【児童文学評論】 No.97  2006.01.25

hicoは、昨年末からアトピー性皮膚炎らしきものでのたうち回っており、一冊も読めませんでした。ごめんなさい。

*****
あとがき大全(54回目)金原瑞人

1.今回、あとがきはひとつだけ
 12月29日に出たアレックス・シアラーの『世界でたったひとりの子』(竹書房)のあとがきを。

   訳者あとがき
 『ミッシング』のあとがきでも書いたが、シアラーは書くたびに、題材もテーマも変わる。今回はSFだ。舞台は、そう遠くない未来、老化を防ぐ薬が発見されて、だれもが若くいられるようになった時代だ。平均寿命は百五十歳くらいで、二百歳を越える人もいる。ところが人々が若いまま長寿になった結果、ほとんど子どもができなくなってしまった。
 主人公はタリンという少年。両親はいなくて、ディートという男が親代わり……といっても、ディートは養い親というだけではなくて、タリンを使って商売をしている。子どものいない人々に、タリンを一時間いくらで貸して、もうけているのだ。子どもは、ほとんどいない世界だ。高い金を出して、タリンを借りたい人間はいくらでもいる。
 しかしタリンもあと数年で子どもではなくなってしまう。そこで、ディートはタリンに、PPインプラントという手術を受けさせようと考えている。これは死ぬまでずっと子どものままでいられるという手術だ。ディートはこういう。
「PPは子どものうちに受けなきゃだめだ。おとなになってからじゃ意味がない。そのときには手遅れだ。なあ、おまえ、どう思う? どうだ? PPを受けてみるってのは? 金なら出してやる。そうすれば、俺たち、一生、楽に暮らせるんだからな。おまえと俺のふたりでさ。金は、おまえのかせぎから返してくれりゃあいい」
 実際、PP手術を受けて、子どものままの姿形でタリンのような仕事をしている人もいるし、ショーで踊ったり歌ったりしている人もいる。ただ、この手術を受けたら、それきり成長が止まってしまう。
 タリンはそんなのはいやだと思い、逃げようかとも考えるが、ディートは抜け目のない男で、なかなかすきをみせない。それに、まわりはほとんど大人しかいない。そんななかに子どもがひとりで飛びだしてしまったら、目立たないわけがない。それに、子どもをさらって大もうけしようとたくらんでいる人間もたくさんいるはずだ。事実、タリンを誘拐しようと追っている男もいる。
 タリンはどんどん追いつめられていく。しかし、逃げようがない。逃げようがないまま、PP手術が迫り、あやしい影が忍び寄ってくる……
 この本を読んだときは、まずこの世界にぞっとしてしまった。ディートはこんなふうにいう(この男、ある意味、冷血な人間だが、人を見る目も世界を見る目も、驚くほど鋭い)
「この世は、だれでもない人間であふれてる。どいつも、動かなくなった時計みたいな顔をしてやがる。ちょっとあたりを見まわして、自分の目で見てみろ。みんな四十になると、老化防止薬を飲みはじめる。それで、どいつもこいつも同じ顔になる。まるで、ろう人形だ。凍りついたほほえみに、不自然な肌の色。どう思うかって? これは世界の復讐さ」
「年寄りじみたふるまいもしない。いつだって最新のファッションに身を包んでやがる。だがな、中身は化石さ。肝心な中身はもう灰になる寸前ってやつらだっている。あの老化防止薬はな、人間が外から腐っていくのは食いとめるが、中からの腐敗は治せないんだ。おきまりの『生きるのは飽きたが、死ぬのは怖い』病にかかったらおしまいさ。それに効く薬はないからな」
 この世界のなかで、金のことしか考えていない男にしばられているタリン。タリン自身、それがいやで、なんとかしたいと思ってはいるものの、自分が本当にどうしたいのか、どうすればいいのか、まったくわからない。だけど、大人になりたい。しかし逃げ場はどこにもない。やがてディートがPPのことを真剣に考え始める。
 このタリンの恐怖、孤独が痛いほどに突き刺さってくる。作者は、どこまでもどこまでもタリンを追いつめていく。
 読み終えて、思わずほっとため息をついてしまった。切なさ、悲しさ、孤独、絶望、そういったものが渦巻くなか、最後にそっと……
 どうか、タリンといっしょに、そう遠くない、この未来世界を旅してみてほしい。この世界の恐怖を、タリンを襲う恐怖を味わってほしい。そして、死について、老いについて、若さについて、なにより生について考えてみてほしい。
 きっと、忘れられない一冊になると思う。
(作品中、二度ほど出てくる「ポッド」というのは、地下鉄に似た未来の乗り物のこと)

 最後になりましたが、編集の中山智映子さん、翻訳協力者の小田原智子さん、原文とのつきあわせをしてくださった杉田七重さん、そして質問に快く答えてくださった作者のシアラーさんに、心からの感謝を!

     二〇〇五年十一月二十九日            金原瑞人

2.長寿
 じつは、このところ、長寿がらみの本が多い。ひとつは、この『世界でたったひとりの子』、もうひとつは『大吸血時代』(そのうち求龍堂から出版の予定)。両方とも、長寿の世界が舞台。で、両方とも、長寿なんてちっともいいことない、という話。『たったひとりの子』のほうは、あとがきにも書いたけど、もう一度、引用。

「年寄りじみたふるまいもしない。いつだって最新のファッションに身を包んでやがる。だがな、中身は化石さ。肝心な中身はもう灰になる寸前ってやつらだっている。あの老化防止薬はな、人間が外から腐っていくのは食いとめるが、中からの腐敗は治せないんだ。おきまりの『生きるのは飽きたが、死ぬのは怖い』病にかかったらおしまいさ。それに効く薬はないからな」

 いつもながら、シアラーって、こういう科白がうまい。
 また『大吸血時代』のほうも、みんな吸血鬼になって、ほぼ不老不死。日光にあたるか、体の原型が残らなくなるほどのことにでもならない限り、死なない。主人公が吸血鬼を(よみがえれないように)殺す場面があるんだけど、その吸血鬼は、「ありがとよ」といって死んでいく。
 だよなだよな。やっぱり、そうだよなと思っていたら、「歌う生物学者」本川達雄の『「長生き」が地球を滅ぼす:現代人の時間とエネルギー』(阪急コミュニケーションズ)という本が出た。これはすごい本で、まさに現代人必読、なのだ。
 まあ、詳しいことは書かないけど、『世界でたったひとりの子』『大吸血時代』『「長生き」は地球を滅ぼす』と立て続けに、似たようなテーマをはらんだ本にぶつかり、ついつい長寿について考えてしまった。そのへんは、いずれまた、ゆっくり。

3.恐怖短編集(英米編)
 12月、赤木かん子から、6巻か7巻の「恐怖短編集」をポプラ社から出す予定で、そのうちの「英米編」を担当しろという連絡があった。つまり、短編をいくつか選んで、それに前書きを書けとのことらしい。
 というわけで、まず次の作品を選んでみた。

  恐怖小説アンソロジー(英米古典編)

・小壜の悪魔 スティーヴンソン
The bottle imp (1893) by Robert Louis Stevenson

・信号手 ディケンズ
No 1 Branch Line: The Signalman

・告げ口心臓 ポー
The Tell-Tale Heart by Edgar Allan Poe

・アウルクリーク橋をめぐるできごと ビアス
An Occurrence at Owl Creek Bridge by Ambrose Bierce

・闇の海の声 ホジスン
The Voice in the Night by William Hope Hodgson

 以上5編で、原稿用紙にして約200枚。ちょうど、長さとしては手頃。選んだ理由はというと、昔から好きだったから。ただ、ポーについては『モルグ街の殺人事件』(岩波少年文庫)でいくつかの短編を訳したので、そこに載っていないものを選んだ。
 この5編。いままでの訳をもらってくるよりは、新訳のほうがいいだろうと、4人にお願いした。まあ、だれがどれを訳しているかは、お楽しみに、刊行を待ってほしい……が、そのうちのひとりは、野沢さんで、担当の作品はアンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋」。
 この作品の翻訳をめぐって、ちょっとおもしろいことがあったので、野沢さんにまとめてもらった。翻訳に興味のある人はぜひ読んでほしい。

4.アウルクリーク橋をめぐるできごと

 アンブローズ・ビアスの短編小説、”An Occurrence at Owl Creek Bridge”を訳すことになり、原文を一読して、「うぅ……」とうなった。南北戦争のさなか、民間人ながら愛する南部諸州のために英雄的な貢献をしたいと考えた男が、あることを企て、北軍に捕まり、鉄道橋で絞首刑にされて……という、緊迫感あふれるストーリーなのだが、私の三大苦手要素、「戦争」「アクション」「空間把握能力に乏しいと理解できない情景描写」が、短い作品のなかにぎっしり詰まっているのだ。しかし、嘆いても始まらない。いつものように地道に辞書をひきつつ原文を精読し、所々悩みながら訳し、訳文を原文とつきあわせ、推敲し、既訳作品(岩波文庫の『ビアス短編集』に所収のもの)と読みくらべて誤訳がないかチェックし、最後にもう一度推敲してから、監訳の金原先生のもとへ訳稿を送り、ふうっと息をついた。三十枚ほどの短編なのに、とても時間がかかった。
 数日後、金原先生からアカ入りの訳稿とともに、「インターネットにも『アウルクリーク橋でのできごと』の翻訳が載ってるよ」という情報が送られてきた。http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/owlcreek.htmlで公開されているという。さっそく読んでみると、訳者は実名を伏せているがかなりの英米文学通で、翻訳も勉強された方らしく、正確でしっかりした訳文だった。この方(仮にX氏と呼ばせていただく)は、訳文に添えた「翻訳ノート」のなかで、岩波文庫に収められた翻訳の誤訳を指摘している。問題の箇所は作品の最後の部分で、原文は以下のとおり。(ここからはネタバレになるので、物語の結末を知りたくない方は先に作品をお読みください。原作の全文はhttp://www.gutenberg.org/dirs/etext95/owlcr11.txtで読むことができます)
Peyton Farquhar was dead; his body, with a broken neck, swung gently from side to side beneath the timbers of the Owl Creek bridge.
岩波文庫の訳は下記のとおり。
 ペイトン・ファーカーは死んでいた。首の折れた、彼の体は、アウル・クリーク鉄橋に流れ集まった材木の下で、右に左にゆっくりと揺れていた。
X氏は、「たしかに作品半ばに、洪水で運ばれてきた流木が鉄橋にたまっているという記述があるが、その『流木』にはdriftwoodという単語が使われており、この最後の部分に出てくるtimbersを『流木』ととらえるのは無理がある」と述べ、次のように訳していた。
   ペイトン・ファーカーは死んだ。首の折れたその死体は、アウル・クリーク鉄橋の横木の下で、左右にゆっくり揺れていた。
ちなみに私も、timbersを「流木」と解するのに反対、という点ではX氏と同意見だが、次のように訳していた。
ペイトン・ファーカは死んでいた。首の折れたその死体は、そっと左右にゆれながら、アウルクリーク橋の枕木の下にぶらさがっていた。
さて、ここで私は迷路に入りこんでしまった。原因は、X氏が使った「横木」という訳語である。じつは、作品の冒頭に次のような文章がある。
A rope closely encircled his neck. It was attached to a stout cross-timber above his head and the slack fell to the level of his knees.
死刑にされようとしている男の様子を描写した部分だが、ここに出てくるcross-timberとは、おそらく橋の上部に横に渡されている木材のことだろうと思い、建築士の夫を持つ友人にメールできいて、専門的には「梁」と呼ぶのだと知り、しかし読者が小中学生ということもあって、金原先生にも相談した結果、「横木」という訳語にたどりついていたのだ。そして、X氏が最後の部分のtimbersを「横木」と訳しているのをみたとき、なぜか私の頭の中に、「あれ? 死体は橋の上部の横木の下にぶらさがっているのであって、枕木の下まではいってないのかも。脚ぐらいは橋の下に落ちてるかもしれないけど、全身が橋の下にぶらさがってるわけではないのかも」という疑問が、たちまちぶわーっと広がってしまったのだ。自分が何を根拠にtimbersを「枕木」と訳したのかも忘れ、ただもう、「timbersって何? 死体はどこにぶらさがってるの? 橋の上なの下なの?」という堂々めぐりに陥り、お忙しい金原先生にまたも質問のメールを送ってしまうという体たらくだった。しかし、ある朝、新しい頭で原文を読み直してみて、やはり死体は枕木の下まで落ちていると確信するに至った。その根拠はふたつある。
(1) 枕木に渡された足場の板が外れて、首に縄を巻かれた男が落ちていくときの描写が、As Peyton Farquhar fell straight downward through the bridge
となっている。throughというからには、全身突き抜けているのではないか。
(2) 先に引用した冒頭の文章に、「たるんだ縄が男の膝のあたりまで垂れている」とある。一端を橋の上部の横木に、もう一端を首にゆわえつけられた縄が膝まで垂れているということは、少なくとも首から膝までの長さの二倍分、縄が余っていて、ぴんと張ったときには首から膝までの長さの二倍分、首が下へいくということだ。私の首から膝までは、メジャーで測ったら一メートル近くあった。つまり、首が二メートル下がるんだから、橋の下までいくはずだ。
空間把握能力に恵まれた方にとって、上記(2)の考察はあまりにばかばかしいかもしれないが、どうか忍耐と同情をもって読み飛ばしていただきたい。
ここでもう一度初心にかえって、timberを辞書でひいてみた。『リーダーズ英和辞典』には、「建物」「建材」「構造木材」「フレーム材」などと載っている。『ランダムハウス英語辞典』には、「(構造体の一部を成す)一本の木材(梁、桁、垂木、柱など)」とある。
そうか、橋の上部の「横木」も下部の「横木」も、橋桁も橋脚も、みなtimberなのであって、最後のtimbersは構造体としての橋全体をさしているのかもしれない……と、ようやく自分なりの結論に近づいた頃、金原先生から、「アメリカ人の同僚にきいてみたところ、When I read this, I imagine that "the timbers" refers to the frame of the bridge.という返事がきた」というメールをいただいた。やはりそうか。ここでもう一度、X氏の「翻訳ノート」を読み返してみると、「冒頭のtimberが単数なのに対し、最後のtimbersは複数なので、別の意味と考えられる。後者はこの橋のフレームと考えてよいのではないだろうか」と書かれている。なんと私は、「横木」という訳語にとらわれて、X氏の文章も辞書の定義も、ちゃんと読んでいなかったのだ。翻訳者として、最低。また、最初から作品に対する苦手意識があったため、つい師匠に頼ったり、既訳作品に必要以上に影響された。さらに、数年前までは英会話学校に通ってネイティヴ・スピーカーの先生に原書のわからないところをきいたりしていたのに、最近はそういう努力も怠っていた。『アウルクリーク橋でのできごと』はもしかしたら、翻訳の神様が、最近たるんでいる野沢に活を入れるべく与えられた、ささやかな試練だったのかもしれない。
 結局、最後の部分の訳は、「アウルクリーク橋の下にぶらさがっていた」という、きわめてシンプルなものに落ち着いた。
 ここで、『アウルクリーク橋でのできごと』に関して、トリビアルな情報をふたつほど。まず、この作品は『ふくろうの河』というタイトルで1961年にフランスで短編映画化されており、カンヌ映画祭で短編グラン・プリを受賞している。残念ながらビデオにもDVDにもなっていないが、意外に根強い人気があるらしく、日本でも頻繁に自主上映されている。もうひとつは、角川ホラー文庫に『吊された男』という、首つりの話ばかり集めたアンソロジーがあり、ビアスの『アウルクリーク橋でのできごと』も収められている。こちらの訳はどうだろうと気になり、購入してみたら、岩波文庫と同じ訳だったが、なんと訳者名が誤植されていた(名字のなかの「津」が「澤」になってしまっている)。
 最後に、冒頭で「苦手三大要素」を告白してしまったので、いちおう「得意三大要素」も記させていただくと……「恋」「少年」「ああでもないこうでもないと悩んだり、妄想にふけったりする人物の心理描写」といったところです。あと、「旅」、「わがままな少女」、「タフなおばあちゃん」、「異文化や環境の激変の中で悪戦苦闘する人物」なんかも好きだし……と、きりがなくなりそうなので、このへんで。

5.ビアスについての蛇足
 この短編、たしかに英語はとても難しいのだが、とてもおもしろい。芥川龍之介もビアスが大好きで、かなり影響を受けている。
 それから、スタンリー・エリンの『特別料理』にも、ビアスがちらっと出てくる。興味のある方は読んでみてほしい。

6.さて八重洲座
 八重洲座の企画、今年は奇数月は女流義太夫、偶数月は落語と決まった。映画のチケット一枚分程度で、一流の古典芸能を楽しんでもらおうという企画。ぜひぜひ、遊びにきてほしい。詳細は金原のHPへアクセスください。
 1月は27日(金)。


【絵本】
以下、ほそえさちよです。

2006.1 児童文学書評
○てぶくろとぼうし
「てぶくろ」アルビン・トレッセルト再話 ヤロスラーバ絵 三木 卓訳 (1964/2005.11 のら書店)
「ぼうし」ジャン・ブレット作 松井るり子訳 (1997/2005.12 ほるぷ出版)
 
 この季節、手袋と帽子を忘れるとすーすーして落ち着かない。寒い日に暖かい部屋で読むとうれしい絵本二冊。
「てぶくろは」おじいさんが森で落としてしまった手袋に、動物たちが順々に入って行くというおなじみのウクライナ童話。ラチョフの民芸色豊かな絵本が有名だけれど、このトレッセルトの再話した絵本もなかなかにチャーミングだ。ヤロスラーバは日本で翻訳されるのははじめてだが、細い線ですっきりと描かれたイラストに、特徴的な水色とオレンジ、薄い芥子色の三色をのせて、白を効果的に使ったデザイン感覚あふれる絵本に仕立てた。四色+二色という50、60年代に多く見られる印刷形態だけれど、不思議とフルカラーの絵本と比べて、寂しい感じがしない。この他にもイースターにちなんだ絵本やバレンタインにプレンゼントするようなイラスト付き詩集絵本などいくつも手がけている。印刷で選ばれている特色がどれも独特でヤロスラーバの絵本は今見てもあか抜けて見える。トレッセルトの再話は手袋の落とし主を男の子とし、物語をそっと子どもの方へと引き寄せているのが、いい。それをおじいちゃんから聞いたんだという入れ子にしているところも彼のアイデアだろう。最初に手袋に入るネズミくんがウールの帽子みたいなものをかぶってうろちょろしていたみたい、というくだりも。やり過ぎると説明的になってしまうのだが、程よいところでおさめているあたり、ラチョフの骨太さとはまたちがったアプローチで、作家の特徴が良く出ていると思う。日本語もすっきりとシンプルで、ちょっと目のきついこの男の子の口調が出ていて、たのしかった。
 「ぼうし」のジャン・ブレットもまた、このウクライナ民話に魅了された絵本作家で、ミトンのはいったギフト的な絵本セットを刊行している。緻密に動物の毛並みまで再現した、アメリカに連綿と続くオーソドックスでリアルタイプのイラスト。でも、この「ぼうし」は彼女のオリジナルテキスト。古い農家やノルデックテイストの衣装や調度。細部が細かに描かれ、それがお話の舞台装置として有効に機能しているのがおもしろい。中央に描かれる大きな場面と左右に描かれる鏡のような場面、ページ上部にまたがる細長い場面、この4つが時間の経過をきちんと描き、ストーリーの転がるなかで、今どういう状況になっているのかを視覚的に伝えている。上部では洗濯物を干している綱と洗濯物の状況を、左の鏡では女の子が過ごしている様子を、右の鏡ではお話を引っ張って行く動物たちや行動を起こす女の子を描いている。絵本を読んでもらいながら、それを自分で見つけた時の子どもの様子ったらなかった。説明するのももどかしく、得意そうに鼻の穴をふくらませならが、ページを次々に繰っていき、指差しながら、「ほら、絵が一緒なんだけど変わっていくでしょ。それが最後にこうなるの」彼女のいう通りで、小さな場面と大きな場面はラストできちんと統合され、別々の場所でそれぞれに動いていたお話はまん中で語られるはりねずみのハリーのお話につながっていくのだ。これこそ絵を読むということなのだろう。だからこそ、この絵本はじっくりとひざの上において読みたい。ページをひらいたまま、細やかなイラストから聞こえてくる話し声にじっと耳をすませたい。

○その他の絵本
「まいごのぴーちゃん~きゅーはくの絵本1花鳥文様」「じろじろぞろぞろ~きゅーはくの絵本2南蛮屏風」(2005.10 フレーベル館)
日本古来の屏風絵や工芸品を紹介するためにお話仕立てにして、その描かれた世界や文様の様々な様を展開する絵本。「まいごのぴーちゃん」では花鳥文様で飾られた絵皿、更紗、刺繍、螺鈿、蒔絵をアップに映し、そこに住まう鳥や動物たちを訪ねるという趣向。それも、絵皿に描かれた小鳥の姿を見ているうちに自然と有漢できたストーリーにのっとって進んでいく。「じろじろぞろぞろ」では大きな屏風絵を部分部分に区切って、細かく見ていくうちに、描かれた人たちの様子からおのずと聞こえてくる言葉や音を想像して、お話にとかしこんで作っている。どちらも取っつきにくそうな絵やものを細かく見ていくことで、具体的なものや人に目をこらし、そこに寄り添っていくことで美術品に親しみをもつようにしむけている。今までも西洋絵画で子どもにむけた解説の絵本は何冊も出ているが、日本美術で作ったのがめずらしい。また、アジア美術を大きな柱とする4つめの国立博物館が自ら企画したというのも、たのもしい。

「くっくちゃん」ジョイス・ダンバー作 ポリー・ダンバー絵 もとしたいづみ訳 (2005.11 フレーベル館)
「ケイティー」「あお」(ともにフレーベル館)で強く印象づけたポリー・ダンバーの新作。テキストは同じ子どもの本の作家として活躍する母親がかいている。小さな赤ちゃん、くっくちゃんは大きな靴の中に隠れては、いろんなところに出かけます。くつのお船にくつの自動車、くつの飛行機……。見慣れているはずのくつが、すこうし変わって活躍するのがおもしろい。繰り返しのリズムが楽しいテキストに乗って、どんどん冒険が続くのですが、急に大男や大女が出てきて、びっくり。でも、それが安心のラストシーンへ続くのです。明るくファンタスティクなイラストと、すっとんきょうなお話が楽しい。

「かあさん まだかな」イ・テジュン文 キム・ドンソン絵 チョン・ミヘ訳 (1938,2004/2005.10 フレーベル館)
テキストは1938年に発表されたもの。そのため、描かれる人や場所も、一昔前のなつかしさにあふれる韓国の情景。着ているものも暮しの様子も。かあさんを待っている間の描き方や場面の展開の仕方は、映画を思わせるようなカット割りで、絵を描いた人は現代の映像文化に親しんでいる人だとわかる。言葉少なで静かな、でもあたたかな絵本。

「どんぐりしいちゃん」かとうまふみ作・絵 (2005.9 教育画劇)
鉛筆の柔らかい線で描かれた小さなどんぐりたちの世界。楽しく踊って暮すどんぐりのしいちゃんでしたが、からすのカースケさんが集めているという素敵な帽子のことを聞くと、それが気になって気になって……。とうとう、カースケさんのコレクションのひとつと自分の帽子をとりかえっこすることに。でも、いろいろかぶってみても、ぴったりするものがありません。やっぱり自分のが一番というラストには、アハハハと笑ってしまうかもしれない。でも、そのあとで、そうだなあとしみじみ納得。そういえば、ひろってきたどんぐりの帽子と実の組み合わせ遊びでも、ぴったりのものを探すのがむずかしい。実と帽子は一対のものでしたね。

「ぽんこちゃんのどろろんぱ」たかどのほうこ作(2005.12 あかね書房)
「かんばりこぶたのブン」に続く、小さな子のちょっとがんばったり、おちゃらけたりする姿を楽しく、親しみ深く描いた絵本。いたずらっこのたぬきのぽんこちゃんは、どろろんぱっ! と化けては、お友だちを驚かせます。ピクニックに出かけても、ちょっと先に駈けて行っては、クルミや帽子に化けるのですが、すぐに見破られてしまいます。ところが……。お話の展開が程よくて、お話中の動物たちと一緒にあれっ?と思ったり、うくくくっ、と笑ったり。安心して楽しめ、「次は誰のお話?」とまちきれないみたい。

「マーシャと白い鳥」ミハイル・ブラートフ再話 出久根育 文・絵 (2005.10 偕成社)
ババヤガーの出てくるロシアの民話にはいろいろがある。本書ではさらわれた弟を取り戻すために、ババヤガーのもとへ出かけるマーシャが主人公。途中、出会うペチカやリンゴの木、ミルクの小川に弟をさらった白い鳥たちの向かった方向を尋ねます。それぞれのお手伝いをすることでマーシャは白い鳥のいった方向を教えてもらえ、ババヤガーの家へとたどり着く。画家の筆はババヤガーの家や造形よりも、ものいう木やペチカ、川の在り方に力を注ぐ。こってりとしたチーズの岸やペチカの不思議な形、マーシャを取り巻く不穏な空気の様子を薄い色を何層も塗り重ねたような独特なタッチで描いていく。それがマーシャの心持ちを表現する。自分の心境と重なるような物語に出会った画家の力作。

「忍者にんにく丸」川端誠作(2005.9 BL出版)
野菜忍者列伝其の一、とあるので、これからシリーズ化されるのでしょう。忍者もの絵本はいろいろあるけれど、野菜や麺など、素材の持つ力をそのまま忍術の技として展開させているところがうまい。にんにく丸はひとり分身の術で敵をまいたり、忍法おろし生にんにくで窒息ぜめにしたり……。パンパンと張り扇の音でも響かせたいようなテキストが声に出して読んで楽しい。ラストは餃子パーティー。オチもきれいにまとまって、自分でも作ってみたくなる。

「きょうというひ」荒井良二(BL出版 2005,12)
シンプルで美しい絵本。きょうという日、一日、一日を大切に、ささやかだけど丁寧に暮す。そして、雪で小さなかまくら(ランタン)を作って、そこにろうそくをともします。ろうそくをともす行為は祈りに通じます。夏の鐘楼流し、冬のランタン。作家自身の絵本の中でも、本作はとりわけテーマへ焦点がしっかり合っていて、おなじみの脱線やとりとめのなさがありません。それをうまい!ととるか、窮屈ととるかは読者の好みでしょうか。私は、もう私たちにできることは祈ることだけなのかなあ、それを根本に持ちながらも、生きることのアクションがあるのではないかしら、それをもっともっと考えていきたいな、とページを閉じて思ったのでした。

「夜になると」アン・グットマン&ゲオルグ・ハレンスレーベン作 今江祥智訳(2004/2005.12 BL出版)
「リサとガスパール」シリーズで人気の作家が手がけた絵本。パリに住むちょっとおしゃまな女の子が寝付くまでを、夜がふける風景と大人の生活時間の中で描いています。ママとパパは夜、お客さまをお迎えするので、女の子はシッターさんと一緒に幼稚園を出て、公園で遊び、帰ってお風呂に入れてもらいます。ママとパパが帰ってきたけど、一人だけで夕御飯を食べて、先に寝なくちゃいけないの。日本とはちょっと違う夜の過ごし方にとまどうけれど、温かみのある筆のタッチや雰囲気のある画面のゆったり大きい様子が、女の子の暮しを包み込み、ある家族の風景をしっかりと伝えてくれます。

「すてきなおうち」マーガレット・ワイズ・ブラウンさく J・P・ミラー絵 野中 柊やく(1950/2006.1 フレーベル館)
アメリカの子どもたちの愛読書だったゴールデンブックスの古典が新しい印刷で復刊されるようになったのは五、六年前だったかしら。なかでもワイズ・ブラウンとミラーのコンビが放つ、この絵本はとても印象に残っている。ミラーの愛らしくなつかしいようなイラスト。ワイズ・ブラウンらしい唐突でへんてこな急展開。この絵本もまたNOISY BOOKしりーずのように、読者の参加がしやすい、問いかけと返答でページが進んでいく。お得意のNO!  ちがうよ!という返事の部分もあって、最初はふつうの動物のお家さがしかな、と思っていると、不思議に楽しい素敵なお家をパーンと見せてくれる。その見せ方も期待を持たせて、飽きさせない。ワイズ・ブラウンって絵本のリズムというものを本当に体で知っていた人なのだなあと感服する。

「 ふたごのひよちゃんぴよちゃん~はじめてのようちえん」バレリー・ゴルバチョフ作・絵 なかがわちひろ訳 (2003/2006.1 徳間書)
かわいい小さなふたごのひよちゃんぴよちゃんの第二作。ユーモラスで表情豊かな動物たちを描くのが得意なこの作家が、いかに小さな子の心持ちに敏感であるかがよくわかる。前作の「はじめてのすべりだい」では、怖いなあ、ちょっとがんばるの大変そうだなあというきもちがすうーっと軽くなる様子を細やかに描いていたのだった。今回は初めて幼稚園に登園するという小さな子にはとんでもない出来事に直面するひよちゃんぴよちゃん。新しいお友だちに勇気を持って声をかけても「いまは、だめ」といわれてしまい、しょんぼり。でも、素敵なきっかけがあって……。動物たちの特性もきちんと活かし、そのうえ大人のアドバイスで、おはなしはストンとおさまるべきところにおさまるのです。そこがまた、あたたかく、まっとうで、なるほどなと思わせるのがうまい。なんてこないようなこういうお話こそ、作家の子どもへの目線の確かさが要求されるのです。それを持っている人はそうはいない。

「ホームランを打ったことのない君に」長谷川集平作 (2006.1 理論社)
な~んか今どきの絵本って、武者小路実篤がいっぱい描いてた「なかよきことはうつくしきかな」とかなんとかいう色紙の絵をきれいでかわいいイラストに変えただけって感じ、と思っているのはわたしだけかしら?それは、メッセージだけでドラマがないってこと。読むべき行間もかかれないってこと。言葉だけなら誰も反論できないようなことを、自分に引き付けることなくすらーっと提示してみせる態度に、今を生きる人と世の中が乖離してるという感じを否応なく見せつけられてしまう。うんぬん……。などと、ひとりごちたくなるのは長谷川集平のこの新作を手にしたから。帯には「30年目のメッセージ」と絵本の中のセリフを抜き出してあるけれど、この本からこのメッセージだけを読み取るとしら、ちょっとなあ、と思う。でも、今、この絵本をアピールするには有効な帯だ。世の中というのはみんな、わかりやすいメッセージをほしがっているようだから。私には野球をする少年と野球をし続けようとすることで自分をこの世につなぎ止めているかのような青年を交差させることで、絵本の中に描かれなくとも流れる時間を読者に示し、そこに希望を見ようとしているのではないか、とおもえた。このドラマの中からたちあらわれるのは語られることのない思いであり、過ごしてきた時間であり、願いである。それは雑多で、読むときどきで色合いが変わり、メッセージのように不変ではない。私の中の時間を開いていく感じ。私の読みも今のこの状況の中の読みなのだけれど。映画のように絵本を作り、人間の時間を見つめてきた作家は、この本でもそのスタイルをいままでよりもわかりやすい形で提示しているように思える。

「どうぶつにふくをきせてはいけません」ジュディ・バレット文 ロン・バレット画 ふしみ みさを訳 (1970/2005.12 朔北社)
ナンセンス絵本の傑作として長く読みつがれてきた絵本がやっと翻訳されてうれしい! バレット夫妻の絵本はシュールな設定でおかしいのだが、人の描き方にちょっとくせがあるので、なかなか日本で定着しないのだ。この絵本はびりびりになった洋服を着ているヤマアラシの絵の表紙を見ただけで、なんだかなあ、もう……と笑ってしまうでしょう? 一気に語られるテキストの的確さにまた笑い、ラストでやンなっちゃうなあと自らを顧みる、かな。

○その他の読み物
「はりねずみとヤマアラシ」「はりねずみのだいぼうけん」おのりえん作 久本直子絵 (2005.10 理論社)
丸まってイジ-、ぐっと背を反らせてイガーと名乗るはりねずみといっしょに暮すクマの物語シリーズの三作、四作目。今回は秋の取り入れと冬の冬眠が舞台になっている。秋のお話はムギの刈り入れと脱穀。脱穀時に旅に生きる吟遊詩人でもあるヤマアラシの一団がやってくるところがクライマックス。詩のできる場所、詩と生きるものの関係をうまく描き出していると思う。冬はクマは冬眠してしまう。冬眠しきれなかったはりねずみが薪が無くなり、寒くてSOSをだしたネコを助けるために奮闘する。小さなものたちの智恵や勇気に読者はわくわくするに違いない。小さな人たちもまた、自分の力を役に立てたくて、うずうずしているのだから。

「こちら いそがし動物病院」垣内磯子作 マツバラリエ絵 (2005.10 フレーベル館)
のんびりとつりを楽しみたいな、と思っている若い動物のお医者さん八木先生と看護婦さんのところにやってくる動物や人たちを描き出す、一話完結の連作の物語。心やさしいが口下手な八木先生。川で溺れる子猫を助けて、家のネコにしてしまったり、羽の折れた鳩や足の折れたリスの手当てをただにしてしまったり……。ドリトル先生のように動物とはなせるわけではないけれど、できるだけ寄り添い、飼い主と動物のあいだをうまく取り持とうとする姿が誠実。最近のペットブームをちくりと刺す視点も忘れずに持っている。

いいなと思ったら応援しよう!