【児童文学評論】 No.105 2006.09.25
〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>
【絵本】
『プロイ HIV母子感染孤児プロイへの手紙』(会田法行:写真・文 ポプラ社 2006.08 1300円)
会田は前作『被爆者』で、戦後生まれ(1972)としての距離を十分意識しながら、被爆を考え、被爆者とつながり、語っていた。その誠実さに打たれたものだが、今作でもそれは同じだ。被写体であるHIV母子感染孤児プロイといつしか交流が深まり、向き合い、やがて寄り添っても行く様が、ゆっくりと語られていく。そこに下手な「感動」など入り込む余地はない。会田にとってのその幸いな出会いのそばで、「まず大切なことは、よく知ることでした。(略)そして、いちばん必要だったのは、自然体でいることだけでした」という言葉を受け止めること。それだけ。
よいです。(hico)
『ぼくは まほう つかい』(マヤ・アンジェロウ:文 マーガレット・コートニー=クラーク:写真 さくまゆみこ:訳 1996/2006.09 1500円)
コフィ少年を語り手にし、ガーナ、アシャンティ地方を描いた写真絵本。ガーナの暮らしを伝えます。
なんて言うのでしょう、文化への誇りや、日常の愛しさが、ごく自然に伝わってきます。
「べんきょう ばっかりで たいくつしてきたら、ぼくは また まほうを つかう。・・・すわって、めを とじて、こころを ひらく。すると、ほら そこは、にぎやかな おまつりだ。」
もちろん、日本語のリズムの良さもあるんでしょうけど、写真の一枚一枚に、「希望」の匂いがあるんですね。
大人はつい先進国対アフリカで眺めてしまうかもしれないけれど、んなこと関係のない子どもなら、この風景は羨ましいかもね。(hico)
『しろくまさんはどこ?』(ジャン・アレッサンドリーニ:文 ソフィー・クニフケ:絵 野坂悦子:約 ほるぷ出版 2002/2006.08 1300円)
真っ白なこおりの上のしろくまさんは見つからない。でも、背景が虹なら? から始まって、様々な背景の前にしろくまを置いていく。
ただそれだけといえばそれだけですが、「認識」の意味がよくわかるし、そんなことをいわなくても、見えないものが見えてくる楽しさを直球で伝えてくれます。
レベル高い絵本です。(hico)
『やきいもの日』(村上康成:作 徳間書店 2006.09 1500円)
りっちゃんと、れいちゃんがけんかして、別れて、やっぱりそれはさみしくて・・・。
おじいさんが焼いてくれた焼き芋、二人で頬張って・・・。
いや~、画面上に秋色全開。怒濤の物語があるわけでなく、ただただ、ほっこりポカポカ。
「ふたりは、なかなおりのにおいを、はなのおくに いっぱい すいこみました」
いいでしょ。(hico)
『ほっぱじゃないよ ぼくがいる』(姉崎一馬:文・写真 アリス館 2006.09 1400円)
葉っぱたちの写真絵本。って、それだけ?
いやいや、穴が開いた葉っぱたちはまるで顔みたい。様々な表情があります。
姉崎は想像力を働かせて、葉っぱたちの表情を読み取ります。それはいつか、森の命を見つめるような雰囲気になっていきます。
おもしろいな~。
いろんな木の葉っぱを覚えられますよ!
姉崎の「森をあるけば」シリーズが始まります。
楽しみ、楽しみ。(hico)
『ろばのトコちゃん スープをつくる』(ベネディクト・ゲティエ:さく ふしみみさお:やく ほるぷ出版 2001/2006.09 800円)
シリーズももう5作目。トコちゃんの、いかにもの子どもっぷりにシンパシーを抱く子どもは多いでしょう。今作では、おままごこをやるわけですが、スープ用の水におしっこを使うなど、炸裂しとります。(hico)
『ぼくとバブーン まちへのおかいもの』(ベッタ・ウェステラ:作 スザンネ・ディーデレン:絵 野坂悦子:訳 ソニーマガジンズ 2002/2006.08 1200円)
おきにいりのくまのぬいぐるみバブーンとヤンの風景、第2作。
バブーンをつれて、ママと一緒にお買い物にいったのですが、バブーンがいなくなります。果たしてどこに?
日常風景の柔らかさと、子どもにとってのドキドキと、大人に守られる暖かさと、ぬいぐるみのともだちとの楽しい時間と、気持ち良さがあふれています。(hico)
『うたうのだいすき』(ジョアン・アリー・マッケン:文 ル=ホェン・ファム:絵 河野万里子:訳 小峰書店 2004/2006.08 1400円)
朝、少年が歌い出す。「おはよう、おひさま! ぴかぴかのあさ! みんなみんな、さあ、おきよう!」
そこから始まって眠るまで、日常の喜びを少年は歌い出さずにはいられません。
そのなんと活き活きとしたこと!
ワクワク感が心に満ちてくる。(hico)
『うんちのちから』(ホ・ウンミ:ぶん キム・ビョンホ:え しんもとか:やく 主婦と友社 2004/2006.10 1300円)
うんこ物って、それを滑稽に扱うパターンと、うんこはありがたくいいものパターンがあると思いますが、これは後者です。でも、本当に淡々と様々な動物の様々なうんこを描いていくので、身構えることはありません。
画が力強いので、うんこも堂々としていて、そこが好き。
これ、定番絵本になるのでは。(hico)
『36人のパパ』(イアン・リュック・アングルベール:作 ひろはた えりこ:訳 小峰書店 2002/2006.08 1300円)
今夜ローラはパパと二人きり。遊びたいけどパパは疲れているみたい。つまんない・・・。本の部屋に宝箱。開けてみると、ローラが欲しい色々なパパが出てくる!
うれしいような、でもたくさん出てきて困ってしまう。
さみしいローラの気持ちに寄り添って読んでいけます。とんでもないことになるけれど、もちろん最後は幸せな結末です。
物語のバランスもいいし、絵も物語を殺さないように自己主張。出来がいいです!(hico)
『カバ! じゃない、サイ!』(ジェフ。ニューマン:作 青山ミナミ:訳 ほるぷ出版 2006/2006.09 1400円)
飼育員が間違えて、サイの檻にカバの表示。
怒るサイ! 不満なサイ! 落ち込むサイ!
飼育員のうっかりなのですが、サイとしてはそりゃイヤだわ。
サイに同情しつつ、クスクス、笑ってしまいます。というか、サイにシンパシーを感じるから、笑えるんですね。
サイの行動をもっと大げさにして笑わせる手もあるのでしょうが、そうしないで、押さえに押さえているからこその笑い。上質です。(hico)
『りんご ぽいぽい』(デビット・マッキー:作 なかがわちひろ:訳 光村教育図書 2006/2006.08 1400円)
『せかいでいちばんつよい国』や『さんびきの かいじゅう』はどちらかっていうと、寓意っぽかったですが、今作は、連鎖物です。
うさぎのスターはりんご投げの名人。何個ものりんごをぽいぽい投げて回します。が、なんとぶたのルーベンスくんも上手。なんで? ひつじのメリーさんに習ったからだって。あ~、ってことは、ルーベンスくんだけじゃなくメリーさんもできるんだ。メリーさんはいぬのボノさんに習ったそうで、ボノさんは・・・・。
りんご投げを上手にできる友達がどんどん増えていきます。がっかりのスター、でも実は・・・。
どういうオチなのかを楽しみにドキドキと読みすすめ、最後に納得できますよ。
よかったね、スターくん。(hico)
『なつやすみって さいこう!』『いぬが かいたい!』(ブリギッテ・ベニンガー:ぶん シュテファニー・ローエ:え 二宮由紀子:やく BL出版 2005/2006.07 1200円)
幼年物のストーリーのキモの一つはどう「大丈夫」って伝えるかなのですが、この「こねずみミコ」シリーズはいつもうまくそれをやっています。
『なつやすみって さいこう!』は、ミコは母親と海に遊びに行って、ぬいぐるみのミミキを置いてきぼりで泳ぐなんてできないと言うミコに寄り添って、母親が、海にきていたほかの家族の女の子にミミキを預かってもらうようにするところから始まります。大丈夫、あなたの大好きなミミキをなおざりにしませんってことです。『いぬが かいたい!』では、家の事情でいぬが飼えないけれど、別の方法を作者は用意します。
だから読む子どももちゃんと幸せになれるんですね。(hico)
『くまちゃんとおじさん、かわをゆく』(ほりかわ りまこ:ぶんとえ ハッピーオウル社 2006.08 1200円)
パパとママがお出かけ。くまちゃんはおじさんのくまろうさんとお留守番。おじさんはカヌーに乗せてくれます。
一日だけのワクワク冒険。これは、パパではなくおじさんなのがいいんですね。パパだとどうしても成長を促すようになりがちなんですが、おじさんですから、遊びです。それも大人であるおじさんと一緒ですから、くまちゃんだけではできない、ちょっと危ない冒険もできる。
自分のできる範囲から、少しだけはみ出させてくれるおじさん。成長を確認してくれるのはもちろん、帰宅したパパとママです。(hico)
『うんちレストラン』(新開孝:写真 伊地知英信:文 ポプラ社 2006.07 1200円)
うんこを食料とする虫たちの競演だあ!
写真絵本なのですが、みなさんもうもくもくと食べていらっしゃる。生きる糧にしていらっしゃる。
「わー、くさいうんこ食ってら!」とか、そんなことを思うことはできないでしょう。生き物のふつうの日々を写真も文もふつうに描いているから伝わってきます。生命の楽しさが。
でも、子どもはやっぱり、「わー、くさいうんこ食ってら!」と言うでしょうね。それでいい。(hico)
『ハローウィーンってなあに?』(クリステル・デモワナー:作 中島さおり:訳 主婦の友社 1998/2006.10)
時期物です。
ハローウィーンの歴史から、ランタンの作り方、仮装方法まで、これ一冊でOK。知っているようで知らないハローウィーンですが、これですっきりするでしょう。
物語仕立てで歴史を語ってから、ランタンやお菓子の作り方に行って、最後に家の巡り方を示すという見せ方がうまいです。
しかし、やっぱり根付かないな~、ハローウィーン。(hico)
『コケピ』(play set products ポプラ社 2006.09 1000円)
デザイナー集団play set productsのキャラクターであるコケピを主人公にした絵本。
コケピは、こけしなんですが、その家族を巡る物語。っていうほどのこともなく、どこに紛れたか、見つけ絵本です。
もっとも探すとしても本のサイズが大きくないので、大変。また、見つけ物も、何が紛れているかをセリフで説明しているので、「お使いゲー」(お使いゲーム)みたいになってしまい、発見の喜びが半減。捜し物系としては練り込み不足。ポップなノリがいいだけに、おしい。(hico)
『こわいものしらずのジャン』(アラン・メッツ:さく 石津ちひろ:やく 長崎出版 2004/2006.09 1400円)
メッツの濃い絵本3冊目。
こねずみのジャンは怖いものしらず。キリンの首も登るし、ゾウの背中にも飛び降りる。でも、ママは恐がりで心配しすぎてとうとう倒れてしまう。
というのは、きっとジャン少年の願望で、じつは結構怖がりだと思う。
そんな子ども心を描いているのです。(hico)
『こぶたのブルトン あきはうんどうかい』(中川ひろたか:作 市居みか:絵 アリス館 2006.09 1300円)
今回は、ダルマのタカサキさんが大活躍の運動会です。タカサキさん、結構ズルしてますが、勝てばいいのだ!タカサキさん、すごいです。(hico)
『にこにこでんしゃ』(ふくだすぐる 岩崎書店 2006.08 1300円)
昔話の敵味方たちが仲良く同乗する電車。間で止まるのは、ねこがいたから。静かに進むのはそのあたりの家に赤ちゃんが住んでいるから。
ここには優しさが満ちています。優しいでんしゃが、弱い物をないがしろにしない風景は、幼児にとって、いったん世界を全肯定するためには悪くはないでしょう。ただ、昔話のライバルたちを仲良くすることに意味があるかは疑問。パロディならともかく。(hico)
『TSUNAMIをこえて』(アチェ・フォトジャーナリストクラブ:写真 藤谷健:文 ポプラ社 2006.02 1300円)
この写真絵本は、TSUNAMIの時の悲しみや、災害への怒りといったスタンスだけ作られてはいない。変わり果てた風景、遺体、傷ついた子ども達、そして、それでもそこにある日常、民族紛争、笑顔。TSUNAMIで変わったことと同じように、TSUNAMIがあっても変わらないものもそここに見せていく。
言葉が写真の説明をするのではなく、写真と向かい合っているのがいいのだ。(hico)
『マッチ売りの少女』(ハンス・クリスチャン・アンデルセン:作 パツォウスカー:絵 掛川恭子:訳 ほるぷ出版 2006.05 1800円)
昔話や、誰もが知っている古典作品を絵本化した場合、勝負は画家の力のみで行われる。パツォウスカーのこの仕事はすごいですよ。物語を自分の画風でどう表現するかではなく、自分が描きたいシーンや素材だけを切り取り、コラージューにしています。マッチ、少女の目、少女の足、ごちそう、おばあちゃん、神。どの画も強い印象を残します。ですから、この画の背景を知りたくて物語を読むのです。(hico)
『名画のなかの世界9・描かれた遊び』(ウエンディ&ジャック・リチャードソン:編 若桑みどり:日本語版監修 福間加容:訳 2006.02 2500円)
12巻まで予定されている、画集。毎巻、テーマを決めて、21枚の絵に解説を付ける、ただそれだけの企画なのですが、古今東西ありとあらゆる絵の中から選んでくるので、世界がこの一冊の中にギュッと詰まっている感じになります。今作では遊びの世界が、紀元前15世紀ごろのギリシャの絵から、20世紀後半の現代絵画までを集めて展開されています。 こんな展覧会を見たいな。キュレーターを目指す学生の方達必見のシリーズです。(hico)
『エヴァは おねえちゃんのいない国で』(ティエリー・ロブレヒト:文 フィリップ・ホーセンス:絵 野坂悦子:訳 くもん出版 2006.06 1300円)
大好きなおねえちゃんを失ってしまったエヴァの心を丁寧に追っています。
近代以降、私たちは子どもを「死」から遠ざけようとしてきました。けれどそれでは、本当に世界を伝えていることにはなりません。「いつか エヴァの かなしいきもちも いたみでは なくなるでしょう。そのとき かなしみは、なみうつのを やめ こころのなかに そっと、とまるところを みつけるのでしょう」。ごまかしのないメッセージです。(hico)
『ねこのシェリー』(なかえよしを:さく 上野紀子:え 長崎出版 2006.09 1500円)
真っ白なねこのシェリーは、とても大切に育てられているねこ。のらねこに出会います。彼は名前がありませんが、そんな物はない方が自由だといいます。そんなのらねこが、拾われたのですが・・・。
かわいいです。かわいいねこ好きにはたまらないでしょう。(hico)
『ことわざショウ』(中川ひろたか:文 村上康成:絵 ハッピーオウル社 2006.09 1400円)
「いぬも あるけば ぼうに あたる」が「ぼうに あたれば いぬも あたる」となり、「いぬが あたれば ぼうも あやまる」へと変成し、「ぼうも あやまれば いぬも あやまる」とズレていく。
中川の言葉遊びとことわざへのコメントが、「ことわざ」という、固定された意味体系を揺さぶっていく様は、おもしろい。(hico)
『ぜつぼうの濁点』(原田宗典:作 柚木沙弥郎:絵 教育画劇 2006.07 1300円)
ははは。この強引な展開は買い!
そんな物語に負けないように、柚木の画は、いや負けないようにではないな、マイペースで、この世界を見えるようにしていく。翻訳のしようがない、屹立絵本です。(hico)
『Kids Style 6月号』(オリコン・エンタティメント株式会社 780円)
キッズブランド紹介雑誌です。子どもたちが着ている服の値段を見てため息をついてもいいです。今号の特集がおもしろいです。「今どきの『男の子らしさ』『女の子らしさ』はこんなに進化しています!!」。 ボーイッシュな女の子スタイルはまだ想像がつくでしょうが、フェミニンな男の子ファッションは? ジェンダーレスへのバッシングが激しくなってきている昨今ですが、考え方は確実に浸透してきているってことでしょうか。(hico)
『けん太と山どり』(小林しげる:文 藤本四郎:絵 文研出版 2006.09 1200円)
昆虫採集に森に入ったけん太は、けがをした山鳥を見つけ、追いかけるのですが道に迷ってしまい・・・。
子どもと自然の出会いを描いているのですが、さいごにおじいちゃんに説明させてしまっているのが弱いです。
もう一ひねりほしい。(hico)
【創作】
『両親をしつけよう!』(ピート・ジョンソン:作 岡本浜江:訳 文研出版 2003/2006.09 1300円)
お笑いタレントになりたいルーイですが、クラスメイトの親の影響で両親が、ルーイの成績をアップすることに目覚めてしまい、うるさくなり、うんざり。
ルーイが両親をしつけようと、色々画策する姿と、自分の夢に向かってがんばる姿が、「ルーイの日記」で綴られていきます。
子どもの気持ちが見えなくなってしまう親の姿が、滑稽といえば滑稽なのですが、我が身を省みて結構笑えない人もいるのでは? 逆に言えば、子どもの側の親に対する複雑な気持ちが旨く描かれています。(hico)
『ようちゃんの夜』(前川梓 メディアファクトリー 2006.08 1000円)
「私」とクラスメイト、「ようちゃん」との交流を描いた、第一回ダ・ヴィンチ文学賞受賞作品。
いつ死んでもいいように毎日「遺書」を書き換え続ける「ようちゃん」。雨粒には親と子がいるという「ようちゃん」。つばめは自由にあきて日本にやってくるという「ようちゃん」。私は「ようちゃん」に魅せられ、恋人の前で「ようちゃん」のように振る舞うまでになる。
この「ようちゃん」の魅力が物語を引っ張っていくのだが、「私」のあいまいな自己を巡る物語として読むと、とても真っ当な青春小説。
所々「文学」っぽい「比喩」につんのめることもありますが、いい文章を書く人です。(hico)
『Gold Rush!』(シド・フライシュマン:作 金原瑞人・市川由季子:訳 ポプラ社 1963/2006.08 1400円)
時はゴールドラッシュ。一家の金銭的危機を救おうと、ジャックは執事のプレイズワージィーとともにボストンからカリフォルニアへと向かいます。果たして金は見つかるのか? 楽しい楽しいお話です。
様々な事件が起こり解決されますが、プレイズワージィーはいつもジャック少年が自信がつくように振る舞います。このあたりの大人ぶりが、イマドキの作品ではなかなか描けないところです。(hico)
『少年アメリカ』(E・R・フランク:作 冨永星:訳 日本評論社 2006.04 1900円)
母親に遺棄された少年アメリカは育てられた家で、叔父代わりの若い男によって、性的虐待を受け続けます。アイデンティティが失われた、いや最初からそんなものは獲得できなかったアメリカが、ある事件を起こして施設に入ってから、自分自身の人生を歩き始めるまでを、セラピストとの会話(現在)と、それによって喚起された過去とを交差させながら描いていきます。 決して読みやすいとはいえませんが、アメリカと気持ちがシンクロしてくると中断はできません。(hico)
『ミシシッピがくれたもの』(リチャード・ペック:作 斎藤倫子:訳 東京創元社 2006.04 1700円)
一九一六年夏、ミシシッピ河岸の小さな町で私は、祖母のティリーから、思い出話を聞く。南北戦争さなか、南部のニューオリンズからフランス語を話す、都会の香りに包まれた若い女デルフィーンがやってくる。奴隷であろう黒人の女と一緒に。彼らはいったい何者なのか? 人生が歴史とは切り離せないのがよくわかります。そして、生きることは時に苦いけれど、静かで熱い喜びにも満ちていることもまっすぐに伝えてくれから、勇気も出る物語。(hico)
『ひとりぼっちのスーパーヒーロー』(メーティン・リーヴィット:作 神戸万知:訳 すずき出版 2006.04 1400円)
心に病を抱えたママはときどきヘックを置いたまま消えてしまいます。しかも今回は、家賃をため込んだのでアパートを追い出される。でもヘックはどこかに駆け込んで救いを求めようとはしません。そんなことをしたらママと引き離されてしまうから。自分だけがママを助け出すことができるスーパーヒーローなんだ! 守られたい子どもが、ママを守ろうとすることで、つらい時間をやり過ごしていく姿がとてもリアルに伝わってきます。(hico)
『幽霊派遣会社』(エヴァ・イボットソン:作 三辺律子:訳 偕成社 2006.06 1400円)
身よりのない孤児オリヴァーに莫大な遺産が転がり込む。それを奪いたい親戚のおじさんたちは、彼をなき者にしようと企む。一方、幽霊を見る能力を持つ二人の女性は、居場所のない幽霊たちの住む家を探す世話をする会社を作る。そこでおじさんたちは、オリヴァーをショックでおかしくしようと幽霊の派遣を依頼する。
まるで十九世紀の小説のような道具立てに現代風ユーモアをふりかけた良質のエンターテイメントです。(hico)
『わたしの好きな人』(八束澄子 講談社 1300円 2006)
愛おしい初恋物語。 中学生のさやかの家は、小さな鉄工場をしていますが、従業員である年上の杉田に恋をしている。母親は早くに家を出て行ってしまったから、さやかは杉田に育てられたようなものだ。だからいつまでも子ども扱い。物語はさやかのモノローグで展開していくから、その切なさがいっそう伝わってくる。 イマドキの小説に飽た人にお勧め。古くさいって意味じゃないですよ。こういう恋もありなんだというのが、すごく新鮮なのです。(hico)
『キャプテンはつらいぜ』『キャプテンらくにいこうぜ』『キャプテンがんばる』(講談社 1300円) 後藤竜二の『キャプテン』シリーズが再登場です。野球少年小説の基本。未読の方はこの機会にどうぞ!(hico)
思春期と呼ばれる時期は、根拠のない自信と過剰な不安で、ジタバタしていたように思います。親、大人、異性、学校、社会、自分の周りの色んな物事とどう折り合いをつければいいのか、どうつけたいのかよくわからない・・・。 『トラベリング・パンツ』は、そんな日々を思い出させてくれます。 もうすぐ十六歳になるカルメン、レーナ、ブリジット、ティビーは幼なじみ。この夏、四人は生まれて初めて別々に過ごすことになります。カルメンはママと離婚して今はサウスカロライナにいるパパのところへ。レーナはギリシャの祖父母の家。ブリジットはバハ・カリフォルニアのサッカー・キャンプ。そしてティビーは自分の家に残りアルバイト。四人は別れ別れの期間中、一本のジーンズを順番に使おうと決めます。このジーンズ、カルメンが古道具屋で買ったのですが、体のサイズが違う四人、誰が履いてもフィットし、とてもかっこよく見えるのです。その不思議さに、幸せを呼ぶ「魔法のジーンズ」だと信じる四人。 カルメンはパパと二人だけで楽しい夏を過ごすつもりでいたのですが、パパは再婚予定の相手の家族と一緒に暮らしていました。彼女はその事実を受け入れられません。レーナは祖母がコストスという男の子と自分を結びつけようとしたのに猛反発。そのためにコステスとの間がギクシャクし、自分の本当に気持ちがなかなか見えてきません。サッカー・キャンプでブリジットはコーチの大学生エリックとカップルになろうと積極的に動きますが、背伸びをしすぎています。ティビーはちょっと生意気な少女ベイリーと友達になりますが、彼女はガンでやがて死を迎えることとなります。「時間がないのが怖いの」と言うベイリー。あまりに悲しい現実をティビーは直視できません。 それぞれ違いますが、どれも初めての出来事です。どうすればいい? 彼女たちはその問題からいったんは逃げ出すのですが、それでは前には進めません。そんなとき、一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのが魔法のジーンズです。カルメンはパパとその新しい家族への怒りのあまり、家に帰ってきたのですが、パパの結婚式に出る決心がつきます。ティビーは病院で死と戦っているベイリーに逢いにいけるようになります。ベイリーの葬儀の時、彼女は「まだまだ人生を力いっぱいいきなくちゃならない」と心に誓います。レーナは祖母の思惑とは関係なくコストスへの思いを打ち明けることができます。一途な恋が実らず、落ち込んでいたブリジット。彼女が母親を亡くし、父親にかまってもらえず人一倍寂しがり屋なのを知っているレーナはキャンプ地までジーンズを届けます。「ひとりぼっちじゃないって」言うために。ブリジットは思います。「ジーンズは心のささえだったし、みんなの愛のあかしだった」と。 彼女たちの悩みと、それをクリアしていく姿は、同世代の読者の心にフィットするでしょう。魔法のジーンズのようにね。(徳間書店子どもの本通信 2006.09-10)(hico)
『ベラスケスの十字の謎』(エリアセル・カンシーノ:作 宇野和美:訳 徳間書店 1998/2006.05 1400円) ベラスケスの名画『侍女たち』を巡るミステリー仕立ての物語です。って書けば、『ダヴィンチ・コード』便乗本みたいですがそうではありません。 イタリア人のニコラスは子どもの頃、小人を侍従として集めるのが好きなスペイン王フェリーペ四世に送られてしまいます。ベラスケスは、王の依頼で絵を描いているのですが、そのアトリエにいつも出入りしているネルバルは彼に強く影響を与えているようです。 ネルバルは、絵の中にニコラスを描き入れることを薦め、ニコラスはベラスケスのモデル兼召使いになる。 ネルバルとは何者なのか? ついにベラスケスは傑作『侍女たち』を仕上げるのですが、顔色はさえません。やがてニコラスはその秘密を知ることとなる。 この物語は、元々謎の多い『侍女たち』の一つの解釈です。だから、私たちも、想像力を働かせて自分なりの解釈をするのも楽しいでしょう。 最後に絵の解説もあって、親切な作りです。軽い読み物ですが、堪能できますよ。(読売新聞2006.08.27)(hico)【評論】『同じうたをうたい続けて』(神沢利子:文 晶文社 2006.06 1900円) うん、いいタイトルです。『おばあさんになるなんて』もそうだったですが、こんなに真っ直ぐなタイトルなんてそうそうつけられません。 ここには四十年分の言葉が収められています。エッセイあり、創作ありの、筑前煮です。四十年ですから、その間に書き手の考えも感性も変わらないはずはありませんが、どこにも神沢利子がいます。ひ孫さんへの「悲しみもよろこびも存分に生きてほしい」という言葉を、私もいただきます。おおきに。(hico)
あとがき大全(60)
1.前置き
二ヶ月のごぶさたでした(前回は休んでしまって、申し訳ありません)。みなさま、お元気でしょうか。
というわけで、このシリーズ、なんと60回目。ざっと五年間。そういえば、東販週報という取次店の雑誌に連載しているヤングアダルト向けの連載も80回目くらいだ。年を取るはずだと思う。
今年は後半から異様に立てこんできて(あれこれ)、楽しく仕事をしたり、芝居を観たりしているうちに、あと3ヶ月で師走というところまできてしまった。なぜ、師走にこだわるかというと、何冊か〆切があるうえに、ヘミングウェイの『武器よさらば』の〆切もあるからだ。
そう、中高時代、ヘミングウェイはよく読んだなあ。それを将来、自分で訳すことになるなんて、これっぽっちも考えてなかった。あの頃は、レマルクの『凱旋門』『西部戦線異状なし』、そしてヘミングウェイの『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』あたりは生意気な中学生の必読書だったような気がする。『大地』や『風と共に去りぬ』よりワンレベル上の感じ。ただ、フォークナーは別格で、中学生には歯が立たず、高校に入ったら読んでやる、くらいに思っていた。もちろん、ジョイスの『ユリシーズ』やウルフの『ダロウェイ夫人』なんかも読めるはずはなかった。
が、家に文学全集があったので、背文字で覚えているのだ。
当時、うちには筑摩の日本文学大系と世界文学大系と河出書房のグリーン版があった。思い出してみれば、体系本はなんと三段組み。グリーン版も二段組みだった。いうまでもなく字は小さい、というより、微細であった。が、楽々と読めた(あくまでも字に関することであって、内容は別)。年を取ると、こんな字が読めなくなっちゃうんだ、へえ……とか思っていたら、読めなくなってしまった。小さい字がつらい。
こないだ、京橋に試写会を観にその会場にいってみたら、だれもいない。しかたなく受付の人にたずねてみたら、どうやら会場が違ったらしい。試写会状には地図が載っているのだが、これが細かくて、目印になる店の名前なんか、まったく読めない。そのうえ、眼鏡もない。恥を承知で、受付の人に、「ちょっと、これ、読んでもらえます?」と頼んでしまったのだった。
じつは、筑摩の体系本、大学の研究室にあるのだが、もう読むことはない。字が小さいうえに、訳が古すぎる。そろそろ始末するかなと思ってはいるものの、もう読めないものも入っている。そのうち、簡単に入手できるものは捨てていこうかなと思っているところだ。
というのも、光文社から古典の新訳文庫シリーズが出始めたからだ。
トゥルゲーネフの『初恋』、バタイユの『マダム・エドワルダ/目玉の話』、ケストナーの『飛ぶ教室』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟I』など、どれも新しい訳で読める。活字も大きい……というか、まあ、文庫なので、大きいというほどではないが、小さくはないぞ。
一回目配本のなかで、とくに目をひいたのがカントの『永遠平和のために/啓蒙とは何か』だ。カントって、案外、わかるじゃん……という気がしてしまったのだ。それが錯覚であれ勘違いであれ、そんなふうに思わせてくれる翻訳は素晴らしい。
それからもう一冊、ジャンニ・ロダーニの『猫とともに去りぬ』がおもしろい。これは初訳。カルヴィーノの奇想小説を短編にして現代風にして、連ねたような短編集。
お勧めです。
2.あとがき(『ブラックストーン・クロニクル』『イカルス・ガール』『ゴールドラッシュ! ぼくと相棒のすてきな冒険』『かかしと召し使い』『アレクサと秘密の扉』『コンスエラ』文庫版)
二ヶ月分なので、5冊。ただし、ダン・ローズの『コンスエラ』は文庫版。ダン・ローズの『ティモレオン』の解説は江國香織さんが書いてくださった。今回は、歌人の東直子さんが書いてくださった。どちらの解説も、読んでいて、切なくなるほど、いい。ダンも果報者である。ついでに、金原も。
ともあれ、あとがき、どうぞ、楽しんでください。
と、ここまで書いて、メールがきたのでチェックしてみたら、アスペクトの編集の人から連絡で『アレクサと秘密の扉』のあとがきでまちがいがあると、読者からの指摘があったとのこと。
『不思議の国のアリス』の作者が、なんと、C・S・ルイスになっているというのだ! え、まさか!
そう思って、自分の書いたあとがきを読んでみて、一瞬血の気が引いてしまった……というのは嘘で、笑ってしまった。ほんとに、間違ってる。
すいません。
ここでは、間違いのまま載せておきます。
どうぞ、笑ってやってください。
訳者あとがき(『ブラックストーン・クロニクル』)
ジョン・ソール。一九四二年生まれ、アメリカの中堅ミステリ・ホラー作家、といった位置づけだろうか。日本でも人気があって、翻訳はすでに二十冊を超えている。
処女作は『暗い森の少女』(一九七七年)。日本語のタイトル通り、「暗い」(ただし、原作のタイトルは Suffer the Children)。過去に父親が娘を犯して自殺する、という事件があり、その百年後、同じ惨劇が繰り返されるというふうな展開。かなりえぐい描写もあり、そしてジョン・ソールのそれ以後の作品にもよくある「救いのない結末」。
ジョン・ソールはこの手の作品をかなり書いている。もちろん、一方には『マンハッタン狩猟クラブ』という、歯切れのいいミステリ・サスペンスもある。マンハッタンの地下鉄世界に放りこまれた青年が、犯罪者とともに、追っ手をかわして逃げまくるという小説だ。ただ、この作品でも、仲間の犯罪者というのがひと癖あって(男が好きで死姦が好き)、主人公は追っ手から逃げながら、この仲間もかわさなくてはいけない。そして、ひねりのきいたエンディング。
まあ、ある意味、わかりやすすぎるミステリ作家といっていいかもしれない。
が、なぜか前々から気になっていて、あるとき、十冊ほど買いこんで読みふけったことがある。ある種の魔力のようなものがあって、延々とグロテスクな場面や、残酷な描写が続いて、あげくのはてに暗いエンディングといったものも少なくないのだが、不思議な力があって、最後まで読んでしまう、いや、読まされてしまう。
スティーヴン・キングやクライヴ・バーカーといった、斬新なモダン・ホラーではまったくなく、スタンダードな古典的な恐怖小説をそのまま現代に持ってきたような作品を書くのだ。これが逆に、とても新鮮だった。
とにかく力がある。いやおうなく読まされてしまうのだ。圧倒的な力といっていい。
そんな力を持てあましていたジョン・ソールが初めてそれをバランスよく、巧みに使いこなした作品がこの『ブラックストーン・クロニクルズ』ではないかと思う。
モダン・ゴシックともいうべき『暗い森の少女』の特徴を色濃く残しながら(繰り返されるグロテスクな惨劇)、『マンハッタン狩猟クラブ』のテンポのよさとスリル、そしてラブロマンス。そう、悲惨な事件は起こるものの、この作品、救いはあるし、最後はハッピーエンドなのだ。
舞台は田舎町、ブラックストーン。うち捨てられて久しい精神病院に解体の鉄球が打ちこまれるところから物語は始まる。ここは新たに町のセンターとして再建されることになっていたのだ。ところが、いきなり資金繰りがうまくいかなくなって、計画は頓挫。それだけではない。やがて、ブラックストーンの町に災いが少しずつ蔓延し始める。
古い建物に怪しい人影が現れ、そこに隠してあったものを闇に紛れて届けると、その家には狂気があふれ、悲惨な出来事へと発展していく。最初は、人形、次はロケット……不思議なことに、その悲劇は過去に精神病院で起こった事件とどこかつながっているらしい。次の犠牲者は誰か……
この物語の中心人物はオリヴァー・メトカフ。町の新聞『ブラックストーン・クロニクル』の編集長で、今では使われていない古い精神病院の敷地内のコテージに住んでいる。父親はこの精神病院の院長をしていたが、オリヴァーが幼いときに自殺している。町の人々がおびえるなか、オリヴァーはこの謎を解かなくてはならないと感じる。オリヴァーはやがて、レベッカ・モリスンという女の子に心を奪われていく。レベッカは交通事故で両親を亡くし、そのときに軽い知的障害を負い、おばのもとに身を寄せ、図書館で働いている。
不気味な連続事件と、オリヴァーの恋と、オリヴァーの曖昧模糊とした過去、この三つが最後の最後で、ぴったり重なっていくところは見事としかいいようがない。
さて、スティーヴン・キングの『グリーンマイル』にヒントを得て書かれた、この作品、最初は、薄めの本が順次、六冊出版された。これを訳して合本にしたのが、この本。
発表と同時に大ブームになり、ファンクラブはできるし、ネットのサイトもできるし、ゲームまでできるし……といった調子。また、舞台になっているブラックストーンという町についても、あれこれ話題が絶えない。興味のある方は、ぜひネットサーフィンで遊んでみてほしい。
最後になりましたが、編集の深谷路子さんに心からの感謝を!
二〇〇六年五月二十二日
金原瑞人
訳者あとがき(『イカルス・ガール』)
ヘレン・オイェイェミの『イカルス・ガール』(まだ、本になる前の段階のもの)を読み終えたとき、思わず体が震えてしまった。なんともいえない、強烈な終わり方で、しばらく自分にもどれなかった。不思議な小説だった。ファンタジーといえばファンタジーだし、ホラーといえばホラーだし、幻想小説といえば幻想小説だし、ラテンアメリカのマジックリアリズムの作品だといえば、そうかもしれない。
ジャンル分けはどうでもいい。大切なのは、この奇妙でつかまえどころのない小説が、とても魅力的だということだろう。
主人公は八歳の少女ジェス。お母さんはナイジェリア人で、お父さんはイギリス人。ロンドンに住んでいる。俳句を作るのが大好きで、本を読むのも大好き。いつも本を大切にしているけれど、じつは、書き足したり、自分の文章を付け加えたり、もとの文を書きなおしたりする癖がある。とくに『若草物語』と『小公女』はめちゃくちゃに書きかえてある。ただ、戸棚に閉じこもるのも大好きで、ときどき悲鳴をあげる発作に悩まされているし、学校でも問題児扱いされている。
そんなジェスを心配した両親は、一家でナイジェリアに遊びにいくことにした。そしてジェスはそこでティリティリという女の子に出会い、いっしょに遊ぶようになる。ただ、ティリティリは不思議な力を持っているし、ほかの人には見えないらしい。
ジェスはロンドンにもどってきて、元の生活にもどるが、ティリティリに再会する。そして楽しい遊び相手のはずだったティリティリが思いがけない一面を見せるようになって、ジェスに双子の妹がいたことがわかるあたりから、物語は急展開。一気にサスペンス小説のようになっていく。とにかく、いままでにはちょっとなかった新しい作品だ。それは文体にも表れていて、ジェスの気持ちが、あちこちに噴き出している。
しかしなにより印象的なのは、主人公ジェスの心の動きだろう。イギリス人とナイジェリア人の血を引くジェスは、学校でも居心地が悪く、友だちとも先生ともうまくいかないが、それは家庭でも同じだ。両親が自分を思ってくれているのはわかっているけれど、親に本当の気持ちをいえることは少なく、けっきょく自分のほうがひいてしまう。人とのコミュニケーションも苦手で、ひとりで本を読んでいるほうがずっと好きだ。それに加えて、悲鳴の発作。
どこにいても居心地が悪くて落ち着かない、そんなジェスの自分探しの旅が、この作品の中心になっている。いったい、自分はなんなんだろう。どこかに居心地のいい場所があるのだろうか。ジェスはティリティリに悩まされながら、必死にさがそうとする。
そして衝撃のエンディングへ!
このエンディングは、ちょっとわかりづらいかもしれないが、よく読んでみてほしい。切ないけれど、納得できるし、ある意味、ハッピーエンドといえなくもない。おもしろいしめくくりかただと思う。
作者は一九八四年、ナイジェリア生まれ。一九八八年、イギリスに移住、現在はケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジで政治社会科学を学んでいる。エミリー・ディキンソンとチャック・パラニウク(映画「ファイト・クラブ」の原作者。作家)が好きとのこと。
これは作者が十八歳のときの作品らしいが、そんなことはどうでもいい。何歳の人が書いたものであれ、いいものはいいし、素晴らしいものは素晴らしい。どうか、そんなことを気にしないで、この作品にひたってほしい。
最後になりましたが、編集者の福永恵子さん、原文とのつきあわせをしてくださった××××さん(注・ここ本のあとがきにはちゃんと名前が入ってます)、細かい質問にていねいに答えてくださった作者のヘレン・オイェイェミさんに心からの感謝を!
二〇〇六年六月十日 金原瑞人
訳者あとがき(『ゴールドラッシュ! ぼくと相棒のすてきな冒険』)
アメリカのユーモア小説と冒険小説の両方でいちばん有名な作家は、たぶん、マーク・トウェインだろう。
『トム・ソーヤの冒険』や『ハックル・ベリー・フィンの冒険』は、少年を主人公にした、ユーモアたっぷり、スリルとサスペンスもたっぷりの、アドベンチャー・ストーリーだ。もう百三十年ほど昔の作品だけど、いまでも、じゅうぶん、たっぷり、心ゆくまで楽しめる。
いまのアメリカで、そんなマーク・トウェインにいちばん近い作家は、たぶん、シド・フライシュマンだろう。
『真昼のゆうれい』『ジンゴ・ジャンゴの冒険旅行』なんかは、はらはらどきどき、胸わくわくの、むちゃくちゃ楽しい冒険小説だ。もしマーク・トウェインが生きていたら、フライシュマンの肩をたたいて、ウィンクしたと思う。いや、世界の古典冒険小説、『宝島』を書いたイギリスのスティーヴンソンだって、いま生きていたら、「シド・フライシュマン? あいつの冒険小説には、まいったね」というにちがいない。
それからフライシュマンといえば、『マクブルームさんのふしぎな畑』や『マクブルームさんのへんてこ動物園』も有名だ。これはアメリカ人が好きそうなほら話。うまいことだまされて、一エーカーぽっちの畑を買わされたマクブルームさん一家の大活躍が描かれている。爆笑まちがいないし。もしマーク・トウェインが生きていたら、フライシュマンの肩をたたいて、にやっと笑ったと思う。
つまりフライシュマンは、冒険小説やほら話を書かせたら、だれにも負けない人なのだ。そのフライシュマンの書いた「冒険+ほら」小説の決定版がこれ、なのだ!
第一章がまず、「密航者たち」。十二歳の少年ジャックと、山高帽をかぶって黒ラシャの上着を着た執事のプレイズワージィが、ジャガイモのたるから出てくるところから、物語が始まる。
「え? 執事ってなに?」と思う人が多いかもしれない。いまではこんな職業についている人はほとんどいない。しかし昔のヨーロッパやアメリカでは、珍しくなかった。なにをするかというと、大きなお屋敷や、身分の高い人の家で、家政や事務を一手に引きうける。使用人がたくさんいるときには、その指揮、指導をする。いってみれば、使用人頭、といった感じで、ご主人様のために心をつくすというのが基本。
じつはカズオ・イシグロという日系イギリス人作家の『日の名残』という小説があって、この主人公が「執事」。ほう、とことん本気の執事というのは、こういうものなんだということが、よくわかる。ただ、子ども向けの本ではないので、もし興味があったら、高校生くらいになってから読んでみるといい。とてもいい作品なので。
さて、執事のプレイズワージィ(「すばらしい」という意味)が、ご主人であるジャックに付きそって、なぜ豪華帆船に密航したかというと、それは当時、アメリカ西海岸のカリフォルニアにいくためだった。なぜ、カリフォルニアにいこうとしたかというと、金が出たからだ。この本の最初の「はじめに」というところを読んでみてほしい。そう、「ゴールドラッシュ」というやつだ。
プレイズワージィとジャック少年は、あることからお金が必要になって、金をさがしに出発したのだ。そしてそこから、ふたりの大冒険が始まる。驚くほど頭がよくて機転がきいて、すらりと細身なのに、どんなものにもひるまない、クールなプレイズワージィと、元気で正直でまっすぐなジャックの、絶対にありえないけど、なんとなくありそうな、ゆかいな旅を、どうぞ、楽しんでください。
「砂金」について、ちょっと説明を。「砂金」というと、まるで砂のような金だと思う人が多いと思う。しかしそうではなくて、どちらかというと「粒金」といったほうがいい。米粒くらいの大きさのものから、小石くらいの大きさのものまで、いろいろだ。
砂金といえば、日本では佐渡島が有名だが、そこのエピソードをひとつ紹介しておこう。江戸時代、佐渡の金山で働いていた男たちのはきつぶしたわらじを、新品と無料で交換した人がいた。なぜそんなことをしたかというと、使い古したわらじを集めて焼くと、そのあとにわらじにくっついたり、はさまっていた小さな金が残ったからだ。
この本を読んだ人にはわかると思う。世界は広いようでいて、同じようなことを考える人間がたくさんいるらしい。
それから、注意しておきたいことがひとつ。この本のなかで、アメリカ・インディアン(最近は「ネイティヴ・アメリカン」という)や中国人をばかにしたような表現が出てくるんだけど、これは、当時の人々がそんなふうに考えていたわけで、いまはそんなことはない。アメリカはこの小説の時代から百年くらいの間に、暮らし方だけでじゃなくて、考え方もずいぶん変わったのだ。もちろんそのかげには、差別をうけてきた黒人やインディアンや中国人たちの長くて苦しい戦いがあった。そのことは歴史の本で読んでもらえたらと思う。
さて、最後になりましたが、編集の浦野由美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった石田文子さん、すてきなメッセージをくださった、作者のフライシュマンさんに心からの感謝を!
二〇〇六年七月十五日 金原瑞人
訳者あとがき(『かかしと召し使い』)
こないだ児童書の出版に関わっているイギリス人と話をしていたら、この頃大ブームのファンタジーの話になった。いろんな作家や本の名前があがってきてんだけど、その人は最後の最後にこんなことをいった。
「『ハリーポッター』もおもしろいけど、やっぱり読みごたえがあって、大人も夢中になれる最近のファンタジーは『黄金の羅針盤』だなあ」
『黄金の羅針盤』はフィリップ・プルマンが書いた三部作の第一部で、これがすごくおもしろい。子どもむけに書かれたファンタジーなのに、大人も絶対に楽しめる。
そのプルマンが、もう少し年下の子どもたちにむけて書いたのがこの『かかしと召し使い』。『黄金の羅針盤』ほど重厚でもないし、分厚くもないし、長くもないし、深く深く考えさせられるようなところはない。そのかわり、軽やかで、スリムで、短めにまとまっていて、ユーモラスで、おかしいし楽しい。
ある日、カブ頭に麦わら帽子をかぶり、つぎはぎだらけの服を着たかかしに稲妻が落ちて、動きだした。そして自分を作ってくれたおじいさんの言いつけどおりに生きていくことにする。その言いつけはこう。
「自分の仕事をしっかり覚えておくんだぞ。自分のいるべき場所もだ。礼儀正しく、勇ましく、誇りを持て。思いやりを忘れるな。せいいっぱいがんばれ」
こうして、かかしは、困った人をみたら助け、女性には親切に、巣から落ちた小鳥は拾いあげ、盗賊や悪党はこらしめて……と思って、どんどん前へ前へと突き進んでいくけれど、このかかし君、じつはカブほどの脳みそもない(英語では、まぬけな人のことを「カブ頭」とかいってばかにする)。脳みそは、たぶん、豆つぶほどしかないんじゃないか。
だから、やることなすこと、みんな見当はずれで、失敗つづき。ところが、このかかしにはジャックという召し使いがついている。このジャック君、まだまだ若い(というか、幼い)けど、なかなかかしこくて、機転がきく……けど、たまにまちがうこともあるし、逆に、かかしがばかなことをしてしまうけども、それが裏目に出て(じゃなくて、うまいほうに転んで)、うまくいったりすることもある。なんか、変な話だ。
とまあ、このでこぼこコンビは、次々にたいへんな目にあう。山賊のねじろに忍びこんだり、軍隊に入ったり、無人島に流れついたり……そうそう、かかしはとても切ない恋も経験する。そして最後は……もちろん、ハッピーエンド!
いい本です!
読みはじめたとたんに、わくわくしてくるし、途中、はらはらしては笑って、笑ってははらはらして、最後の最後まで楽しいし、読んだあとまで楽しさが残る。それから、ふと、あれこれ考えてしまう。あとがきの最初のところで、「『黄金の羅針盤』ほど深く深く考えさせられるような場面はない」と書いたけど、もしかしたら、このナンセンスな冒険ファンタジーは、『黄金の羅針盤』よりずっと考えさせてくれるかもしれない。そのへんは、読者によってちがうかな。
さて、最後になりましたが、リテラルリンクの奥田知子さん、翻訳協力者の小田原智美さん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さんに心からの感謝を!
二〇〇六年八月二十八日 金原瑞人
訳者あとがき(『アレクサと秘密の扉 エリオン国物語I』)
壁の中!
この発想というか、アイデアが、まず、すごい。
壁といっても、建物の壁じゃない。四つの大きな町を囲み、さらに、それらの町をつなぐ道も囲っている。つまり、中国にある万里の長城なんかよりずっと長い、驚くほど長い壁がひとつの世界を作っている。それも、のしかかってくるようにそびえ立つ壁で、とても外はのぞくことができない。それどころか、壁を越えることなど、まずできない。つまり、閉ざされた世界なのだ。
中心の町はブライドウェル、そこから三方に道がのびていて、それぞれの先にはルーネンバーグ、ラスベリー、ターロックの町がある。
主人公は十二歳の女の子、アレクサ。ラスベリーの町長の娘だ。
さて、幕が開くといきなり、主人公のアレクサが、ずいぶん年寄りの親友ウォーヴォルドの死をまのあたりにする。
ウォーヴォルドは最後にこういう。
「壁の中には、たくさんの秘密が隠されている。そして、壁の外には、さらに多くの秘密がうごめいている……ふたつはまもなく出会うことになる……彼らの言うことはいつでも正しかったのだ」
しかし、そのウォーヴォルドこそ、この恐ろしいほど高く長い壁を作った張本人なのだ。
ウォーヴォルドを殺したのはだれか、ウォーヴォルドがいいたかったことはなにか、「彼ら」とはだれのことなのか、壁はこわすべきなのか、大事に守るべきなのか、そもそも、壁に隠された暗い秘密とはいったい……
謎が謎を呼び、やがて、四つの町すべてをゆるがすような事件へと発展していく。
というふうに紹介すると、とてもこわいファンタジーのような気がするかもしれないけど、そんなことはない。
アレクサが図書館にしかけられた秘密の通路を抜けて、外の、言葉をしゃべる動物たちと知り合って、次々にいろんな冒険にでかけていくところなんか、とても楽しい……けど、ちょっと怖くて……しかし、わくわくする。
こんなふうにして、最後の最後、アレクサが見事にすべてを解決してみせる……が、まだまだ謎は続く。
この作品、じつは「著者あとがき」にあるように、「週に一回、ふたりの娘に聞かせるために作ったお話」だったのだが、それが口こみで次第に広がっていって、そのうち出版社から本になって出て、ベストセラーになってしまった。そしていまのところ、第二部まで出ていて、第三部も近いうちに出るらしい。
そういえば、『不思議な国のアリス』も、C・S・ルイスが、大好きな女の子のために作った物語だった。
さて、最後になりましたが、編集者の野田理絵さん、原文とのつきあわせをしてくださった××××さんに、心からの感謝を!
二〇〇六年六月二十六日 金原瑞人
訳者あとがき(『コンスエラ・文庫版』)
いままで訳してきたなかで個人的に思い入れの大きい一般書がいくつかある。たとえば、ベン・オクリの『満たされぬ道』、ミッチ・カリンの『タイドランド』(『ローズ・イン・タイドランド』というタイトルで映画化・監督はテリー・ギリアム)、ジム・ハリスンの『神の創り忘れたビースト』などなど。どれもひと癖もふた癖もある小説ばかりだ。ひと筋縄でもふた筋縄でもいかない、強者といってもいい。さわやかな青春物や、感動的なヤングアダルト小説も大好きなのだが、強靱でしたたかで、それでいてしなやかな作品も大好きだ。こういった読者を選ぶような、傍若無人で生意気で、すきさえあれば、噛みついてきそうな本たちの魅力は、なににも替えられないものがある。
そういった種類の本を読者に投げつけてくる作家のひとりにダン・ローズがいる。彼の『ティモレオン:センチメンタルジャーニー』を訳し終えたときは、不安でいっぱいだった。この暗くて危険な作品の魅力をいったいどれくらいの読者が受けとめてくれるのか、まったく見当がつかなかったのだ。しかしありがたいことに、出版と同時に、批評家の豊崎由美さんをはじめ多くの方々がほめてくださり、また、「ダヴィンチ」のプラチナ本にも選ばれ、多くの人々に読まれることになった。そのうえ、なんと文庫にもなって、その解説を江國香織さんが書いてくださった。その文章の見事なこと。
「この先百回引っ越しをしても、この先百年生きたとしても、私の本棚には『ティモレオン』が入っていると思う……本棚に『ティモレオン』を一冊所有することによって、私はたしかに世界を所有している。『ティモレオン』一冊分の、圧倒的にして完璧な『世界』を。」で始まるこの解説は、一編の短編小説のような輝きがある。
英訳して作者に送ってあげたいと心から思う……けど、まだ送っていない。
それはともかく、ダン・ローズの二冊目がこの『コンスエラ』。この短編集は、『ティモレオン』より二年ほど前の作品で、原題は Don't Tell Me the Truth about Love 。いかにも、ダン・ローズらしい。ちなみにGoogleで'tell me the truth about love' を検索すると、二千六百件ほどヒットする。まあ、英語ではおなじみのフレーズだ。この頭に 'Don't' をつけるところが、いかにもダン・ローズらしい。「たのむから、やめてくれ」という意味か、「もういいよ」という意味か、「やれやれ」というニュアンスか、それとも……と思ったら、どうぞ、この短編集を。どれもが「愛」についての、「愛」をめぐるものばかりで、どれも主人公は男で、ほとんどがハッピーエンドで終わらない。
愛する女性の腕に抱かれて演奏されることを願う青年、自分を愛しているなら片眼をえぐれと女に迫られる若い恋人、ごみ埋立地に出没する美女をとことん愛してしまった男、若さや肉体や美貌ではなく自分自身を愛してほしいと次々に難題を吹っかけてくる女に翻弄される金持ちの息子……まさに、ほとんど全編、男の受難の物語といっていい。
そしてその受難、苦難が報われるかというと、まあ、読んでもらうしかないが、さすが『ティモレオン』の作者、痛いところばかりをついてくる。心温まる甘ったるいラブストーリーを読みたい方には、絶対にお勧めしないし、お勧めできない。
残酷で、滑稽で、皮肉で、グロテスクで、しかし、切ない愛の物語ばかりがずらりと並んでいる。
アンデルセンではなくグリムの世界を、恐怖とユーモアをまじえて、現代に再現したような短編集とでもいえばいいだろうか。
いってみればバロックの宝石箱。ありきたりの愛の物語に飽き足りない読者のために用意された、いびつな真珠がここにはごろごろころがっている。
ついでながら、ダン・ローズ、幸せな作家で(訳者も幸せなのだが)、日本でさらに三冊目の翻訳、『小さな白い車』も出ている。これまでの二作とちょっと変わった、茶目っ気たっぷりの物語。ダイアナ妃を殺しちゃった、単純で、浅はかで、優しくて、したたかで、手強くて、とてもキュートな女の子ヴェロニカと、彼女をとりまく変な人々が織りなす、ちょっと変でおしゃれな現代の童話だ。
さて、ダン・ローズは寡作な作家なのだが、どうやら Gold という本が出たらしい。早く読まなくちゃ。
最後になりましたが、文庫化にあたって編集の香西章子さんに大変お世話になりました。あと、たまにメールをくださる作者のダン・ローズさんにも心からの感謝を。
二〇〇六年八月一八日
金原瑞人
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児童文学書評2006.9(ほそえさちよ)
○自然のなかで
「くまちゃんとおじさん、かわをゆく」ほりかわりまこぶんとえ(2006.8 ハッピーオウル社)
「はっぱじゃないよ ぼくがいる」姉崎一馬文・写真(2006.9 アリス館)
陽射しも和らぎ、朝夕がほんのり肌寒くなると秋を感じる。日中の外遊びも、穏やかな光の中でいろいろな発見を子どもに与えてくれる季節だ。「くまちゃんとおじさん、かわをゆく」はカヌーにのって初めて出かけた1日を小さな子どもがほんの少しがんばってみる様子とあわせて、鮮やかに描き出している。ゆるゆると川面をすべるカヌーは自転車のような感じかしら。あっと思ったら、ぱっととまれる身軽さも、急なところをがんばる様子もちょっと似ている。おじさんといっしょなら、安心するし、ちょっと背伸びをしていいところを見せたくもなるものだ。自然の中で過ごす気持ちよさとふたりの関係の機微をきちんと絵本の中に溶かしこんでいるのがいい。シンプルな色面で描かれる風景にちょこっと遊びがあって、それを言葉少なに支えるページは広い画面が本当に気持ちがいい。
「はっぱじゃないよ ぼくがいる」は穴のあいた葉っぱばかりが写真にうつっている。葉っぱに二つ、三つ穴があいているだけで、顔のように見えてしまうのはなぜだろう。円に点を三つ、打って、にっこりする幼い子が「おかお~」という。そんな光景が思い出される。見立てを楽しむのは人の特権なのかも。「ふゆめがっしょうだん」は冬芽という季節限定の見立てだったけれど、葉っぱはいつでも見つけられる。いつでも葉っぱは私たちを見てるのだ。この絵本を読んでもらった子は、葉っぱの目を感じずにはいられなくなるはず。そして、きっと葉っぱとお話するように、自分のまわりの風景に心通わせることができるようになるはず。くまちゃんやおじさんのように、自然いっぱいのところに行くもよし、自分の身の回りの、ベランダの葉っぱに心寄せるもよし、小さな子と一緒の目線でいろんなものを見てみたい秋だ。(ほそえ)
○その他の絵本
「アナトールさんのロバ」ロラン・ド・ブリュノフ作 ふしみみさを訳(1963/2006.8 青山出版社)
「あいにいくよ、ボノム」などで知られるブリュノフの絵本。さらりとしたペン画に、オレンジ色のさし色が効いて、洒脱なタッチ。ロバがほしくて市場に出かけるアナトールさんだが、いつもちがう動物にしか出会えず、そのこを買って帰ってくるはめに。やぎ、ひつじ、うし……アナトールさんのうちは動物であふれるのだけれど、どうしてもロバには出会わないのだ。悲しそうなアナトールさんのために、動物たちはひとりひとり、ロバを探しに出かけてしまう。……動物たちの言葉少なな優しさとアナトールさんのこころの動きにしみじみし、ラストはよかったね、と素敵な着地をして見せてくれる。(ほそえ)
「まっくら まっくら」いちかわけいこ文 たかはしかずえ絵 (2006.7 アリス館)
「それはりっぱだ、すてきだね」などで人気のコンビ、三作目。猫を語り手に、ページをめくるごとに真っ暗な場所をみせてくれる。リンゴのはいった箱のなか、ネズミの走る台所、子供達の眠る部屋、そして猫は夜の町へ。ながれるように広がっていく夜の世界は柔らかく、人の暮しの暖かさを伝えてくれるイラストがここちよい。ただ、展開がすんなりしすぎて、ちょこっと驚きがほしかったかも。(ほそえ)
「おしゃべりねこのグリグリグロシャ」パスカル・エステロン作 石津ちひろ作( 1998/2006.7 講談社)
見開きごとに猫の友だちの姿が楽しく愉快に紹介される。ボローニャ児童図書展のラガッツィ賞受賞作だが、タッチはサラ・ファネリが素直になった感じ。あんまり、斬新とは思わなかった。巻末に両面が使えるお面が三枚ついていて、それをかぶって、紹介された動物たちになれるのはおもしろかった。図書館で借りるとこの部分は取り外されていて、何のことやらわからなくなってしまっているのは寂しかった。(ほそえ)
「ねたふり」小泉るみ子作・絵 (2006.7 ポプラ社)
作家の子どもの頃の思い出のシーンからつむぎだされる絵本。もう三作目かしら。北海道の夏は野菜農家の収穫の真っ最中。夏休みだというのに、毎日毎日畑仕事の手伝いで、いやになってしまっている女の子。お昼ごはんのあと、ちょっと横になってねたふりをして、午後の仕事をさぼってしまう。おやつを食べる皆の声、納屋の屋根裏、夕焼けの畑、夕御飯の気まずさやきょうだいとの夜のひとあそび……。女の子の心の揺れがうまく落ち着いていく様が巧みに構成されている。お父さんに抱えられて蚊屋ヘ連れていかれるラストの幸せそうなこと。(ほそえ)
「タツノオトシゴ ひっそりくらすなぞの魚」クリス・バターワース文 ジョン・ローレンス絵 佐藤見果夢訳 (2006/2006.7 評論社)
ローレンスのウッドカット(木版)の見事さにまいってしまう。木目をいかした水の表現、海中のうねるような潮の流れ、海草の生き生きとした様子。奇妙で愛らしいタツノオトシゴの生態の不思議をわかりやすく、興味深く伝えてくれる絵本。(ほそえ)
「うたうのだいすき」ジョアン・アーリー・マッケン文 ル=ホエン・ファム絵 河野万里子訳 (2004/2006.8 小峰書店)
ちいさな男の子が目にするもの、感じるものをことほぎ、歌にしてみせてくれる。高らかに歌う小鳥から眠りについた小さな妹まで。まいにちのきらめきをリズミカルな言葉に乗せて、ほらね、と見せてくれるのがうれしい。全体に調子よく、繰り返しをうまく使って訳されているので、男の子のそれぞれの歌は埋もれてしまったかなあとおもう。(ほそえ)
「36人のパパ」イアン・リュック・アングルベール作 ひろはたえりこ訳 (2002/2006.8 小峰書店)
パパに遊んでほしいのに、今はダメと断られてしまう女の子。本を読んだらどうだいといわれ、魔法の本を見つけてしまう。魔法でたくさんのパパを出して、いろいろ楽しく過ごすのだが、やがて疲れて、うるさくなってしまい……。軽いタッチのかわいいイラスト、ラストの読者への目配せ、なかなか楽しい作家の初邦訳。オチはもう一押し欲しいような。(ほそえ)
「きみがそばにいてくれたら~トゥートとパドル」ホリー・ホビー作 二宮由紀子訳(2005/2006.7 BL出版)
ボルネオに冒険に出かけたトゥートから葉書がやってきます。それを待つのはパドルとオパールちゃん。葉書の文面と待つパドルたちの様子を交互に描き、冒険をうらやましく思う気持ちをつのらせるのですが、帰ってきたトゥートを見てびっくり。全身紫色になっちゃってる! もとに戻すというきのこをさがすパドルとオパール。近所の森をさがしてみると、きのこも珍しい花まで見つかって、冒険ってこんなとこにもあるじゃないというオチがかわいい。(ほそえ)
「アブアアとアブブブ」長新太(1976/2006.6 ビリケン出版)
以前、童心社で刊行されていた絵本の復刊。アブの兄弟が紙を持って、動物たちの顔の前にたらす。ページをめくると、動物の顔があらわれて、アブたちは飛んでいってしまう。パラッ、クルクル、ブーンってなかんじ。ふつうだと、だ~れだ?○○だね、なんて、読者に呼び掛けてしまうのだろうけれど、この作家はそんなことしない。アブアアとアブブブは、自分達のためだけにやっているのだもの。自分がたのしんだり、こころがすーっとしたりしたいから、忙しく飛び回っているのだもの。出てくる動物がだんだん小さくなったり、いないいないばあ的な展開は子どもが喜びそうな感じなのだが、こういう、ぼくらはぼくらだからね、という語り口が大人っぽいなあと思う。そのギャップが描いていておもしろかったのではないかな。初版より、現在、手にしたほうがこのハードボイルドな兄弟の営みがすんなり笑いへとつながるのではないか。(ほそえ)
「ベンジーとはずかしがりやのフィフィ」マーガレット・ブロイ・グレアム作 わたなべてつた訳(1988/2006.8 アリス館)
子犬のベンジーシリーズの2作目。ほかにもこのベンジーを主人公にした絵本は何冊かあり、以前、福音館から「ベンジーのふねのたび」が出されていた。今回、ベンジーはお隣の犬フィフィと一緒に、犬のコンテストに出かけます。おくびょうなフィフィは、なれない場所に連れてこられ、ジョーンズさんもベンジーもいなくなってしまったと思い込んで、パニックになります。それをベンジーとベンジーの友だちの犬たちが助け、みんな、仲良くなる幸せなラスト。かわいらしく表情豊かな犬たちや心やさしい人びとを暖かく描くイラストがいい。(ほそえ)
「いぬがかいた~い!」ボブ・グラハム作 木坂 涼訳(2001/2006.6 評論社)
飼い猫を看取って半年の家族。ケイトは一人でベッドに寝ているとちょっぴり不安。だから、「いぬがかいた~い」とパパやママにいいました。家族は犬救済センターにでかけ、希望とぴったりの子犬を見つけます。つれて帰ろうとしたそのとき、もう一匹の犬と目があってしまうのです。ケイトの家族は……。さらさらとペンで描かれるパパやママは、鼻にまでピアスをして、バラのいれずみをしてるようなロックな人たち。だからこそ、ハートと行動はダイレクトにつながっていて、ケイトは幸せな子だなあと思います。ペットを飼うという喜びと心意気、責任をさりげなくみせてくれているのがすてき。(ほそえ)
「雲をみようよ」トミー・デ・パオラ作 福本友美子訳 (1975/2006.7 光村教育図書)
パオラには「まほうつかいのノナばあさん」のような民話、伝説を描いた絵本、自伝的な絵本、そして「ポップコーンをつくろうよ」や「ねこねこ」のような知識絵本がある。本作は知識絵本。雲のもともとを科学的に説明したり、いろんな種類の雲を印象的な形容で説明したり、雲に関する伝説や昔話を紹介したり、盛り沢山。コマ割りや見開きなど、伝える内容に合わせ、自在に変えているのが、楽しく、わかりやすい。(ほそえ)
「あかりをけして」アーサー・ガイサート作 久美沙織訳 (2005/2006.8 BL出版)
おなじみ、ガイサートの子ブタの絵本。8時に灯りを消しなさいといわれた子ブタ。でも、ぱちっとスイッチをけして、すぐまっくらになってしまうのはいやだと自分で仕掛けをつくった。全部で29の工程を経て、スタンドのスイッチを消すだけのからくり。はさみやドミノ、ほうき、三輪車など身近なものばかりを使って、<ピタゴラスイッチ>的な装置をつくる。ページをめくるたびに、それぞれの工程を読者は追体験する。それはなんとも不思議な感じ。きっと子ブタもベッドのなかで一緒にそれを感じているのだろう。それゆえ、灯りの消える頃には、すうすう寝息を立てているんだろうな。おもしろいねえ。(ほそえ)
「ママに、あかちゃんができたの!」ケス・グレイ文 サラ・ネイラー絵 もとしたいづみ訳(2003/2006.6 講談社)
1ヵ月から10ヶ月、お誕生までをママの様子とお腹のなかの赤ちゃんの様子や大きさと合わせて見せてくれる絵本。ページがお誕生にむけてどんどん大きくなっていく仕掛けになっているのがおもしろい。知識絵本ぽくなくて、いろんな期待を名前に込めて考えるパパのセリフもおもしろい。(ほそえ)
「みつばちバジーちゃん」やまだうたこぶんとえ (2006.10 偕成社)
みつばちのバジーちゃんとてんとうむしのコティーくんは大の仲良し。いっしょに花の蜜を飲んだり、花粉を食べたりとあそびます。遊び疲れて、お腹もいっぱいになって、花のベッドに休んでいたら……。目覚めると人間のお家にいたバジーちゃん。お裁縫の道具やリボンを見つけて、遊びます。人間に見つからないように隠れるバジーちゃんを絵の中から探すお楽しみが、物語の単純さに彩りを添えています。人の表情がちょっと固いのが気にかかるけど、バジーちゃんをはじめ、小さなものたちは愛らしい。(ほそえ)
「ちょっと まって ねるまえに」竹下文子さく 鈴木まもるえ (2006.9 ポプラ社)
子猫のきょうだいが寝るまでにしなくちゃいけないことのかずかず。はみがきして、えほんをよんでもらって
ペットにおやすみいって、おほしさまにあしたのてんきをきいて、おもちゃもねかしつけて……といそがしい。でも、それらが全部すんでもねむりたくないのが子どもです。お約束な展開けれど、かわいいし、リズミカルだし、よみやすい。(ほそえ)
「びくびくビリー」アンソニー・ブラウンさく 灰島かり訳 (2006/2006.9 評論社)
夜ひとりで寝るのが怖いビリー。ちょっとしたものがちがって見えて、心配のタネになってしまい、どんどん悪いことを想像しちゃう。考えすぎだよってパパやママはいうけれど、しょうがないじゃん。そんなビリーを受け止めて、いい方法を教えてくれたのがおばあちゃん。小さな人形をたくさん渡して、「この子たちに心配事を打ち明けて、まくらの下に入れておやすみ」というのだ。それで、ビリーはよく眠れるようになりました。とは終わらずに、もう一つオチがあるのがブラウン流。でも、びくびくしなくなったラストにほっとするはず。アンソニー・ブラウンにしてはかわいくてやさしいお話。でも、子どものびくびくをそのまんまテーマにしてしまう直栽さがこの作家の本領だ。(ほそえ)
「りんごぽいぽい」デビッド・マッキ-作 なかがわちひろ訳 (2006/2006.8 光村教育図書)
リンゴを4つ、お手玉のようにポイポイまわして得意になっていたうさぎのスター。でも、そこへやってきたぶたも簡単にできてしまいます。自分だけだと思っていたのに、みんな誰かに教わってできるようになったんだって……。積み上げ話のように、どんどん動物たちが増えていき、ポイポイを教えてくれた先生の先生の先生をたどっていくと、最後はうさぎのスターがきつねに教えたのが最初だったというのがおもしろい。「あなたは誰に教わったの」ときかれ、自分で工夫してできるようになったと言うスター。みんなの賞賛をあびます。自分だけの特別なものじゃなくても、みんなで一緒にできるようになって、うれしいやと思えたというオチ。この賞賛があったからこそかしら、どうかしら?(ほそえ)
「ルリユールおじさん」いせひでこ作 (2006.9 理論社)
いせひでこの本は、いつも出会ってしまったものを形にせずにはいられないという感じがする。性急さではなく、確信的にという感じ。これもまた、旅の途中で出会ったアルチザンの矜持に魅せられて、工房に通いつめるうちにできあがったものという。ルリユール、製本技術と思っていた。手仕事でなされる特別な製本。おじさんは「もういちどつなげる」という意味だと教えてくれる。お気に入りの植物図鑑がバラバラになってしまった少女。どうしたらもとのようになるのかと聞いてまわる。本の半分くらいまでは、少女の姿が左ページに、おじさんの姿が右ページに描かれ、重ならない。それが工房で一緒になる。ここから一つの流れになる。ふたりは本を間に同じ時間を過ごし、工程を少女にも読者に見せてくれる。少女が工房をさったあと、おじさんは過ぎさった時間と向かい合いながら作業をする。そして、できあがった本をもった少女の時間は研究者となった今へとつながる。1冊の本がふたりの時間をつなぎ、未来へと流れていくのだろう。少女がいなくなっても、この少女の名前を持った本は壊れずに存在し、誰かに伝えられる。それが書物というものなのだ、と作家はいう。(ほそえ)
「まってる」森山 京文 渡辺洋二絵 (2006.9 偕成社)
まってるのはぶたくん。みちでばったり、うさぎくんとであって、お話しようと木の陰に座った時、うさぎくんは、「まってて。ぼく、畑の水やりを忘れてた」といって、いったん家に帰ってしまいました。そのあとのぶたくんの様子とうさぎくんの様子が、交互に語られます。ぶたくんは広い画面の中でひとり、見たり、感じたり、耳をすましたり、ながめたりしています。うさぎくんがいっしょにいたらなあと思いながら。うさぎくんのところにはくまくんやきつねくんが遊びにきていて、音楽に合わせて踊ったり、料理をしたり、トランプをしたり……。みんなが帰って、やっとぶたくんのことを思い出し、大きな木のところまで駆けていくうさぎくん。一緒に帰るふたりのシーンでぶたくんの「まっててよかった」というひとことがとても深みがある。今までの時間、気持ちをひっくるめて、そういえるぶたくんの素敵なこと。思い出して駆けてくるうさぎくんのかわいらしいこと。ページをめくるごとに、あたたかなレモン色からだんだんと赤みがさし、夕暮れの星の出てくる空までつながって描かれる陽の光、空気のとらえ方の確かなこと。静かなたっぷりとした絵本。(ほそえ)
「サーカス」たかべせいいち (2006.9 講談社)
ブンチャカの少し物悲しいようなサーカスの楽の音に合わせ、大男やピエロ箱男、さかなおとこ、空気女、へび女が出てきます。ラストはおなじみ、大興奮の空中ブランコ。ある年代にとってはおなじみのサーカスのイメージが、今の子には反対に新鮮なのかもしれません。こんなレトロで大らかなサーカスは、実際に目にすることは難しいかな。(ほそえ)
「ゆうかんなミミと大きなクマさん」アンジェラ・マカリスター文 ティファニー・ビーク絵 おがわひとみ訳 (2004/2006.9 評論社)
伸びやかなやさしい画風で人気のビークの絵本。晩秋から春への森の美しい変化や、小さな動物たちの愛らしさが存分に楽しめる。ミミは小さなうさぎ。女の子のポケットに入っていたのに、森の中で落ちてしまい、おいてきぼりのひとりぼっちになってしまいます。大きな森の中に小さなミミ。そこで出会った、大きなクマさん。冬眠前の眠い眠い時期なのに、ミミをお家までおくってくれるというのです。途中、クマさんが眠りこまないようにミミは、いろんな歌を歌いました……。帰りついたミミの想像通り、クマさんは森の中で眠りこんでしまい、森の動物たちの機転で救われるラストがあたたかい。(ほそえ)
「車りんのウィリー」エリック・チェン作 みはらいずみ訳(2005/2006.8 コンセル)
公園のオブジェとして、クルクル回っているウィリーは、公園の人気者。子どもや小鳥に親しまれ、夜はお月様に語りかける毎日。ある日、美術館に飾られるためにトラックにのせられた時、ウィリーはころころ逃げ出して、もともとの自分を取り戻しました……。台湾出身の画家の絵本。車輪が主人公なのは珍しい。同系色の色面が重ね合わせ、組み合わせられてできる町や人の姿。独特の画風は一度見ただけで忘れない。(ほそえ)
「しろくまさんはどこ?」ジャン・アレッサンドリーニ文 ソフィー・クニフケ絵 野坂悦子訳 (2002/2006.8 ほるぷ出版)
グラフィカルなかくれんぼ絵本。白い画面(白い氷の地面)にたつしろくまさんは、背景と同じだから真っ白で見えないの。影だけ見えたり、にじの前や赤い家の前に立つと見えてくるしろくまさん。あたりまえなんだけれど、なんだか不思議。背景に色がつくと見えてくる様子をカラフルなイラストとやさしい語り掛けの言葉で楽しめます。(ほそえ)
「ぼくはまほうつかい」マヤ・アンジェロウ文 マーガレット・コートニー=クラーク写真 さくまゆみこ訳(1996/2006.9 アートン)
アメリカ大統領の就任式で詩を朗読したアフリカ系女性詩人としても有名なマヤ・アンジェロウはたくさんの絵本をつくっている。バスキアの絵に詩をつけた絵本もあれば、小さな子どものための詩の絵本など、幅広い年齢層にむけて。本作は自身と関係の深いガーナの少年を主人公に、暮しぶりや町の様子などを写したコートニー=クラークの写真に詩をつけたもの。伝統的な仕事、建物、おまつり、と色溢れる写真がたくさんおさめられているが、何度もくり返される<目をとじてこころひらく>というフレーズが印象的。このセリフが、主人公をいろんな場所に連れていってくれると共に、読者に心をひらくということの軽やかさ、親しみ深さを教えてくれる。(ほそえ)
「ねむいねむいおはなし」ユリ・シュルヴィッツさく さくまゆみこやく (2006/2006.9 あすなろ書房)
お家も木もベッドもおもちゃも壁の絵もみんな、眠い眠いと目をつぶっています。そこへ楽しいメロディーが流れてくると、お皿もいすも壁の絵もみんな起きだし踊り出し、真夜中のカーニバル。でも、メロディーが過ぎ去るとまた、ねむいねむいみんなに……。ねむいねむいとくりかえされ、部屋の中のものたちが紹介されていく様は、ワイズブラウンの「おやすみなさい おつきさま」を思わせ、お皿が踊り出すところはマザーグースを思い出させます。今まで出されたおやすみなさいの詩や絵本へのシュルヴィッツ流のリコメンドかな。(ほそえ)
「まるでてんで すみません」佐野洋子文 長新太絵 (1985/2006.9 偕成社)
なんとも人をくったようなタイトルですが、まるや点や線や四角や三角が主人公になったお話が4話入っています。まるはころころころがって、まわりをとんちゃくしないはねっかえりだし、点はばらけたり、ならんだり。形が性格を規定するというところありますね。それをそのまま、お話に組み込んでいるのがおもしろい。色紙を切った形に目鼻がつくだけでこんなに表情豊かなキャラクターにしてしまう画家の楽しげな様子もいい。以前の版は、縦に細長い変わった版型で、2冊に別れていたような記憶が。今回の版はその時の印象とずいぶん変わってしまいびっくりしました。手に入りにくい絵本だったので、復刊はうれしいのだけれど。(ほそえ)
「いわたくんちのおばあちゃん」天野夏美作 はまのゆか絵 (2006.8 主婦の友社)
広島の原爆の体験をかたり伝えようと活動をしている中から生まれた絵本。岩田君のおばあちゃんはぜったい家族と一緒に写真をとりません。それはなぜか。平和学習の時間におばあちゃんであるちづこさんの話を岩田君のおかあさんがしてくれた話を絵本にしています。疎開する前にと家族みんなで写真をとった日からいくらもたたないうち、疎開する前に原爆がおちました。ちづこさんがくずれた工場からはい出して家に帰ったとき、家族の他の人はみな亡くなっていました。そこへ写真館のおじさんが渡してくれたのがあの家族の写真。それから60数年。かたり伝えるその話は昔の話ではないのだ、未来の話になるかもしれない、と著者たちはいう。現代の子どもに届く言葉や絵で、これだけは伝えたいという思いでつくられた絵本。(ほそえ)
「うんちのちから」ホ・ウンミ文 キム・ビョンホ絵 しん もとか訳(2004/2006.10 主婦の友社)
うんちの写真絵本などたくさんでているが、これは韓国でつくられた科学絵本。みみずのうんちやかたつむりのうんちなど、いろんな生き物のうんちを大きさ、すんでいる場所、食べているもので違いを紹介し、うんちが自然のサイクルの大事なところを担っていることを教えてくれる。(ほそえ)
「ハロウィーンってなあに?」クリステル・デモワノー作 中島さおり訳 (1998/2006.10 主婦の友社)
小さな魔法使いの女の子がおばあちゃんに「ハロウィーンてなあに?」とたずねます。おばあちゃんはハロウィーンの始まりや、どうしてカボチャのランタンを飾るのかなど教えてくれる。ランタンやカボチャのパイの作り方、おばけの服装やかざりものまでのHOW TOページも。お話仕立てにしてあるのがあまりない感じ。(ほそえ)
「ブリキの音符」片山令子文 ささめやゆき絵 (1994/2006.10 アートン)
大判で静かであたたかな詩画集。大きな絵の中にひっそりと文字がたたずむ。絵の中に入り込み、小さな文字を目で追うと、過ぎ去った、でも確かにそこにいたと思える光景が心にうかぶ。それは本の中の大きな絵とはまたちがった私だけの光景。詩を読む楽しみは、文字の連なりの先に、自分だけの絵を見ること。この詩画集でうたわれるのは、呼吸であったり、夢であったり、水であったり、雲であったり、小鳥の声であったり……。互いに受け渡され、交換される、大切なもの。ひとりでいることと、共に在ることを同時にうたう。すっきりとした力強さまで感じる。(ほそえ)
「アフガニスタン山の学校の子どもたち」長倉洋海 写真・文 (2006.9 偕成社)
戦争の続くあいだから何度も訪れ、見つめ続ける写真家が支援する山あいの学校。そこで過ごす子どもたちの様子や暮しをまとめた写真集。石のごろごろした山道を駆けて学校へと通う姿。通学前に家の仕事を一通りやってから、間に合いますようにと駆けてくるのだという。つましい生活ながら、元気に目をキラキラさせて学校にやってきて、友だちをじゃれたり、勉強したり……。明るさや真剣さばかりに目がいっていまうが、巻末の文章からはこの地の厳しい現実と戦争が終わったとはいえ、まだまだ足りないこの国の復興の様子が伝わってくる。(ほそえ)
「ことわざショウ」中川ひろたか文 村上康成絵 (2006.9 ハッピーオウル社)
雑誌「ほっぺ」で連載されていたことわざを絵解きしたものを集めて1冊に。絵解きといっても、このコンビにかかれば、ことわざそのまま展開していくわけではなく、棒にぶつかった犬は、棒と友だちになったり、こうぼうさんはフサオキツネザルのしっぽを筆にしてしまう。ことわざの説明+コメントが、なんともユーモラスでちょっと脱力系なのがこの作家らしい。気軽に、言葉で遊ぶ気持ちが楽しくておもしろい。(ほそえ)
○読み物、他
「山のタンタラばあさん」安房直子作 出久根 育絵 (1981/2006.10 小学館)
安房作品がカラー挿絵を得て単行本化。本書はタンタラばあさんが森の動物や木々と暮す毎日を小さな物語にしたためた4話を1冊に。大判でオールカラーの挿絵のなか、タンタラばあさんは小さなおばあさんにえがかれる。小鳥くらいの大きさだろうか。そのため、自然が大きく見えるのだし、おばあさんの力が大きく豊かに見えるようになっている。画家は木々や葉のそよぎや影をたっぷりと描き、動物たちの生き生きとした姿をしっかりと捕らえる。画面とテキストの組みが心地よく考えられ、リズムを壊さないように工夫されている。短編連作というかたちがうまくはまったといえるだろう。何度も眺めたり、読んだりしたくなる、幸せな童話。(ほそえ)
「カボちゃんのうんどうかい」高山栄子さく 武田美穂え (2006.8 理論社)
ドキドキの1年生のかぼちゃん。初めての運動会です。赤組、白組と別れて競争するのだけれど、親友のソラオくんとはちがう組になってしまって……。仲良しなのに敵同士。ちょっとした行き違いでけんかみたいになってしまい、嫌な気持ちになったりしたけど、やっぱり友だちは組がちがっても応援したい! 今思い返すと、なんてことないんだけど、組がちがうからってからかわれたり、意地をはったりということあったなあ。目の前の子どもを見ても、運動会にむけてヒートアップする気持ち、わかるわかる。それを、元気に形にしている。(ほそえ)
「まんまるきつね」川島えつこ作 スドウピウ絵 (2006.9 ポプラ社)
新人作家のデビュー作。私にだけ見える小さなキツネ。ポケットの中にいて、いつでもどこでもいっしょにいる。両親が離婚して生活が変わってしまった少女と秘密の友だちのお話。子どもが自分だけの秘密の友だちを見つけるのは、自分があまり満たされていない時。マフラーをまいたうさぎの「アルド」がやってくるのは、親がけんかしている時や、自分が友だちから仲間はずれになってしまう時だったし、子どもの文学には、そういう話はたくさんある。だからといって、本書の魅力が薄れるわけではない。青いキツネ火がちろちろするように、変わってしまった生活に置き去りにされた少女の心の揺れが丁寧に繊細に描かれる。それに寄り添う挿画の力や小さな自然や少女のクラスメイトの描写を得て、あるトーンをしっかりと持った作品として成り立っている。親たちの描かれ方が少し物足りないような気もするが、それがこの子たちの生きる世界(現実)なのであろうとも思える。別れた父親と同じような不思議を経験して、秘密の友だちキツネが親のもとに戻ったとき、少女はまだ納得していなかったのだろう。高熱で倒れ、夢の中でキツネと遊ぶ。その異界での時間がゆっくりと少女の殻を溶かしていったのだとわかるラストが清々しい。穏やかで詩的な文章、五感をゆったりと使った描写、心のひだをきちんと見つめて描こうとする姿勢。それはこの作品の美点だと思う。メルヘンのもつ残酷さまで捕まえられるようなしたたかさがほしいけれど。(ほそえ)
「戦争をくぐりぬけたおさるのジョージ~作者レイ夫妻の長い旅」ルイーズ・ボーデン文 アラン・ドラモンド絵 福本友美子訳 (2005/2006.7岩波書店)
おさるのジョージの生みの親、レイ夫妻がドイツにうまれたユダヤ人としてどのようにして、アメリカにわたって「ジョージ」の絵本を刊行するようになったか、ということを年を追って描き出している。夫妻の道行きの様子は残された手帖や手紙から類推され、夫妻のたどった道を作者も同様にたどる旅をして、ふたりの姿を血肉化している。(ほそえ)
「子どもの本 黄金時代の挿絵画家たち」
リチャード・ダルビー著 吉田新一・宮坂希美江 (1991/2006,8 西村書店)
絵本作家について紹介される本は今までにも刊行されていたが、子どもの本の挿絵画家をこれほどまでに網羅して、ひとりひとりについて書かれたものはなかったのではないか。大判の版を生かして挿絵やカラーの挿画を贅沢に配した本になっている。ダルビーの解説はまずイギリスで興隆した子ども向けの挿絵本のもとになる画家をクルックシャンクとみなしている。細かなペンのタッチに描きこまれた人びとの表情や町の様子。新聞などを埋めたカリカチュアリストたちのエッチングの線描画から、それ以降の豊かなイギリス子どもの本の流れを見て、絵本好きにもなじみのあるエドワード・リア、ウォルター・クレイン、グリーナウェイ、コルデコットと続ける。それ以降もこんなにもたくさんの画家が腕をふるっていたのかとびっくりする。ダルビーはイギリス子どもの本の挿絵の黄金時代をアーサー・ラッカムの死で終焉と見ているが、1920年代後半からはアメリカの絵本美術の黄金時代をむかえたとのべる訳者のあとがきは以降の英米の子どもの本の流れを端的に評しており示唆に富む。(ほそえ)
「ひとりぼっちのねこ」ロザリンド・ウェルチャー作 長友恵子訳 (1986/2006.8 徳間書店)
女の子の心情や小さな子の心のつぶやきを単色の絵と詩的な文で表現した絵本を数多くものしている作家。いわゆるメッセージ・ブック、ギフト・ブックとしてアメリカではコレクター・アイテムとなっているものが多い。その中でも、本書は作家自身の実体験がお話のもととなった、物語的な要素の強い絵童話となっている。
夏のあいだ、別荘でかわれていた猫は、家族と一緒に町に連れていってもらえなかった。置き去りに去れた子猫の目線で描かれる悲しみ、おそれ、孤独がシンプルな絵と言葉で綴られる。自分の居場所を見つけるためにさまよい、寒い中でも人の気配のある森の中の一軒家をやっとの思いで見つけると、そこにはすでに大きな猫が飼われていたのだが……。ああ、よかったと安堵するラストがすてき。作家は家にやってきた子猫のそれまでを想像し、追体験するかのようにこの物語を描いたのだという。(ほそえ)
「おばけのジョージ ともだちをたすける」ロバート・ブライト作、絵 なかがわちひろ訳 (1956/2006.9 徳間書店)
ホイッティカーさんの屋根裏部屋にすむおばけのジョージのお話。どのページにも絵のある小さい子に手に取りやすい本。今回はホイッティカーさんとねこのハ-マンが大きな町に旅行に行くところからはじまります。ジョージもふくろうのオリバーもこっそりお供して、初めての町にどきどきです。ところがオリバーがホテルで見つかり動物園に連れていかれてしまって……。ジョージとハーマンの活躍で、やっと元通り。無事に帰って、めでたしめでたし。鉛筆のタッチが親しみやすく、夜の風景もあたたかみがあります。他愛のないお話だけれど、だからこそ、小さな子には冒険がたのしめるのです。(ほそえ)
「朝のひかりを待てるから」アンジェラ・ジョンソン作 池上小湖訳 (2006.9 小峰書店)
「天使のすむ町」でヘヴンにやってきた年若い父親ボビーとフェザーの、それまでの物語。前作を読んだ子どもたちから、ボビーのことをもっと知りたいといわれ、書かれたという。本作でも過去と現在が交互に描かれるうちに、フェザーの母親のこと、ボビーがなぜひとりでフェザーを育てるようになったのかということがだんだん読者にわかるようになっている。この作家の特徴である、詩的なつぶやきのような一人称の文章。フェザーとともに生きていこうと心きめるまでの、ストレスに揺れる心持ち。身につまされるような感じが痛々しいけれど、たまらなくはない。なぜなら、この作家の描く人びとは、いつも、今自分にできる最上のものを差し出したいと思っているから。(ほそえ)
「モコモコちゃん家出をする」角野栄子文 にしかわおさむ絵(1992/2006.9クレヨンハウス)
動物園にすむ羊のモコモコちゃんはつまらない。みんな、他の珍しい動物ばかり見て、羊には目もくれないのだ。だから、家出して、毛糸やさんのショーウィンドーにすむことにしちゃったの。みんなは珍しがってみてくれるのだけれど……。注目されたいモコモコちゃんの気持ちをきちんと受け止めてくれた延長戦生の奥さんのアイデアが秀逸。読み進めた子どももにっこりです。こういうところがうまいなあと思う。以前、大判の絵本の形で刊行されていたものが、版型を小さくし、4色+2色のイラストに描き直されての刊行。今回の体裁のほうが読みやすく、お話にも合っている。<アイウエ動物園ものしり百科ひつじ>のページが新規に追加され、楽しみも増えて、シリーズ化に。おはなしの追うことができるようになった年頃の子供達にぜひ。(ほそえ)
「デビルズドリーム」 長谷川集平作 前だ秀信絵(2006.7 理論社)小学校六年生の女の子ふたりが、インターネットの掲示板にふたりだけの場所を持っている。そこでかわされるチャットと日常とを行き来して物語は語られる。長崎県で起こった小学生による二つの殺人事件が物語に顔を出す。同じ6年生だから。そこに、長崎の原爆のこと、隠れキリシタンのこと、江戸時代の間引きのことなどがとすっとすっとうちこまれる。東京から長崎に転校してきた主人公にはすこし遠い話が、少しづつ身につまされていく。東京でお父さんとおかあさん、離婚したあとのおかあさん、東京でのいじめ事件……。それぞれが少女のなかでリプレイされ、ちがった色合いの光景となって心に沈んでいく。これだけのことを、ひとつの静かなトーンでまとめあげているのが、この物語の独特なところだと思う。チャットする少女たちが暴走してしまうのはなぜだろう?作家の思いは「本音で話すだけじゃいけないって。私たちの本音って意地悪なんだもん」と親友に言わせ、「誰も見てないところなんて、ないんだよ」「私たち、ひとりじゃないんだよ」とたたみかけ、人の心が、異物を美しい真珠に変えるのに、必要なものは?と主人公や読者に問いかける。この真摯な問いかけを受け止めるべきは、まずは大人であるはずだ。そして、子供達に、あろうとする場所を目指す姿を見せることでしか示せない。そういっているように思えてならない。(ほそえ)