしめでたし。(hico)

『ビシューとフルール』(亀岡亜希子 教育画劇 1600円 2005.06)
 繁殖のためアフリカから自分のふるさとの帰るツバメのビシュー。タチョウにもらったプレゼントはダイヤモンド。南の国からフルールがもってきたのは花の種。二羽は子育てを始めます。
 所々のページが折り込み式にになっていて、拡げるときのドキドキ感が楽しい。
 「幸せ」にあふれた絵本です。(hico)

『しあわせのちいさなたまご』(ルース・クラウス:ぶん クロケット・ジョンソン:え かくわかこ:やく あすなろ書房 950円 2005.07)
 「しあわえのちいさな小鳥」とかではなく、「たまご」ですから、いきなり奇妙。で、その奇妙さは、ずーっと続きます。親鳥かどうかはわかりませんが、鳥がやってきてたまごをあたためるシーンが何ページかあり、孵化して、飛んでゆく。
 ここには、「親鳥の愛情」だとか「小鳥がだんだん大きくなって、巣立っていく」だとかの「感動」のプロセスが排除されています。何故排除されているのかもわかりません。
 そうした寸止めが、効果的でおもしろい一品。読み聞かせると、子どもはツッコミを入れまくるでしょうね。(hico)

『おでっちょさん』(まつしたきのこ:文 伊藤秀男:絵 学研 1200円 2005.07)
 月も山も持ち上げる、豪快な女の子のお話。
 道をふさぐ、大きなヘビをおでっちょさんはほおりなげる。とにかく彼女の前をふさぐものならなんでもね。
 それだけなら、力自慢話なのですが、そのあとがいい。みんなおでっちょさんと遊びたかったんだ、となって、大騒ぎ。
 伊藤秀男の画が活きています。(hico)

『ふつうの学校にいくふつうの日』(コリン・マクノートン:文 きたむらさとし:絵 柴田元幸:訳 小峰書店 1300円 2004/2005.05)
 ふつうに学校にいくふつうの日に、ふつうでないことが「淡々」と起こる物語。
 きたむらの絵は、テキストにピッタリとついて離れず、その力量を見せてくれていて、気持ちがいい。
 でも、ふつうの日にふつうでないことが起こる物語って、とってもふつうです。しかもそれが学校で、ヘンな先生がやってきて起こるとなると、結構「?」。
 だって、学校って本当は全然ふつうじゃないのに、学校にふつうじゃない先生が来てふつうじゃないことが起こるという設定によって、学校はふつうだと宣言してしまっているのですから。(hico)

『とくべつないちにち』(イヴォンヌ・ヤハテンベルフ:作 野坂悦子:訳 講談社 1600円 2001/2005.03)
 この作品では、学校に初めていく日が、「とくべつ」なのです。主人公は家に帰りたいほどドキドキ。
 そんな彼のなが~い時間が描かれていきます。
 この作家、色の置き方が本当に上手いです。ぜひ手にとって見てくださいね。
 それはともかく、そんな男の子のドキドキが喜びに変わっていくまでが描かれていきます。
 この物語もふつうといえばふつうの物語。ただ、学校は、不安な場所であることを押さえている辺りが買いです。(hico)

『日本の風景 松』(ゆきのようこ:文 阿部伸二:絵 理論社 1400円 2005.06)
 イマドキなかなか振り返ることもない木。今回は松です。海岸では何故クロマツをよく見かけるのか という基本から始まって、ありとあらゆる松情報が描かれていきます。
 こうして読み終わると、これからは歩いていても松に目をとめるようになるでしょう。
 ようするに、気持ちの幅ができるのですね。こういうのを読むと。(hico)

『あめあがりのカピバラくん』(たなかしんすけ 理論社 1000円 2005.06)
 『カピバラくん』の続編であります。
 今回はおじいちゃんと泥遊び満開です。画がリズムを刻み、気持ちのいい雨上がりまで一直線。(hico)

『リュック、コンクールへいく』(いちかわなつこ:作・絵 ポプラ社 1200円 2005.02)
 パン屋の犬リュックのシリーズ3作目。
 この絵本世界に、読者も作者も慣れて、ゆっくり浸れます。
 リュックの飼い主ジーナがパンのコンクールに参加。審査員はジーナのあこがれの職人ブーカさん。
 これは頑張らねば!
 作るのは帽子型の甘いクグロフ。果たして上手く焼けるのか?
 コンクール、美味そうなパンがあるな~。読後感抜きで食べたいぞ。
 ジーナが優勝! なんてオチは用意されていません。ただただ、あリのままに。そこがいいのですよ。(hico)

【創作】『ぎぶそん』(伊藤たかみ ポプラ社 2005.05 1300円) 「昭和」が終わろうとする年の中学生的青春物語。マロ、リリイとバンドを組んでいるガクは、ピッキング・ハーモニクスが出来るという噂のかけるをメンバーに入れようと、彼の家にやってくるところから物語は始まる。ガクがプレイしたいのはガンズ・アンド・ローゼスの曲。そのためには、ピッキング・ハーモニクスが出来るリードギターが必要なのだ。そしてかけるが持っているギターはギブソンのフライングV。逆V型のボディを持つあれだ。 大阪を舞台としたこの物語は、バンド物青春物語として正当な展開を見せる。メンバーのトラブル、恋、チャレンジする楽曲へのメンバーのハーモニー問題、そして学校生活。ピークが学園祭での演奏というのも、正当性の証である。 こういう爽やか物にバンド話がピッタリくるのは、運動クラブと違ってメンバー数が少ないことがあるのだ。伝統もないしね。 これも大阪が舞台なのだが、バンド青春物って何故か地方が多いんだよね。(hico)

『レイチェルと滅びの呪文』(クリフ・マクニッシュ 金原瑞人訳 理論社) これは、子どもは誰でも魔法の力を持っているとする物語。と書けば、大人が失ってしまった、純粋な子どもの心を描いたロマン主義的な作品のように思えますが、違います。 地球を支配しようとたくらんでいる魔女ドラグウェナは、強力な魔力を秘めた子どもを捜していて、その可能性が高いレイチェルと弟エリックを見つけます。二人は、自宅の地下室で、壁から出てきた腕によって捕獲されてしまう。父親が助けようとするのですが、失敗してしまいます。「パパは、レイチェルを放した手をのろうように見つめ、足で斧をけとばした。目から涙がこぼれた」。 己の無力さに涙するしかない父親が描かれています。 ドラグウェナが支配する星イスレイアに弟と共に連れていかれたレイチェルは、訓練され、知らなかった己の力、魔法を操れるようになります。指南役のモルペスはこう述べます。魔法の力は「みんな使われるときを待っている。待ちきれないでいるんです!」。 子どもたちは魔力を持っているにもかかわらず、どうやらそれが封印されているらしいのです。 魔法に目覚めたレイチェルですが、その力は諸刃の剣です。レイチェルと同じようにかつて子どもの頃に地球から連れてこられ、今は抵抗運動をしている大人たちは、彼女を「希望の子」と呼びますが、レイチェルが失敗すれば、「すべての希望をほろぼす子」にもなりうるのです。つまり力は制御しなければならず、その責任は子どもであるレイチェル自身が負わなければなりません。 レイチェルたちがドラグウェナを打ち負かすと、一緒に戦った人々はその後、地球から連れてこられた時の姿、「子ども」に戻ってしまいます。冒険をして成長し、大人になるのがこれまでの常道とするなら、この物語はその逆を描いているわけです。 レイチェルほど強力な力ではなくても、魔法に目覚める子どもたち。「なんのために?」ととまどう彼らに、レイチェルは言います。「したいことをするためよ!」 大人社会の抑制から逃れて、自由に魔法を使える子どもたち。そして魔法が使えない大人たち。 子どもたちにとっては楽しいそんな社会も、大人にとって悪夢かもしれません。しかし、それをファンタジーが描いてくれることで、大人はもう一度子どもとの関係を見直せるのです。 レイチェルが無事に帰ってきたとき、「パパはレイチェルと目を合わすと、ほっとして泣き出した」。 最初も最後も泣いているパパ。 そして、「どこかちがう」、「おまえは変わった」。 レイチェルの返事は、「なんだって変わるものでしょ」。 憎たらしいったら!(「子どもの本だより」徳間書店 2005.05)(hico)

受け身ではなく、子どもたちが主体的に課題解決を図ろうとする学習として「調べ学習」の重要性が言われているのですが、それを受けてでしょうか、児童書の中にも、ここ数年「調べ学習」の教材となるような図鑑や百科本が増えてきています。 その中で『「知」のビジュアル百科』(あすなろ書房、各2000円)は、豊富な写真と簡潔な文章で、見やすくて、わかりやすいシリーズです。 一般的に百科事典は、あらかじめ全何巻と決められていて、その中に世界の、そして歴史上の様々な情報がバランスよく詰め込まれています。ところがこのシリーズは現在17巻まで出ていますが、全何巻と決められているわけではないようです。 百科と謳(うた)っているように、1巻ごとに扱うテーマは「宝石」、「ミイラ」、「神話」など様々で統一感はありません。それがとてもいい感じ。だって、「世界」は百科事典全何巻に収まるわけはないですから。何巻出してもまだまだ終わらないよ! ってことです。 16~17巻は『写真が語る第一次世界大戦』(S・アダムズ著、猪口邦子監修)と『同第二次世界大戦』(同)。以下、古代や中世の巻が続きます。歴史は現代から遡(さかの)って教えて欲しいと思っている私としては、このテーマはうれしい。 戦争の無駄さがとてもよくわかりますよ。(ひこ・田中)読売新聞2005.06.28

近頃、気の抜けた癒しタイプの作品が多い中、元気よく泣けてしまう恋物語が『風神秘抄』(荻原規子 徳間書店 二千五百円)。病気や事故で簡単に恋人が亡くなったりはしませんよ。 平安末期、平治の乱から物語は始まります。主人公の草十郎は山中で独り笛を吹いているのが好きな青年。そんな彼も、板東武者の家に生まれたが故、義平を將に抱く戦に加わるのですが敗退。生きる目的をなくしかけた彼の前に現れたのは、舞の力で魂を鎮める力を持つ糸世。独りが好きだったはずの草十郎ですが、彼の笛の音は見事に糸世の舞と共鳴します。自然と惹かれあう二人。が、舞と笛の共鳴は、人の運命を変える力を持っていました。それを知った上皇後白河は、自らの延命のため、彼らにその力を使わせます。その結果、糸世は異界へと消えてしまう。 愛する者を取り戻すため、草十郎の彷徨が始まります。様々な出来事に遭遇し、草十郎やがて、その笛の音で世界を支配できる程の力を得ますが、彼の願いはただ一つ。糸世ともう一度出会うこと。だって、「糸世が必要なんだ、糸世に出会えたから、糸世がこの世にいたから、おれは今のおれになることができた」。相手を認めることで初めて、自分自身を抱きしめることができる。なんて一途! だから、悲しみに溺れて自分の傷をなめている暇なんかないのだ。(ひこ・田中)読売新聞2005.07.12

『小さな小さな海』(岩瀬成子:作 長谷川集平:絵 理論社 1000円 2005.07)
 学校で苦手な授業があると、なんか憂鬱。という体験は誰にでもあるでしょう。
 この物語は、そうしたささやかでけど、本人には結構重い問題を素材に、それを乗り越えることと、コミュニケーションの温かさを描いています。
 よしろうは水泳が苦手。その時間が近づくとおなかが痛くなってしまう。
 ある日、保健室で落ち込んでいると、頭が痛くなったというこうじがやってくる。一年年上のこうじは、なわとびが苦手。でも、よしろうはなわとびが得意だから・・・・。
 いつも子どもの中に分け入っていく岩瀬が、今作では少し距離を置いて、「苦手」について描いています。
 長谷川の画との相性は、もう抜群。(hico)

『駱駝はまだ眠っている』(砂岸あろ:作 かもがわ出版 1600円 2005.06)
 70年代の京都に生きる女の子の物語。
「わたし、森下ろまん。一四歳。
 この名前をつけたのは、たぶん都さんで、都さんはわたしの母親である」とはプロローグ。
 物語は、ろまんと母親を中心にそれを取り巻く様々な人々をろまんの目で追っていく。
 70年大学紛争後のけだるい雰囲気の中にあっても、中学生のろまんは新鮮なまなざしで時代を生きていきます。
 この作品の舞台となる駱駝館という喫茶店は当時実在しており、実は私はそこの店員であったので、登場人物たちのモデルとなった人達の顔が次々と浮かんできます。それ故か、本物のリアルさに比べ、この登場人物たちのキャラがイマイチ立っていないように思えてしまいます。その辺りは私には判断不能なのでしょう。
 『小さな小さな海』の岩瀬成子さんも当時この世界と近い位置にいたので、チラリと描写されとります。(hico)



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