【児童文学評論】 No.96 2005.12.25  

〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>

【絵本】
絵本読みのつれづれ(11) コラボレーション

Tさん(3歳6ヶ月) Mくん(10ヶ月)

 年の瀬を迎え、なんだかあわただしい日が続いている。本当なら、アドベントカレンダーなど日々めくって、クリスマスイブまでカウントダウンしたいところなのだが、つい買いそびれてしまった。せめてツリーは11月中に早々に出し、いっときの寒波の襲来では東京でも冷え込み、寒さの中のぬくもり、の気分が盛り上がったと思う。
 クリスマス絵本では、『まりーちゃんのくりすます』(文・絵 フランソワーズ 訳 与田準一、岩波書店、1953/1975)と『ペッテルとロッタのクリスマス』(エルサ・ベスコフさく・え、ひしきあきらこやく、福音館書店、1947/2001)を1回ずつ読んだ。やぎおじさんの種明かしや、贈り物は互い同士にが基本、というあたりで、「良い子にサンタからのプレゼント」の幼児的前提がはずれているような気がして、私の方がどきどきしてしまった。Tさんはどう受け止めたのだろうか。
 「サンタさんってどこにすんでいるのかなあ」と典型的な質問をしてきたときは、「なんと典型的な」と思いつつ『サンタクロースと小人たち』(マウリ=クンナス作/いながきみはる訳、講談社、1981/1982)を読んでみた。
 『サンタクロースと小人たち』は、レンガ色のようなややくすんだ赤の色合いと、まるっこい目鼻の愛嬌のあるサンタ・クロースと小人の絵本で、昔贈り物でいただいたものだ。普通の人間の家にはもはや住めなくなってしまった精霊の流れついた先がサンタクロースの国というのが、見ようによっては残念で、彼らはもはやサンタの国でしか生きのびられないのかと悲しくも思うが、サンタクロースという異界の人物を知るにあたっては、習俗の基盤がフィンランド式サウナやページェントなど、日本から見て異文化のそれであることがしっくりくるかもしれない。

 さて、未就園児保育やリトミックでクリスマス会に参加し、去年よりもぐっとイベントを楽しむようになったTさんは、今年初めてサンタクロース(に扮装したどこかのパパさん)を見て本物と思いこみ、配られたプレゼントが自分の希望と違う…と浮かない顔をしていた。「ありがとう」もいえなかったTさんを叱りつつ、ちょっぴり滑稽にも思って、「幼稚園のサンタさんは幼稚園のサンタさんで、24日にはTちゃんのサンタさんは枕元にくるから大丈夫よ」と声をかけると、急に表情がぱあっと明るくなった。
 Tさんは、このときのサンタクロース氏の扮装に、絵本とは違うリアリティを感じたようで、帰宅すると、大きなアマゾン・ジャパンのプレゼント袋を出し、そこに絵本をいっぱいにつめて、ずるずる引っ張りながら、私とMくんにプレゼントを配ってくれた。
 手当たり次第であったが、私には『ちいさいおうち』(バージニア・リー・バートン文・絵 石井桃子訳、岩波書店、1942/1954)、Mくんには『ちいさないえがありました』(エヴァ・エリクソン絵、バールブロー・リンドグレン文、ひしきあきらこ訳、小峰書店、1994/1997)。そうかそうか、では読んであげようかとMくんのためだけに久々に絵本をめくって読んでいると、そばでTさんもじーっと聞いている。
 この絵本は、何度か読むうちに動物たちの鳴き声のところをTさんが読むようになって「コラボ」した初めての絵本だった。テキストが「ぶたがでてきて、いいました。「ブーブー」」だったら、「ブーブー」の部分だけTさんが言う。今回は、ご挨拶のところをじーっと聞いているので珍しいなと思っていたら、「さあ、ごはんだ!」で再び動物たちそれぞれが鳴き声を出すページにくると、がまんできないように「ブーブー」「ワンワン」「ニャンニャン」とすべて効果的に声を入れてくれた。

 当のMくんは、私の仕事机で抱っこされ、目の前にあるもっと魅力的な、落っことしてみたい品々に目がいっていた。目の前のすべてのものをなぎはらってみたいというのは、何の本能なのだろうか。本もしかり、テーブルもしかり、おふろのシャンプー類もしかり。私のノートパソコンのキーボードは、Tさんはバンバンたたきたがっていたが、Mくんはぎゅっぎゅっとつかみたがる。先代のノートパソコンのキーボードのキーは、1箇所欠けてしまったところから次々にむしられて、悲惨なことになった。
 でも、まあ、そういうことをしながら、きっと耳では聞いているのだろう。Mくんはまた、Tさんの声が大好きで、たぶん、私が読むよりも、ねえさんがひとりで音読している絵本のテキストをよく聞いているから。
 
 Tさんとコラボできる絵本はほかにもある。『へびくんのおさんぽ』(いとうひろし作・絵、すずき出版、1992)は、いとうひろしらしいとぼけた絵がユーモラスで、へびの表情に人間味を感じる作品である。
 へびくんがおさんぽに行き、水たまりを越えようとして、うんと体を伸ばすと、「背中を渡らせてくださいな」とたくさんの生き物がやってくる。ねずみやかたつむりくらいならいいけれど、象まで来てしまって、支えるへびくんは大変だ。変則的に4コマ漫画のような動物どうしのやりとりのページが入るのだが、Tさんが読み上げるのは、主に見開きページの、動物が実際にへびくんの背中を渡っている場面である。ねずみたちの「ぞろぞろ ぞろぞろ ぞろ」、犬の「どかどか どかどか」、ライオンの「どすどす どすどす」。Tさんの読み方はなかなか迫真に満ちており、「どすどす」されているへびくんはいかにも苦しそうだなあと思える、力のこめっぷりである。

 最近では末吉暁子さんに頂戴した『もくようびはどこへいくの?』(ジャニーン・ブライアン:ぶん、スティーブン・マイケル・キング:え、すえよしあきこ:やく、主婦の友社、2001/2005.12)がよかった。
 クマのスプーのおたんじょうびは木曜日。ケーキにジュースに風船など、本当に楽しい一日を過ごしたあと、夜になってから「もくようびはどこへいってしまうのだろう」と考える。夜中に窓から外をながめ、「もくようびがいっちゃうまえに、 さよならって、いいたいな」と思うスプーに、友達でアヒルのガンブーが、一緒に夜の冒険に出てくれる。 全体に青い色が印象的で、紺色の夜の深さと、ぼうとする星々に、日付の変わる「夜」の不思議さが感じられる。 時間が経過するという感覚を具象化し、お誕生日のあとの「その日そのもの」にご挨拶するという発想のものを読んだのははじめてだった。
 Tさんは、最初に読んだときに、スプーの出会う水の音や魚のはねる音を、大きな声で自分で読んでいた。そこだけ手書き風の「スイースイー」や「パシャリ」という音と、私が読むテキストが重なりあって、まるで演出効果つきのように楽しい絵本読みの時間だった。

 また、Tさんは最近勝手にカタカナを覚えてしまって、シルヴァスタインの『おおきな木』をさして「おかあさん、おおきなホって本だね」などと言うのだが、さきほど、机の上に出していた『もくようびはどこへいくの?』を見るなり、おもむろに読み始めた。まだ一回しか読んでいない絵本だから、暗記しているのではなく本当に読んでいる。
 「へんじはありません」が「へんじは りません」、「みずうみのほとりで」が「みずうみの とりで」になるのは、音読みしたときに母音が続くので重なるように省略されてしまうからである。


もくようびはどこへいくのぉ? (尋ねる風に)
もくようびのことでした
そのひはスプーとおたんじょうびだったのです
たのしいことだらけ いちにちでした
よるになり
たのしかった こともおわり
あしたのあさは
もうスプーのおたんじょうびではないのです
スプーは ふしぎでたまりません
ぼくのおたんじょうび どこへいっちゃうんだろう

ねえねえ もくようびはさ きんよびがくると どこへいっちゃうのかな
はんぶーは かんがえこみました 
はんぶーにきいてみました
どこにいくはずだね
スプーといいました

ぼく もくようがいっちゃうまえに さようならっていいたいな
そうしよう
そこまでふたりは すっとかいだんをおりて おもてにでて
それから きからほしへ
おほしさまが まちました

ふたりがまっさきにやってきたのは はしのした 
おだやかになだれました

ごーごーごーごー (臨場感たっぷりに)

かわはそういってます
もくようくん きみなの
ぼくたちさよならっていいにきたんだよ
でも、へんじはありませんでした

スプーとはんぶーは
こうえんをみつけました

たかいきで ふくろうがこえをはりあげました
つめたいよぞらにとんでいきました
もくようびくん きみなの
スプーはきいてみました
へんじは りませんでした
スプーとはんぶー みずうみのとりにすわっていました
すわっているおとがきました
ぱしゃりとたたいて
もくようびくん きみなの
スプーはきいてみましたが へんじは りませんでした

ふたりは おかにのぼってみました
するととつぜんトンネルんなかからうなりごえがひびいてきました

ふーふー (実際に息を吹きかける)

エンジンがしゃべり しゃりんがうなりながらはしりさっていいました

もくようびくんきみなの
スプーはたずねましたが へんじはかってきませんでした
スプーとはんぶー うみへあるいていきました
しろいぎざぎざのなみがは ま べにう ちゅ よせていました

すいすいすーい (楽しそうに)

なんだかかなしくてスプーとはんぶー いえにかえっていきました
ふたりはいえのまえのかいだんにこしかけ
ねえ ぼく もくようびってこんなかたちをしているとおもうんだ
へえどんなかたち
はんぶーはきいています
それはねおおきくてまんまるだ
ぼくのおたんじょうびけーきみたいに
でね ろうそくみたいにあかるいの
でね ふうせんみたいにぼく たのしくしてるの
たしたほんだともう

はんぶーはじっとかんがえて かんがえこんでいるようでした
それからちらっとじっと それからそらをみあげました
そらにおつきさまがでていました

おおきくてあかあるくてまんまるできんいろで
それはまるで

もくようびだ!

ちょうどそのときおつきさまはゆくりとくものうしろにかくれました
スプーはてをふりました さようなら もくようびくん
スプーはさけびました
さようならあ

そうしてスプーとはんぶーはまたおうちにもどりました
すやすやとねむりました
おしまい

おひさまがきんようびをつれていくまで
おしまい

もくようびはどこへいくの?(書誌情報のページも読む)

正直、ここまで読めるとは思っていなかったので驚いた。野暮を承知で、「お母さんが読むのと自分で読むのとどっちがいいの?」と聞いてみたら、「じぶんでよむほうがむずかしいのはおかあさんがやって、よめるほうがはTちゃんがやる。」というしごくもっともな答えだった。

他のお母さんが絵本を読んでいるところを見ると、絵を指差して「ここに○○がいるね」とか「きれいな色になったね」とかコミュニケーションをしている。うちは、ほとんどの場合テキストオンリーで読み、最中に絵を媒介にして何か話をすることはあまりない。だが、先月から喜んでいる『おばけパーティ』(ジャック・デュケノワ、おおさわあきら訳、ほるぷ出版、1949/1995)は、いつになくよく言葉が出てきた。 『おばけパーティ』は、おばけのアンリが、自分の住む古城に仲間のおばけをたくさん招待して晩餐会を催す絵本だ。オードブルやカクテル、メインなど次々に出す中で、おばけたちはカクテルの色に染まってしまったり、「ほっぺがとろけそう」な料理で本当にとろけて透明になってしまったりする。すっかり気に入って、先日は、遊びに来たお友達にも読み聞かせていた。

私「ふかいおしろの」(冒頭部。本当は「古いお城の」でいい間違えた)T「ふるい!」(上記の間違いを訂正した)…私「いいかーい?」(アンリが料理を運んでもいいか聞く)T「はーい!」(いい返事)…私「おいしいよ、とっても!」(カクテルを飲んだおばけたちの反応)T「あれ、みどりになっちゃったね」…私「ふーん、おいしいね、このスープ」(おばけたちの反応)T「これ、何色?」(かぼちゃのスープを指差して)私「かぼちゃいろ」(テキストにはないが、私が補った)…私「こんどはおさかな。サーモンだ!」T「サーモンきのうたべたね。さけね」(この絵本以来、Tさんは鮭をサーモンと呼ぶ) …私「あらあら サラダ はい チーズ」T「はいっ、 チーズ!」(写真を撮るときのことを思い出している)…私「ほっぺがとろけそう」T「なんでアンリのなかまたちはいなくなっちゃったのかなあ」(空中に食器だけが浮かぶ絵)私「とろけちゃったんじゃない?」(テキストにはないが、私が補った)…T「あれ、アンリは?」(テキストのせりふを一緒に言う)T「ここにいるんだよね」(アンリがふざけて隠れた甲冑をさす)T「ばああっ」(アンリが仲間を脅かすせりふを一緒に言う)T「これのんだらみどりいろにかわっちゃう みて いろがかわっかった。いた!あ、しろになった。アンリ もうアンリったら。」(うれしそうに)

 Mくんはもっぱら書棚の本をなぎたおす専門だったが、最近は時々絵本をめくって喜んでいる。最初は『どろんこハリー』(ジーン・ジオンぶん、マーガレット・ブロイ・グレアムえ、わたなべしげおやく、福音館書店、1956/1964)。これはTさんが最初に好きになったのと同じだ。それから、『五味太郎ポスター絵本』(五味太郎、偕成社、1987)だから、大きい絵本(?)がいいのかもしれない。Mくんが反応するのはTさんの声であることも多く、「おふろ」という言葉が大好きだ。それから、「Mくーん、気合を入れろ、ふんっ」(『ポスター絵本』のまねである)と言うとげらげら笑う。
 言葉の真似もしはじめている。最初に、6ヶ月くらいの頃に「あっぶーわ」とMくんの真似を私がしたら「このひとには通じた!」といわんばかりに笑顔になった。今は「あんまー」が私のこと(もしくはおっぱいのこと)らしい。この前は、Tさんに「おいでっ」と言われて、すぐに「えっ」と真似した。そうそう、英語でもそうだけど、書き言葉と実際のしゃべりは違う。「おいでっ」とすばやくいわれると耳に残るのは「で」の母音で、たしかに「えっ」なのだ。そうか、こうして母語が身につくのかとおもしろい。

 Tさんのジェンダーバイアスでいろいろ思うところがあったのだが、冬本番になり、寒そうなMくんに何かないかと探していると、Tさんが小さかったときに愛用していた、もこもこの着ぐるみのようなコートが見つかった。真っ白でピンクのハートの飾りがつき、ご丁寧に背中には小さな羽根もしょっている。それから、厚手のフリースのコートは、ちょっとシックなピンク色で、花の形のボタンに、ハートのトッグル留めである。
 どちらも、「暖かい」というそれだけの理由で「ま、いいか」とMくんにおさがりにすることにした。かといって、0歳のMくんのアイデンティティに何か悪いことが起きるとは思えない。Tさんが赤やピンク好きになったのも最初は「女の子と分かる」「本人が喜んで着替える」という実用的な理由からだった。それで美しいお姫様の造形は好きになったけれど、今のところ、だから男性に依存的になるとも思えない。

あたたかいこと、楽しいこと。実用は理念にまさる。
たぶん絵本読みも。

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不定期連載といいつつ今年は楽しく11回も書かせていただきました。思いがけない方から読んでくださっていると声をかけていただいたり、メールを頂戴したりして、大変励みになりました。ご愛顧、ありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。  

鈴木宏枝 拝(http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/)


『おくりものはナンニモナイ』(パトリック・マクドネル 谷川俊太郎:訳 あすなろ書房 2005/200510 1200円)
 友達にプレゼントしようと思うけれど、友達はなんでも持っている。だから、「ナンニモナイ」をプレゼントするつもり。でも、そんなのどこに売っている?
 シンプルな画と物語展開。イマドキこれが出来るのはたいした物です。(hico)

『3匹のろしありす』(計良ふき子:ぶん きたがわめぐみ:え 教育画劇 2005.10 1000円)
 今頃なんですが、クリスマス物です。
 サンタが忘れていった赤いマフラーをプレゼントだと勘違いした3匹のろしありすは、それをほどいて自分達の洋服に。寒いぞサンタ。
 ストーリーも絵柄もそうですが、とても暖かい。ドラマチックな展開ではないのですが、幸せな結末はやはりこの時期嬉しいものです。(hico)

『こしょうできまり』(ヘレン・クーパー:さく かわだあゆこ:やく 2004/2005.11 1600円)
 『かぼちゃスープ』の続編だい!
 しおが切れたので3匹はシティまでお買い物に。なんでシティまで行く必要があるのか? などど考えない考えない。ときかく都会へ出てきた3匹の「冒険」をお楽しみに。
 そしてこしょうの入った新作かぼちゃスープは?
 おいしいに決まっています。
 色遣い、画面構成、もう活き活きとすばらしい。(hico)

『はらぺこライオン』(ギタ・ウルフ:ぶん インドラプラミット・ロイ:え 酒井公子:やく アートン 2005.11 1500円)
 『1.2.3 インドのかずのえほん』に続くインド絵本。画がまずいい。米で作った白い顔料をベースにして描く「ワルリー画」って手法だそうです。ロイはそこにシルクスクリーで絵を置きます。
 ライオンと知恵のあるその獲物たちを描きます。物語もいいぞ。
 このシリーズ、もっともっと欲しい。(hico)

『どんどんしっぽ』(竹内通雅 あかね書房 2005.11 1300円)
 たぬきのしっぽが自己主張を始めて、勝手に物を食うわ、ついにはちぎれてどこかに行ってしまって・・・・。
 笑えます。しっぽはパワー全開ですごいです。
 これで、文字のロゴにもう少し工夫があればいいのだけれど。
 でも、おもしろいよ。(hico)

『ハブの棲む島』(西野嘉憲 ポプラ社 2005.11 1300円)
 奄美、ハブと人間の戦い、というかこれも共存ですね、それが写真絵本によって示されていきます。
 ハブの恐ろしさではなく、自然や生命の偉大さにバランスが置かれています。このシリーズですからね。
 西野は前作『海を歩く』で海人(うみんちゅ)の豊かな時間を伝えてくれましたが、そしてそれは青い空と青い海でしたが、今作では深い森の海へと潜っていきます。中心となるハブ捕り名人は南さん。やっぱいい顔してます。(hico)

『義経千本桜』(橋本治:文 岡田嘉夫:絵 ポプラ社 2005.10 1600円)
 超豪華なコンビによる歌舞伎絵巻第2弾。
 もう何も言うことはございません。よだれこぼしてます。(hico)

『でっかいでっかいモヤモヤ袋』(ヴァージニア・アイアンサイド:さく フランク・ロジャーズ:え 左近リベカ:訳 草炎社 2005.11 1300円)
 ジェニーは色んな事が気に掛かる。体重のこと、成績のこと、友達のこと。そんなもやもやがだんだんたまって、モヤモヤ袋ははち切れそう。
 子どものストレスを「モヤモヤ袋」というかたちで見えやすく描いています。これって結構大事。そうすると、問題を直視しやすくなりますからね。(hico)

『ちきゅうは みんなのいえ』(リンダ・グレイザー:文 エリサ・クレヴェン:絵 加島葵:訳 くもん出版 2005.09 1400円)
 タイトルそのまんまの作品。正直少々気恥ずかしくはあるのですが、それは大人になってしまったからかもしれません。これくらいの真っ直ぐさ、子どもには伝わるのかな。(hico)

『ぼくのかわいくないいもうと』(浜田桂子 ポプラ社 2005.09 1200円)
 おにいちゃんが大好きなモンだから学校でもまとわりついて離れない妹のまほに少々辟易のぼくの姿が活き活きと描かれています。後半は、やっぱりほんとうは妹が大好き、へと落ち着いていくのが残念。そうしなくても作者の意図は充分伝わると思うのですが?(hico)

『あそびましょ』(もりやまみやこ:さく ミヤハラヨウコ:え 草炎社 2005.10 1200円)
 だれかとあそびたいこぶたくん。でも用事があったり病気だったり、なかなか遊び相手が見つかりません。そんなときさるくんが現れて、それから仲間が増えてきて。
 遊びの楽しさではなく、遊ぶことの楽しさを描いています。(hico)

『きこえてくるよ いのちのおと』(ひろかわさえこ アリス館 2005.07 1300円)
 生き物から自然まで、様々な音に生命を感じる、細やかな作品。
 とてもていねいに作られていて、ページごとの音に耳を傾けます。ただ、この世界は一冊の絵本には大きすぎる。ここから、何冊もの絵本が生まれてきますように。(hico)

『アリ ずかん』(山口進:写真・文 すがわらけいこ:絵 大谷剛:監修 アリス館 2005.07 2000円)
 タイトルそのままの図鑑。アリ博士になれます。やっぱり、こういうのって大人が読んでも楽しい。知らないこともいっぱい出てくるしね。
 で、見せ方は気になりました。
 写真とイラストという構成なのですが、このイラストは説明しやすいように置かれているのですが、余計だと思います。文とイラストならいいのですが、写真にとってイラストは落ち着かないものです。どういうことかというと、写真を眺める目の動きとイラストのそれは違います。一画面で二つの動きをしなければならなくなってしまう。ために、せっかくノッて眺めて読んでいるのに、そのリズムが乱れます。今回の場合、写真だけで描けると思うのですが?(hico)

『どんなかんじかなあ』(中山千夏:ぶん 和田誠:え 自由国民社 2005.07 1500円)
 目が見えない、身体障害、孤児etc、自分と違う境遇の人のことを想像し、感じてみよう! です。
 中山千夏が、非常にシンプルに本質に迫っています。和田の画もおなじみのシンプルさです。(hico)
『あかちゃんのおうさま』(のぶみ 草炎社 2005.11 1200円) 生まれたてのあかちゃんは王様。でもだんだんと・・・・。 「私」から「社会」へ。人の一生が「子ども絵」のタッチで描かれていきます。内容は結構骨太です。この内容を絵本で描くとやはりやや強引になってしまいます。(hico) 【創作】『青春のオフサイド』*(以下『青春』)はウェストールが亡くなった1993年に出版されている。彼はデビュー作の『機関銃要塞の少年たち』以来さまざまな形で戦争をモティーフとしてきたが、この作品でも第二次世界大戦直後のイングランドを背景とし、戦争が個人の生活に及ぼした影響を間接的に伝えている。作品の舞台ノーサンバーランドのタインマウスはウェストールの生まれ故郷であり、主人公ロビー(ロバートの愛称)は作者の分身だろう。もっとも、1990年出版の『禁じられた約束』もまた第二次大戦中のタインマウスを背景に、ボブ(ロバートの愛称)を主人公としているので、両方の主人公に自己を投影していると見たほうがよいのかもしれない。二冊のもうひとつの共通点が、戦争で婚約者を失った女性教師の存在である。『禁じられた約束』では、教師は脇役の一人で、婚約者の死後まるで火が消えたようになったという短い説明で終わる。そこで、こうした悲劇的な過去をもつ女性を再度取りあげ、その内面を掘りさげたのが、ロビーの恋愛対象となるエマ・ハリス先生であろう。子どもの頃、ロビーは太りすぎで運動が苦手だったが、体が筋肉質になったおかげでラグビーに向くようになり、レギュラー選手の座を得ている。学校生活ではラグビー選手であることや監督生であることの意味は大きく、作品はトマス・ヒューズの古典『トム・ブラウンの学校生活』的なスポーツ小説・学校小説の側面をもっている。もっともウェストールは辛らつで、「紳士のスポーツ」という言葉の嘘や、大人の欺瞞、制度の無意味さなどをあわせて暴き出している。またグラマースクール生がパブリックスクール生に抱くコンプレックスなど、階級的対立や偏見も、われわれ読者には興味深い部分だ。恋愛は物語のもういっぽうの軸である。ハリス先生と同級生のジョイスを相手に、17歳となったロビーはさまざまな葛藤を経験する。ウェストールが現実に年上の教師と恋愛体験をもったかどうかはまったく関係ない。恋愛がもたらす不安感やせつなさ、優しさ、歓喜、欲望と残酷さなどは普遍的なもので、彼の人間的成長に大きな影響を与えている。だが、それより注目したいのは、あの時代にあの場所にいた人間だから書ける風景、ウェストールの原風景と思われる描写である。たとえば65キロ離れた場所へ単独で自転車を走らす8月の早朝。「タイヤは朝露に濡れた道路にふれて口づけの音をたて、ギヤの音もたえず快調だった。・・・薄汚れて冴えない道標だが、それに書いてある地名はあらゆる汚れを吹っ飛ばしてくれた。その先は、芽を吹いたばかりのヒースと、川の匂い、そしてひろびろした荒地を轟々と吹いていく風だけになった。」(p.58)あるいは失意のあまり、徒歩旅行に逃避していた時期。「内陸のほうに向けて吹く海風が、激しくでたらめにぼくを叩いた。そしてタインマスの桟橋に差しかかると、凶暴な闇の中から青白い幽霊のような大波が押し寄せてきて、岸壁を越えて砕け、ぼくをほとんどずぶぬれにした」(p.142)もともとウェストールは構成力があり、またさまざまな素材を手際よく扱う優れた作家である。本書でもそうした特長はうかがえる。だが彼の育った地方とその時代の雰囲気を色濃く反映した本書は、一人の若者の精神的成長記録であり、どの作品にもまして生身のウェストールを実感させる、印象深い作品といえよう。(初出 週刊読書人2005年10月21日号) *掲載時の『青春のキックオフ』は誤りなので訂正します。 (西村醇子)

癒し系の本が山ほど出ているので、もううんざりだと思っている人は『僕らの事情。』(ディヴィッド・ヒル:作 田中亜希子:訳 求龍堂 千四百円)も手に取らないかもね。その手の本に見えますから。 でも、これは気持ちよく「号泣」するための物語なんかではありません。物事とちゃんと向き合うことを読者に迫る、結構厳しい物語です。 十五歳のネイサンとサイモンは大親友。サイモンは体の筋肉がだんだん衰え、筋力が失われていく筋ジストロフィーという病気を抱えています。でも物語はそのことを中心においてはいません。ネイサンの親友がたまたまの筋ジストロフィーだっただけといったノリです。つまり、十五歳の男の子たちの日常がそのまま描かれています。 うまく言えないのですが、サイモンは筋ジストロフィーであることも含めて魅力的な男の子なのです。彼の言葉はかなり辛辣。TVの「良心的」な障害者問題キャンペーン番組もサイモンによると「金をいくらかやれ、そうすれば、障害児のために何かしたって気分になる、あとは自分達のささやかで幸せな暮らしにもどれるだろって感じ」ですから。 亡くなる直前、ネイサンの初恋へのアドバイスだって、こうです。「たぶんおまえは相手の女の子をまちがっていると思う」。こんな親友を持てたネイサンは幸せだよね。読売新聞2005.12.15 (hico)

『おりの中の秘密』(ジーン・ウィリス 千葉茂樹:訳 あすなろ書房 2004/2005.11 1200円) 「ぼく」は話せない。耳が聞こえないわけでもないし、人の話が分からないのでも、話したいことがないのでもない。けど話せない。 動物園の檻の中のゴリラの手話を理解した「ぼく」は、他の動物園にもらわれようとしている彼女の赤ん坊を取り戻すべく、とてつもない行動に出る。 うまくいきすぎのストーリー展開と言えなくもありませんが、それが嫌な感じではなくスッキリとした読後感なのは、伝えようとした「事」の背筋が真っ直ぐだからでしょう。(hico) 『ふたつの家の少女 メーガン』(エリカ・ジョング:作 木原悦子:訳 あすなろ書房 1984/2005.10 1200円) そうか、エリカ・ジョングはこんなのも書いていたのだ。両親の離婚に悩む娘のお話です。 意外でしょ。エリカ・ジョングが。 とにかくまあ、この娘シタバタしまくります。そこが愛おしい。でも、もちろん離婚が中止とはなりません。それをどう自分の人生の一部として取り込んでいくか。ラストはやはりエリカ・ジョング。(hico)

『いたずら魔女のノシーとマーム01秘密の呪文』(ケイト・ソーンダス:作 トニー・ロス:絵 相良倫子&陶浪亜希:共訳 小峰書店 1999/2005.09 800円) これ、主人公の魔女二人はしょうもないし、ストーリーもしょうもないです。で、そこがものすごく、おもしろい! ここからは何も学べませんし、充実した読書時間を過ごせるわけでもありません。しょうもないですから。 でも、おもしろい。(hico)

読書人2005年回顧

 今年、『野生時代』(六月号)が「青春文学」の、『文学界』(十一月号)が「大人のための児童文学」というタイトルの特集を組んだ。それは「大人の文学」に、無視できないほどYA的なスタイルの作品が増えてきているという、例えば昨年ベストセラーとなった第百三十回芥川賞受賞二作品辺りから顕在化してきた状況を正確に反映しているのだろう。小説は近代的自我を巡る物語を描く手段として長年、使用されてきたわけだが、近年確実に進行しつつある自我の曖昧化の前で何をどう書けばいいのか模索し立ち止まったとき、そこに浮上してきたのが、自我の生成から形成の辺りを得意として描いている(かのように見える)YAや児童文学なるジャンルだったということ。 で、児童文学。 絵本『うさぎのチッチ』(ケス・グレイ:文 メアリー・マッキラ:訳 二宮由紀子:訳 BL出版)。子ウサギはウサギとして育てられたから、自分はウサギだと思っている。そして確かにウサギだ。だから彼は当然のように両親もウサギだと思いこんでいる。が、ある日チッチは知る。実は母親は牛で父親は馬だと。事情があって赤ん坊のウサギを育てることになった二匹は、チッチのアイデンティティを護るべく、ウサギのための環境を造り、自分達をウサギのようにコスプレしていたのだ。「親は子どものためにこれほど尽くすものなのだ」と誤読することも可能なのだが、自我が他者との関係性の中に存在するという大人向けだと考えられてきたテーマが絵本にも浸透しているとも見える。親が馬であろうと牛であろうと、子どもとの関係をウサギとして設定すればウサギの家族となれるのだ。 『悲しい本』(ローゼン作 ブレイク絵 あかね書房)は、愛する者を失った悲しみと深い絶望が、静かに描かれた絵本。癒し系としてベストセラーにもなったが、そんなに柔い世界ではない。絵本はあっさりとこうした事実も描き出せる。このそばに人種差別を描いた『ぼくは、ジョシュア』(ジャン・マイケル:作 代田亜香子:訳 小峰書店)や、現在も過酷な労働を強いられる子どもの姿を描いた『イクバルの闘い』(フランチェスコ・ダダモ:作 荒瀬ゆみこ:訳 すずき出版)、親の失業で家を失い車の中で暮らす家族の物語『ドアーズ』(ジャネット・リー・ケアリー:作 浅尾敦則:訳 理論社)などを置けば、子どもの本は今どんなことでも物語にできる幅を持ち始めていることがよく判る。 『見えなくてもだいじょうぶ?』(フランツ=ヨーゼフ・ファイニク:作 フェレーナ・バルハウス:絵 ささきたづこ:やく あかね書房)は障害者の日常世界を、まいごになった子どもが視覚障害者に助けられるという展開で見せていくのだが、障害者という日常を生きる人間の情報を正確に伝える物語の力強さに感心した。 しょーがない親たちと生きる子どもを描いた『ひな菊とペパーミント』(野中柊:作 理論社)と『ローラ・ローズ』(ジャックリーン・ウィルソン:作 尾高薫:訳 理論社)は、もはや子どもは大人の庇護だけを当てにはしないという九十年代から描かれ始めた世界を着実に受け継いでる。 ジェンダーを語ったのは『おれとカノジョの微妙Days 』(令丈ヒロ子 ポプラ社)や『ぼくのプリンときみのチョコ』(後藤みわこ 講談社)。それも、意識してジェンダーを描いているのではなく、物語の中にごく自然にそうしたテーマが入っている。八十年代頃、力が入りすぎたまま、描こうとした時のような空回りはなくて、リアル。 一押しの作品はなかったが、絵本・児童書・YAが描く世界の幅の広さを再確認させてくれた一年だった。読書人2005.12 (hico)

【ノンフィクション】『10代のセルフケア2 デートレイプってなに?』(アンドレア・パロット:著 村瀬幸浩:監修 富永星:訳 大月書店 2005.12 1500円) 『なぜ自分を傷つけるの?』に続く第2弾。デートする相手からの、それはレイプとなるか? です。結局その辺りの意識はジェンダーの問題と関わってくるわけで、というか、ジェンダーを知るさい、ここから学んでいくのは有効だと思う。 『10代のメンタルヘルス』、『10代のフィジカルヘルス』、そしてこのシリーズ。だんだんおおきな固まりになってきました。なんとなく高校生向けなのですが、今は大学生にも必要な知識がつまったシリーズだと思います。大学図書館にも入れてくださいな。私は入れます。(hico)

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あとがき大全(53)

1.近況
 このところ、HPに近況を書いている。おそらく生まれて初めての自発的に書く日記だと思う。昔から、日記は大嫌いで、小学校でも、毎日の日記は「明日は算数の授業がある。ちゃんと予習をしていこう」とか「明日は体育がある。水泳の道具を忘れずに持って行こう」とか、そんなことしか書かなかった。というか、書けなかった。いつも一週間分まとめて書くからだ。とにかく、日記は嫌いだった。
 というわけで、HPの近況報告は、画期的な試みといっていい。いままでずっとまめにつけている。これもHPを管理してくれているスタッフのおかげなのだ。
 ただ、この近況報告、すべてが正直な日記なのかというと、そのへんはいささか微妙で、日によってはかなりの誇張と削除があることはいうまでもない。その日の報告=〆切に遅れている原稿の言い訳、になっているところもないわけではない。

2.『追憶の夏 水面にて』『プトレマイオスの門』『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』『12歳からの読書案内』
 11月末から12月にかけて出た本が4冊。
 『追憶の夏 水面にて』はオランダ人作家ヴァン・デン・ブリンクの青春小説。ふたり乗りのボート競技に打ちこむ少年たちの物語……だが、いわゆるヤングアダルト向けではない。どちらかというと一般書に近く、ほとんど会話なしの地の文で進んでいく。短いが凝縮された濃い作品だ。翻訳家金原ではなく、一読者金原として、今年一年間に出た訳書をながめると、この作品、傑出した一冊だと思う。歯ごたえも読みごたえも十分。ただ、歯ごたえ、ありすぎという人もいると思う。まだ歯が生え替わったばかりという人や、最近歯が弱くなってきたという人にはお勧めしないが、これほど充実した読書時間を体験できる本はめったにない。金原の一押しである。ただ、あとがき(解説)は北上次郎さん。というわけで、金原のあとがきはない。
 『プトレマイオスの門』は、「バーティミアス」シリーズの第三巻にして最終巻。これで、めでたく完結。
 『カレー屋』は、金原初のエッセイ集。
 『12歳』は、金原監修のYA本の紹介本。100冊を紹介。もちろん、ひこさんも登場。その他、歌人の東直子さん、雑誌MOE編集者の位頭久美子さん、作家の貞奴さん、長崎夏海さん、ライトノベル実行委員会の勝木弘喜さん、鈴木裕美子さん、大学院生の安竹希光恵さん、大学生の大石和大さん、林弥生さん、安房翼さん、渋井幸平さん。金原ならではの人選。また、金原の短いエッセイもある。

   訳者あとがき(『プトレマイオスの門』)

 魔術師たちが妖霊を使って国を支配している現代のイギリス、というか、架空の「大英帝国」を舞台にしたこの壮大なファンタジー「バーティミアス」三部作、『プトレマイオスの門』(The Ptolemy's Gate)でついに完結!
 さて、登場人物といえばまず、主人公のナサニエル。生意気で傲慢で孤独で、ちょっとひねくれて、いささか屈折している天才魔術師。第一巻でなんとか危機を切り抜け、大手柄を立て、第二巻目では政府の要職に抜擢され、ますます増長し、目先のことしか考えなくなっていく。かなりいやなやつになりつつある。それからもうひとりの主人公、中級レベルの妖霊バーティミアス。五千年生きているだけあって、知識も経験も豊富だが、性格的にはかなり問題あり。皮肉屋で意地悪でずるくて、すきさえあればナサニエルを出し抜こうとする。が、どこかとぼけていて、憎めない、おちゃめなキャラだ。
 そこへ、政府に反乱をくわだてるグループのひとり。キティという少女が登場。物語は新たな展開を迎え、ナサニエル、キティ、バーティミアスの三つどもえのまま、この第三巻目が幕を開ける。
 ナサニエルはますます性格がゆがんできて、バーティミアスはこき使われて過労死寸前、キティは反乱の糸口がなかなか見つからない。そんななか、大英帝国がいきなり音を立てて崩れ始め、前代未聞の混乱状態に! いや、全世界が崩壊の危機に襲われる!
 「バーティミアス」三部作、この第三巻目で、まちがいなく終わる。堂々と終わる。まさに大団円。だらだら続編が続くことはまずありえない(たぶん)
 これほどまでにいさぎよく、きっぱり、そして切なく終わるファンタジーもまた珍しい。
 さらに、第一巻目から何度もちらちら姿をみせてきた謎の少年プトレマイオスの正体も明かされていき、このエジプトの貴公子、プトレマイオスの姿にナサニエルが見事に重なっていく。
 作者ストラウドが奔放な想像力に駆り立てられ、大技小技を縦横に駆使して書き上げた、ユニークな冒険ファンタジー、これを読み終えたときの感動は、最高に魅力的な芝居かオペラを見終わったときの感動に似ていた。
 そして目をつむると、登場人物や妖霊たちが次々に頭に浮かんできた。
 ナサニエルの師匠アンダーウッド、その奥さんのマーサ、首相のデバルー、魔術用品店主のピン、国家保安庁を仕切っているウィットウェル、警察庁長官デュバール、劇作家のメイクピース、〈レジスタンス団〉のボスだったペニーフェザー、キティの幼なじみヤコブ……それからバーティミアスを悩ませた妖魔たち、コック姿がお似合いのフェイキアール、牛頭のバズツーク、ワシ頭のザークシーズ、バーティミアスの戦友クィーズル、強敵ホノリウス、ゴーレム……最後に、キティ、ナサニエル、そしてバーティミアス……まるで芝居の幕が下りたあとのカーテンコールだ。
 わくわく、はらはら、どきどきの息もつかせない感動の大スペクタクル劇が終わり、場内が拍手と歓声でわき、出演者たちがもう一度、にこやかに並んであいさつをする……そんな情景がふと浮かんできた。
 いままでにたくさんのファンタジーを訳してきたが、読み終えて、訳し終えて、登場人物たちが勢揃いで頭のなかによみがえって、ほほえむなんていうのは初めての体験だった。
 そう、敵も味方も、人間も妖霊も、すべての登場人物、すべての登場妖霊に、惜しみない拍手を送りたい!
 おっと、ひとりわすれていた。カーテンコールの最後にもうひとり、舞台に上がってもらわなくては。そう、作者のジョナサン・ストラウド。彼にも心からの拍手を!

 最後になりましたが、大奮闘のリテラルリンクのみなさん、原文とのつきあわせをしてくださった中田香さん、細かい質問にていねいに答えてくださった作者のストラウドさんに、心からの感謝を!

   二〇〇五年十月二十二日
             金原瑞人

   あとがき(『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』)

 作家で評論家のひこ・田中さんから、月刊のメールマガジン「児童文学評論」にいままで訳した本のあとがきにエッセイを添えたものを連載しないかという誘いがあった。ふたつ返事で書き始め、二〇〇一年六月二十五日が第一回目。タイトルは「あとがき大全」。二〇〇三年に『夢枕獏 あとがき大全』(文春文庫)が出て、似たようなことを考える人もいるなあ、しかしこちらが先、と思って調べてみたら、夢枕先生の本は一九九〇年に出た本の文庫化だった。平身低頭。
 昔訳した本のあとがきをながめていると、思い出すこともあり、また考えることもあり、そういったことを書いていくうちにかなりの分量になった。そんなおり、フリーの編集者の倉澤さんから、「あとがき大全」のなかからおもしろそうな部分を抜き出してエッセイ集を作らないかという話があった。が、翻訳以外のことに関しては無精なもので、面倒だなといったら、倉澤さんがまとめてくれて、こんな本になってしまった。ごめんなさいというべきか、ありがとうございますというべきか、さあ読めというべきか、ちょっと言葉がなくて困っている。
 内容は二種類。
 ひとつは翻訳。絵本もふくめると、訳書はすでに二二二冊を越えたが、翻訳に関してはわからないことだらけで、今でも一冊一冊、それこそ薄氷を踏むような思いで訳しているものの、ときどき、これはこうではないか、これはこうではないのではないか、などと考えてしまう。それをそのまま「あとがき大全」に書いてみた。翻訳がどんなものなのか、かいま見えるようなものになっていればうれしい。が、もともといいかげんな性格のうえに、深く考えるのが苦手なので、あくまでも読みやすいものになっている。これは意図したわけではなく、読みやすいものになってしまった、というべきかもしれない。
 もうひとつは思い出話。わけあって翻訳を始めて二十年。いろんな出来事があり、いろんな体験をしてきた。なぜか、まわりには珍しい人、変わった人、優秀な人がたくさんいる。そういった出来事や出会いや体験や人についても書いてみた。この世界は不思議だなと思う。
 さて、最後になりましたが、思いつくままに書きなぐったエッセイをこんなにすっきりした形にまとめてくださった倉澤紀久子さん、対談を転載するのを喜んで了承してくださった江國香織さん、鼎談にはせ参じてくれた古橋秀之くんと秋山瑞人くん、牧野出版の佐久間憲一さん、そしてなにより、こんな道に導いてくださった犬飼和雄先生に心からの感謝を!
   二〇〇五年十月三一日           金原瑞人

   まえがき(『12歳からの読書案内』)

 一九八七年から三年間ほど、赤木かん子とふたりで朝日新聞の「ヤングアダルト招待席」というコーナーで、中高生むけの本を紹介した。そのあと九三年に晶文社から『ヤングアダルト読書案内』(赤木かん子・佐藤涼子・半田雄二・金原瑞人編著)という本を出した。
 しかしその頃、「ヤングアダルト」という言葉はあまり使われていなくて、図書館でも「ヤングアダルト・コーナー」を作っているところはほとんどなかった。いま大人気の作家、森絵都がエッセイのなかで、こんなふうに書いている。

当時は中高学生の読者を対象としたこの類の本は軒並み苦戦を強いられていた。今でこそヤングアダルトというジャンルが確立し、十代の若い読者を対象にした洒落た装幀の本が多数出版されているものの、十四年前はまだその受け皿が整っておらず……中学生ものは出しづらいから小学生を書かないか、と何人の編集者に言われたことだろう。〈「新刊ニュース」東販週報二〇〇五年六月号〉

 YA物は売れなかったのだ。それがこの十年ほどでがらっと変わった。翻訳物もふくめ、日本でも初めてYAむけの作品が人々の目をひくようになったのだ。というか、いま最も注目されているジャンルになったといってもいい。とくに国内では、江國香織、佐藤多佳子、あさのあつこ、梨木香歩、上橋菜穂子、荻原規子、伊藤たかみ 、乙一、嶽本野ばら、などなど、あげればきりがないし、これにライトノベルを加えると、その数はさらに増える。
 そこで、そういう本に関して驚くほどセンスのいい人たちにお願いして、自分の好きな本を紹介してもらった。ジャンルは、青春小説だけでなく、現代詩、短歌、絵本、ノンフィクションまでと、とても広い。
 いま最も楽しい、そして元気の出る本たちに出会ってほしい。

   あとがき(『12歳からの読書案内』)

 この本で紹介を担当したのは、最年長は金原で、最年少は大学生。作家、歌人、批評家、編集者、図書館司書、大学院生、学生、その他の人たち。趣味も性格もそれぞれに違うが、本好きという一点では共通している。それから、もうひとつ、金原がとても信頼しているという点でも共通している。
 どうか、自分のブックガイドとして、また図書館のヤングアダルトサービスの手引きとして、そしてなにより、一冊の短編小説風の読み物として楽しんでいただければ、うれしい。親が子どもに勧める本の案内としても読めるが、子どもが親や教師に読ませたい本の案内としても読める(どちらかというと、こちらのほうが正しい使い方だと思う)
 また、いうまでもなく本というのは生もののような性格もあって、ここで紹介している作品のなかには在庫僅少、在庫なしというものもある。出版社の方は、なるべくそのようなことのないよう鋭意努力されたい。

3.今年一年をふり返って
 なんか、忙しかったな、という感じ。ただ、翻訳やエッセイや書評で忙しかったわけではなく、大学のカリキュラム改革にまつわる仕事がその元凶。しかし、大学のおかげで、好きな本を好きなように訳せているわけだから、これで文句をいっては罰が当たる。ちなみに、大学の仕事は過不足なくこなしていて、国際交流委員会という会議も無欠席、国際交流関係の行事も無欠席。自分でも偉いなと思う……けど、だれも偉いとはいってくれない。ま、いいけど。
 ともあれ、ちょっと忙しかったというのが実感。そのせいで、この「あとがき大全」の分量も少なくなってきたし、ほかの人にたのんだ原稿ばかりが増えてきている。
 ただ、いまちょうど「小説すばる」でエッセイを連載しているし、朝日ウィークリーでも英語がらみのエッセイを書いているし、東販週報でも書評を載せているし……という具合に、ほかの場所でもがんばっているので、ご容赦ください。
 あと、東京八重洲ブックセンター最上階のホールを使った月末の「八重洲座公演」でも八面六臂の活躍……といっても裏方に徹しているのが素晴らしい……とはだれもいってくれないけど、これもまた、大変……ながら、とても楽しい。
 ちなみに12月は24日、桂文我さんの落語。明けて1月27日は女流義太夫の会。金原も顔を出します。また、八重洲座、来年は、奇数月は女流義太夫、偶数月は桂文我さんの復活・発掘落語。
 ご用とお急ぎでないかたは、ぜひ遊びにきてください。


『金原瑞人〈監修〉による12歳からの読書案内』
http://www.bk1.co.jp/product/2628791
『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』
http://www.bk1.co.jp/product/02621810


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