【児童文学評論】 No.93 2005.09.25
〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>
あとがき大全(50回目)
1.祝50!
なんと、連載50回目である。年齢もちょうど50歳。四捨五入すると10
0歳である。めでたい。
というわけで、山口百恵のトリビュート・アルバム(MOMOE TRIBUTE)の1
と2を聴きながら、これを書いてる(柳ジョージの「夢先案内人」とか、いい
味出してるんだよな)。
ちょうど、「ひと夏の経験」がはやっていた頃、浪人仲間四人(池原、今井、
谷平、小谷)と一緒に、水戸にいった。池原の家に泊めてもらった……と思
う。そして大洗海岸へ。まさに灼熱の太陽のもと、五人で海岸に陣取って、
浪人という身分にもかかわらず、ひと夏の経験とばかり、相手をしてくれそ
うな女の子をさがしていたのだが、なかなか見つからず、ようやく谷平が見
つけてきたのが、たしか中学生三人か四人のグループだった……と思う。ほ
かのメンバーは、おいおい、中学生かよう、とか言いつつも、それなりに楽
しくて、夜は海辺でみんなで花火をした……という思い出がある。もちろん、
女の子たちとはそれっきりだったのだが、海岸のあちこちのラジカセから流
れていたのが「ひと夏の経験」だった。それはとても鮮烈に覚えている。
というわけで、山口百恵はなぜか、青春の歌なのである。しかし最近の好
みは、「曼珠沙華」とか「愛染橋」なのだが。
いや、それはさておき、やっぱり、山口百恵の歌はいいなと、ついつい思
ってしまう。メロディーもいいけど、歌詞もいい。とくに、宇崎竜童と阿木
耀子のコンビはいいなあ。この時代のふたりの歌は、どれもいい。人生、そ
ういう一瞬というのがあると思う。山口百恵も、まさにその一瞬を見事に演
出して、最後に「さよならの向こう側」を歌っていなくなってしまった。
そうそう、水戸の大洗海岸でもうひとつ、すごい思い出がある。じつは、
朝から晩まで海岸で寝ころんだり泳いだりしていたせいで、全身火ぶくれ状
態。東京にもどったときは、歩く赤達磨状態。次の日、病院にいったら、先
生にあきれられてしまった。「これくらい焼く人も珍しい……というか、よ
く平気だったね」。一週間は、もらった薬を塗っていた。
この時期の山口百恵(浪人時代)、ユーミン、中島みゆき、あと大瀧詠一(
大学院時代)、そのすぐあとのサザンはかなり印象に残っている。
と、ここまで書いてきて、ふと思ったんだけど、音楽に関しては恥ずかし
いほど、むちゃくちゃ普通のルートをたどっているらしい。おそらく、ここ
でこんなことを書いてるのは、酔っているせいだと思う。
2.あとがき
先先月末から今月にかけて出た本は四冊。
『シャープ・ノース』(カプコン)
『ミッシング』(竹書房)
『小さな白い車』(中央公論新社)
『かいじゅう ぼく』(主婦の友社)
『四月の痛み』(原書房)
最後の『かいじゅう ぼく』は絵本なので、あとがき、なし。
というわけで、今回は三つ。
3.あとがき(『シャープ・ノース』『ミッシング』『小さな白い車』『四
月の痛み』)
あとがき(『シャープ・ノース』)
あっちをむいてもクローン、こっちをむいてもクローン、とにかく本屋に
行けば、クローンがらみの小説があふれている。欧米でも日本でもそれはま
ったく変わらない。アメリカでは「レプリカ」というクローン物のシリーズ
が出ているし(未訳)、最近では、二00二年に出版されて全米図書賞を受
賞したヤングアダルトむけの『砂漠の王国とクローンの少年』(ナンシー・
ファーマー)が抜群におもしろかった。いや、小説に限らない。二00一年
にはフィリップ・K・ディック原作の短編が『クローン』という映画になっ
ている(ただし、ここに登場するのは厳密に言うとクローンではない)。
もちろん、日本でもその手のものはたくさんある。清水玲子の『輝夜姫』
は権力者や有力者のドナーとして作られるクローンを扱った傑作SFマンガ
で、コミック版はすでに二十四巻を越えてますますおもしろくなってきた。
芝居のほうでも同じような流れはあって、新国立の小劇場で上演された篠原
久美子の『ヒトノカケラ』もやはりクローンを扱った芝居。キムラ緑子の熱
演もあって、見応えのある舞台になっていた。
二十世紀、SFに限らず、小説や映画などにあたりまえのようにロボット
が登場してきたのと同じで、二十世紀の終わりから二十一世紀にかけて、ク
ローンが続々と登場してくる。そしてクローンが出てくれば、その中心、あ
るいは脇にすえられるテーマはほぼ同じ。クローンは個性ある人間なのか、
コピーにすぎないのか、また、クローン人間はアイデンティティをどこに求
めればいいのか、といった問題だ。これもまた二十世紀のロボット物でよく
扱われた問題だった。しかし一八一八年に発表されたメアリー・シェリーの
『フランケンシュタイン』に、すでにその原型はある。
考えてみれば、材料は違うものの、パターンはほぼ変わりなく、同じテー
マが時代時代の衣装をまとって、繰り返し問われて続けているということだ
ろう。
だからこそ、その手の新しい作品には必ず、「+α」が求められる。つま
り、クローン物があふれている現在、それでもクローン物を書く作家は、そ
れなりの創意と準備と決意がなくてはならない。だからこそ、読み手は、そ
こを期待する。
そしてこの『シャープノース』は見事、その期待に応えてくれる。
『シャープノース』のなによりの特徴は、その疾走感だろう。ハイテンポ
のストーリー展開と、全編を貫く疾走感、これがなんとも爽快だ。下手なロ
ードムーヴィーなど足許にもよらない緊迫感にあふれている。
目の前で殺人を目撃し、危険を感じた少女ミラは逃げる。雪のなかをひた
すら逃げる。そして自分を危険におとしいれている謎を追う。激しい吹雪の
なかを、海に伸びる橋の上を、海上を、海中を、街のなかを、高架橋を、逃
げながら、追っていき、追いつめられながら、追いつめていく。読んでいく
うちに、ぞくぞくするような快感がわいてくる。おそらく昔なら「スリルと
サスペンス」という言葉で賞賛されただろう。
それから、舞台になっている未来世界のイメージがいい。世界規模の気温
変化によって極地の氷がとけ始め、低い土地だけでなく、いくつもの都市が
水面下に姿を消していくという設定は、珍しくもなんともない。しかし水面
ぎりぎりのところに広がる貧民街、そこで起こる事件、尻尾をくわえた蛇を
信奉する宗教、そこで暮らす人々、延々と続く高架橋を我が物顔でのし歩く
鉄の怪物、などのかもしだす暗く不気味な雰囲気は、天才少女ミラの鮮やか
な疾走を効果的に浮かびあがらせている。
とにかく、追跡劇、逃走劇、謎解きの三本の紐が巧みに編まれていて、読
者は翻弄されながら、一気に、しかし疲れ切って、最後までたどりつくだろ
う。が、その瞬間、この物語は、すさまじい勢いで方向を変え、新たな地平
目指して飛びだそうと身構える。
そう、この上巻の終わりの部分は、下巻にむけての猛ダッシュなのだ。そ
の下巻を訳者は、いち早く読むことができる。たぶん、原稿の段階で読める
はず。久々に訳者であることの幸せをかみしめているところだ。
作者、パトリック・ケイヴは、イングランド南西部のバースの生まれで、
現在三十代とのこと。『シャープノース』は、Number 99、Last Chance、に
つぐ作品とのこと。
最後になりましたが、編集の八尾剛己さん、原文とのつきあわせをしてく
ださった石田文子さんに、心からの感謝を!
二00五年三月十八日
金原瑞人
訳者あとがき(『ミッシング』)
『青空のむこう』『13ヵ月と13週と13日と満月の夜』『チョコレー
ト・アンダーグラウンド』『海のはてまで連れてって』と、ほぼ毎年のよう
にアレックス・シアラーの小説を訳してきて思うのだが、この人はすごい。
書くたびに、題材もテーマもがらりと変わる。交通事故で死んだけれどこ
の世に残ってしまった少年の物語、老婆になってしまった少女の物語、チョ
コレートが禁止された世界で戦う少年たちの物語、海賊と戦う双子の少年の
物語……といった題材のなかに、やさしさ、勇気、抵抗、父と子のつながり
といったテーマがしっかり描かれていく。これに『魔法があるなら』と『ス
ノードーム』を加えると、シアラーの世界はますます広がっていく。
しかしシアラーがほんとうにすごいのは、それぞれの作品がそれほどまで
に様々な世界を描きながらも、それぞれが驚くほどよくできていて、それぞ
れに魅力的だということだ。
というわけで、この最新作の『ザ・ロスト』(The Lost)、また新しい題
材、新しい手法、新しいテーマである。
主人公はジョー。まず、親友のジョナといっしょに消防車を追いかけるの
が話の発端。ジョナはいつも、手に入らないもの、不可能なことに心を奪わ
れて、必死にそれを追いかけるようなところがある。消防車を追いかけたと
ころで、追いつくはずはない。ジョーはそのうちあきらめるが、ジョナはあ
きらめない。「おい、こなくてもいいけど、おれのことおはだれにも言うな
よ。約束だぞ」とジョーにいって、消防車のあとを追っていく。そしてその
まま消えてしまった。
ここから物語が始まる。最初は、いつものことだとのんびりかまえていた
ジョーも、ジョナが夜になってももどってこなかったことを知って不安にな
る。が、ジョナとの約束があるから、人には話せない。やがて警察が動き始
める……
ここからのジョーの心の動き、葛藤、苦しみ、これがこの本の前半のテー
マで、後半はジョーの信念と戦い……延々と続く、まわりの世界との戦い、
そして自分との戦い……それが中心となっていく。刻々とゆらぎ、変わって
いくジョーの気持ちと、それでも変わらないジョーの固い信念のせめぎ合い、
シアラーはこれを残酷なほどに、たくみに描いていく。たとえば……
ジョナを見つけるためには、自分も同じ場所へいかなければならない。そ
れがどこなのか、そのうちわかるときがくる。何か耳にしたり、目にしたり
すれば、それがジョナを見つける日だ。数時間先か、数年先かはわからない。
だけど「そのとき」がきたらわかる。通りでサイレンが鳴ったときか、空に
星が流れたときか。「それ」が何かはわからないが、ジョナが追い求めたよ
うにして、自分も「それ」を追いかける。そして、消えるのだ。ジョナが消
えたように。そうすれば、ジョナに会える。
この部分を読んだときの感動は忘れられない。いきなり消えてしまった親
友をひたすらさがし、ひたすら追い続けるジョーの気持ちがここに凝縮され
ている。「そして、消えるのだ。ジョナが消えたように。そうすれば、ジョ
ナに会える」という言葉、この言葉のあとはこう続く。「だが、そうするに
はすべてを失う覚悟をしなければならない」
はたして、ジョーはジョナに会えるのだろうか。いや、そもそもジョナは
生きているのだろうか。そのへんは、ここに書くわけにはいかない。しかし、
ひとつだけいえるのは、シアラーは、読者を絶望の淵に投げこんで、物語を
終わらせることはない、ということだ。
ジョーがジョナに会えるにしろ、会えないにしろ、ジョナが生きているに
しろ、死んでいるにしろ、最後には十分に納得のいくハッピーエンドが待っ
ている。
『バッテリー』を書いたあさのあつこが、こんなことを書いている。
これは一般書でもそうかもしれませんが、私は児童書においてただ一つタブ
ーがあるとしたら、それは性的表現とか、殺人などといったことではなく、
絶望だろうなと思うのです。人生ってこんなものだとか、死んで終わりだと
か、破滅して終わりだとか、それだけは語りたくない。ありきたりな希望で
はなくて、ほんとうにささやかであっても、やはり若い方たちがこれから生
きて行く価値のある未来があるんじゃないかみたいなことを語りたい。(「
読書のいずみ」〈全国大学生活協同組合連合会〉)
だから、安心して最後まで突っ走ってほしい。そう、ジョナのように。
この小説の舞台になっている町について、少しだけ説明を。名前はグラス
トンベリ。イギリス南西部のサマセット州にある小さな町で、人口七千人。
ところがここにはアーサー王の墓がある。十二世紀、王妃グウィネヴィアの
墓とともに、修道院の敷地内で見つかったということになっている。またこ
の本にも出てくる「グラストンベリ・トール」は円錐形の山で、ケルトの古
代宗教、ドルイド教においては霊的なパワーの源であると考えられていた。
そんなこともあり、町にはニューエイジやヒーリング関係の店が立ち並び、
なんとなく“あやしげ”な雰囲気がある、らしい。
最後になりましたが、編集の中山智映子さん、翻訳協力者の小川美紀さん、
原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さん、細かい質問にていねい
に答えてくださったアレックス・シアラーさんに心からの感謝を!
二00五年七月四日 金原瑞人
訳者あとがき(『小さな白い車』)
『ティモレオン センチメンタル・ジャーニー』『コンスエラ 7つの愛
の狂気』と、強烈な作品で英語圏の読書界を引っかき回してきたダン・ロー
ズ。彼の作品はどれも、グロテスクで残酷でコミカルで、切なく、ぞっとす
るほど美しい。よくぞ、これほど魅力的な奇形児@フリーク@が現れたもの
だと、つくづく感心し、感動したものだ。
そのダン・ローズの新作がこれ。
最初、この原書を見たときには、「おいおい、なんだよ、これ?」という
感じだった。なにしろタイトルが『小さな白い車』(The Little White
Car)なのだ。表紙も、青地に白抜きの白い車。そのまわりを、赤、薄い青、
白の文字が囲っている。そのうえ、名前まで変わっている。ダン・ローズ(
Dan Rhodes)ではなく、ダヌータ・デ・ローズ(Danuta de Rhodes)になっ
ているのだ。
「え、女?」
気になって著者紹介を読んでみたら、一九八0年生まれ。パリとリオデジ
ャネイロで育ち、十二歳のときから、ファッション雑誌に記事を書き始め、
十四歳のときに、"Le Cochon d'Inde"(『インドの豚』?) という映画の
脚本を書き、これが注目され、次作を書くことを勧められたが、学業に専念
……といった内容。
もちろん、嘘、というかフィクション。
本人は一九七二年、イギリス生まれ。もちろん、男。
しかしこれを読んだとき、よくやってくれるなあという、ある種感動に近
いものがあった。いかにもダン・ローズらしい、しゃれっ気たっぷりの演出
といったところだろうか。
こういった演出が、じつはそのまま、この本の雰囲気と重なっている。舞
台は一九九七年のパリ。主人公はヴェロニクという女の子。ヴェロニクがそ
れまでつきあっていた、口ばかり達者で実行力もなく、やる気もない、どー
しよーもない現代音楽おたくのジャン=ピエールと別れようと心に決め、愛
犬セザールを連れて車に乗りこむ。ところがワインとマリファナのせいで、
頭のなかはぐるぐる状態。次の日、ガレージに入って車をみると、接触事故
の跡が。そしてテレビをつけたら、チャールズ皇太子らしき男の人が病院の
外に立っている映像とダイアナ妃の写真。ニュースを聞いたヴェロニクは耳
を疑う。
「マジ?」ヴェロニクはつぶやいた。「あたし、プリンセスを殺しちゃった
」
こうして、物語は幕を開ける。『ティモレオン』や『コンスエラ』とは打
って変わって、あくまでも軽いタッチ、軽いノリで、ユーモラスに進行。た
だ、全体に流れるユーモアは、軽く流れるかと思うと、たまに少し濃いめだ
ったりするし、登場人物はひと癖もふた癖もあるやつばかり。ヴェロニクの
証拠隠滅に協力する親友のエステル(頭のネジが数本飛んでいる)、定期的
にジャン=ピエールの部屋に勝手に入りこんでは、そこにだれがいようとま
ったく知らん顔で、黙々とサンドイッチを食べ、伝書鳩を窓から放つチェリ
ーおじさん(鮮烈なエピソードを残す)、などなど。
しかし、まずなにより魅力的なのは主人公ヴェロニカだろう。
単純で、浅はかで、優しくて、したたかで、手強くて、とてもキュート。
唐突に「ロンドンに行って足の指を切ってもらってくる」とエステルに言っ
たりするところもまた、変にかわいい。
ここまで書いてきてふと思った。『デリカテッセン』『ロスト・チルドレ
ン』という強烈な作品で世界をあっといわせたフランスの映画監督、ジャン
=ピエール・ジュネが、あるとき、ふっと魔が差したように作った、甘く、
ちょっと切なく、とてもキュートな映画『アメリ』、これこそまさにこの『
小さな白い車』かもしれない。
ただ、『アメリ』はクレーム・ブリュレだったが、『小さな白い車』はか
なり味わいが違う……フルーツチーズや、ナッツのチーズもあるけど、隅の
ほうにブルーチーズやウォッシュタイプの強烈なチーズもある、そういうチ
ーズの盛り合わせの皿のような気がする。
最後になりましたが、編集の香西章子さん、つきあわせをしてくださった
鈴木由美さん、細かい質問にていねいに答えて下さったダヌータ・デ・ロー
ズさんに心からの感謝を!
二00五年七月七日 金原瑞人
訳者あとがき(『四月の痛み』)
わたしはかつて、三十歳までに死ぬと誓っていた。二十八歳になると、四
十歳に延期した。その次はたしか七十歳だった。明日、わたしは八十六歳に
なる
この老人が老人ホームでつづった日記がこの本。四月二日に始まって、次
の年の四月六日に終わる。
ここにはホームでのいろいろな出来事、仲間とのふれあい、過去の回想、
日々近づいてくる死に関する考察、日々生きていくことへの思い……などが
語られている。
仲間といえば、ユーモアのセンス抜群で、いつも脱走やいたずらを考えて
は、たまに実行に移すウェーバー。主人公は「不朽の名声が欲しいし、死ん
でからも人々にわたしのことを考えてもらいたいと」と思っていたが、ウェ
ーバーは「自分以外に人間になりたがることなどけっしてない」
そんなウェーバーを見て、主人公はふと考える。
そもそも、他人より優れた者とか劣った者などいないのではないか? お
そらく、ウェーバーはそれが真実だと信じているのだろう。だからこそ、死
を恐れないのだ。わたしは生まれてこのかた、毎日、死を恐れている。死に
ともなう痛みだけでなく、哲学的な意味でも死が怖い。死という概念と、そ
れにまつわるこまごまとしたことすべてが怖い。
全編に流れる、こういった主人公の思索と感慨はとてもユニークで、われ
われとは少しずれた視点から世界をながめているようであると同時に、鋭く
おもしろいところをついてくる。
目には匂いをかいだり、音を聞いたり、味わったり、触れたりするために
もある。想像したり、悩んだり、実在しない世界から実在する星を見つける
ためにもある……わたしの目は目に見えるものすべてであり、見えないもの
すべてである。両目が開いているとき、わたしの目には無限大の二倍の能力
がある。閉じれば、能力はさらにあがる。
これを読んだときすぐに、後藤繁雄の『五感の友』(リトルモア)を思い出
した。この本にこんな文章がある。
すべての見えるものは、見えないものに触っている。聞こえるものは、聞
こえないものに触っている。感じられるものは、感じられないものに触って
いる。おそらく……これは志村さんがご自身の本の中で引用されていたノヴ
ァーリスの言葉である。僕は、この言葉に出会った時、すぐさま日記ノート
に書き写した。自分がずっと言いたかったもどかしさが、見事に簡潔に記さ
れていたからだ。
文中、「志村さん」とあるのは、もう亡くなった染織作家の「志村ふくみ」
のこと。「ノヴァーリス」というのはドイツ初期ロマン派の詩人・作家。
そう、『四月の痛み』を読んでいると、「ずっと言いたかったもどかしさ
が、見事に簡潔に記されて」いる文章によくぶつかる。
それだけでも十分に、いや十二分におもしろい。たとえば、次のような部
分もそうだ。
わたしが妻と結婚したのは、ほかに選択の余地がなかったからにすぎない。
彼女を自分のものにせずにはいられなかった。それだけのことだ。この考え
は、いささかも変えるつもりはない。変えてどうなる? 長い目で見れば、
正しい選択とか間違った選択などというものはない。あるのは選択をしたか
しなかったか、その違いだけだ。
そう、そうなんだ、と思わずいってしまいそうになる言葉や考察に、この
本はあふれている。どこを読んでも、はっとさせられ、次の瞬間には納得さ
せられる。
しかしこの本はエッセイ集ではない。そういったことを考えている、いや、
考えざるをえない老人が主人公の小説だ。だから、その老人のいらだちや恐
怖も語られる。いうまでもなく、「死」を目前にした人間の思いだ。それが
また、驚くほどリアルに描かれていく。しかしいうまでもなく、死んだこと
のない人間は死を知りようもなく、そこで語られるのは死ではなく生なのだ。
そのパラドックスは、生きている限りどこまでも追いかけてくる。この本は
死を目前にした老人が語る「生」についての本だといっていい。
この作品の最後の部分にいたったとき、読者はそれを、ある種の甘い切な
さとともにかみしめるに違いない。
それにしても、この八十六歳の老人の話は、フランク・ターナー・ホロン
が二十六歳のときに書いた最初の小説。装いはずいぶん古い感じがするもの
の、よく読むと、若い。自分にはとても想像もできない老齢を想像し、「老
い」というものをしっかり手元に引き据えて書いたこの小説、信じられない
ほどリアルだ。生も死も、人生も死も、老いも死も、若さも死も、すべてが
この薄い一冊に凝縮されている。
読み飛ばしたくなる小説が量産される今日、ゆっくりじっくり読みたくな
る一冊だと思う。
最後になりましたが、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さん、
この作品をぽんと投げてくださった編集の中村剛さんに心からの感謝を!
二〇〇五年八月二十二日
金原瑞人
4.お知らせ
八重洲ブックセンターの上に八重洲座というホールが誕生。100席ちょ
っとの小さな空間だけど、ちょっとおしゃれで、9月から、毎月下旬に古典
芸能を中心にした公演を行うことになり、最初、その企画にたずさわること
になりました。今のところ、こんな感じです。
9月27日(火)6:30から。
女流義太夫。金原のHPでチラシのPDF見られます。
10月26日(水)6:30から。歌舞伎解説者のおくださんと義太夫のジョイ
ント。ポプラ社の歌舞伎絵本『義経千本桜』(橋本治+岡田嘉夫)がらみ。
11月23日(水)午後。歌舞伎解説者のおくださんと義太夫のジョイント。ポ
プラ社の歌舞伎絵本『仮名手本忠臣蔵』がらみ。
1470円という、映画の前売りよりも安い値段で、90分、古典芸能を
楽しんでいただこうという企画。ぜひお立ち寄りください。
「野生時代」(角川書店)の11月号から三ヶ月、海外の短編小説がひとつ
ずつ掲載されることになった。最初はエリザベス・マクラッケンの「死んだ
りしたら、それこそ……」(舩渡佳子訳)、次がT・コラゲッサン・ボイル
の「掘る男」(圷香織訳)、最後がピンクニー・ベネディクトの「ミラクル・
ボーイ」(西田登訳)。そうそう、いうまでもなく、『バースデー・ボック
ス』を出すことになった勉強会の面々が訳している。どれも素晴らしい短編
なので、ぜひ!
「小説すばる」に「ぼくの訳したい本」というエッセイ(仮タイトル)を
11月号から掲載の予定。
【創作】
『聖ヨーランの伝説』(ウルフ・スタルク:作 アンナ・ヘグルンド:絵 菱木晃子:訳 あすなろ書房 1300円 2005.09)
竜退治伝説をスタルクが作品化。
ヨーランと二人の兄は、それぞれの方向に旅にでることに。「心の声のひびくままに」という父の教えに従い、ヨーランは旅先で人々を助けていきます。最後にたどり着いた町では、権力と引き替えに、竜に生け贄を捧げる王が。皮肉なことに今度の生け贄は王の娘。さしたる武器も防具もないヨーランは心の声のひびくままに助けに向かったのですが・・・。
なめらかな物語展開、暖かなラスト、スタルクの真骨頂。
こうゆうので、物語の楽しさを知るのですよ。(hico)
『ガイコツになりたかったぼく』(ウルフ・スタルク:作 はたこうしろう:絵 菱木晃子:訳 小峰書店 1200円 2005.05)
スタルクの自伝的短編集。
どぼけた味わい、子どもの視線から見た大人の描き方、巧いです。
2作が収められているのですが、「スカートの短いお姉さん」は、スタルクの文学に目覚めし時ってお話しで、特に興味深いですよ。(hico)
『ダイエット 10代のフィジカルヘルス3』(石垣ちぐさ・本間江理子:著 大月書店 1800円 2005.09)
10代のメンタルヘルスの日本状況版でもあるこのシリーズ、前作『おしゃれ&プチ整形』がいかにも日本の風景であったのに対して、今作はダイエットというインターナショナルな問題を採り上げます。
描き方はストレート。様々な無意味な「ダイエット」と呼ばれている方法の効果のなさを指摘したり、思春期を再確認してもらったり。
この真っ当さでいいと思います。
こうした情報を、必要なとき10代が受け取れる環境が欲しい。(hico)
『青春のオフサイド』(ロバート・ウェストール:作 小野寺健:訳 徳間書店 1800円 2005.08)
女性教師と恋に落ちた「ぼく」の物語。時代は戦後、お題目の「道徳」がまだ機能しているイギリスの田舎町。もちろんそれは密やかに進展していきます。
スリリングな成長小説としても充分おもしろいです。設定は、それほど新味はありません。けれど、「ぼく」の心をこれでもかと丹念に描き込んでいくウェストールの筆力、というより作家根性かな、それはさすがにすごいです。
そして、『かかし』や『海辺の王国』や『機関銃要塞~』の作家の作品として読んでみると、意味のない慣習や制度への否定的姿勢や、マッチョな仕草や、女性へのあこがれと嫌悪など、ウェストールの顔がよく見えてくる作品です。
これが発表された年に亡くなっているのですが、もっともっと読みたかった。(hico)
『スキ・・・』(ミンヌ:作 ナタリー・フォルチェ:絵 森絵都:訳 くもん出版 1500円 2005.08)
「絵本」で採り上げた『わたしの すきなもの』(フランソワーズ:作 なかがわちひろ:訳 偕成社 1200円 2005.11)の年上現代版です。時代が新しくなると、これだけ微細な気持ちの表現が必要になるのがよくわかります。それは年齢が高いせいではなく、情報量のたかの違いです。
宣伝文句のようですが、キュートでいて、しっかりとした視線で描かれています。(hico)
『よこづなになったクリの木』(稲本昭治:作 大社玲子:絵 文研出版 1200円 2005.09)
表紙から設定まで、イマドキにしては古いものです。だからといって、いらない物語かというとそうでもなく、気持ちが集まれば何かが出来るという、シンプルかつ普遍のテーマを扱っています。
古くからあるクリの木。それで遊んでいた主人公は怪我をしてしまう。そのために、行政サイドが木を切ることを決める。切って欲しくない主人公は、夜中にこっそり、木の幹に「きらないで」という札をぶら下げる。と、それに共鳴した色んな人々が・・・・。
たくさんの人の札を結ぶための紐が重なって相撲の横綱のように見えるところから、タイトルは生まれているのですが、それが古い。
悪くない物語を、今の子どもに届けようとするなら、絵も含めてもっと工夫が欲しいです。(hico)
『こうえんどおりのようふくやさん』(堀直子:作 神山ますみ:絵 小峰書店 1000円 2005.08)
なかなかお客さんの来ない洋服屋さん。と、女の子が現れて、洋服を注文。それは妙に胴が長い、シッポのような物がついた奇妙なコートなのですが・・・・。
そうか、やっぱりそうなんだな~というラストへと続いていく展開ですから、意外性はありませんが、この安心感は読み終えたときの満足感を保証しています。(hico)
子どもの頃、学校行事で「絵画鑑賞」へ出かけたことが何度かあります。美術館に入ると、いつもの騒がしさはどこへやら、緊張しながら建物の中をゾロゾロ歩いていました。どうしておとなしくなってしまったのかというと、絵を前にして、どんな反応をしていいかわからなかったからです。見たままを感じ取ればいいのだと叱られそうですが、感じ取ったことを言葉にするのは難しい。 そんなとまどいは一切必要なく絵と出会えるのが、『名画のなかの世界』(ウエンディ&ジャック・リチャードソン:編 若桑みどり:日本語版監修 森泉文美:訳 小峰書店 全六巻 各二千五百円)シリーズ。 一巻ごとにテーマが設定してあって、それに即した絵が二〇点ずつ集められています。様々な見方ができるはずの絵を、ここでは視点を一つに絞って眺めてみるのです。例えば「食べ物」編だと、ミレーの「落ち穂拾い」から始まって、二世紀の漁を描いた宗教画に飛んだかと思うと、二十世紀のスイカの絵が出てきます。古今東西を一気に走り回り、まるでジェットコースターに乗っているような気分が味わえます。普段あまり考えたこともない、人間と食べ物の関係が、こんなアプローチをすればよく見えてくるんだなあと感心していると、あれれ? いつのまにやら、絵のおもしろさがわかってきたような・・・。 読売新聞2005.09.05(hico)
時は紀元前四千年。悪霊が宿っているクマに父親を殺された少年トラク。このままでは、氏族全体に被害が及んでしまう。彼は父親の遺言に従って、精霊の森を探す旅に出る。相棒は生まれて間もない子オオカミのウルフ。一時期オオカミに育てられたトラクは、ウルフの言葉がわかります。そして、ウルフの本能だけが、精霊の森へと導いてくれるのです。果たして、トラクとウルフにはどんな困難が待ち受けているのか。 『オオカミ族の少年』(ミシェル・ペイヴァー:作 さくまゆみこ:訳 評論社 千八百円)は、時代設定が時代設定だけに現代の私たちから見れば、クマとの戦い以前に旅そのものが冒険の日々。食料はどうするのか? 倒した獲物は肉や臓物を食料にするのはもちろん、皮や爪に至るまで、どう利用するのかも細かく書かれています。自然からの贈り物を無駄なく使わせてもらうという、現代にこそ大切な考え方が物語の中にちゃんと織り込まれているわけ。 なんと言ってもトルクとウルフの心が徐々に通い合う様子が楽しい。人間のトルクと違って、オオカミのウルフは旅の間にどんどん大きくなっていきます。だから物語の最初はトルクに守られていたウルフも、最後にはトルクをリードしていくようになる。つまり、人間と動物だけど、主従関係ではないのです。あくまで二人(?)は、旅の仲間。それって、とっても心地いいと思わない? 読売新聞2005.09.19(hico)
『デルトラ・クエスト』(全八巻 エミリー・ロッダ:作 岡田好惠:訳 岩崎書店)
デルトラ王国は、かつて影の大王に支配されかけたのですが、七つの部族が所有する七つの宝石をはめ込んだベルトの力によって、それを阻みます。以来ベルトはデルトラの王の象徴となる。即位の時、王はベルトを腰に巻く儀式が掟として伝わっています。が、本当はそうではなく常に身につけていなければベルトは効力を発揮しないのでした。新しい王の幼なじみジャドーは、そのことを進言しようとしますが、実は影の大王の部下であった主席顧問官の陰謀によって、謀反人にされてしまいます。何とか城から逃げのびたジャドーは鍛冶屋となって身を隠す。やがてデルトラ王国は影の大王に支配され、ベルトの宝石も奪われ、どこかに消えてしまいます。時は流れ、鍛冶屋の息子リーフは、臆病者だと思っていた父親ジャドーから、真実を知らされます。そしてリーフは、デルトラ王国を影の大王から取り戻すため、事故で足を悪くした父親の代わりに、失われた七つの宝石を見つけ出す冒険の旅に出ることを決心する。手がかりはたった一枚の古びた地図だけ・・・。
この物語の段取りはとてもシンプルです。宝石のありかを探し出し、それを所有している魔物や幽霊と戦い、奪い返していく。トパーズ、アメジスト、ダイアモンド、エメラルド、ラピスラズ、ルビー、オパールと、宝石ごとにその戦いを繰り返す。これだけです。物語がそこからはみ出し思わぬ方向に進んでいくことは決してありません。ですから、様々な出来事に巡り会って、主人公がしだいに成長していく様や、奥深い人物造形などを期待すると、がっかりしてしまうでしょう。
だからといって、デルトラ・シリーズはつまらない物語ではありません。これは、読後の余韻を求めるのではなく、読んでいるその時間を楽しく過ごせればいいタイプの物語なのです。
それぞれの宝石が隠されている場所や、奪い返すときの戦い、謎解きなどはほどよく工夫されています。一巻目「沈黙の森」では、鎧を着た戦士が持つ剣のつかに目的のトパーズがはめ込まれています。彼が独り占めにしようとして守っているのは、永遠の命を与える蜜を出す百合の花です。騎士は花が咲くのを延々と待っているのですが、その間に肝心の肉体は滅び、魂だけが鎧に宿っていたことが最後に判ります。これはなかなか皮肉な話です。だからといって、それを知ったリーフが命や人生について考えたりする描写があるわけではありません。そうしたことを考えるか考えないかは読者である子どもたちに任せています。物語は、こうして一つの宝石を取り戻せたと語るだけです。
リーフが持っている地図に描かれた宝石が眠っている場所は、一巻ごとに消されていきます。リーフが宝石を一つ手に入れたとき、読者である子どもは、本を一冊読み終えるのです。つまり、目的の達成感が、とても分かりやすい。それがこのシリーズの楽しさです。
徳間書店2005.08(hico)
絵本読みのつれづれ(9) オバケの話(鈴木宏枝)
「オバケなんてないさ♪」という有名な童謡をリトミックで教わり、みんなで手をつないでぐるぐるまわってお遊戯してから、Tさんに「オバケ」ブームが来た。お絵描きでも、ピンクの紙に色とりどりのクレヨンでオバケの絵を描く。
楽しげな絵に「何描いたの?」と聞くと(我ながら野暮だ)、「オバケ」とうれしそうな返事で、ちょっとぎょっとしたが、何度か続くうちに、これが今のTさんの大事な遊びなのだと分かった。「オバケ」といわれると、子どもが不安を象徴化して…などとついつい余計なことを考えてしまうのだが、純粋に、何か楽しい友達としてとらえているようである。
保育クラブでも、オバケ好きなことをアピールするだろうと予想され、ストレスを抱えていると勘違いされると困るので、連絡ノートに書いておいた。案の定、保育室で「オバケ」を連呼していたようだ。迎えにいった帰りに先生に「オバケの出てくる絵本を読んで、オバケの格好になって遊んで、すごく元気に走り回っていましたよ」と教えていただいた。
そこでオバケの出てくる絵本が何だったのか聞き忘れたが、本で読むと逆にけっこう怖いのではないだろうか。NHK教育でやっている子ども番組でも、追い詰められるとか逃げるといった場面が苦手ですぐに消してしまうTさんである。大好きなシンデレラの紙芝居でも、舞踏会や変身の素敵なページと、いじめられたり怒られたりしている悲しいページはよりわけて、前者だけを大事に毛布にくるみ、後者は私に「ハイ」と渡すほど。Tさんの「オバケ」は怨念や悪霊ではなく、楽しく遊べる変なヤツ、なのだ。
さらにTさんは最近、バーバパパシリーズを図書館から借りてくるようになった。バーバパパは、図書館では「は」行のパオちゃんシリーズのとなりに並んでいる。借りるときは手当たり次第なTさんだから、最初は偶然に引き出してきたのだろう。
うねうねと姿を変えられて、楽しい大家族で、色合いがそれぞれに特徴的で、物語じたいも起承転結があってなかなか楽しいバーバパパシリーズを、私は絵本で初めて見た。そして「キャラクター」と決めつけていた不明を恥じた。
リサとガスパールもそうだが、人間や動物との共存と「自然に町にいる」感じがいい。それから、バーバママが「母」の役割に限定されず、夫に愛されている美人さんなところも、個人的には気に入っている。
昨日借りてきたのは『バーバパパのたんじょうび』(チゾン+テイラー、やましたはるお、講談社、1974/1997)と『バーバパパのあふりかいき』(チゾン+テイラー、やましたはるお、講談社、1974/1997)だった。その前に『バーバパパのクリスマス』『バーバパパのしんじゅとり』『バーバパパののみたいじ』と読んでいる。
「のみたいじ」では、バーバモジャがはりねずみと友達になる。だけど抱き合って昼寝したらのみが移ってカユカユになってしまい、モジャは毛を全部刈る。寒そうなモジャにバーバママがセーターを編んでくれる。
はりねずみにノミというのも、そもそもノミ退治が絵本になってるところも、実に異文化だった。また、バーバの「綿菓子」チックなところと背景になる町や営みのディテールの描きこまれ方の対比がいい。
バーバパパを何冊か読んだあとに、はっと気づいたのはバーバもオバケだったことだ。それまでとなりのパオちゃんは借りていてもバーバパパまでは手が伸びていなかったのに、ちょうど「オバケ」への興味とリンクするようにバーバを知ったのは不思議なことである。
そんなTさんとの一問一答。
私 「オバケってこわい?」
T 「ううん、こわくないよ」
私 「オバケってどこにいるの?」
T 「森のなか」
私 「森の中はこわい?」
T 「うん、こわい」
私 「オバケって大きいの?」
T 「うん、大きい」
私 「どんな色?」
T 「白だよ!」
「オバケってどこにいるの?」の質問に、「森のはずれの木の下じゃあ!」と答えたこともあった。Tさんにとって、異界は今生きている「大人と共存している世界」、その中で、「ちょっと変なモノ」「オバケ」「精霊」「ものいう動物」などなどは、異のものではなく、むしろ大人に対するよりもずっと深いシンパシーを感じるものなのかもしれない。
今月のトムの庭のブッククラブは『いつもちこくのおとこのこ――ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー』(ジョン・バーニンガム/たにかわしゅんたろう、あかね書房、1987/1988)だった。
私はバーニンガムの絵本に、いつもなんだか居心地の悪さを感じる。『ガンピーさんのふなあそび』では親切なはずのガンピーさんと動物たちのやりとりにも落ち着かない。『アボカド・ベイビー』もそうだった。痛快なはずのアボカド・ベイビーの活躍が手放しで楽しめなかった。そしていずれも、繊細でやわらかい色彩と絵にはものすごくひかれていて、そのギャップに余計に居心地の悪さを感じた。
『いつもちこくのおとこのこ』もテーマがはっきりしていて、その、妙に醒めたところになんだか後ずさりしたくなる。子どもの見る視点からの真実をつきつけられて、思わず「スミマセン」と謝りたくなり、それでいて、絵の奥行きと色合いにはとてもひかれる。 だが、Tさんは、私の葛藤など気にもせず早速何度も読ませて覚え、「ジョン・パトリック・オンマカヘンヌシさーん」とそのまま楽しんでいる。
未就園児のTさんだけど、ジョンが感じているような理不尽を、実生活でも感じる場面があるのかもしれない、それを言語化せずに思い出しているのかもしれない。 バーバパパやTさんの頭の中にある「オバケ」の親しさ・近しさに比べて、エドワード・リアのナンセンス絵本に出てきそうな、歯をむいた教師の造形。「オバケ」は、話の通じない「世の中」の方なのだ。それは、まるで不思議の国のアリスを見るようである。
このように、今はオバケブーム到来中のTさんだが、なんでもかんでもというわけではない。6月の誕生日プレゼントのアンパンマンおもちゃが入っていた大きなラッピング袋がある。ビニールではないので適度に通気があり、アマゾンカラーの紫色だ。かぶるとTさんの腰のあたりまでくる。
かぶって歩くのは楽しかろう。本当はちょっと危ないけれど、こけてもたいしたことないだろうと放っている。本人は意気揚々と「じゃーん」と出てくる。オバケブームを知っている私が「かわいいおばけねえ」と声をかけると、袋をぬいで「ちがうよ、プレゼントTちゃんだよ」と言った。
分かった気になってはいけないのだ。
Mくんは、がぜん身体が強くなってきた。つかまり立ちをすっかりマスターし、ずりばいで人間雑巾と化しながら部屋中自由自在に動いている。段差や階段のある家なので、はいはいで3段の階段を器用にのぼっていく。理解するはずはないと思いつつ、高さ20cmほどのベッドから降りるときは「足からよ」と足を持って足からおろすよう何度かやっていたら、頭から転げ落ちるのではなく足からすべりおりるようになった。
紙への興味は薄れ気味である。おいしいものではないということが分かったのかもしれない。耳はよく聞こえていて「Mくん」と呼びかけると動きが止まるとかちょっときょろきょろするとか、反応するようになった。それから、生まれたばかりの頃から言っていた「Mくんの大好きなおふろよ」の「おふろ」はどうやら素敵な言葉だと理解しているようである。「おそと」ももちろん大好きだ。分かっているのか分からないが、ちょっとでも通じると思っていたほうが楽しい。
Tさんとは、私が幸福になるくらい仲がいい(というかTさんに可愛がってもらって、Mくんもなついている)。Tさんが身体を張ってぴょんぴょん飛んだり、変わった音を出したり、ドアを閉めたりするとMくんが笑う。するとTさんも笑う。するとまたMくんも笑う。笑う門に、福よこい。
(Tさん3才3ヶ月、Mくん7ヶ月。
鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ 「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)
【絵本】
以下、ほそえです。
○わらべうたとあかちゃんえほん
「ととけっこう よが あけた」「まてまてまて」
こばやしえみこ案 ましませつこ絵(こぐま社 2005.7,2005.9)
「くっついた」三浦太郎作 (こぐま社 2005.8)
「おやすみなさいのうた」いまむらあしこ作 いちかわなつこ絵 (ポプラ社 2005.9)
10年くらいまえは「赤ちゃん絵本なんて売れない」「赤ちゃんに絵本なんて」などといわれていたのに、ブックスタートが自治体で採用されるようになったら、どこの社もわれもわれもと出し始める。そのなかで、こぐま社は「しろくまちゃん」シリーズで初めて日本の幼い子どもたちの生活や実感を絵本作りに意識的に生かしてきた経験をもっているためか、赤ちゃん絵本へのアプローチのしかたも独特で、他社を圧倒しているように思える。
そのこぐま社が出した赤ちゃん絵本2種。ひとつは、のら書店の「赤ちゃんとおかあさんの遊びうた」シリーズで定評のあるこばやしえみこと、わらべ歌絵本といえばこの人という、ましませつこのコンビによる「わらべうたえほん」シリーズである。「ととけっこう よが あけた」は♪ととけっこう よがあけた まめでっぽう おきてきな♪という小さな歌をもとに、おんどりが動物たちを次々おこし、こどもをおこし、おひさまおはよう!という展開。「まてまてまて」はどうぶつたちが、まてまて~と次々追いかけられ、さいごにこどもがおいかけられて、みんなでおふとんに入りおやすみなさい、というもの。どちらも歌というよりも、唱えうたみたいな単純なリズムとメロディーで、歌と生活をむすびつけている。今までのわらべ歌絵本と違うのは、以前のものは歌曲集(見開きで、歌詞を紹介し、楽譜をのせたもの)で、今回は、ひとつの歌を展開し手1冊の絵本に構成しているところだ。欧米にはこういう構成の絵本が60年代にたくさん作られたが、最近はあまり見なくなってしまった。絵本の言葉と歌は、とても近しいものなので、うまく構成できれば(どの歌も絵本のページめくりの展開に合うとは限らない)、絵本になるのだ。この作り方だと、どういう場面で展開していくかが、絵本作りの胆になるので、絵描きの力量が如実にでることと、やはり展開が平板になりがちになるのがむずかしい。
「くっついた」はボローニャ国際児童図書展に4度も入賞し、スイス、イタリアで絵本の出版をしたイラストレーターの絵本。わが子と過ごす時間の中から、出てきた絵本とかかれている。スイスで出版され、日本でも「ぼくは…… JE SUIS...」(ブロンズ新社)も翻訳されている。アメリカのおもちゃ作家兼イラストレーターでOrange Bookなどの絵本でも知られるマクガイアーを思わせるイラストで、クールで大人っぽい感覚のデビュー作「ぼくは……」にくらべると、「くっついた」は、デザイン的ではあるが、暖かみのあるイラストの、より子どもを意識したものになっている。さいしょは、動物が出てきて、くっついた、という2場面の展開が、ラストで「おかあさんと わたしが」「くっついた」「おとうさんも くっついた」というオチになっているところが、破調ではあるが、この絵本の一番の眼目のページとなっている。ここはビジュアルのおもしろさではなく、実際に同じようにしながら絵本を読んでもらいたい、こういう風にほっぺとほっぺをくっつけると、なんだか笑っちゃうね、という実感を伝えるページなっているから。このページがあることで、赤ちゃん絵本として成立している。
雲のうえで気持ち良さそうに寝ている赤ちゃんの表紙画が印象的な「おやすみなさいのうた」は、わらべ歌を意識しながら、新たに書かれたテキストで絵本ができている。そのため、ページの構成が意識的になり、平板さからは免れているように思える。ねんねん とんとん おころり とん、という繰り返しがかわいらしく、すうっと入ってくるリズムになっており、人も、きつねもうさぎもりすも、みんな同じ土地に、しっかり遊びながら大きくなっているのだと、絵が語りかけてくれる。わが子を目の前に歌いながら、外の他の生き物たちにも思いを馳せる、心の広がりが、他のおやすみ絵本とちがうところではないかしら。この絵本はシリーズになっており、「おそうじのうた」「ごはんのうた」と続いていく。生活の中のひとつひとつを丁寧にくらしながら、外の世界を思いめぐらすのは、大人にとっても、小さな子どもにとっても大事な時間になることと思う。
絵本を赤ちゃんに読みましょうといわれるが、まずは穏やかな声を聞かせるということなのだ。あかちゃんをあやしたり、声かけたりするのが苦にならない人は、絵本なんかわざわざ読み聞かせなくてもいい。それが自然にできない人が増えているからこそ、ビデオやテレビやCDをきかせるなら、絵本の方がまだいいでしょう、というだけ。でも、そのときも、小さな子の実感や生活に根ざさない設定の絵本は、まだむずかしいと思う。この3冊のようなものなら、おすすめ。
○その他の絵本、読み物
「たのしいホッキーファミリー、いなかへいく!」レイン・スミス作 青山南訳(ほるぷ出版 2003/2005.8)
「たのしいホッキーファミリー」が出て、10年。第2作がかかれたが、相変わらずのおとぼけぶりは健在。都会育ちの家族が田舎に引っ越して、過ごした1年を、季節にそって、そのときどきの出来事を切り取って、見せてくれる。ストーリーの組み立て方(物事の切り取り方)が10年前の作品と同じなので、比べてよんでもたのしくなっている。
「終わらない夜」セーラ・L・トムソン文 ロブ・ゴンサルヴェス絵 金原瑞人訳 (ほるぷ出版 2003/2005.8)
マグリットの絵画を思わせるだまし絵の世界を作家が読み解き、つなげていった絵本。先に絵画があり、それに流れを作って構成したのが、作家だという。さすがに自分の世界をきちんと持っている絵なので、後づけされたものでも、ある臨場感を持ってせまってくる。
「おつきさまってなあに」スティーブン・アクセル・アンダーソン文 グレッグ・カウチ絵 木坂涼訳(ソニー・マガジンズ 2001/2005.8)
月は何でできてるか?というお話はたくさんあるけれど、これはそれぞれの動物たちが月をどのように見ているかを幻想的な絵で描いている。キツネはうさぎだといい、ミズアオガは大きなマユ玉だといい、フクロウは空をくり抜いてできた窓だという。ネズミ、カエルもそれぞれの思いをかたるのだが、喧嘩になってしまい、何でも良く知っている博士に聞いてみようということになる。本に書かれた月の正体を聞いても、動物たちは納得せず、それぞれの思いでもう一度、月を見つめるのでした……。このお話の寓意をどう読み取るか、こういう展開は現代的。
「しろくまくんのながいよる」ローラ・トンプソン文 スティーブン・サベッジ絵 きたやまようこ訳 (ソニー・マガジンズ 2004/2005.7)
よるのおはなしなのに、不思議と明るい色調なのは、北極だから。リノリウム版画のぽそぽそとした肌合いが温かみ味をかもし出し、しろくまの子どもの小さな冒険を見守ります。しずかな、語りかけるような訳文が、この絵本に似合っていて、大好きなものに囲まれ、穏やかに満たされた子どもの夜にふさわしい。
「うみ Atlantic」G.ブライアン・カラス作 工藤直子訳 (フレーベル館 2002/2005.7)
科学的な説明もこんなふうに歌うように語られたら、すうっと入っていくことだろう。海はひろく、波やきりや嵐やしょっぱいにおいのもとで、ぐるっとつながっているんだってこと。擬音や詩歌をとけこませて、絵だけでなく、音や言葉で海そのものの感覚に近づこうとしている。日本語版では、海を題材にした詩や短歌、俳句などを取り入れて、より身近に感じられるように工夫されている。
「やぎのブッキラボー3きょうだい」ポール・ガルドン作 青山南訳 (小峰書店 1973/2005,8)
日本ではマーシャ・ブラウンの「3びきのやぎのがらがらどん」で良く知られているノルウェー民話をガルドンが描いた絵本。アメリカでは、こちらの方が広く読まれているかもしれない。ガルドンは動物が主人公となった民話を描くのがうまい作家だ。名調子ではあるが、日本語として現在なかなか耳にしない言葉が多く、けれん味たっぷりの瀬田貞二訳とすっきりすんなり耳に入る青山南訳。どちらを選ぶかはお好みで。トロルの描き方も好みが別れるところだろう。
「綱渡りの男」モーディカイ・ガースティン作 川本三郎訳 (小峰書店 2003/2005.8)
2004年度コルデコット賞受賞作、1974年完成間近のニューヨーク貿易センターのツインタワーに綱をはって渡った男の実話をもとにして描かれた絵本。コマ割りや片開きを効果的に配して、実話の細かなニュアンスを損なわないように展開されているのが、よく工夫されていて、おもしろいなと思った。9.11のテロで崩壊されたツインタワーのことを、このような形で絵本として追悼するというのは、どういう風にとったらいいのか、それを今考えている。
「ブライディさんのシャベル」レスリー・コナ-文 メアリー・アゼアリアン絵 千葉茂樹訳 (BL出版 2004/2005,8)
「雪の写真家ベントレー」などノンフィクション絵本で良く知られる、アゼリアンの新作。ヨーロッパから新大陸アメリカに移住した女性の半生を、一本のシャベルという視点でもって、語りだしたところにこの絵本のおもしろさがある。船の中でも、着いてからでも、シャベル一本で自分の居場所を文字どおり切り開いていった女性のたくましさを感じる。
「ランスロットのはちみつケーキ」たむらしげる作 (偕成社 2005.10)
ロボットのランスロットのシリーズ3作目。今回はお手伝いロボット犬が引き起こした騒動で、はちみつケーキが食べられなくなってしまったランスロット。でも、仲間たちに手伝ってもらって……。火山でケーキを作ってしまうというアイデアが秀逸。ケーキ作りの絵本は数あれど、これだけ大掛かりなのは見たことがありません。
「ぶっぶー どらいぶ」中川ひろたか文 山本祐司絵 (主婦の友社 2005,10)
小さな子が好きな自動車が勢ぞろい。温かみのあるイラストで描かれた車たちの存在感。実際に見る自動車と絵本の中の車たちのお話をオーバーラップさせて、楽しめる絵本。実際と絵本とを行き来することで、小さな子の認識は広がり深まっているのだと思う。
「そらをみよう」谷内こうた作(あすなろ書房 2005.9)
言葉少なな、気持ちの良い絵本。シンプルだけれど、視点を変えると、こんなに自由になれると教えてくれる。わたしは雨上がりのページが好き。あめあがり そらが みちに おちている~このテキストと絵だけで、この絵本が描かれたのがうれしくなる。
「あひるのガガーリン」二宮由紀子文 いちかわなつこ絵(学研 2005,9)
くるんとまきあがったおしりの羽がチャーミングなあひるのガガーリン。ちょっとこだわりのあるあひるさんなんだけれど、おともだちができたら、ちょっとづつ変わってきて……。小さなお話3つで構成された絵本。繰り返しがいいテンポでつかわれ、不思議なおかしみがある。のびのびとして明るい絵柄がお話によく合っている。
「ルラルさんのほんだな」いとうひろし作(ポプラ社 2005.9)
「ルラルさんのにわ」が出て、15年。1990年に刊行されたこの絵本は、ああ、絵本の書き手が変わってきたなと強く感じさせたものだった。絵を取っても、お話を取っても。だからといって、いとうのような書き手が増えたわけではなく、どちらかというといとうの世界は彼一人で完結してしまったのだけれど。本作では、ルラルさんが動物たちにせがまれて本を読んであげるところからお話が始まっている。地底に入っていく冒険物語を読んであげていたら、ねずみが「その穴知ってる!」と言い出して、みんなを連れて外へ出ていってしまう。そのとき、ルラルさんが「あーあ、どうぶつたちには本のおもしろさがわからないんだ」と思うのだけれど……。実際の生活と本とがつながっていると思うことがたまにある。あー、こういうことだったんだな、と実感できる時、本はものではなく、種のようにわたしの中に根をおろした。それはひとつの本の幸せな姿だとは思うのだが、ルラルさんたちのは、それともちょっと違う。どちらも、それぞれをゆたかにしてくれるものとして同格に存在しているのが、おもしろい。でも、子どもの生活の中での本やお話というのはこういう物として存在しているのかもしれないなと思った。ルラルさんが何冊も動物たちといろんなことをして、それでも一緒にいられるというのは、彼が動物たちと同格であるからだ。動物たちの視点を得ることで、彼はどんどん自由になっていく。その姿は読者の思い込みをゆるませたり、背中をぽんと押したりもする。
「戦争が終わっても~ぼくが出会ったリベリアの子どもたち」高橋邦典写真・文(ポプラ社 2005,7)
「ぼくの見た戦争-2003年イラク」をまとめた写真家の第二作目。子どもというフィルターをもって、世界を見始め、それを見続け、まとめることをこの人は選んだのだなあと思った。戦争が終わった後も、全然終わっていない現実があることを、写真とその文章で訴えかける。淡々と進む文章がよけいに、ことの重さを伝える。マスコミが伝えない情報がどれだけあるか、その中から、どれを選んで伝え続けるのか、しかも、子どもに向けて直接語ることの責任を本作りの側はいつも思っていなくてはいけないと思う。写真家の思いに答える本作りをした編集や出版社にエールを送りたい。
「金魚はあわのおふろに入らない!?~アビーとテスのペットはおまかせ!1」トリーナ・ウィーブ作 宮坂宏美訳 しまだ・しほ絵(ポプラ社 2000/2005.8)
ファンタジー以外の翻訳ものがでると、どれどれと食指が動く。これは動物好きなのだけれど、飼えない女の子とその妹が主人公の物語。ペットシッターになりますという設定で、いろんな動物たちのお世話の仕方を核にして、主人公たちのてんやわんやを描くカナダの人気シリーズの1冊め。設定や家族の描き方に、芯があって、しっかりと作られた物語だなと思う。アビーはしっかりものでお勉強も良くできるお姉さん。テスは犬のまねをして過ごしている妹。家の中でも外でも犬のようにワンワン鳴いたり、ハアハアいったり。おかあさんは絵を描いたり教えたりしているアーティスト。個性的なふたりに囲まれ、わたしには何にもないって思ったり、変な妹にあたってしまったり……。ストーリーを支えるところが確かなので、あとは安心して読めるのだ。
「聖ヨーランの伝説」ウルフ・スタルク作 アンナ・ヘグルンド絵 菱木晃子訳 (あすなろ書房 2002/2005.9)
スタルクのちょっと不思議な感じの物語。日本ではあまりなじみのないドラゴンを退治した聖ジョージを主人公にしたもの。ドラゴンに向かって剣をふりおろそうとしている聖ジョージの絵は見たことはあるけれど、それとヘグルンドの描く聖人とはなんだか迫力が違う。もっとかよわく、はかなげな感じ。聖人といっているけれど、変哲もない若者が聖人となれたのはどうしてか、そこをスタルク流の想像で物語をつむぎだしています。もともとのこの物語の背景となっている歴史的な像についてはあとがきに詳しく述べられているけれど、それをしらなくても、この静かに心に残るストーリーを堪能することができる。(以上ほそえ)