【児童文学評論】 No.125  2008/06/25

1998/01/30創刊
〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>

   あとがき大全(70)

1.半年ぶりです
 ずいぶんごぶさたして申し訳ありません
 最近ではパソコンで〈もう〉と入力して変換キーを押すと〈申し訳ありません。〉と変換される。ほかにも、〈める〉は〈メール、ありがとうございます。〉〈じつ〉は〈実際にはそうかもしれないけど、道義的な責任を考えるというそういってばかりもいられない〉とか。変換機能がここまで便利になるとは思わなかった。けど、最近しょっちゅう単語登録しているのはおわびの言葉ばかり。ほかにも、〈あ〉と入力して変換すると、〈あ、ごめん。ついあれこればたばたしてたもんで、返信が遅くなっちゃった!〉となる。昔は、〈や〉→〈薬師丸ひろ子、かわいいよね。〉とか、けっこう遊んでたんだけど、この頃はその余裕、なし。
 去年から引き続き学生部長(新たに学生センター長と名称変更されたけど、内容的にはほぼ同じで、雑用が少し増えた)をおおせつかり、妙に気ぜわしい今日この頃で、これをやっていて、なにがいやかというと、歩いたり電車に乗ったりしているとき、つい学生問題について考えてしまうことだ。
 多摩キャンパスに4月からできたコンビニでは7月の中旬からアルコールを売り出す(それも24時間ずっと)。まったく、キャンパスの中でアルコール、24時間売るか? といいたいところだけど、前の総長・理事がそういう条件で認可しちゃったわけで、コンビニのほうもそこは強気。しかし、ここ数ヶ月、うちのキャンパスでは学生が泥酔したり、急性アルコール中毒で病院に運ばれたりといった事件が起こっていて、まずいよ。
 市ヶ谷キャンパスでも昨年度は泥酔者が続出して問題になってたし、いまでもコンビニの前で、夜遅く学生が座ってビールを飲んでるとかきくし。
 今年の学祭、多摩キャンパスでは例年より半月以上前倒しになっているのに、学祭の実行委員会からまだ企画とか出てこない、だいじょうぶかよ、とか。生協の食堂が営業時間を短縮したいとか、ある建物から食堂を撤退したいとかいってきてるけど、郊外型大学の食堂問題、これからどうすればいいんだ、とか。
 そういうことをついつい考えてしまう。学生部長をやっていなければ、「ポプラ・ビーチ」や「小説すばる」のエッセイのネタをあれこれ考えたり、新しい出版の企画のことを考えたり、映画のことを考えたりと、そういったことを、ああでもないこうでもないと楽しく過ごす時間がほかのことに取られてしまう。これがつらい。ただ、ものは考えようで、今まで思いもよらなかった学生のことが目につくようになってきたのは、うれしいし、おもしろい。というわけで、このところ、ある意味、学生問題にはまっているのである。
 まあ、あと1ヵ月ほどで前期もおしまい。あと後期がんばれば、少し楽になる。
 さて、そろそろこのエッセイも続きを書かなくちゃ。
 前回(69回目)、『ユゴーの不思議な発明』と『バージャック』のあとがきを載せて、それっきりになっていたので、いまちょっと調べてみたら、それ以後、次のような本が出ている。
2008年2月29日『魔使いの秘密』(東京創元社)共訳
 The Spook's Secret by Joseph Delaney 410p
2008年4月11日『キスで作ったネックレス』(東京創元社)共訳
 Necklace of Kisses by Francesca Lia Block 286p
2008年5月『暗黒天使メストラール』(理論社)共訳
 Angel by Cliff MacNish 373p
2008年5月30日『ターニング・ポイント』(岩崎書店)共訳
 Firestorm: The Caretaker Trilogy Book 1 by David Klass
2008年6月10日『トム・ウェイツ 素面の、酔いどれ天使』(東邦出版)
 The Many Lives of Tom Waits by Patrick Humphries
2008年6月10日『トロール・ブラッド 呪われた船 上下』(あかね書房)共訳
 Troll Blood by Katherine Langrish 290p 310p
2008年6月5日『シュワはここにいた』(小峰書店)共訳
 The Schwa Was Here by Neal Shusterman 357p
2008年6月13日『スカイシティの秘密 翼のない少年アズの冒険』(東京創元社)共訳
 The Fledging of Jay Amory AZ Gabrielson 437p
2008年6月23日『緑のヴェール』(国書刊行会)共訳
 The Beyond by Jeffrey Ford 345p

 『魔使いの秘密』のあとがきは田中亜希子さんが、『キスで作ったネックレス』のあとがきは小川美紀さんが書いてくれたし、『トロール・ブラッド 呪われた船』と『シュワはここにいた』は訳者のあとがきがない。というわけで、残りの本のあとがきを。

2.あとがき

   訳者あとがき(『暗黒天使メストラール』)
 マクニッシュの最新作『暗黒天使メストラール』(原題:Angel)はおそらく、これまでになかった物語だと思う。
 『レイチェルと滅びの呪文』以来、たぐいまれな想像力で新鮮かつユニークなファンタジーとゴーストストーリーで読者を驚かせ楽しませてきたクリフ・マクニッシュが、今度は“まったく新しい天使の物語”を作り出した。
 小さいころから天使にあこがれていた主人公フレイアは、八歳のとき、一度だけ部屋にあらわれた白い天使がわすれらない。そして会いたいばかりに奇行を重ねて病院に入れられる。六年後、ようやくその天使のことをわすれて普通の女の子の生活ができるようになった矢先、今度は黒くみにくい天使をたびたび目にして、ぞっとする。ふたたびつらい過去に引きもどされるかもしれないと思ったのだ。
 しかし白い天使と黒い天使はほかの人にはみえない。いったい何者なのか、いや、実際に存在しているのか……。
 いっぽう、父親や兄ルーク、転校生ステファニーなど周囲の人たちがかかえる問題も次々にフレイアに迫ってくる。
 ここでマクニッシュの描いている天使は〈神の使い〉とされる美しく愛らしいものではない。〈四本の腕、七対の翼、体じゅうについたまぶたのない目〉という、いかにもマクニッシュらしい天使だ。天使というよりは怪物のようなイメージだが、なぜこのような姿になっているのか、それもこの本を読むうちにわかってくるだろう。また、天使のイメージは時代や宗教によって異なり、多くの目と翼を持つとする考えも実際にあるらしい。
 元々“天使”に興味があったというマクニッシュは、この作品を書くにあたり、なるべく宗教色を出さず、人間に近い存在として描きたいと考えたそうだ。たしかに本書に出てくる天使はよくも悪くも人間くさい。つつしみ深く、自らを犠牲にして人間に手をさしのべる天使もいれば、人間に絶望し、見捨てる天使もいる。寿命があり、けがをすることもある。人間によく似た“悩める守護天使”だ。そう、そういう天使たちとフレイアが不思議で不気味で切ない物語を織り上げてく。
 だが、今回の作品はそれだけではない。これまでと大きくちがうのは、思春期の少女の心のゆれに光をあてた点だ。恋もし、友だちとの関係に悩み、天使の世界でも大きな壁にぶつかる。そんな十四歳の等身大の姿がていねいに描かれている。ひとりの少女の成長物語としても読みごたえがある一冊だ。
 マクニッシュの新たな一面に出会える意欲作。十代の少女の〈現実〉と、天使という〈非現実〉が交差するちょっとビターな物語を味わっていだだけるとうれしい。

 最後に、理論社の小宮山民人さん、編集のリテラルリンクのみなさん、原文とのつきあわせをしてくださった中田香さん、質問に快く答えてくださった作者のクリフ、マクニッシュさんに、心からの感謝を!

二〇〇八年四月
                    金原瑞人・松山美保

   訳者あとがき(『ターニング・ポイント』)
 主人公はジャック・ダニエルスン。アメリカのありきたりな町の高校三年生。名前も普通、趣味も普通。ただスポーツは得意。身長百八十八センチで筋肉質でフットボールチームの先発ランニングバック。あと、笑顔がキュート。本人はあまりいいたがらないが、詩も好きらしくて、たまに難しい言葉がぽろっと出てくるのはそのせいかもしれない。そんなジャックがレストランで不気味な男を見かけたときから、恐ろしい悪夢が始まる。
 妙な男に出会ったという話をきいた父さんは、ジャックを車に乗せて時速百キロ以上のスピードでハイウェイを飛ばし、「わたしは本当の父親じゃない」とかいいだす。追っ手が迫ってくる。車は横転。父さんは不思議な武器で応戦する。

「船のところへいけ」父さんはいう。「やつらは、ここで食い止める。さっさといくんだ。それがおまえの運命だ」
「おれはどこへもいかない。父さんが何をいったって、逃げたりするもんか。やなこった」
 父さんはおれをみる。「いい争っている場合じゃない」そして銃口を下げ、撃つ。自分の足を?! しかもねらいを定めて?! 苦しそうにあえぎ、ひざががくんとなって、いまにも崩れ落ちそうだ。つま先、いや足が半分なくなってる。血があふれ、骨がむき出しだ。父さんはもう一度おれをみて、銃口をこめかみに当てた。「次は頭をふっ飛ばす。みたいか? いやなら逃げろ」

 それまで生きてきた世界が音をたてて崩れていく。なぜ追われるのか。父さんも母さんも、いったい何者だったのか。いや、そもそも自分自身、何者なのか。しかし考える暇もなく、次々に追っ手が迫ってくる。それも異様なモンスターのような連中ばかりだ。
 ジャックは逃げのびることができるのか。自分の秘密をつきとめることができるのか。そんな謎をはらんだまま、このSF風ダーク・ファンタジーは疾走する。
 アクションたっぷりのスピード感あふれる新感覚ファンタジー……なんだけど、その奥にはしっかりエコロジーの問題がからんでいて、そのせいで、この作品はただのジェットコースター・アクション・ファンタジーではなくなっている。そう、この物語は人類の、ぞっとするような未来をかいま見せてくれる。その意味で、グリーンピースという世界的規模の環境保護団体がこの作品を初めて公認したというのもうなずける。
 しかし、それ以上に魅力的なのは、とことん追いつめられてもユーモアのセンスを忘れない主人公のキャラクターだろう。それから、彼につきそうことになる、異様にでかくて、とびきり目つきが悪い、毛むくじゃらの化け物みたいなワン公ギスコと、異様に武術にたけたかわいい女の子イコ、このふたりが思いきり物語を盛りたててくれる。
 とにかく、いままでにないタイプのニュー・ファンタジー、思うぞんぶん楽しんでほしい。

 最後になりましたが、編集の山北美由紀さん、原文とのつきあわせをしてくださった○○○○さんに心からの感謝を!
     二〇〇七年十月十五日                   金原瑞人 

   訳者あとがき(『トム・ウェイツ 素面の、酔いどれ天使』)
 たとえば、どのアルバム、どの曲というわけでもないけど、いつのまにか親しみ、なじんでいて、気がつくと、うちにCDが数枚あったりする。ぼくの場合、そんな音楽のひとつがトム・ウェイツだった。
 ジム・ジャームッシュ監督の一連の映画で有名になった頃にはすでに、あのだみ声は耳に親しいものだった。当時、ちょっと気になって、酒井謙次さんという昔からの音楽友だちに「トム・ウェイツって、どうよ?」ときいてみたら、「ううん、いまはあまり興味ないなあ」との返事で、そのときは、それっきりになってしまった。
 それからも何度か新宿三丁目のバーで耳にした覚えがある。どれもレコードだった。そのうちイラストレーターの五味太郎さんと対談する機会があって、あとの飲み会でこんなやりとりがあった。
「金原くん、トム・ウェイツの『タイム』って曲知ってる?」
「知ってますよ。'And it's Time Time Time' ってやつでしょう?」
「それそれ。それ、訳してくんない?」
「え、なんで?」
「意味がわからないと、歌えないんだよ」
 というわけで、歌詞の翻訳を頼まれてしまった。ところが、なかなか手が着かない。曲の入ってるCDはあるし、英語の歌詞もわかるんだけど、なぜか訳す気になれない。二年くらいして五味さんからいきなりメールがきた。「『タイム』の歌詞、まだ?」
 それから一年くらいして、酒井さんからお勧めのCDが2枚送られてきて、その解説のあとに、こんな追伸が。

 追伸と言うか、しかしと言うか、実は今の今もっとも気に入っているのは(barakan beatでも何度も掛かりますが)トム・ウェイツの『orphans』です。どこでも買えるし、もしかしたら買っているかなと思って、上記2枚にしました。もし未購入でしたら、絶対のお勧めです! 3枚組です(特に2枚目は一生ものじゃないでしょうか。胸が痛くなります)。日本版6300円(輸入盤は4000円くらいかな)、迷わずどーぞ!

 そして迷わず買って、いきなりはまってしまった。一週間くらいはこればかりきいていたと思う。ききながら、たまに「タイム」の歌詞が頭をよぎるものの、このときも、やはり訳すにはいたらなかった。
 それから約一年後、トム・ウェイツの評伝を訳さないかというメールがきた。どんな本かもわからず、また出版社もできたばかりだというし、まずは編集者の方とお会いしてからと思って市ヶ谷のカフェで待ち合わせて、話をしてみたら、これがなんと『オーファンズ』の日本語版の解説を書いてる城山さんだった。ついでに、彼の奥さんは、ぼくが昔からお世話になっている雑誌の編集者だった。
 考えてみれば不思議な縁だが、これを訳し終えて、じつにいい本だなと思った。これがノンフィクションでなくフィクションであったとしても、いい作品だ。トムの攻撃的な側面とシャイな側面と、どことなく変でユニークな所が見事に紹介されている。そしてあちこちに巧みにちりばめられたトムの名言・暴言・箴言の数々。この本ではそれが太字になっているので、それを拾って読むだけでもおもしろい。
 筆者は映画監督を描かせても驚くほどうまい。とくにコッポラなんか、本物以上に本物らしく、そしてユーモアたっぷりに描かれていて、この部分はそのまま、中編くらいの読み物になってしまいそうなくらいだ。
 ところで、「タイム」の翻訳だが、まだ仕上がっていない。ちなみにトム自身はこんなことをいっている。

 二度と歌えなくなった曲もある。『タイム』がそうだ。あれを作ったときの感覚が取りもどせなくなってることに、ある日ふと気づいたんだ。どう取りもどそうとしても、結局は他人の家族写真をみせられるようなものだった。

 さて、最後になりましたが、切り貼りで大活躍の編集者ジョウヤマさん、翻訳協力者の西田登さん(この翻訳の文体は基本的に彼のものです)、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さん(じつにじつによく調べてくれました)に心からの感謝を!
                       二〇〇八年五月五日          金原瑞人

   訳者あとがき(『スカイシティの秘密 翼のない少年アズの冒険』)
 主人公の少年アズには翼がない。
 これはスカイシティに暮らす人間にとっては大きな障害だ。なにしろスカイシティは地上数キロの上空に浮かんでいる都市だ。ちょっと足を滑らせただけで真っ逆さまに落ちてしまう。そんな危険を別にしても、ほとんどの人が翼を持っていて「飛べる」のが当たり前の世界なので、大きな建物でもエレベータなんかついていない。アズは、乗り物の助けを借りないと学校にたどり着くことさえできない。だから当然、「翼がない」ことにコンプレックスを抱えていて、エアボーン(上空人)の世界になじめないでいる。それなのに「翼がない」という理由のせいで、エアボーンの代表として地上に送りこまれることになる。「翼がないグラウンドリング(地上人)にそっくりだから」というのがその理由だ。
 アズがそんな使命を負うことになったのは、スカイシティに地上からの物資が届かなくなりはじめたからだった。しかも、その原因がわからない。スカイシティはユートピアのような場所──太陽の輝く平和で豊かな世界だが、それは、地上から届く物資を前提に成り立っている。ところがエアボーンは、晴れることのない雲の下にグラウンドリングと呼ばれる人々がいることさえ知らない。資源を収集して送ってくるのはオートマティックで動く機械だと信じている。
 スカイシティの秘密でもあるグラウンドリングの存在を知っているのは一部の高官だけだ。アズはなぜ物資が届かないのか、調査のために地上へ──それまで、エアボーンがだれひとりとしておりたことのない未知の世界に送りこまれる。そのアズと、地上で暮らすキャシーとの出会いから、迫力満点の冒険小説が始まる!
 このSF風冒険小説には魔法も特殊能力も出てこない。エアボーンも翼はあるものの、たいしたことができるわけではない。だが、その代わりに、乗り物が大活躍して、物語を盛り上げる。
 まずはグラウンドリングのキャシーが家族のように思っているマークコーマー「バーサ号」。キャタピラーで走る五十トンもあるこのでっかい乗り物は、どんなにがんばっても時速三十キロしか出ないが、足場の悪い場所でも平気だ。このバーサ号が沼に落ちかけたり、家に体当たりを決めたり、敵に追われたり、アズを救出したりと奮闘するところは、まさに登場人物のひとりのようだ。キャシーにバーサ号があるように、アズにも飛行船のセルリアンがある。この元軍隊輸送機が通過不可能と思われていた雲のじゅうたんに挑戦するシーンなどは迫力満点だ。このほかにもエアボーン界は航空機が発達しているため、テストパイロットでもあるアズの兄ミカエルは、ヘリコプターでさまざまなスタントをみせて読者を楽しませてくれる。
 もうひとつ、この本の大きな特徴は章の短さ、というか、章変えの早さだろう。それこそ二、三ページというスピードで一章が終わってしまうこともざらだ。たとえば「短い会話」という章があったかと思うと、その次に「もうひとつの短い会話」という章がつづき、まったく違うシーンで進行しているふたつの会話が取り上げられていたりする。この速射砲のように続く短い章のリズムが、ハイテンポのストーリーといっしょになって、この作品をさらにスリリングなものにしている。
 エアボーン界、つまり空の上の世界らしい文化や言葉もおもしろい。たとえはジェットボールという球形の競技場で行なうスポーツがあったり、ことわざにも「同じ穴のむじな」ならぬ「同じ巣の鳥」のようなのがあったり、悪口をいうのにも「あのアホの頭には、羽根しか詰まってないんだ」というような言い回しを使ったりする。一方、グラウンドリングのしゃべり言葉も一種独特で、ちょっと粗野で乱暴な言葉使いが多い。
 ところでアズの相手役、グラウンドリングのキャシーのキャラがまたおもしろい。スカイシティでは先生や親に「手に負えない」といわれるアズも、地上ではまるで育ちのいいおぼっちゃまだ。そのアズと、男勝りなキャシーとのコントラストがいい。たとえば、ふたりが握手するシーン。

──キャシーは、なんてやわらかい手なんだろうと思った。アズは、なんて力強い手なんだろうと思った。

 まるで、あべこべだ。そこにある矛盾は、ふたつの世界の圧倒的な格差を表してもいる。アズが生きてきたのは「大人が故意に子ども傷つけるなどありえない」世界であり、女の子といえば「ないしょ話やくすくす笑うのが大好き」な生き物であり、戦争もなく平和で、とても豊かな社会だ。一方、キャシーにはくすくす笑いながら夢をみている余裕などこれっぽっちもない。幼いころに母を亡くし、十六歳にして一家の母親代わりをつとめている彼女の両肩には、生活の重しがずっしり乗っている。だからアズが雲の上からきたことを知るなり、助祭に売り飛ばして金に換えることを考えたりもする。が、そんな違いを乗り越えて、アズとキャシーは手をつなぐ。力を合わせてヒューマニストや助祭を相手に戦い、空と大地が戦争にならないことを願う。アズはスカイシティの、キャシーは助祭による宗教の嘘を知り、共に大人になっていく。

 本作はイギリスの作家ジェイ・エイモリーの処女作。原題は『The Fledging Of Az Gabrielson』。「fledge」には「羽毛が生えそろう、巣立ちができる」などの意味があり、主人公アズに翼がないことを引っかけつつ、その成長と冒険を暗示するタイトルになっている。
 すでに続編に当たる二作目も出ていて、このふたりの今後についてはますます楽しみだ。

 最後になりましたが、出版にあたり編集を担当してくださった東京創元社の小林甘奈さん、最初にこの本を紹介してくださったマッグガーデンの佐藤淳一郎さん、訳文のチェックをしてくださった中村浩美さんに感謝の気持ちをこめて。

     二〇〇八年四月二十三日
                         金原瑞人・圷香織

   訳者あとがき(『緑のヴェール』)
 『白い果実』(The Physiognomy)、『記憶の書』(Memoranda)と続いてきた、ジェフリー・フォードの三部作がついに完結! 最後を飾るのは本書、『緑のヴェール』(The Beyond)だ。
 第二部『記憶の書』の終わりで、ミスリックスとクレイがウィナウの村をあとにして〈彼の地〉に旅立ってから、かなりの年月が経ったようだ。「眼鏡をかけた魔物」、ミスリックスは旅を早々に切り上げてウェルビルトシティの廃墟に戻り、孤独な学究的生活を送ってきたが、ある日ふと、〈彼の地〉で別れたクレイの身の上に思いを馳せる。〈彼の地〉で起こったことは〈彼の地〉が知っているはずだという理論に基づいて、ミスリックスはクレイの身に起こったことを〈彼の地〉から聞き出すことにした。それもジェフリー・フォード作品にふさわしい荒唐無稽な方法で。
 ミスリックスは〈彼の地〉に飛び、〈彼の地〉の基本物質(土、羊歯、水、空気)を採集し、廃墟に持ち帰る。羊歯の葉を噛み、土を両手にすりこみ、壜に入れた空気を吸い、水を飲むことによって、物語の断片を自分の中に取りこむ。それらの断片は彼の中で、ひとつの物語になった。ミスリックスは何度かに分けて、その物語に耳を傾け、書きとめていく。〈彼の地〉の伝える物語の中で、クレイは〈彼の地〉の運命を左右する重大な使命を担っていた。
 一方、ミスリックスの現実の生活の中では、ウィナウの人々との交流が始まる。ミスリックスは一個の「人間」として認めてもらおうと、いじらしいほどの努力をする。
〈彼の地〉のクレイの物語と、廃墟とウィナウにおけるミスリックスの物語。本書ではこの二つの物語が交互に語られていく。
 さて、クレイは〈彼の地〉の苛酷な自然の中で暮らすうちに、いつしか勤勉で、人間的で、とても誠実な男になり、初めて生身の女性とまともに相対する。第一部、第二部を通じて、傲慢な観相官だった頃のアーラへの歪んだ片恋や、ビロウの記憶の中の存在であるアノタインへの耽溺――をよく知っている読者ならきっと、クレイのけなげな奮闘を応援し、冒険と愛の成就を願わずにはいられないだろう。たとえすべてが、美薬にふける「眼鏡をかけた魔物」の妄想に過ぎないかもしれないとわかっていても。
 最後の最後で、このふたつの「現実」の間に風穴があく。というか、この壮大な三部作の最後の最後に、いかにもフォードらしい仕掛けが待ちかまえている。その素晴らしさを味わうためにも、ぜひ第一部と第二部を読み直したうえで、この第三部を読んでほしい。

 (元)観想官クレイが陰に日向に活躍するこの三部作は、ひとつひとつが異なる輝きを放っている。第三部『緑のヴェール』の魅力はイマジネーションの奔放さと、話のスケールの大きさだろうか。〈彼の地〉の自然の華麗なこと。肉桂の香りのする薔薇色の山猫、獰猛な鎧狼、鳥を喰らう肉食樹……。そして〈彼の地〉の壮大な歴史や、〈彼の地〉を救う方法、そしてクレイのたどる運命については大技、力技の連発で、読者を存分に楽しませてくれるはずだ。
 この三部作の第一部The Physiognomy(一九九七年刊行)が『白い果実』として翻訳出版されたのは二〇〇四年八月のことだった。ジェフリー・フォードの作品が単行本の形で日本の読者に紹介されたのは、これが最初だと思う。その後四年のうちに、『シャルビューク夫人の肖像』、『記憶の書』、『ガラスのなかの少女』が翻訳出版されて、フォードの日本での知名度は急速に高まり、いまや多くの人に愛され、注目される作家となった。今後も、彼の作品はどんどん紹介されていくだろう。そんな中で、SFとか幻想文学といったジャンルを遥かに超えたフォードの三部作の翻訳を無事に終えることができて、心からほっとしている。

 なお、最後になりましたが、第一部『白い果実』のリライトをしてくださったメイン訳者の山尾悠子さん、第二部『記憶の書』と本書『緑のヴェール』で同じ役割を果たしてくださった貞奴さん、そして三作を通してお世話になった国書刊行会編集長の礒崎さんに心からの感謝を捧げます。また、同じく三作を通して谷垣(第一稿担当)の質問に答え、原文理解を手助けしてくださったロバート・リードさんにこの場を借りてお礼を申し上げます。そして最後までおつきあいくださった読者の皆さん、ありがとうございます。

二〇〇八年五月
                     金原瑞人・谷垣暁美

3.最後に
 次のエッセイ、また半年くらいのびるかもしれませんが、どうぞ、お見捨てなきように。しかし、大阪の児童文学館、どうするつもり?

*****
*以下、ひこです。

【創作】
『漂白の王の伝説』(ラウラ・ガジェゴ・ガルシア:作 松下直弘:訳 偕成社 2008.03 1500円)
 砂漠にある小国キンダの王子であるワリードは民衆にも慕われている。また詩人としてもその将来を嘱望されている。
 彼は、詩の大会に出場したいけれど、父王が許してくれません。そこで、王国でコンテストをし、そこで優勝したなら、国を出て大会に出るという条件を出し、父王を説得します。
 誰もが、ワリードの優勝を疑いませんでしたが、そこに現れた見知らぬ詩人によって優勝をさらわれてしまう。次の年も、そしてその次の年も。
 嫉妬に狂ったワリードは奸臣の言葉に誘惑され……。
 実に物語らしい物語です。読書する喜びを満たしてくれます。作者がこれを発表したのは二十五歳の時。物語る才の備わった人なんですね。
 映画にもしやすい物語ですが、映画にしてしまうとつまらなくなること必至の物語でもあります。(ひこ)

『こまじょちゃんと そらとぶねこ』(越水利江子:作 山田花菜:絵 ポプラ社 2008.04 900円)
 こまじょちゃんシリーズももう四作目です。
 母親がおおまじょさんで(本当にでかい)、主人公の幼いまじょがこまじょちゃん、こまじょちゃんの、小さい白いまじょねこがこしろ、といった具合に、作者は登場人物の名前を「個」に設定しないで、より普遍的なものにしているわけですが、こうした神話・昔話的方法で、この物語を、どんな幼い子にも思い当たる、普遍的なものにしようとしています。
 絵を担当する山田は、笑いは笑い、泣きは泣き、と、絵描きとしての欲望を抑えて、幼い子にもわかりやすい情報提供をしています。
 折り返しにある、「どんどんよんでね!」という言葉に嘘はありません。
 さて、今作は、こしろが危機! それも、どうしようもないまじょとまじょねこの約束のために。
 どうなる?(ひこ)

『わたしのすきな おとうさん』(北川チハル:作 おおしまりえ:絵 文研出版 2008.03 1200円)
 大好きなおとうなのに、お仕事でなかなか会えない。
 そんな女の子の気持ちを描いています。
 彼女がどれだけ寂しいかが、うまく示されていて、良いです。
 このグレードの物語って、なかなか描きにくいのですが、その意味でも北川は、貴重な作家でしょう。
 ただ、言葉の流れが一定のリズムで貫かれていて、そのために物語が平板に感じられてしまうのが、残念です。絵本ならこれでいいのでしょうけれど。(ひこ)

『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック作 金原瑞人訳 (2007/2008.1 アスペクト)
『ウォーターハウス・ホーキンズの恐竜』でその緻密なイラストレーションを印象づけたセルズニックが映画創成期にイリュージョンに満ちた独自の映画を作り出したジョルジュ・メリエスへのオマージュを捧げ、描いた作品。モノクロのイラストが160枚以上も描かれ、無声映画のように登場人物の動きを追う。その間に物語が語られる、今までに見たことのない構成の本。映画が奇術とつながっていた時代、もの言わぬ、壊れたからくり人形が持っていた秘密、失われた愛する存在、見つけられない自分の居場所……欠落の物語が全きものになった時、はらりと幕が落ちる。作家の想像力で描かれた人々の姿、物語の語り口に魅了される。父を亡くし、叔父までいなくなり、駅の構内でひっそりと暮らす少年の造形、謎にのめり込んでいく様子が、メリエスの生涯に絡んでいくさまがスリリング。(ほそえ)

『ペチカはぼうぼう 猫はまんまる』やえがしなおこ作 篠崎三朗絵 (2008.1 ポプラ社)
ペチカはぼうぼう 猫はまんまる おなべの豆は ぱちんとはじけた……とはじまるロシア昔話風の連作童話。どれも語り口がしっかりしていて、民話のようなフォーマットのなかに登場人物の思いが行動に現れる。作家の持つ北の国の言葉がロシア風の語り口に合っているのだろう。どの物語も作り物めいたところがなく、ロシアの昔話といわれれば素直に納得してしまうような出来。悪態をつきながらも最後まで願いを全うする猫や思い焦がれ自らさがしに出かける娘、3人の兄弟が出会う狩りの王、草の王、鳥の王の姿など作家が作り上げた造形がくっきりとしている。フォーマットを持つことでより自在に飛翔できる想像力の強さを感じた。(ほそえ)

『彼岸花はきつねのかんざし』朽木祥作 ささめやゆき絵 (2008.1 学研)
広島の郊外にある在所。家の裏には竹やぶが揺れ、人を化かすおきつねさんがすんでいるという。也子はそこで「あたしにばかされたい?」と聞く小さなきつねを出会うのだ。おばあちゃんが語るきつね話、おかあさんを化かしたきつね……父さんが長く中国に出征している寂しさは毎日の暮らしの穏やかさにまぎれてしまい、思いやり深い家族や雇い人に囲まれてのびのびと暮らす日々。近くなり、離れたりしながらも、親しくなっていく也子と小さなきつねの交流がぱたんと切れてしまうラストには、ピカドン(原爆)が描かれる。あたり前の毎日、優しさに満ちた時間が突然失われるということを幼い人の目線で描ききろうとした作家の決意に胸が打たれる。(ほそえ)

『ぼくんち戦争』村上しいこ作 たごもりのりこ絵 (2008.3 ポプラ社)
4年生のぼくは家のことが心配。6年のお姉ちゃんはことあるごとにかあちゃんにつっかかって難しいこと言い始めるし、おじいちゃんはことごとくお母ちゃんの言うことを無視して勝手なことをする。かあちゃんはその度に怪獣みたいに怒るんや。このままぼくの家族、どうなってしまうのやろ……。大阪弁でテンポよく会話が進み、家族それぞれの思いや友だちの思いがすれ違ったり、向かい合ったりするのを描き出す。おねえちゃんがきゅうにおかあさんに対し強い態度で出るようになったわけも納得できるように書かれ、互いを認めあうこと、自分の感情で縛らないことなど、あまり教訓的にならないようおもしろおかしい語り口の物語のなかできちんと伝えようとしているのがえらい。こういうことを子どもに言っておきたい、考えてもらいたいという意識がはっきりあり、それとおもしろさを両立させるように工夫している。(ほそえ)

『ウォートンとモートンの大ひょうりゅう』ラッセル・E・エリクソン作 ローレンス・ディ・フィオリ絵 佐藤涼子訳 (1982/2007.11 評論社)
2匹のヒキガエルのきょうだいが巻き起こすおかしな日常を描いたシリーズも6巻目。大雨の日に蜂蜜をとりにいった2匹はアライグマに捕まえられそうになります。逃げ込んだところが、家の中をきっかり半分に色分けしてすんでいる2匹のおばあさんアマガエルのところでした。一晩中降り続いた雨がやんだとき、皆が見た光景は……。助かったと思ったら、へんてこなルールの暮らしぶりに頭がくらくらになるし、アライグマはヒキガエルもアマガエルも食べようと家の前にがんばってるし。この奇妙な団体がひょんなことで窮地を脱するまでが生き生きとした語り口で描かれる。キャラクターたちの性格設定がそのまましゃべりや行動に直結しているのがこの物語の直裁で面白いところ。これが子どもに人気の理由かな。(ほそえ)

『ボクシング・デイ』樫崎茜作 (2007,12 講談社)
講談社児童文学新人賞佳作受賞者のデビュー作。小学校4年生だった日々を思い返し描かれる文章は、現実の4年生とはちがって、すこうし大人びて、賢そうに見える。振り返る瞬間があり、振り返る日々を持っていることこそ、幸せなのだと知る主人公は、既に子どもではなく、大人の苦さを知ってしまっている。幸せなど問いもしない子ども時代を甘やかに思い返すだけでは児童文学にはならない。その子ども時代の表現に、現代を生きる子どもに呼応するものがあるかどうか。本作では、子ども同士の関わりに多く筆をさいているところにかろうじて、それを見いだすことができる。こどものたどたどしさやバランスの悪い心のおきどころのなさなどを表現する文章はおもしろい。先生は作者の思いを語りすぎるきらいはあるけれど。タイトルは、挿画とともに意味するところを表現しているが、それをわかって本作を手に取るのは、やはり大人の読者となるのではないだろうか。(ほそえ)

『さかさやまのさくらでんせつ』二宮由紀子作 あべ弘士絵 
『たぬきのたろべえのたこやきや』二宮由紀子作 センガジン絵(2007.11 理論社)
「あいうえおパラダイス」シリーズの3、4巻目。同じ字で始まる言葉だけで物語られる小話が5話はいっている。時代物から動物話、人間話とさまざま。言葉に縛りをかけて、話にえいっと跳躍力をつけるから、なんでこんな展開に……と知らず知らず腰砕けナンセンスワールドに導かれてしまうのだ。この力技はすごいなあ。(ほそえ)

『「さやか」ぼくはさけんだ』岩瀬成子作 田島征三絵 (2007,12 佼成出版社)
ぼくは泣き虫だ。でも、クマタカのように強くなりたい。さやかは、本当の母さんは死んじゃってるし、父さんはいつも絵を描きにいっていないけど、あさひさんと食堂のよもぎ屋を切り盛りして暮らしている。力も強いし、何をやってもぼくよりうまくできるし、いばっている。ぼくとさやかはひょんなことでけんかをし、それから、ぼくはほかの男の子と一緒に、さやかに嫌なことを言ったりしたりするようになった……。強くなりたいと思っている男の子が風の強い日は山から下りてくるというおごうさあを見に、友達と出かけていったところから物語は急展開する。自然の中で、体を縮め、大いなる気配を感じることで、たまっていた気持ちが爆発する。その転換がクライマックスだ。気持ちが直接、行動に結びつき、解放されるという経験が子どもに及ぼすさまを作家はしっかりを見据える。そういう経験をもてない現代の子にとって、この物語は憧れ。(ほそえ)

『いきてるよ』森山京作 渡辺洋二絵 (2007.12 ポプラ社)
ぶたのことくまのおじいさん、きつねのこ、うさぎのこ、そしてちょうちょ。それだけしか出てこないのに、命というものに向き合う幼い子の姿の神々しさにうたれる。朝、訳もなく早く目覚めてしまったぶたのことくまのおじいさんの出会い。3人で遊んだ帰り道、道でうごかなくなっていた白いちょうちょに心を寄せ、川に流した姿、丘の上で再びであったくまのおじいさんに「いきてるね」とたしかめずにはいられなかったぶたのこ。小さなエピソードがそれぞれに結びついて、「いきてるよ」という賛歌になっている。(ほそえ)

『マイカのこうのとり』ベンノー・プルードラ作 上田真而子訳 いせひでこ絵 (1991,2004/2008.2 岩波書店)
ドイツを代表する児童文学作家のひさしぶりの邦訳。マイカの家の古い納屋の屋根の上に巣をかけたコウノトリ。そこで子育てを始めるのですが、そのうちの1羽が灰色と茶色の羽をしたうまくとべないコウノトリでした。巣へ戻そうとしても、親やほかの兄弟たちが入れてくれません。とうとうマイカはそのコウノトリを家で育てることにしました……。コウノトリを案じ、思いを寄せるマイカとコウノトリの様子を描くシーンはとても詩的で美しい。父さんの知り合いの研究所にコウノトリがひきとられてからのマイカは、夢のなかですらコウノトリと心通わせることは出来ません。その悲しさ、突き放されたような気持ち。ラストでコウノトリが飛び去る姿をマイカが見るのはほんとうだったのかしら? アフリカへ飛び立ったというのは喜ばしいことではあるのだけれど、ぼうとした喪失感をマイカと一緒に抱えなくてはならなかった。大人たちの描き方、近所の少年とマイカとの関わりなど、ストーリーのなかの挿話的なシーンに引きつけられるものがおおい。それがこの物語に不思議なとりとめのなさを感じさせ、子どもの感覚というものを思い起こさせる。(ほそえ)

『氷石』久保田香里作 飯野和好画 (2008.1 くもん出版)
奈良時代天平9年の夏を描いた歴史もの。遣唐使として唐に渡ったままもどらない父、天然痘にかかってなくなった母、一人自分の才覚で生きていく少年千広が自分の生きていく場所を求めて、様々な人に出会い、心結ぶ少女と再会するまでをいきいきと描いている。遠い時代の生活を具体的に書き、歴史の教科書でしか知らなかった光明皇后が建てた施薬院、東市、藤原麻呂などが物語の核としてとりこまれている。歴史的な事実と創作が実にうまく紡がれ、字を読む、書くということへのおそれ、喜び、学ぶということの意味などを物語のなかで主人公とともに考え思いめぐらされた。どのように人は死を乗り越え、生きていこうとするのかということもこの本のテーマであるようだ。主人公の千広とともに、思いを寄せる少女宿奈、みなしごの安都、施薬院の伊真、いとこの八尋、代書屋の先生など登場する人たちがみなそれぞれに思いを秘めて、しっかりと生きており、とても魅力があった。解説にも書かれていたが、ぜひこの人たちの行く末をまた続編で読んでみたい。(ほそえ)

『時の扉をくぐり』甲田天作 太田大八絵(2008.2 BL出版)
浮世絵師・歌川広重の弟子、佐吉の目で描かれた広重と北斎。歴史上の人物に想を得て、自在に動かす物語はよく知られる人物をいかに造形するかが鍵だか、本作ではそこにゴッホの幽霊を絡めて、3人の芸術家の有様、ライバル心、美の見つけ方などを描き出したところがおもしろかった。ゴッホの幽霊を連れて、善光寺をまわり小布施へいく道中。一緒に出かけた佐吉と出島でオランダ語を覚えたという又三がふたりの画家の姿を目の前にして、己を振り返り、自分の進む道を選び直すというサブストーリーもある。3人の画家を扱うにしては物語があっさりしているようにも思うが、これはこれで子どもには手にとりやすい体裁の本になったのでよいかな。(ほそえ)

『ほらふき男爵の大旅行』G.A.ビュルガー編 斉藤洋文 はたこうしろう絵 (2008.4 偕成社)
『ほらふき男爵の冒険』に続く2作目。ほらふき男爵が外国でであった不思議なお話ばかりを集めている。トルコでの合戦であまりに速く走る馬に乗っていたらそれが半分の馬だったとか、ロシアであまりの寒さで角笛の中で音楽が凍っていた話や、大西洋横断の話など、小さい頃、名作版でよく読んだお話が、とってもテンポよく生き生きと今の子にも読めるようになっているのがうれしい。小学校中学年から高学年の子どもたちにうまく手渡していきたいシリーズ。こういう本で、ユーモアや生活の知恵など知らず知らず身につけてくれれば……と思う。(ほそえ)

『花火とおはじき』川島えつこ作 高橋和枝絵(2008.4 ポプラ社)
『まんまるぎつね』で少女の心をやさしく支える物語をしっとりと描いた作家が、大切な人との別れをどんな風に納得していったかを10歳前後の子どもたちの胸にすとんとおちるように、丁寧に描いている。4年生になったばかりの夏まつりの前の晩、いつでもどんな時でもあたたかく包み込んでくれたおばあちゃんがなくなった。あまりに急なことでぼんやりしている女の子の前に若いお姉さんがやって来て、一緒に夏祭りに連れて行ってくれることになったのだ。ふたりでまつりを楽しんでいるうちに少女は子のお姉さんは誰かに似ている……と思いはじめる。亡くなった人が思いを遂げるために再び姿を現して、ある時間を過ごすという物語は目新しい展開ではないけれど、中学年の子どもたちにも伝わる文章で、少女の周りの人の思いもしっかりとお話に組み込んで、これから成長していく姿を想像させるように物語るのはなかなか難しいもの。なのに、すっきりと親しみ深く、大切な思いと時間を不思議にのせて描いているのが素敵。(ほそえ)

『2年3組ワハハぐみ テストで100てんとるにはね……』薫くみこ作 かわかみたかこ絵 (2008.4 ポプラ社)
ひつじのメリー先生のクラスはみんな元気で楽しいクラス。なかなかお話しできなくて学校に来るのが嫌だったハリネズ田つん子ちゃんもクラスのみんなのお笑い攻撃にあてられて、学校好きになってしまった前作よりも、お話がパワーアップしています。おたふく風邪になってお休みしているメリー先生の代わりに1組のアヒル木先生が見てくれることになったのですが、テストばっかり。小テストで悪い点数だとほっぺにぐるぐる渦巻きを描かれてしまうのです……。でもね、みんなはがんばってべんきょうしたら、メリー先生の病気が早くよくなると思って、すこしづつかわりはじめました。ぐるぐる渦巻きは「はなまるになるおまじない」だと信じて。キャラクターのはっきりしたカリカチュアされた学校ですが、そこで描かれる物語には真実があり、真摯な先生がいます。(ほそえ)

『ヨハネスブルクへの旅』ビヴァリー・ナイドゥー作 もりうちすみこ訳 橋本礼奈画 (1985/2008.4 さ・え・ら書房)
アパルトヘイト政策のもと、黒人居留地に住む姉弟が、白人の家に住み込み、働いている母さんの元へ赤ちゃんの病気を知らせにいく道中を描く物語。姉弟はアパルトヘイトのなんたるかを知らず、ただただ大きな道をまっすぐ歩いてヨハネスブルクへ行く途中、オレンジ農園で働く少年に助けてもらったり、トラックの運転手に乗せてもらったり、大きな町で町の仕組みを教わったりしながら、自分の生きる社会の矛盾、今まで親や身近な大人が教えてくれなかった現実を知っていきます。それはそのまま読者の姿と重なります。アパルトヘイトを知らない日本の子どもが本書を読むことで、歴史的なタームとしてではなく、実感をともなった歴史的事実としてアパルトヘイトを感じることが出来ればと思う。訳者あとがきでもアパルトヘイト下の南アフリカのことはよく説明されている。本書は著者の初めての児童書で、まだアパルトヘイト下の頃、イギリスで出された本である。20年以上も前の本であるため、現在の南アフリカのことは全く出てこない。現在、この政策はなくなり、どのように新たな国づくりがされているかという点を訳者あとがきでフォローしてもらえればなおよかった。(ほそえ)

『天山の巫女ソニン 3朱烏の星』菅野雪虫 (2008.2 講談社)
ソニンのシリーズもはや3作目。今回は関係の悪くなったもう一つの国、巨山にイウォル王子とソニンが出かけることになる。狼殺しの王は強大な権力で国民に人気だが、地方の辺境にすむ森の民などの小さな部族やまずしくやせた土地に住む人々からはうらみをかっていた。巨山の王女との出会ったり、森の民の武装蜂起未遂にまきこまれたりするなかで、感情を強く出しすぎてしまう自分に戸惑ったり、自分の本当の力とは何なのかと悩んだりする。人はその立ち位置によって、ものの見方、考え方が違ってくるもの。それでも、違った視点を持ちつつ、自らの考え、進む道を選択していかなくてはならない。選択したら、それに責任を持たなくてはならない……。描かれるイウォン王子、ソニン、ミン、王女イェラなど若者たちが、それぞれに自分のあり方を真摯に考えている姿がこのシリーズを読み進む楽しみである。同じ年頃の読者であれば、なおのこと、深く我が身と重ねあわせるのではないか。この真面目さは貴重。(ほそえ)

【創作時評】
「既知」と「未知」のあわいで
            芹沢清実

物語というものがなかったら、どんなに人生はたいくつか。作家の目は、なにげない日常の風景からもすばやく物語をすくいあげる。
たかどのほうこ『お皿のボタン』(偕成社07年11月)
では、服からとれたり、そのへんにころがったりで皿にほうりこまれたボタンが、それぞれドラマチックな「人生」を語りだすし、
いとうひろし『ふたりでおるすばん』(徳間書店07年11月)
は、やっかいな弟とふたりで留守番する状況を童話「七ひきのこやぎ」にかさねることで、日常にスリルと冒険をひきよせる。本好きな女の子が試練とその「ごほうび」をさずかる
末吉暁子『本の妖精リブロン』(あかね書房07年10月)
も、みなれた図書室にふしぎのスパイスをかける。こちらはアンデルセン童話の世界がからむ。
なじみのある日常にどうやって非日常のかがやきをもたらすか。あるいはよく知っている物語や状況をどう別の文脈に組みかえるか。いわば「既知」と「未知」とのさじ加減にベテラン作家の芸がひかる。

日常にひそむものをてらしだす奇想
「ファンタジー」とか「リアリズム」とか、いわゆるジャンル分けをしてしまうとそのおもしろさが逃げてしまうような本が目をひいた。たとえば
ただのゆみこ『耳の中のアブ』(国土社07年12月)。
主人公である小学生キリコの母は、父とのいさかいをふりきって新薬研究の最前線アマゾン流域に単身出発。キリコは家庭でも学校でも、しっかり者でむじゃきな子どもを演じている。親に期待して傷つくようなヘマをしたくないのだ。<自分にはどうすることもできない、しかたがないことは、心のずっと奥のどこか見えないところにほうりこんで、見ないことにしていた。そうやって、いやなことはわすれてすごしてきた。>
つまり精神医学でいう「否認」。そのまま「リアリズム」で描いても説得力をもつだろう、現代的な主題だ。現代的であり、いい切り口であるということは、アプローチするひとが多いということでもあり、そう考えるとあんがいむずかしいところでもある。
で、そこにきりこむのがタイトルのアブ。キリコの耳にとびこみ、人の心を聞くという「心耳袋」から出られなくなってしまったというのだ。へんてこな言葉づかいで、まるで落語のようなアブのキャラクターがいい。ときおりキリコに話しかけてきては、新聞が読みたいから耳にいれてくれ、などと勝手な注文をしたりもする。おだやかな味わいの奇想が、物語を既視感から遠ざけてくれる。
鳥野美知子『鬼の市』(岩崎書店07年10月)
に登場する「鬼」のほうは、正統な空想世界の住人。読み終わってみれば、どこかかわいい存在だが、その「鬼」が登場するまでがリアリティたっぷりに読ませる。主人公の家には、15歳年上の姉が夫の事故死により小さい子連れでもどってきている。<泣いてばかりもいられないと思ったらしく、ねえちゃんはあっというまに凶暴な女に変身した>と述べる視点人物は小学校5年の弟。
この家庭には他家にはない年中行事「鬼迎え」がある。節分の夜、鬼を家に迎え入れ、厄災をもちかえってもらうよう、翌朝おくりだす。地方色ゆたかな伝統行事のリアリティが読ませる。主人公が、これまでは感じなかった<鬼の気配>を今年はひしひしと感じとる場面も、ホラーさながらにこわい。後段のユーモラスな鬼たちも、これがあってこそいきる。

異形が活躍する時代ファンタジー
日常のなかに怪異をかんじる能力が現代人はおとろえてしまっているらしい(内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書)。時代ファンタジーが元気なわけは、そのへんにあるかもしれない。
器物が年をへて付喪神という妖怪になるとは、昔のひとはおもしろいことを考えたものだ。サイコロの付喪神を相棒に日銭をかせぐ戦国時代の少年を主人公にしたのが
廣島玲子『盗角妖伝』(岩崎書店07年10月)。
あやしい女に賭けで負けて、頼みの付喪神をとられた少年の道連れになったのは、同じ女に角をうばわれた童子形のあやかし。あるいは鬼気迫り、ときにユーモラスな妖魔たちの造形が魅力的。
芝田勝茂『虫めずる姫の冒険』(あかね書房07年10月)
は、古典「堤中納言物語」中の人気キャラを主人公にすえた。大納言の娘ながら人の評判も気にとめず、すきなことにまい進する自立心おうせいな姫。現代的でしたしみやすいキャラが、冒険にみちた古典世界へ読者をみちびく。

戦争へせまる切り口
戦争というテーマでは「既知」と「未知」の出合わせ方がむずかしい。そこに新しい切り口をもとめるシリーズ「おはなしのピースウォーク」は、
日本児童文学者協会編『地球の心はなに思う』(新日本出版社07年10月)
で5冊目になった。今関信子「地球の心はなに思う」は、自虐だとか愛国心だとか「内」むきになりやすい論議を「外」から見たらどうなのか、と開く。かつての敵国とは先祖が殺しあった関係というシビアな事実に子どもが直面する場面は、なるほど他国への行き来がふえたいま、日常のひとこまでもある。また佐々木赫子「イチイの木のふしぎ」は、容易に子どもの命が切り捨てられる「平家物語」の世界へと、現代から時間軸をうつしてみせる。
児童文学としては異色の「実録」ふうサスペンスで、戦争にまつわる"土地の記憶"をあつかったのが、
砂田弘『悪いやつは眠らせない』(ポプラ社07年10月)。
空襲による死者の記憶が、バブル、その後の不況と、世間の空騒ぎのなかでうすれていくことへの告発を都市伝説ホラーに仕立てた。
松居スーザン『じゅんぺいと不思議の石又』(文溪堂07年10月)
は寓話のスタイルで、わたしたちが非日常(つまり他人事)とかんじがちな戦争の火種は日常(自分のなか)にひそむと説く。主旨も説得的だが、魅力はその語り口にあって心に残る。

手仕事のもつ具体性という魅力
『秘密の花園』みたいな、すごくすきな本、と複数のひとがすすめてくれた日本児童文学者協会・第五回長編児童文学新人賞受賞作の本多明『幸子の庭』(小峰書店07年9月)。
しおれた植物のように精気をなくしていた少女が、手入れをおこたり「おばけ屋敷」のようになった広い庭が植木職人の手でよみがえる過程で、生命力をとりかえす物語。
といってもバーネットの物語とちがって素朴な自然賛歌ではない。いっけん「自然」にみえながら、じつは巧緻な手がかけられている庭。自然にまかせ生い茂っていた枝葉におおいかくされていた下から、腕きき職人の目と手によって、曽祖父のこまやかな設計による憩いの領土がたちあらわれる。作業は遺跡の発掘・復元にも似て、地層のなかから家族の物語がよみがえる。
詩人としても高い評価をえている著者の筆にかかった庭の復活過程は、ずっしりたしかな読みごたえ。あるべき姿をとりもどす草木のありよう、それをやってのける手仕事の、道具と手が一体となって躍動するあざやかさ。
物語の視点は、ときに少女から切り替わって、鋭く庭を観察する職人の目にもなる。選評(「日本児童文学」06年5-6月号)で論点となった若い職人視点部分だが、ひとづきあいの苦手な青年が職人修業のなかで自己形成するさまを描く。これはYAとしておもしろいのではないか。
若者と仕事をめぐる困難は、子どもの本周辺でも、もっと関心をもたれてよいという気がしている。
07年の一般書で、成果主義の蔓延が若者の育成をさまたげていると指摘する
荒井千暁著『勝手に絶望する若者たち』(幻冬舎新書)
や、不安定雇用にもかかわらず「やりがい」をもとめて過剰労働におちいる団塊ジュニア世代を取材・分析した
阿部真大著『働きすぎる若者たち』(生活人新書)
がためになった。
いまや新卒―正社員という"正規ルート"が崩れたぶんだけ、手仕事の世界に目をむける若者が増えているようだ。労働の具体的な側面での魅力をそなえた仕事というのはじつに多彩で、
加藤幸子『蜜蜂の家』(理論社07年9月)
では、養蜂という仕事が、起業にかかわるネットワーク作りの熱気とともに、繊細かつリアルに描写されている。

ひとすじなわではいかない魅力のありか
さて、その本の特色だとか魅力についてひとに伝えようとするとき、これだとすっぱり簡潔にいいきれない本もある。それが魅力にとぼしい本かというと、むしろ逆なのだが、どういったらこの本がすごくおもしろいってことを伝えられるのか、あれこれ迷ってしまうのだ。そのむずかしさはどこにあるのか。
まずはネタばらしにならない線の見極めかた。未読のひとにむかって、じっさい読んだとき「おお、そうだったのか!」とおどろくであろうポイントをばらさずに、「こういう話」と説明することは案外むずかしく、何度「しまった!」と思ったことか(自分についても他人についても)。しかし、あんまり隠しすぎても気をひくのがむずかしい。チラリ見せるべきは見せる。
たとえば
岩瀬成子『そのぬくもりはきえない』(偕成社07年11月)
を「とりあえずジャンル的にいうとゴーストストーリーかな」と紹介する。二階に幽霊がでる、とうわさされる家があって、そこの犬を散歩させることになった子どもが幽霊にであう話、と説明するのはギリギリの許容線。
あとはおそらく相手によって強調ポイントがちがう。いつも「正しい」母親にむかうと心があやふやになってしまう子どもが「自分がしたいこと」をつかみとるまでの物語(正統な児童文学読者に)。孤独だった老女が自律をかち得る物語(老いが身近になった友に)。水族館での大冒険と小冒険がわくわくするはなし(カニグズバーグの博物館の話を連想させるよ)。犬好きには必須(描写がリアルなんだ)。脇役の女の子がかっこいい(フェミニズム観点)。どの線を強調してもいい。
しかし、どうもこの本の最大の魅力は、これらとは別のところにあるようにおもってしまう。たとえば主人公がどんな子なのかを読者はすぐに知りたがる。名前は? 年齢は? 見た目や性格は? それに冒頭からこたえる本とは、ずいぶんとおいところにある、というようなこと。いうまでもなく不親切で読みにくいとか展開がおそいとかいう欠点とも無縁に。
この本の主人公は「波」という名の子ども。
庭で死んでいたカマキリのことを誰かにいいたくなって、紙に包んだそれを友だちの机にいれたのが、いじめと勘違いされてしまうエピソードからはじまる。自分のおもいや、その伝えかたがよくわからない。まずはそういう子なのだということが提示され、男の子なのか女の子なのかが明示されるのは23ページなのだ(ちなみに「波」の自称が登場するのは31ページ)。
そこまでを「波」という字は「彼」という字に似てるな、などとたのしむ。こんな読書経験は、めずらしいお菓子を一口ずつあじわうのにも似ている。
「波」は色彩でいえば淡色の、ゆっくりした子どもである。それにたいして、「もっと強い色を着なさい。中途はんぱな色ばかり着ていると、幽霊に負けちゃうよ」とはげます友人や、「波にもすきな仕事についてほしいな。夢をもってほしいの」と行動をうながす母親は、強烈な光をはなっている。
その濃淡のせめぎあいのなかでテンポよく物語がうごく。でも読む側は、あくまでもゆっくり淡い主人公サイドから流れる時間をたぐりよせる。ストーリーと主人公の単純には対応しない語り方。キャラをあやつって決められたストーリーをたどるゲームの単調さとは無縁なところに、いまとても魅力をかんじている。(芹沢)
(「日本児童文学」2008年3-4月号掲載)

【評論】
『日本の人形劇 1867~2007』加藤暁子著(2007.11 法政大学出版局)
1867年(慶応2年)にアメリカ、ヨーロッパと日本の曲芸団がからくり人形を持って巡業していたところからはじめ、文楽からの流れ、各地に伝承された人形遣、現代の人形劇のさまざまな試みまでを実感の伴った紹介でまとめており、人形劇という場がアート、教育、伝統などの先達によっていかに広げられ、育てられてきたかというところを示してくれている労作。長く現場で活動してきた著者だからこその視点で、戦時下での活動やその後の教育との関わり、テレビと人形劇など年代ごとにまとめられ、その時々の社会状況との関わりの中で真摯に活動してきた人や団体の姿が活写されている。人形劇は子ども向けの文化と思われがちなことと演劇、アートなどの複合文化である故に、なかなか一般に向け、評価し論ずるものがでてこないが、本書を手にすることで、その豊かな世界を感じてもらいたい。特に最近は大人向けの演目も増え、芸術系の若者が人形アニメーションなどで活躍している。そんななか、p222にあるように、「子ども対象にしたアートが大人に向かないということがあるだろうか~」以降書かれている文章は、「人形劇」とある部分をそのまま「絵本」に置き換え読めば、私がいつも思いめぐらしていることと重なっている。子どもという視点を持って、ものを作ることの意味をもう一度、深く考え尽くしていきたいと思うのだ。(ほそえ)

『作家の時間~「書く」ことが好きになる教え方・学び方実践編』プロジェクト・ワークショップ編 (2008.4 新評論)
『ライティング・ワークショップ』(2007 新評論)を読んで、日本で実際に子どもたちと一緒にはじめた実践をまとめたもの。アメリカでのメソッドをいかにして活用していったか、子どもたちとの日々から書かれている。この本を読んでこの実践はたんに「書く力」を育むだけでなく、子どもたちが共感し共に育っていくのにとても有効だと思った。作文の時間を作家の時間と称し、自分の好きなテーマで、自分の好きな時間をかけて文章を書き、作家の椅子に座って、先生や友だちにその文章を読み、いろんな意見、感想を聞く。それをまた自分の文章にフィードバックしていくという作業を通して、人に何をどのように伝えたらいいのか、表現方法をさぐっていったり、見方を深めていったり、言葉を獲得し、考える手段を身体に刻み込むようになっていく。友だちの作文を聞き、読み、それに心を寄せることで一人一人の感覚、人となりを認めあう……そういうところが素敵だなと思った。書くということは考えるということだ。本を読むということも、実は言葉を獲得して、それをもとに考えるということなのだと思う。考えるということは、個人へと閉じていくことではなく、自分を開いていくこと、つながっていくことなのだと思う。それは言葉を使って考える人間というものの習性ではないかしら。言葉は相手があって成立するものだから。伝えたいという対象があってこそ輝くものだから。そう言う輝きを持った文章がこの本のなかにはたくさんある。絵本も伝えるという技を教えてくれるツールとして登場する。漠然と読まれるより断然いい! 読む、書く、話す、考える……これらをしっかりと出来る人に育てる、それがいわゆる生きる力を育てるというものなのだろう。いきいきとした教育実践を読むとうれしくなる。子どもを支えていく教育、文化をきちんと知らしめていきたいと切に思う。(ほそえ)

【絵本】
『わんわん にゃーにゃー』『プアー』(長新太:さく・え 和田誠:しあげ 福音館 2008.06 800円)
 長の、ああ、だめだ。長さんは、「長さん」で一つの名前みたいなもんだ。
 長さんのラフスケッチに、和田が彩色した絵本です。
 当たり前ですが、やはり、タッチも色遣いも、長さんの完成形のものとは違う絵になっています。
 じゃあだめかというと、そうではなくて、「長新太:さく・え 和田誠:しあげ」の作品として、面白い出来です。
 話は、もう長さんそのもので、あほらしく笑ってしまいますしね。
 長新太は、最後まで長さんを生きたのやなあ、と思います。(ひこ)

『とんがりぼうしのクロチルダ』(エヴァ・モンタリーナ:作 井辻朱美:訳 光村教育図書 2008.03 1500円)
 ようせいは二種類いて、一方はとんがり帽子に星が付いた良き妖精。もう一方はとんがり帽子の先っぽが折れた魔女。
 なのにクロチルダのとんがり帽子に星はなく、でも折れてもいないので、どちらにもなれません。
 ひとりぼっちのクロチルダ。
 ある日、妖精と魔女が、どこまで高く、自分たちの身体を重ねてピラミッドを作れるか競争を始め、その判定をクロチルダに頼みます。
 さて、どうなりますことやら。
 ひとりぼっちも、自分たちだけで固まっているのも、どっちも実は楽しくないこと。
 それが、実に愉快に伝わってきます。
 エヴァ・モンタリーナの画は印象的で、エキセントリックで、でもどこかとぼけてもいて、良いです。ぜひぜひご覧あれ。(ひこ)

『世界はどうなっちゃうの? こわいニュースにおびえたとき』(キャロル・シューマン:作 キャリー・ピロー:絵 上田勢子:訳 大月書店 2008.02 1600円)
 「心をケアする絵本」の五巻目です。
 今作では、世界を震撼とさせるニュースがテレビで流れ、子どもが不安になったときどうするの? ってテーマです。
 ただ単に「あなたは守られているから大丈夫」ってメッセージだけではダメだだから複雑です。
 子どもは、自分が生きているこの世界自身を恐怖しているかもしれないからです。
 隠さないこと、自分からアクションを起こすこともサポートすること、そして大丈夫だと伝えること。
 つまりは、子どもに、あなたを信頼していることを伝え、大人の立ち位置からしっかり守っていることも見せる。
 守るだけでは、おびえるばかりです。(ひこ)

『どこ?』(山形明美:作 講談社 2008.03 1400円)
 もう四作目(『どこミニ』を除く)なんですね。副題が「まだまだ みつけられる!」で、確かに、その通り。
 というか、作り込みがどんどん深味を増してきて、作者が「まだまだ」止められないのが、伝わってきます。今作と、第一作を比べれば、その進化は一目瞭然。
 こうした作り込み物は、そこにある画面が面白いだけでなく、眺めていると、その作り込みそのものへの興味やドキドキが湧いてくるんですよね。子どもが、とてもドキドキするのがわかります。
 山形明美、どこまで行ってしまうんだろう?
 単なる読者である私は、寝転がって、捜していればいいだけですが。
 山形明美の中にある、子ども時代から今までの風景と幻想が枯れるまで、描かれていくのでしょう。(ひこ)

『うんてんしてるの、だあれ?』(ミシェル・ゲ:作・絵 末松氷海子:訳 徳間書店 2008.05 1500円)
 交通渋滞に巻き込まれた、パパとルイ。仕方がないのでパパは眠ることに。
 その間に、ルイの元に子ネコやサルがやってきて、車をいじってもんだから、動きだしてしまいます。
 さあ大変!
 絵本は、それからの危機また危機の連続を描いていきます。何故かトラが加わったり、それはもう、賑やかなこと。
 ずっとパパは眠っていますから、これは子どもの自由への願望のお話とも言えるかもしれません。
 さてさて、車はいったいどこまで行ってしまうのでしょうか?
 ミシェル・ゲの絵は、コミックに近いものですが、それがこまわりなしに、全画面に一枚で描かれますから、とっても迫力。(ひこ)

『エルフはぞうのしょうぼうし』、『エルフ、がっこうへ いく』、『エルフの びっくり プレゼント』(ハルメン・ファン・ストラーテン:絵と文 野坂悦子:訳 セーラー出版 2008.05 1500円)
 エルフは十一頭のぞうの消防士のマンバーです。でも、ちょっとスローなものだから、いつも現場に間に合わない。
 最初はがまんしていたメンバーも、ついに怒って、エルフは解雇されることに。
 火事の知らせに大慌てで出て行くみんな。でも、アルフはもう関係ない。
 が、……。
 『おじいちゃんわすれないよ』(ベッテ・ウェステラ:作 金の星社)では、死というテーマに絵を付けながらも、温かさがにじみ出ていた、ハルメン・ファン・ストラーテン。
 今回はユーモアたっぷりに、ドジなエルフの世界を描いていきます。
 エルフ、ひょうきんで愛らしいです。(ひこ)

『ニューヨークのタカ ペールメール』(ジャネット・ウィンター:作 福本友美子:訳 小学館 2008.04 1500円)
 「ほんとうにあった おはなし」の第二作です。
 今回は、ニューヨークのビルに巣を作ったタカのお話。
 彼らは、ニューヨーカーにとっての癒しになったわけです。
 そらそうですね。
 ちょうど今は、ツバメの巣立ちを見送った方も多い時期だと思いますが、あれは本当にかわいいですが、親が捨てるフンの問題もあり、でも、みんな文句も言わず、今年も来てくれたと喜ぶわけです。それのタカ版です。
 そりゃすごい!
 でしょ。(ひこ)

『むしをたべるくさ』(渡邊弘晴:写真 伊地知英信:文 ポプラ社 2008.01 1200円)
 食中植物の写真絵本です。
 こんなに詳しくじっくりと、その生き方を眺めたのは初めてです。
 残酷そうに見えるシーンも満載ですが、へたな感情を交えず、事実を記しているので、そんな感じは少しもしません。
 むしろ、「生きている」って、どういうことかが納得が行きます。
 子どもの頃に、こういう写真絵本を見ることができたら、世界をしっかり眺め直せる気がします。(ひこ)

『ケーキをさがせ!』(テー・チョンキン:作・絵 徳間書店 2008.04 1400円)
 犬の夫婦のケーキを、ネズミたちが盗んだ!
 追いかける犬さんたち。
 というのが、ずーっと続く絵本です。
 言葉は一切ありません。
 なんだそれだけかと思うなかれ。
 世界も、日常も、時間も、彼らだけのためにあるのではなく、画面の中では、さまざまな生き物の、さまざまな出来事が起こっています。
 それらを、順番に追うには、何度も絵本を見直す必要があるかもしれませんし、一目でそれら全部を追っていけるかもしれません。どっちであれ、世界は多くの時間で出来ているのが判る絵本です。
 もちろん、そんな教えのためにある絵本ではなく、世界のざわめきを感じることができればもう、楽しいです。(ひこ)

『かきやまぶし』(内田麟太郎:文 大島妙子:絵 ポプラ社 2008.01 1200円)
 狂言でおなじみの柿山伏の絵本です。
 おなかがすいた山伏が、こっそり柿を食べているところに、畑の主がやってきて、樹上に隠れている山伏に気づきます。
 からかってやろうと、カラスかと言えば、山伏はカラスの鳴き真似をし、といったお話です。
 まず言葉を、今の子どもにもわかるようにしなければいけませんから、内田の腕の見せ所です。ちょっとフラットに成りすぎている気もしますが、じゃあどうすればいいかと問われると、難しいところです。
 大島の画は、すっごく良いです。狂言だと、見立てですませてしまうところ(それが狂言の面白さですが)を、場面にしなければいけないので、もう思い切り描いています。この腹の据わり方が気持ちいい。(ひこ)

『しちどぎつね』(たじまゆきひこ くもん出版 2008.04 1500円)
 上方落語ではおなじみの「しちどぎつね」の絵本化。
 誰がやるといって、この人ほど相応しい作家はいないでしょう。
 お伊勢参りの途中、喜六と清八が放ったすいかが狐にあたり、この狐、七倍返しをする「七度狐」で、さあ大変。二人は、七度もだまされます。
 田島の画は、タッチも色合いも自由奔放にハネています。
 田島さん、絵がどんどん若くなってないですかい?(ひこ)

『きちょうめんな なまけもの』(ねじめ正一:詩 村上康成:絵 教育画劇 2008.05 1000円)
 絶妙デュオ、三作目です。これまでで一番良いです。
 タイトルから、もうだいたい、そのノリは判ってしまうのですが、判ることでニヤリと、読む楽しみが増してきます。意味は判った、お二人さん、どう展開してくれますか? ってね。
 それは子どもでも同じだと思いますよ。テレビででも、なまけものを一度見たら、そのイメージはしっかり出来てしまっているはずですからね。
 そして、この絵本は、外し方が、期待を裏切りません。本当に几帳面に描いてくれます。(ひこ)

『にげろ! にげろ! インドのむかしばなし』(ジャン・ソーンヒル:再話・絵 青山南:訳 光村教育図書 2008.04 1500円)
 おくびょうなウサギが、マンゴーが落ちたことで驚いて逃げ出し、それにつられてウサギたちが逃げ出し、それにつられて、シカがイノシシが、そしてトラまでが逃げ出し、まるで世界の終わりのよう。
 さて、いったいどうなりますか。
 画は、一方向へ一方向へと走る姿を巧みに描いていて、スピード感があります。
 が、枠取りなどで、オリエンタルっぽくしているところが、少し弱いです。色合いも、インドより、ポリネシアンかな。
 その辺りのアジア感も窺いながら楽しむのが吉。(ひこ)

『モグと うさポン』(2008.03)『モグ そらをとぶ』(ジュディス・カー:作 三原泉:訳 あすなろ書房 2008.05 1400円)
 四作目、五作目。
 とぼけたネコのモグと、飼い主家族の物語です。
 どっちも楽しいですが、『そらをとぶ』の方がわらっちゃうかな。
 大好きな庭に、謎のテントが出来てしまい、いつもそこでトイレをしていたモグですが、怖くて、家の中でそそうをしてしまいます。怒られて、落ち込むモグ。
 実はテントは、ネコのコンテストのためにたてられたのでした。
 次々と、ご自慢のネコを持って現れる参加者。でも、肝心のホストネコ、モグがいません。家の中で反省です。
 コンテストはどんどんすすみ、さて、モグどうするのか?
 このシリーズ、全体に漂う温かさが、好きです。
 作者がネコ好きなのは、ネコ好きの人にはとてもよくわかります。(ひこ)

『ウマソウのピョンピョンピョーン』(みやにしたつや:作・絵 ポプラ社 2008.03 780円)
 ただいまきょうりゅう絶好調の、みやにし作品です。
 今作の主人公もきょうりゅうの幼子です。
 基本的には、母親物。
 ウマソウが、ただただ走って、母親に抱きつくまでを勢いよく描いています。裏表紙にささやかに、「おとうさんにもチュッ」とありますなあ。
 泣くなおとうさん。(ひこ)

『でこあてすりすり』(朝川照雄:作 長谷川知子:絵 岩崎書店 2007.10 1000円)
 熱が出た子ども。
 おかあさんはお仕事でいません。
 お父さんに連れられて、お医者さんで注射。
 でも、なかなか熱が下がらない。
 帰ってきたおかあさん。
 でこあてすりすり。
 このあと、おとうさん、熱が出て……
 おとうさん、泣くな。(ひこ)

『せんねん まんねん』(まど・みちお:詩 柚木沙弥郎:絵 理論社 2008.03 1500円)
 生命のつながりを唱った、まどの詩に、柚木が絵を付けた絵本です。
 椰子の木が育つために、まず椰子の実が落ちる。で、それが芽が出て育つ、なんて方向には行きません。落ちた衝撃でミミズが飛び出てきます。
 そんな風にして、命が巡り、椰子の木が育ち、
 では終わらず、また実が落ちて、またミミズが驚いて飛び出して、と続きます。
 詩は、詩のリズムを持っている訳ですから、見開きページ十数面に割ってしまうと、リズムを切ってしまう危険があります。柚木は、文字の置き位置に工夫を凝らしています。それから、具象と抽象を互いに差し挟むことで、柚木がこの詩から受け取ったリズムを表現しています。(ひこ)

『したのどうぶつえん』(あきびんこ:作 くもん出版 2008.06 1200円)
 上野(うえの)動物園にやってきたら、電車が地面にもぐりこんで、したのどうぶつえんに。
 ・・・・・・・・・・・・・。
 すっごく、ベタで脱力ですね。
 で、したのどうぶつえんにいる動物もベタです。
 のこぎりのような首の「のこぎりん」や「れいぞうこ」ってゾウや、胸がタワシの「たわしわし」や、ああ、もう厭。
 ここまでアホらしいと、きっちり笑えます。(ひこ)

『生きもの いっぱい ゆたかな ちきゅう』(本川達雄:うた ワタナベケンイチ:え そうえん社 2008.05 1200円)
 『ゾウの時間 ネズミの時間』の本川が作った、生物の多様性を唱う歌の絵本化。
 意図はとてもよくわかりますし、きっと講義で歌われたら楽しかろうと思いますが、それに絵を付けるとなると、これは成功しているか、疑問です。
 単純に、わかりにくいです。
 もう一ひねり欲しいです。(ひこ)

『アマモの森はなぜ消えた?』(山崎洋子:構成・文 海を作る会:写真・監修 そうえん社 2008.05 1300円)
 アマモが海という森とそこに暮らす生き物を育てる、ということを解説した写真えほんです。
 「写真えほん」としては、情報を詰め込みすぎではないでしょうか?
 例えば、子ども向けの写真えほんに、子どもが写った写真が、こんなに多く必要でしょうか? これでは、読んでいる子どもはかえって、絵本の中に入りにくいのでは?
 文も、「こんなにしげったよ。さて、なにがいるかな。」といった呼びかけ文より、もっと普通の方がいいと思います。(ひこ)

『ころころ おむすび』『おやさい とんとん』(真木文絵:さく 石倉ヒロユキ:え 岩崎書店 2008.02 600円)
 おいしいたべものを、リズム良く見せていく赤ちゃん絵本。
 画はもっとシンプルな方がいい気もしますが、たべものが出来ていく過程は、やっぱり見ていて楽しいですね。
 赤ちゃんはどうなんでしょう?(ひこ)

『きが き じゃない』(アントワネット・ポーティス:作 中川ひろかた:訳 光村教育図書 2008.05 1400円)
 前作『はこ は はこ?』もそうだったのですが、元々の作品の言葉と絵のやりとりを、言葉だけを訳して表現するのは、難しい。というか、やはり無理があります。
 中川のいつものキレがありませんし、絵と言葉が必ずしもマッチしているとも言えません。
 文と絵が見開きの左右に分かれているので、不可能なんですが、文がない方が(これは中川を非難しているのではありません。念のため)きっと面白いです。それとも、言葉に絵との関連を持たせないで、競演させた方が。(ひこ)

『ぼく、およげないの』(アンバー・スチュアート:文 レイン・マーロウ:絵 ささやまゆうこ:訳 徳間書店 2008.05 1500円)
 およげないかわうそロロくんの物語。
 彼は、おねえちゃんの励ましで、少しずつ泳ぎを覚えていきます。
 ただそれだけの絵本ですが、絵本はそれだけであっても全然OKなわけで、ここには、何かを習得した子どもの喜びが巧く表現されていて、心地良いです。(ひこ)

『そらの木』(北見葉胡:作・絵 岩崎書店 2008.04 1300円)
 空まで届くくらいに育つという「そらの木」。
 ゆいちゃんに、季節季節に話しかけてくれます。
 秋には少年の姿で、一緒に遊んでくれました。
 季節が流れ、時が過ぎ、久しぶりに訪れた、大人に成ったゆいちゃんが見たのは……。
 幻想と現実が溶け合った北見らしい作品。
 「そらの木」そのものを、少し描きあぐねているのが、心残りですが、ラストのメッセージはちゃんと伝わりました。(ひこ)

『かえるさんの おいけ』(なかのひろたか:さく・え 教育画劇 2008.06 1000円)
 女の子に、かえるさんから、ヘルプ。
 お池の水がなくなったのです。
 そこで女の子は、エイコラエイコラ、水を運んであげます。
 まだ足らない。
 なんとか溜まったけど、色んな生き物がやってきて、また足らない。
 運んでも、運んでも、水はまだ足らなくて、

 典型的な繰り返し物語です。
 主人公の一所懸命さがほほえましいです。(ひこ)

『イーハトーブ ふしぎなことば』(宮沢賢治:文 松田司郎:写真・解説 文研出版 2008.06 1300円)
 賢治の風景を撮り続けた松田の新作です。
 松田が切り取った、賢治の風景と文を楽しんでください。(ひこ)

『かぶと三十郎 きみのために生きるの巻』(宮西達也:作・絵 教育画劇 2008.05 1000円)
 お、新シリーズだ。
 かなりベタな人情話です。
 カブトムシの侍が主人公で、正義があって、泣きが入って。
 ティラノシリーズとは別の物語をどう描けるか、楽しみです。
 今作は、人物紹介もあるので、まだそんなに新しさが見えていません。(ひこ)

『ママ、ぼくのこと すき? しろくまポロのしんぱい』(ジャン=バプティステ・バロニアン:作 ノリス・カーン:絵 灰島かり:訳 平凡社 2008.06 1600円)
 ポロは、最近ママがかまってくれないような気がして、さみしいです。
 色んな動物の友だちに、聞いてみるのですが、原因がわからない。
 さみしい、心配……。
 でも、ほんとうはそうじゃなくて、ママのおなかには新しい命が宿っていたのです。
 という、ママものです。いや、おにいちゃん・おねえちゃんものかな。
 ポロの不安が、とてもリアルに感じ取れます。

 子どもの不安を和らげるために、人間ではなく、いったん別の動物に移行して、描く方法は、よく採用されますが、これもその良き事例です。
 弟が生まれたあとの話ですが、『ごきげんなすてご』(いとうひろし)が、こうしたテーマを人間のままで見事に描いて、ラストにおさるさんを持ってくるのは、動物へ移行する、このような配慮の手続きを、メタで表しているんですね。(ひこ)

『もぐてんさん』(やぎたみこ 岩崎書店 2008.06 1300円)
 庭でもぐらを発見!
 このもぐら、もぐてんさんは、自分の身体のサイズを自由にできるばかりではなく、だれの身体だって、おまかせ!
 ってことで、がんちゃんの家族は、庭に小さなくぼみをつくって、そこに水を入れて、自分たちは小さくして貰って、優雅に水遊び!
 なんて、とても愉快な物語が展開していきます。
 そうした不思議を、発想できる才能は、なかなかなものです。
 画の方が、描き込みすぎかな。もっとデフォルメしたほうが、この物語世界をもっと楽しめると思うのですが。(ひこ)

『ゴロリともりのレストラン』(かとうまふみ 岩崎書店 2008.06 1300円)
 くいしんぼうのカエルのゴロリは、いつも食べることしか考えていません。
 ある日、森をあるいていると、奇妙なレストランがあって中に入ると、なんでも食べたいものがでてきて、幸せ満点!
 ここから、『注文の多い~』系の話になると思いきや、そうではなくて、どんどん、出てくるわ、出てくるわ……。
 ちょっと怖くて愉快です。
 絵が、物語の説明っぽいのが、時々あって、もったいない。(ひこ)

『いっしょに いたいな いつまでも・2ひきのいぬの おはなし』(ジュリアン・シールズ:さく エリザベス・ハーバー:え おびかゆうこ:やく 徳間書店 2008.06 1500円)
 りっぱなおうちの犬、エミーと、おんぼろアパート暮らしののらいぬサムの恋物語です。
 もちろん困難を乗り越えて、結ばれます。
 王道物語です。こうなって欲しいって方向に、ちゃんと進みます。それが不満の読者もいるのでしょうけれど、王道は王道ですから、恥ずかしがってはだめです。
 エリザベス・ハーバーの絵は、少しクラシカルで、ゆったりとした気分を誘います。(ひこ)

『よーするに 医学えほん からだアイらんど・けが編』(きむらゆういち 川田秀文:作 中地智:絵 江藤隆史:監修 講談社 2008.06 1800円)
 タイトル通りの医学絵本です。
 折り込み絵など、ちょっとしかけもあります。
 からだアイらんどですから、からだを島にたとえて、きむらは説明していくのですが、それに説明画を添えると、かえってわかりにくいのが難点です。イメージが沸きにくいのです。
「血小番人のかつやく」とかいわれても、チト困ってします。バクテリアを「バクテロリスト」って、なんだか違うと思います。
 物語る腕が一流のきむらでも、この企画は難しかったか。(ひこ)

『でんでんむし』(新美南吉:作 織茂恭子:絵 ハッピーオウル社 2008.04 1300円)
 他の出版社でも、南吉の絵本化が行われていますが、これはハッピーオウル社版です。
 子どもの目線をテーマにした本作は、さほどドラマがあるわけでもなく、にも関わらず物語は主にでんでんむしの親子の会話で進んでいってしまいますから、絵が入り込む余地は少ないのです。
 ですから、どう見せるかは、織茂の腕にかかっています。
 極端に言えば、同じ構図の画面で進行しても構わない作品を、どう動かすかです。
 なるほど織茂は、会話や描写に描かれる出来事をかなり忠実に描いていますが、言葉の中にはない、葉の揺らぐ表情や、色や、風の姿を自分の画風で自由に描き入れることで、テキストから出来るだけ離れたところに、絵本を成立させようとしています。
 そこが、出来の良さなのですが、テキスト自身の弱さが残念。これはもう仕方がないのですが。(ひこ)

『ぼくの のりもの なあに』(はたこうしろう:さく・え ポプラ社 2008.04 880円)
 はたらしい、シンプルな物語構造と画の絵本です。
 シリーズ四作目ですが、なにしろ主人公二匹の子グマの名前がクーとマーですから、そのシンプルさは、そこからもわかりますよね。
 様々なのりものの玩具を使った二匹のごっこ遊びが続きますよ。(ひこ)

『よくばり おおかみ』(きしらまゆこ:作 フレーベル館 2008.04 1200円)
 よくばりなおおかみさんは、ひつじこうえんにやってきて、沢山沢山のひつじを見て、全部食べたいから、数を数え始めます。
 ってところで、みんな、もう、ネタとオチは判ってしまうのですが、この作品は、落語と一緒で、わかっていてもおもしろいタイプの絵本です。あのオチへ、あのオチへって、かえって期待は高まるばかり。
 で、期待通りに終わって、わはは。
 たくさんの子どもの前で読み聞かせた方が、絶対におもしろいですよ。(ひこ)

『魔もののおくりもの』(船崎克彦:作 宇野亜喜良:絵 小学館 2008.04 1400円)
 『悪魔のりんご』に続く、このコンビの第二作。
 魔物は、悪いことばっかしていて、でも、彼の呪文がわからないから、誰もが怖れている。
 魔物は悪いことに飽きてきて、ええことをしようと考えて、女の子をさらってきて、何でも望みを叶えてやろうとする。
 けど、女の子は、魔物が差し出す、どんなええもんも喜ばない。
 そして、
 小さなお話として巧く収まっています。この物語イメージは、船崎が宇野の作品イメージからも起こしていることでしょう。ですからその意味でもこれは、二人の良い、コラボ作品となっています。(ひこ)

『えらい えらい!』(ますだゆうこ:ぶん 竹内通雅:え そうえん社 2008.06 1000円)
 色んな物を、とにかくほめあげる絵本です。
 何やしらん、楽しいなあ、これ。
 竹内の画も、なんだかいつもよりずっと「えらい」ぞ。
 楽譜も付いてますから、歌いながら、子どもと読んでくださいな。歌もくせになります。(ひこ)

『やかましい!』(シムズ・タバック:絵 アン・マクガバン:文 木坂涼:やく フレーベル館 2008.04 1400円)
 シムズ・タバックの絵は、いつもなにか、こっちを突き放したようなところがあって、だから、とても気になってしまいます。
 絵描きにはめられているわけですね。
 絵の素養がないので、巧く説明できませんが、視線をこっちと合わせてくれない感じかな。
 で、今作のアン・マクガバンのお話は、小さい家に住んでいるじいさん、家の中の色んな音が気になってしかたないので、学者に相談に行くというパターン。学者の言うことをきけばきくほど、どんどん五月蠅くなって、さて、どうなることやら。
 昔話に似た強度があります。(ひこ)

『おばけの花見』(内田麟太郎:作 山本孝:絵 岩崎書店 2008.04 1200円)
 内田の、岩崎書店発、季節物絵本、花見編です。
 あ、もう梅雨ですね。すみません。
 内容は、あーと、花見の話で、おばけだからもう、はちゃめちゃで、でもちゃんと見事にオチに至ります。素晴らしくあほらしいので、説明ははぶきます。
 内田芸です。お見事。(ひこ)

『ちいさなあなたへ』(アリスン・マギー:ぶん ピーター・レイノルズ:え なかがわちひろ:やく 主婦の友社 2008.04 1000円)
 小さな娘をあやしながら、抱きながら、この子の未来を想像すること。
 楽しいことも、辛いことも、みんな経験して、やがて離れていくだろう子ども。
 そんなことをひっくるめて全部、愛おしいこと。
 「全米の母親が号泣」と帯にありますけれど、号泣してはいけません。号泣タイプの感動ではないでしょう。笑顔になりましょう。
 ピーター・レイノルズの絵は、そう伝えていますよ。(ひこ)

『葉っぱの あかちゃん』(平野隆久:写真・文 岩崎書店 2008.02 1400円)
 タイトル、ベタですが、いいですね。ここで恥ずかしがってはいけませんから。
 若芽から少し成長したくらいの時期を撮影した、様々な木々の「笑顔」です。
 なかなかかわいいです。時々、天ぷらにしたら美味いだろうなと思うやつもいます。
 「ちしきのぽけっと」六巻目なんですが、このシリーズ、なんだか統一性がないのが、面白いし、弱点です。(ひこ)

『ふたりで おかいもの』(イローナ・ロジャーズ:さく・え かどのえいこ:やく そうえん社 2008.06 1000円)
 おなじみの、第五弾です。
 ハニーとねずおじさんは、お買い物に出かけることに。
 でも、ハニーの靴には、なんか入ってるみたいで、そのたびに足を止めて、靴を脱ぐと……。
 しかし、なんで、こんな風に想像力が働くのかなあ。うらやましい。(ひこ)

『かわのたび』(間瀬なおかた:作 岩崎書店 2008.03 1300円)
 ゆかちゃんは、お気に入りのアヒルのおもちゃを川に流してしまいます。
 絵本は、アヒルの流れゆく先々を描いていきます。
 確かに、これは冒険です。間で、心配になってきましたもん。
 作者は結構、アヒルを流れにまかせっきりにするので、あっち向いたりこっち向いたり、流れのままで、無表情なアヒルのおもちゃが、切ない。
 幸せな結末は、チト強引ですが、こんだけ苦労したアヒルだから、いいかあ。(ひこ)

『ばんごはんのごちそうは…』(水野はるみ フレーベル館 2008.02 1000円)
 山登りでおなかがすいた男は、突然現れた大きな家に入ります。何かおいしいものを食べさせてくれないかな? しかしそこは、オバケの家で、本当は食べられるのは…。
 そこから、仕掛け絵本が始まって、『注文の多い料理店』における人間の側の視点と、人間を食べようとしている側の視点が、仕掛けによって見えるようになっています。
 ラストは、意外な展開で、笑わせてくれますよ。(ひこ)

『こねこのレッテ』(いちかわなつこ:作・絵 ポプラ社 2008.04 1100円)
 レッテの飼い主は郵便屋さんですから、彼のかばんの中がお気に入り。
 ある日みつばちを追いかけて、初めて一匹で冒険に。
 こねこってことで、もう、カワイイは、反則のようにあるわけですが、それより、いちかわの絵が端々まで視線を走らせ描かれているのが、当然だろうといえばそうなのですが、気持ちいいです。
 題字のデザインは、もう一工夫欲しいです。(ひこ)

『なにがほしいの、おうじさま?』(クロード・K・デュボア:さく 河野万里子:やく ほるぷ出版 2008.04 1300円)
 王子様が生まれます。
 テオフォルと名付けられた赤ちゃんは、王妃さまのご命令で、何不自由ない生活を。
 でも王子様、いや、赤ちゃん、何がご不満か、何をあたえられても、楽しくなさそう。
 侍従たちは心配して、王妃さまに問いますが、王妃さまは、何でも与えよとおっしゃるばかり。
 でも、赤ちゃんが本当に欲しかったのは……。
 もう、これはすぐにわかりますよね。
 ですから、お話は、ありがちなものですが、絵がなんとも暖かいこと。
 テオフォルの表情が、最高に良いです。
 それぞれのページが一枚の画として成立しています。でも、ちゃんと流れがあるし。(ひこ)

『ふねくんのたび』(いしかわこうじ ポプラ社 2008.05 1200円)
 少年が、引っ越ししていった友だちへの手紙を一隻の船に託します。
 絵本は、この船が海を渡って、少年の想いを届けるまでを描いていきます。
 船の旅(船に乗った人間の旅ではなく、船自身の旅です)は、のんびりから嵐まで、色んなことが起こります。海と空。その大きな空間を「生きて」いく船です。
 ラスト、港に近づいた船が遭遇することは……。
 もちろん、「幸せ」ですね。(ひこ)

『おきておきて ぷーちゃん』(たるいしまこ:さく ポプラ社 2008.05 800円)
 ぷーちゃんシリーズ三作目です。
 なんだかとっても普通にありそうなことを、とっても普通のタッチで描いていて、好感度大のシリーズです。
 今作は、寝ているぷーちゃんが起きない起きない。お日様が言っても、金魚が言っても、犬さんが言ってもだめ。
 仕方ないのでみんなも眠ることにしたのですけどね。
 あははは。(ひこ)

『算数がすきになる絵本』(全四巻 ロリーン・リーディ:作 福本友美子:役 大月書店 2008.03 各1600円)
 足し算、引き算、かけ算、分数、各一巻ずつ。
 わかりやすー。
 で、内容も、ミステリーあり、コントありで、親しみやすく作ってあります。
 ただ、やはり、分数は苦戦。本当は、分数が一番おもしろいはずですが、どうしても、「だいたい二分の一」といった「だいたい」を、この時期の算数は使いにくいので、難しくなってしまいます。思い切って使ってみてもいいと思いますが。「だいたい」から入って、四分の一といった厳密さはあとにして。(ひこ)

『ゾウの長いハナには、おどろきのわけがある!』(山本省三:文 喜多村武:絵 遠藤秀紀:監修 くもん出版 2008.03 1400円)
 科学絵本、パンダに続く二巻目。アザラシの三巻目も出ています。
 一つの疑問に向かって、解説が進んでいく、その持って行き方がいいシリーズ。
それと、喜多村の画がコラージュ、切り絵なども使って、なかなか凝っているのですが、それを素朴に仕上げるので、見た目違和感なく、同時に深みがあるんです。リアルな科学絵でもイラストでもない、新しい科学絵本の絵って感じ。(ひこ)

『ヒグマの楽園』(久保敬親:写真・文 ポプラ社 2008.03 1300円)
 なぜそんなに危険を冒してまでヒグマを撮りに行ってしまうのか?
 久保の文が、とてもいい写真絵本です。
「いつしか幸福な気持ちになっていた。
あれほどこわがっていたのに、愛しい」
「ぼくたちは、ヒグマがこわい。
でも、ヒグマも、ぼくたちがこわい」
「ぼくとヒグマはふれあうことはできない。
たとえ、めのまえで、
同じ時間をすごすことができるとしても。
『ヒグマの楽園』に、
ぼくはいっしょに暮らすことはできない。」
 この絶望の温かさ。出来のいい児童文学みたいですね。
 ただし、写真のレイアウトはどうなんでしょう? 時々でてくる、画面のこま割。これは、必要あったのだろうか?(ひこ)

『クラゲゆらゆら』(楚山いさむ:写真・文 ポプラ社 2008.03 1200円)
 様々な動植物から、一つの素材に集中して迫り、とことん見せてくれる写真絵本シリーズ最新です。
 クラゲだあ。
 クラゲって、怖いイメージと、癒しイメージと両方ありますよね。
 この写真絵本をながめていると、どっちでもなく、ただただ、綺麗だと思います。
 なんていうんでしょう。
 ただそのまんま生きている、って感じが強い生き物だからかな。
 デスクトップの背景にしたい写真が満載です。(ひこ)

『チュンタのあしあと』(おくはらゆめ あかね書房 2008.05 1400円)
 スズメの名前がチュンタであることに、まず驚くわけですが、ページを繰っていくと、ああ、これはやっぱりチュンタでいいのだな、と思ってきます。
 チュンタは子どものメタファでもあり、タロウとかハナコといったレベルの名前の方が普遍性があったりするわけです。
 距離を測りながら、少しずつ心を通わせていく、ばあさんとチュンタ。
 ラストは、へたにひねらず、かといってベタでもなく、期待に応えてくれるオチ。いい腕です。いい腕ですから、ここに安住した作品を書き連ねることはなされないでしょう。
 おくはらの画は、目を見はるほどの個性をまだ手に入れてはいないのですが、ページごとの場面の切り取り方がリズミカルで、うまいです。単純に言って、ページを繰っていると、楽しい。
 画の方は、おそらく、別の素材を書くことで変わっていきます。(ひこ)

『おしゃれな のんのんさん』(風木一人:作 にしむらあつこ:絵 岩崎書店 2008.05 1300円)
 いのししののんのんさんは、おしゃれをしようと帽子や服をそろえるのですが、帽子が風に飛んで、それを捉まえるために、服を次々脱いでいく。ようやく帽子を取り戻しますが、今度は反対方向に、落ちている服を拾って着ていったものだから、スボンは腕に、服は足に……。
 脱力系ユーモア作品です。(ひこ)

『アルマジロの晴れ着』(かわだあゆこ:ぶん よねもとくみこ:え アスラン書房 2008.04 1300円)
 お祭りに合わせて、新しいマントを編もうと決心するアルマジロ。だって、いつものマントは地味ですからね。
 半分ほど織った頃、いたずら狐に祭りは明日だと嘘をつかれ、大慌てで編んでしまいます。
 編み直す時間はないし……。
 大きなひねりがあるわけでもないですが、その分、素朴な味わいのお話です。
 よねもとの絵は、魅力的な曲線で、不思議な雰囲気を醸し出しています。(ひこ)

『地球温暖化と自然環境』(田中優:著 山田玲司:画 2008.03 2800円)
 地球温暖化を考える絵本シリーズ一作目です。パートを7つに分けて、コンパクトに説明していきます。わかりやすい記述です。
 パートの間に、幕間狂言として、ブラックユーモアたっぷりに山田のマンガが挿入されます。
 この辺りのバランスは悪くないです。
 ただ、表紙から、惹きつけるものが感じられないのはなぜでしょう? 礼儀正しすぎる気がします。もっとキャッチーでもいいのでは?(ひこ)


アフリカ子どもの本プロジェクトを京都で開くことになりました。
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堺町画廊
「アフリカを読む・知る・楽しむ子どもの本展」

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専門家が選んだ約100点の児童書とパネルを展示します。

会 場:堺町画廊
京都市中京区堺町通御池下ル
Tel 075-213-3636
会 期:2008年7月15日(火)~20日(日)
http://www.h2.dion.ne.jp/~garow/exhibition.html

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絵画ワークショップ「絵本の主人公になって描く」いとうひろし
障害のある方、および障害のない方
日時:7/28~7/30
ミューズ・カンパニー クリエイティブ・アート実行委員会
http://www.MuseKK.co.jp

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以下、ほそえさちよです。

【絵本】

『せんねんまんねん』まどみちお詩 柚木沙弥郎絵 (1972/2008.3 理論社)
『まめつぶうた』に収録されている詩を絵本化したもの。ヤシの実が落ち、その地響きでミミズが飛び出す、そのミミズをへびが飲み込むと物事が連なって、そしてまたヤシの実へと戻っていく円環。いくつもの円環がまだ人がやってこなかったころの時間やものごとを作り出す。千年万年という時間を長い短いと表する詩人の遠い大きな視点。このなんとも不思議な感覚を具象と抽象をつなげて描いた画家。美しく力強い絵本。

『ぼく、おへんじは?』ヤニコフスキ・エーヴァ文 レーベル・ラースロー絵 いせきょうこ訳 (2003,2007/2008.2 ポプラ社)
ハンガリーを代表する児童文学作家とイラストレーターのコンビの絵本。『もしもぼくがおとなだったら』(文溪堂)に続く邦訳2作目。どちらも子どもの目線で大人の押しつけや思い込みを困ったものだと表現する。大人は答えにくいことばかり質問するし、ぼくが答えたくなるような質問をしてくれない。質問しても時間がないと別の大人に聞きなさいって言うばかり。でも、きちんと聞いてくれるシャルルおじさんもいるし、大人だってそれなりにぼくのことを考えてくれているらしい。子ども目線と大人の子どもへの願望がうまく混じっているところがエーヴァのこのシリーズの特徴か。

『葉っぱのあかちゃん』ちしきのぽけっと6 平野隆久写真・文(2008.2 岩崎書店)
『ふゆめがっしょうだん』(福音館書店)で不思議な顔みたいな冬芽をたくさん発見したら、こんどはこの写真絵本で冬芽がどんな風に小さな葉をのばすのか、芽吹きの愛らしさ、様々な形をじっくりと見てほしい。産毛が柔らかな日の光に照らされてまぶしく光っています。まさに、赤ちゃんのよう。身近な公園で見られる芽吹き。山の遅い春に見られた芽吹き。冬芽がほころび、開くさまをゆっくりと見せてくれる写真。ラストに置かれた芽吹きの春の山の木々を見上げた写真が素敵。ぼうっとしたやわらかな少し赤みのある山の姿を見る度に春だなあと思います。巻末にはそれぞれの木々の紹介がコンパクトにわかりやすくまとめられています。オーソドックスで親しみやすい写真絵本。

『とんがりぼうしのクロチルダ』エヴァ・モンタナーリ作 井辻朱美訳 (2006/2008.3 光村教育図書)
イタリアの絵本作家が描く不思議な魔女と妖精の世界。魔女の帽子はまがっている。妖精の帽子には星がついている。クロチルダの帽子は星はついていないけど、まがってもいません。魔女でもなく、妖精でもないクロチルダ。どちらの仲間にも入れないのがつまらなそう。けれど、ある日、クロチルダのせいで魔女と妖精が一緒くたになってわからなくなってから、みながすきになったのはクロチルダごっこ。ちょっぴり妖精でちょっぴり魔女のあそびなんですって。おもしろいテーマを扱おうとしているのだが、いまひとつ物語にキレがなく、雰囲気に流されてしまっているのがおしい。独特な雰囲気を持つイラストが魅力的。場面により視点が動き、いろんなアングルで描かれるのもおもしろい。

『くじらのバース  この星の上で』村上康成作 (2008.2 ひさかたチャイルド)
海に囲まれた小さな小さな南の島に住む少年ナリン。ナリンは冬になるとやってくるザトウクジラのバースと同じ年。夏の間、遠い北の海でたくさんのさかなを食べ、嵐のなかを泳いだり、いろんな島を通り過ぎ、戻ってくるバース。バースの姿を見て、遠くの海に思いをはせるナリン。野球をして、ともだちとこの島に暮らすナリンの毎日は、たしかにバースの毎日とつながっている。地球というこの星の上で、邂逅するいのちの不思議。リズムのある絵の展開で見せる余韻ある絵本。

『14ひきのもちつき』いわむらかずお作(2007.11 童心社)
おなじみの14匹シリーズの最新刊。今回はみんな、せいぞろい、力を合わせた餅つきの様子が細やかに描かれます。美術館とその土地をフィールドに米作りや自然への共感を子どもたちとともに広げてきた作家だからこそ、この14ひきにどうしても餅つきをさせたかったのでしょう。餅つきに一家総出のしきたりは現代の日本では一般的ではなく、学校や学童クラブ、地域の催しのひとつとして、ながめるものになってしまっています。それでも、皆で集まって食べ物を作るのは楽しいもの。いつ見てもこのシリーズは、みながそれぞれに自分の意志で動いているのがいい。一緒にと言いつつ、なかなか手伝えないとっくんはおもちゃの車を引っ張って、うすの周りをうろうろするし、飽きてきたくんちゃんも周りで遊び始めます。おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさんもたのもしく、大きいお兄ちゃん、お姉ちゃんも大活躍。こういう姿をみて、自分も大きくなったらと気持ちをふくらませるのも、小さな読者のうれしいところでしょう。

『おふろのおふろうくん』及川賢治、竹内繭子作 (2006/2007.11 学研)
絵本っているものの面白さはページとページの間の飛び方なんだろうな。そんなことを思わせてくれる絵本。おふろのなかで船長になったり、つりをしたり、大雨に降られたり、潜水艦から出てきたり。ぴょんぴょんとあら、まあ、こんなことをして!とびっくりさせながら、きちんとつながって、ほっこり楽しい終わり方をする。のんきそうな、たよりなさそうなお父さんがいい味をだしています。コンセプトがあって、デザイン的でありながら、子どもの動きをとらえていて、あたたかみのある絵。湯気がとても効果的に使われています。こどもとおふろにはいるって、ほんとに楽しいんだよ。

『ぼくのきいろいバス』荒井良二作 (2007/2007.11  学研)
初めて一人でバスに乗って隣町に行けるのが楽しみで、目覚ましよりも早起きしてしまったぼく。よくみると、お部屋にはバスの絵も飾ってあるし、バスがとっても好きなのね。おひさまのひかりがもこもこになって、きいろいバスが迎えにきました。ぼくは、おはようのあいさつを切符がわりに乗り込みます。バスは、空をいきます。空から見渡す、のうじょうやまちの様子が楽しそう。みんな楽しそうに一生懸命に自分のしたいことや、しなくてはならないことをやっています。だから、ぼくも楽しそうに一生懸命に絵を描くのです。おなじみのロードムーピー系のえほんだけれど、こちらは風景より人に焦点があっているところがちょっとちがうのかな。ぼくのわくわくした気持ちが溢れ出て、たいようからきいろいバスが出てくるところや、また光の束に戻っていくところなどとてもきれい。

『天の町やなぎ通り』あまんきみこ作 黒井健絵 (2007,12 あかね書房)
短編集『おかあさんの目』にはいっている1編を絵本化したもの。今までも『おかあさんの目』『すてきなぼうし』と絵本化されている。天の町やなぎ通りで始まるでたらめな住所が書かれた手紙に困っている郵便局長さん。6通目には差出人の住所があったので、その家に返しに行こうとするところから始まります。家にたどり着いて、はっと気づく局長さん。そのあとの幻想的なシーンに子どもの頃、何度読んでも胸がしんとしました。それを端正な絵で視覚化しています。

『うち 知ってんねん~みんなのことば』小池昌代編 片山健絵 (2007,12 あかね書房)
「絵本、かがやけ詩」シリーズの4巻目。本作では子どもの目線の詩が集められている。子ども時代を振り返った詩や子どもとはと定義した詩、学校生活を書いた詩もある。みんなのことばというのは、みんなのつぶやき。それを書いた人はそれぞれ違うけれど、なぜか、はっと思い当たり、わたしのなかのつぶやきとかさなってしまう、そんな詩が多い。低い目線の、狭い視野の、限られた空間での思いが、どうしてこんなにみんなのものになるのだろうか。それが詩のもつ力なのだろう。あなただけに伝えていると思わせる親和性。絵はそれぞれの詩のトーンを画風や画材で見極めて、独立した世界を作り出している。

『おばあちゃんのきおく』メム・フォックス文 ジュリー・ビバス絵 日野原重明訳 (1984/2007.11 講談社)
オーストラリアの国民的児童文学作家である、メム・フォックスの絵本。老人と子どもとのふれあいを描く絵本はたくさんあるが、この絵本では血縁ではなく、地縁でむすびついた老人と子どもというのが珍しい。ウィルが仲良しの老人たちは、家の隣にあるホームにすんでいる。特に仲良しのナンシーおばあちゃんは高齢のため、記憶をなくしてしまっているらしい。仲良しなのにウィルの名前も覚えていられない様子。そこで。記憶とは何かという問いに、老人たちが「あったかいもの」「ずっとまえのこと」「泣きたくなるようなこと」「わらわせてくれるもの」「金のように大切なもの」と答え、それを聞いたウィルが、それぞれを表す物を自分の生活の中から選び出し、ナンシーおばあちゃんへ持っていく。この抽象と具体の組み合わせの妙がこの作家のうまいところであり、子どもをよく知るところだと思う。長く、多くの読者を獲得した絵本らしい絵本が翻訳されてよかった。

『ベスとアンガス』マージョリー・フラック作、絵 まさきるりこ訳(1933,1960/2007,12アリス館)
福音館書店から訳されている3冊以外に「こいぬのアンガス」シリーズがあったなんて。なんにでも興味津々、たしかめたくってたまらない子犬のアンガスと大きいのに恐がりで引っ込み思案の犬ベスが、ひょんなことからであって、一緒に遊ぶようになるまでを描いています。ベスはフラック家のペットで、友人の飼い犬であるアンガスとのお話も実話がベースになっているらしい。4色1色のページが交互に現れる古い型の絵本だけれど、描かれていることが心の真実なので、古くは感じない。

『トプシーとアンガス』マージョリー・フラック作、絵 まさきるりこ訳(1935,1962/2007.3 アリス館)
『ベスとアンガス』の次作。子犬のトプシーはベットショップから大きな家に住んでいるサマンサ夫人にかわれていきます。けれど、いたずらがすぎて、地下室に入れられてしまいました。外に出たトプシーはアンガスとベスに出会い、ペットショップにいた時見知っていた女の子ジュディに再会!一緒にたくさん遊んでお家に一晩泊めてもらいました。本を読んでもらう子どもの「ああ、こうなったらいいのになあ」と思う気もちによりそって、けれども物語の必然はないがしろにせず展開していく見事さ。物語絵本の王道をきちんと見せてくる。

『だんまり』戸田和代文 ささめやゆき絵(2007.12 アリス館)
ぼくんちの猫のだんまりは時々ぷいといなくなる。ぼくが黙ってあとをつけると、草ぼうぼうの空き地で男の人に変身して歩いていくのだ! 一生懸命自転車でついていくと、いつのまにか不思議な雰囲気の町に。そこは猫の町だった。画家の描く猫の町がとても魅力的。ラストは無事家に戻ってくるのだけれど、だんまりは知らん顔しているのがおかしい。

『ソルビム2~お正月の晴れ着(男の子編)』ペ・ヒョンジュ絵と文 ピョン・キジャ訳 (2007/2007,11セーラー出版)
昨年1月に出た『ソルビム』(女の子編)につづく2作目。展開は同じ、小さな子が伝統の衣装を一つ一つ身に着ける様子を愛らしく描いている。動作を表すのに小さなイラストを用い、片ページ、見開きページとイラストの大きさで緩急をつけ、単調にならないように工夫して構成している。解説も丁寧で、韓国ですら、このようにきちんと細かに解説を付け、お正月の盛装の意味や意義を本という形に残して伝えていかなければならないのかと感じ入った。

『エルフはぞうのしょうぼうし』『エルフ、がっこうへいく』『エルフのびっくりプレゼント』ぞうのしょうぼうしシリーズ ハルメン・ファン・ストラーテン絵と文 野坂悦子訳 (2005,2006,2007/2008.5 セーラー出版)
オランダの人気絵本作家のシリーズ。消防署にすんでいる11頭のゾウ。でも、いつも小さなエルフは仕事に遅れてばかり。もう、こんなことが続くなら消防署を出て行ってもらうぞといわれるのですが。大人の中に1頭だけ子どものゾウがまじっているみたい。だからこそ、この絵本に子どもが入り込めるのでしょう。ちゃんとラストは小さいからこその活躍をして、みんなのための消防士として認められるのです。2巻目では学校へ行くエルフ、3巻目ではお誕生日のプレゼント(これがなるほど、おっかしいの)を用意してくれる消防隊が描かれる。消防隊という大人の集団に1頭いる子どもという設定だからこそ、子どもの世界である学校やお誕生日の描き方がひとひねりされ、うふふっと笑ってしまうものになっている。

『かわべのトンイとスニ』キム・ジェホン作 星あキラ、キム・スヨン共訳(2000/2007.12 小学館)
市場へ豆やごまを売りにいったおかあさんを待つ兄妹。川辺で遊びながら過ごします。その川辺の岩たちが、いろいろな姿に見えてくる絵本。ソウルを流れる漢江の上流にある東江という川の実際の風景が描かれているという。作者は子の場所を描きながら、この岩がふっと別の姿に見えてきたことから、「絵の中に隠されて絵」の絵画展で発表し、それを絵本に仕立てたものらしい。何が隠れているのかを解説しているページもあります。見立ての絵本はよくあるけれど、実際の風景を元にしているのはめずらしい。

『イグアノドンとちいさなともだち』V・ベレストフ詩 松谷さやか訳 小野かおる絵 (1987/2008.3 小学館)
阪田寛夫と長新太コンビの名作『だくちるだくちる』のもととなった詩に絵をつけて、新たにまた別の絵本が作られた。イグアノドンとその小さな友だちプテロダクチルスの様子を丁寧に具体的に描いている。古代の友情を雄大にえがいた『だくちる だくちる』に対して、本作ではラストシーンの絵に赤ちゃんを抱き、歌を歌っているおかあさんの姿をおくことで、歌に乗せて何を伝えてきたかという普遍に思いを広げている。

『あ、そ、ぼ』ジャック・フォアマン文 マイケル・フォアマン絵 さくまゆみこ訳 (2007/2007.12 小学館)
カラーインクの魔術師マイケル・フォアマンが、華麗な色を封印し、コンテの線と最少の色づけでえがいた男の子の心象風景。息子が書いたいじめ体験の詩を絵本にするには十数年の年月と、けずりにけずった表現とが必要だったんだな。我が子に見舞われた不運をどんなふうに見守り、それをのりこえていったのか、ひとりぼっちの男の子の表情にその苦悩が忍ばれる。糾弾ではななく、心を開く方向へむかっていったからこそ、見つけられた現在なのだろうと想像される。シンプルでわかりやすいけれど甘くはない。

『おんぼロボット』アキヤマレイ作 (2007.12 理論社)
長谷川集平氏のゼミで作った絵本がデビュー作になったという。窓から見える向こうの町に憧れて、「いつか、まちにいきたいなあ」という小さなロボット、トト。ある日、博士が寝ているうちに、丘を駆け下り、町にはいり、少年と出会います。少年がロボットを「トミーじゃないか」というところにあれっとおもい、ラストでおんぼロボットがリセットされ、「メロ」という名前になったのを見て、ああと思います。何度リセットされても、のこる憧れの心。リセットされても、かわらずに関わってくれる少年の存在。一つの心の有り様を形にしているという点で注目に値する。少年や博士など人間の造形や町の様子や遊ぶ様子など、あえて、ぎくしゃくとロボットめいた描き方になっているところも不思議な感じ。

『だから、ここにいるのさ!』バベット・コール作 せなあいこ訳 (2006/2007.12 評論社)
バベット・コールは社会的な視点でユーモアをもって、けれどかなり辛辣に現代社会を描く。『トンデレラ姫物語』や『ママがたまごをうんだ!』をみてほしい。本作でも、それは健在。新聞を開けば悪いニュース、テレビじゃ戦争の話、子どもたちはぬすみ、たかり、やりたいほうだい。主人公はミュージシャン。モヤモヤを自分の音楽でおいはらいたい。「なんでぼくはうまれてきの?」と思い至り、それを歌にすることに。自分の生きてきた道を振り返るといろんな人にみんなに役割があってさ、ジグゾーパズルのピースみたいにそれぞれぴたっとはまって誰かを助けるんだよ、という結論に達する。それは一つの見識。

『だるまだ!』高畠那生作 (2008.1 長崎出版)
「あっ、あれはなんでしょう?」と海の向こうを眺めると、だるまだ!と扉のタイトルが入るテンポの良さ。あとはもうシュールな那生ワールドの展開で『おまかせツアー』と同質の力技的な展開。流れ着いただるまたちが人々の暮らしのなかで様々に用いられ、その形態を生かした変身ぶりに、クフフフっと笑うだけでいい。でも、だるまだけで終われないのがこの作家の絵本の作り方なのでしょう。こんどは空からとエンドレスをにおわせて。

『むしをたべるくさ』渡邉弘晴写真 伊地知英信文 (2008.1 ポプラ社)
食虫植物に焦点を当てて作った写真絵本。このテーマはあるようで今までなかったなあ。表紙の怪獣の口みたいなのがまず目を引いておもしろい。とげとげが合わさって出られなくなってしまうハエトリグサの葉。ネバネバに捕まってしまうと溶かされるモウセンゴケ、滑って落ちると這い上がれないウツボカズラ。罠式、ネバネバ式、落とし穴式と虫を捕まえる独特な方法に目をつけた写真。アップでじっくり見たり、ロングで群生するさまを見せたり、工夫された構成が親切。身近ではないけれど、うごかないと思われている植物の積極的な行動(?)を見せつけられ、ぐんっと子どもの興味を引くに違いない。

『ちーちゃい チーチャ』パトリシア・マクラクラン&エミリー・マクラクラン文 ダン・ヤッカリーノ絵 青山南訳 (2004/2007.12 小峰書店)
『のっぽのサラ』で知られるマクラクランが娘とともにテキストを書いた絵本。犬と猫がすんでいるいる家にある日、突然やって来た赤ちゃん。犬と猫の目で描かれる赤ちゃんの姿と、いっしょに過ごす毎日をあたたかみのあるセンスの良い絵でヤッカリーノが描く。最初は「赤ちゃんなんかいらないわ!」といっていたのに、泣けば気になってあやしにいくし、眠らずにおきているとうたを歌ってあげます。すっかりパパとママみたい。だからかな、チーチャのはじめての言葉は「ワン」とニャー」。小さなエピソードを丁寧につみ上げて、ラストのおちにもっていく、マクラクランらしい物語で愛らしい。

『オオカミ』エミリー・グラヴェット作 ゆづきかやこ訳(2005/2007.12 小峰書店)
ケイト・グリーナウェイ賞受賞作。「オオカミ」という絵本を借りてきて読んでいるうさぎが主人公。メタ絵本というべきか。読んでいる内容と読者であるうさぎの姿が重なって、ラストは、本だけが残っている。次のページには図書館からの返却督促状が。細部まで意識された巧緻な構成。クール!

『小さなお城』サムイル・マルシャーク文 ユーリー・ワスネツォフ絵 片岡みい子訳 (1947/2007.12 平凡社)
マルシャークの『子どものためのお芝居』からの1作。ヨーロッパなどではお話に仕立て直していくつかの絵本が出ているが、本作は初期の脚本仕立てのままに翻訳されているのがめずらしい。ワスネツォフのリトグラフもみごと。小さなお城とあるけれど、カエルが見つけ整えたお家にネズミと雄鶏とハリネズミが次々とやって来て、一緒に暮らしはじめる。そこへ、オオカミや熊、きつねが小さな動物たちを食べてしまおうとあの手この手でお城(家)に入り込もうとする様をいきいきとした台詞回しで描いている。これは声に出して読むか、やはり脚本として使うのが楽しい。小さい動物たちの活躍にきっと子どもは大満足。

『屋上のとんがり帽子』折原恵写真・文 (2002/2008.1 福音館書店)
ニューヨークのビルのてっぺんにあるとんがり帽子をかぶったみたいな円筒形のもの。何だろう、不思議不思議とカメラマンの探索が始まります。ちょっとしたきっかけでどんどん調べて、その調べものの世界が広がっていく様を見るのはとてもおもしろい。一つを知れば、その先へと目が移っていくのはとても健やかで頼もしい。そうやって見つけ、調べられたとんがり帽子の正体は、給水塔。木で作られている理由や作り続ける会社の成り立ちなどを見てみると、もの作りや歴史につながって、同じものを目にしても思いの広がり方が違ってしまう。それが知るということなのだろう。こういう気もちに連れて行ってくれる本が「たくさんのふしぎ」には多い。

『ぐーぐーぐー みんなおやすみ』イルソン・ナ作 小島希里訳 (2007/2008.2 光村教育図書)
ソウルに生まれ、イギリスで美術を学び卒業制作で作った本作が絵本デビュー作となった新人。マチエールを生かした大きな画面に装飾的なかわいらしいイラストレーション。夜おきているみみずくが眠っている動物たちの様子を紹介する。アニメーションを学んだ人らしくページごとにアングルの変わる切り替えがおもしろく、絵本のリズムを作っている。

『かわいいサルマ アフリカのあかずきんちゃん』ニキ・ダリー作 さくまゆみこ訳(2006/2008.1 光村教育図書)
サルマがおばあちゃんに頼まれて市場へお使いに。まっすぐいって、まっすぐかえってくるんだよ、しらないだれかとおしゃべりしないでね、と言われるんだけど、知らない犬としゃべっちゃった。犬はサルマからお買物を入れたかごもサンダルもこしぬのもスカーフもビーズもとりあげて、サルマのふりをして、家に帰り、おばあちゃんをおどして、大きなお鍋に隠れさせてしまいます。助けにいくのはアナンシのかっこうをしているおじいちゃんとおばけのお面を着けたサルマと男の子でたすけにいきます。

『あかいはな さいた』タク へジョン文・絵 かみやにじ訳 (2007/2008,1 岩波書店)
白地にポンと赤い花をつける植物を描く。そこに短い印象的な文章をおく。見開きの展開で次々と赤い花が紹介される。かんつばき、おきなぐさ、チューリップ、まつばぼたんにカーネーション、ほうせんか、身近な花もあれば、ほうっと思う花もある。赤いとひとくくりには出来ない、朱から赤紫までの色のバリエーション。ボタニカルアートとも違った丁寧なタッチで描かれる花たちは、子どもが「あかいはなみーっけ」と差し出す、そのまなざしに似ているのかもと思った。

『日本の川 たまがわ』村松昭さく (2008.2 偕成社)
奥多摩の山から東京湾に注ぐまでを空から俯瞰する視点で描き出した絵本。細かく描かれる地形や土地の名、鎌倉時代の合戦跡や昔の人の水の分配の知恵など要所要所をコラム的にまとめ、わかりやすく見せてくれる。俯瞰で見ることで川のまわりの環境と人の暮らしのつながり方がよくわかる。

『てんぐのくれためんこ』安房直子作 早川純子絵 (1984/2008.3 偕成社)
安房直子の童話はふしぎのなかから必ず子どもがかえってくる。今回はてんぐのくれためんこをもってきつねの世界に入って行った男の子が、きつねの子と勝負するうちに、足を開き、腰を落とし、てを振り上げる、めんこ打ちの姿を体得していくのです。天狗にもらった不思議な風のめんこは落ち葉に戻ってしまいますが、体得したうでは男の子のもの。そこがいい。負け続ける子どものために、一休みさせた時間にせっせとめんこにロウを塗る親ギツネたちの姿が微笑ましく、怖い面構えだけれど、子どものために手をかけめんこを作ったり、遊びを応援したりするのが、ちょっとうらやましくもあります。

『にいさん』いせひでこ作 (2008.3 偕成社)
ゴッホと賢治を追い続けている作家が、ゴッホの弟、テオの視点でゴッホをとらえた絵本。幼い頃、一緒に見た、歩いた風景。ゴッホの歩いた道筋をおって、伝記的な事象をちりばめながらも、兄さんの姿を兄さんの見た風景の中に見いだそうとする文章。それをひまわりやヒースや麦畑、ゴッホへのオマージュに満ちた絵がいろどる。テオの手紙を読み込み、伝記まで訳した、その対象へのくるおしいまでの接近が、昇華されているようにおもう。

『100かいだてのいえ』いわいとしお作 (2008.6 偕成社)
横長の絵本をたてに使うと、本当に高くのびて行くように見える。横のものをたてにする。それだけでなんだかわくわくしてしまう。横長の絵本をたてに使って、高い家のなかを見せていくというアイデアは、目新しいものではない。『30かいだての30ぴき』(フレーベル館)など、探し絵の手法も使って楽しい絵本になっている。本作では100階建てという点、見開きごとに住んでいる動物たちが代わり、家々にも細かな仕掛けがあって、それを見ていくのがおもしろいようにしているところだろう。

『すみれおばあちゃんのひみつ』植垣歩子作 (2008.6 偕成社)
ぬいものじょうずのおばあちゃんがかえるやちょうちょなど小さな生き物たちに乞われて、いろんなものを直していく。細やかな手仕事のあたたかさがファンタジーをしっかりと支えている。破れてしまった蓮の葉には、レインコートの余り布でアップリケをし、ちょうちょのはねにはレースでつぎあてを、壊れてしまったヒヨドリの巣はありったけのはぎれでつくろいます。でも、糸も布も使い果たしてしまったおばあちゃんは、孫娘のワンピースに刺繍をしなくてはいけなくて。ラストはわあ、素敵!と歓声を上げたくなるような仕上がり。小さな子たちにも身近な生き物とこんふうにつきあえるおばあちゃんって不思議。雨の日もわくわくするかも。丁寧に細々を描かれた絵をじっくり見ていくのも楽しい。

『めでたしめでたしからはじまる絵本』デイヴィッド・ラロシェル文 リチャード・エギルスキー絵 椎名かおる訳 (2007/2008.5 あすなろ書房)
昔話のはじまりは、「むかしむかしあるところに」とはじまるものだけれど、それをおしまいから語りはじめたらどうなるか? 発想の転換ですね。すると、結果が先に分かって、その理由はとさかのぼる展開に。どうして?という疑問がページをめくる原動力になって、ありきたりの(昔話というものはだいたいパターンになっていますからね)お話が、なんとも魅惑的に見えるというもの、という仕掛けなのです。お姫さまも騎士も、ドラゴンも大男も出てきますが、この本の中の登場人物は、たいていの昔話とはちょっと違うキャラになっています。現代的というか。だからこそ、このさかのぼるというアイデアが生きてくるのですが。ページをめくり終わったら、もう一度最初から(おわりの見返しから)順に読んでみてください。この物語の元々のきっかけがわかってにんまりするはず。これこそが昔話的なのでは。

『モグとうさポン』ジュディス・カー作 三原泉訳 (1988/2008.3 あすなろ書房)
ニッキーに小さなピンクのウサギのぬいぐるみ・うさポンをもらったモグ。とっても気に入って、まるでおかあさんみたいに、うさポンに水を飲ませようとしたり、いつでもどこでも、うさポンといっしょにいようとします。そのわりには、自分が忙しくなると、ポイッとほったらかして、みんなをぎょっとさせるのですが。忘れん坊のモグらしい展開で心配したり、ほっとしたりと、読み応えのある1冊。

『モグ そらをとぶ』ジュディス・カー作 斎藤倫子訳 (2000/2008.5 あすなろ書房)
おでぶでわすれんぼうのねこモグの絵本もこれで5冊め。本作ではモグは見馴れた庭がすっかり変わってしまい大騒ぎ。にわで<とびきりすてきなねこコンテスト>をひらくので、テントが張られていたのです。デビーもニッキーもモグをコンテストに出そうと思っていたのですが、モグは屋根裏に隠れてしまい。ご近所に住むいろんな猫が出てくるのが本作の楽しいところ。みんなそれぞれに自分の猫が一番という顔をしてつれてきています。そこへモグは思いがけない行動でみなをびっくりさせました。かわらない毎日とちょっとかわった1日。どちらも大事でどちらも楽しい。それをモグの絵本を読むと感じます。

『しちどぎつね』上方落語・七度狐より たじまゆきひこ作 (2008.4 くもん出版)
落語絵本の金字塔『じごくのそうべえ』を描いた作家が七度狐を絵本化。落語の絵本化にはいろいろと制約があります。物語として場面が動いたり、時間の経過がはっきりしているものが絵本化しやすく、本作の場合もお伊勢参りの旅の道中に、きつねにばかされるふたりの男や魔物が出てきたり、お百姓があきれたりと盛りだくさん。会話とすこしの地の文でテンポよく語られるので、すんなりと物語が入っていきます。落語は耳で聞いて、光景を自分の頭に描き出すのがおもしろいところなのだけれど、絵本では、その光景を絵で見せてしまいます。視覚化されることで、能動的な楽しみを一つ奪うことになるのだけれど、時代の違う物語にすんなり入り込ませ、たくさんの人に練り上げられた物語の楽しみを小さな子から享受できるという利点がまさるということなのでしょう。

『エラと眠れる森の美女』ジェイムズ・メイヒュー作 灰島かり訳 (2007/2008. 3 小学館)
バレエを習っている女の子エラが「眠れる森の美女」のオルゴール曲を聞きながらバレエのお話の世界に入っていきます。ラストのオーロラ姫の結婚パーティーには作曲をしたチャイコフスキーが様々な昔話の主人公たちを登場させているとか。なるほど、絵本のシーンにもみんな描かれていますよ。巻末の解説にはバレエのこと、バレエ曲のことなどやさしく書かれています。バレエを習っている子が特別ではなくなってきた最近では、こういう絵本も刊行されるようになったのね。もちろん、バレエを習っていなくてもこのバレエ曲の華やかさ、おとぎ話の優雅さを描くこの絵本を楽しめます。

『まあ、なんてこと!』デイビッド・スモール作 藤本朝己訳 (1985/2008.1 平凡社)
朝、目が覚めたら、頭のうえに角が生えてしまった女の子。おかあさんはびっくり気絶してしまうし、おとうとはおもしろがっていろいろ調べまくります。角が生えていたって、かわらず女の子と接してくれるお手伝いさんたちの頼もしいこと。つのにドーナツをいっぱいさして、小鳥たちに振る舞うシーンはわくわくします。ヘンテコだけど楽しい1日だったわ、と思える女の子のたくましさ。次の日の朝はというびっくりのラストでまた大笑い。この作家は子供心に寄り添うしみじみとした絵本『リディアのガーデニング』などだしているが、こんな大笑いの絵本も出していたのね。自作の絵本のキャラクターのかえるや大きな頭のお人形などもさりげなく描いていてお茶目な人だ。

『こねこのレッテ』いちかわなつこ作 (2008.4 ポプラ社)
ゆうびんやさんのお部屋で暮らす子猫の冒険の1日をのびのびと描いた絵本。初めて外に出るわくわく、見たことないものばかりのドキドキ、町を走り抜け、小学校の校庭の桜の木に登ってしまったレッテ。土砂降りの雨ににびっくりして、みゅうみゅうなくレッテを助けてくれたのは、顔見知りのベルちゃんと小学校の先生。かばんのようにした上着に入って、やっとおりてきたレッテは楽しく学校で過ごしたのでした。暖かなタッチで描かれる安心の物語と、楽しそうな子どもたちの様子。子猫の気持ちになったり、子どもたちの気持ちになったりして、物語を楽しめるのがいい。

『くまとやまねこ』湯本香樹実文 酒井駒子絵 (1998/2008.4 河出書房新社)
なかよしの小鳥が死んでしまって泣いているくま。森の木を切って、木の実の汁で染めて、なかに花びらを敷き詰めた箱にその小鳥を入れました。どこへ行くにもその箱を持って出かけ、森の動物たちに見せる日々。みんな困った顔をして、つらいだろうけれど、わすれなくちゃ、というのです。鍵をかけ、家に閉じこもるくま。時間が過ぎていきます。でも、くまは自分でドアを開け、外に出て、心動かすものを見つけます。山猫と出会うのです。やまねこに小鳥のことを話しはじめ、楽しい思い出が目に浮かんだときから、絵にピンクの色がのせられます。今まではモノクロの絵が続いていました。くまの生活に色が戻ってきたのです。楽しかったこと、おもしろかったこと、小鳥との日々の何もかもを思い出し、やと小鳥を森の中のひなたぼっこの場所に埋めることが出来ました。小鳥のからだと離れても、思い出が残っているからだいじょうぶなのね。山猫にあうまでは、小鳥との思い出もくまの心の奥底で固まってしまって、生き生きと動き出すことが出来なかったのでしょう。思い出とともに生きるということは、固まった心のままではできないことだったのだなあと改めてこの物語で感じました。静かな、でも暖かなこの絵本はどうしようもない喪失と向き合う時間を描き出しています。その大切さを幼い子にも大人にも変わらず伝えられる物語を絵が支えています。

『たねのはなし~かしこしておしゃれでふしぎな、ちいさないのち』ダイアナ・アストン文 シルビア・ロング絵 千葉茂樹訳 (2007/2008.3ほるぷ出版)
たくさんの美しい卵のイラストレーションで注目された『たまごのはなし』のコンビの新作。次の不思議なたね。たまごとたね、丸くて秘密が詰まっているのは同じですね。さやのなかではずかしがっているたね、おいしい果実で着飾るたね、空や海を旅するたねノノ。たねはみんな眠っていて、日当りのいい土地で栄養を取り、水を吸って、目をさます! たねの形、色のヴァラエティに富んだ様子、芽生えて成長したさままで見られてびっくりすること請け合い。たまごもたねもいのちの固まり。いのちってきれいなのね。

『ちいさなあなたへ』アリスン・マギー文 ピーター・レイノルズ絵 なかがわちひろ訳 (2007/2008.4 主婦の友社)
母になった喜び、大きくなっていく我が子とともに歩める日々は短くて、一人で歩き出す姿を遠くから見守るしかない日がやってくる。やがて独立し、家庭を持ち、こどもをそだて、年老いた時、いつも思いをかけていた母のことを思い出してと語る絵本。母親になったからこそ、自分の子どものときにしてもらったことを、ふっと思い出すときがある。そうやって、思いがつながっていくのだろう。小さな子どもにというよりも、若い女性や年を重ねた人が手に取って、心ふるわせる絵本なのだろうな。

『せんをたどって いえのなかへ』ローラ・ユンクヴィストさく ふしみみさを訳 (2007/2008.3講談社)
ひとふででどんどんページをつなげてのびていく線の間に、色鮮やかなものたちが描かれる。前作では町のいろいろなものをたどっていったが、今回は家の中をたどっていく。グラフィックの美しさ、質問の楽しさはそのままに。数を数えたり、さがしものをしたり、何度もたずねたくなる愉快な家。

『もりにできるいちば』五味太郎 (1979/2008.4 玉川大学出版局)
玉川こどもきょういく百科は物事の元々を見極めようとするおもしろい百科事典だった。谷川+和田コンビの『ともだち』が掲載されたのもこのシリーズです。経済の元々を平易な物語に落とし込んだお話がのっていた。それが独立して絵本になったのが本作だ。立派なブドウの木を持っているきつねがぶどう屋をひらき、森のみんなもそれぞれお店を持って、自分のあげられるものと、自分のほしい物を取り替えっこした。物々交換ね。お店を開いていない時は、ぶどうの木の手入れをしたり、めずらしいものを手に入れたりして、工夫する。素敵なものをみんなにあげて、素敵なものを手に入れるため、みんなどんどん集まってきて、市場は大にぎわい。顔の見える元々の経済ってこういうことだったんだなあ。

『かずをかぞえる』五味太郎 (1979/2008.4 玉川大学出版局)
数を数えるということを、子どもは何度も何度も実際に指さし、声をだして数えます。数の絵本は数を数えたくなるような本がいい。本作では位取りも10のかたまりのタイルを使って、まとまりで教えてくれるので、大きな数になっても大丈夫。100まで数えられるようになったら、きっと大満足することでしょう。

『りんごのえほん』ヨレル・K・ネースルンド作 クリスティーナ・ディーグマン絵 たけいのりこ訳 (2002/2008.3 偕成社)
かわいらしいりんごの精が、りんごの木の1年を紹介してくれます。冬、葉を落としたりんごの木には鳥が虫を食べにきたり、おちたりんごをつついたりしています。春は白い花がいっぱい。ハチに手伝ってもらって、受粉をし、りんごの実がだんだん大きくなり、おいしいパイになったりジャムになったりする。スウェーデンではお庭に必ずはえているというりんごの木。身近だからこそ、1年をじっくり見ていられるのね。巻末にシンプルなアップルケーキのレシピ付き。

『ニューヨークのタカ ペールメール ほんとうにあったおはなし』 ジャネット・ウィンター作 福本友美子訳 (2007/2008.4 小学館)
ニューヨークのセントラルパークで狩りをし、そばの高級アパートに巣をかけたアカオノスリという小型のタカの子育ての様子はワールドニュースでも少し紹介されたことがあります。その実話をウィンターが絵本化しました。野生の生き物が都会の囲われた自然に戻っていているのいうニュースは日本でも聞くようになりました。ニューヨークでも同様なことが起こっているようです。アパートの巣をかけると食べ残しの骨がふってきるのをいやがったアパートの住人が巣を撤去すると、大騒動に。バードウッチャーたちがアパートの下で抗議行動に出たのです。野生と人の暮らしのせめぎあいをなんとか双方で折り合いを付けること。現代の問題が、この絵本からも見て取れます。だからこそ、ウィンターはこの出来事を絵本にせずにはいられなかったのでしょう。

『こわがりやのクリスだっしゅつだいさくせん』メラニー・ワット作 福本友美子訳 (2006/2008.5 ブロンズ新社)
小さいこって基本的にしらないところはきらい。自分の知っている安心できるところでならどんなにわがままもできるのだけれど。このリスのクリスもそんな感じかしら。安心できるどんぐりの木からまわりを眺めて、こわいことがないか、いつも確認している。なにかあっても準備万端の救急箱を持っているから、大丈夫さ! というページになると、その大げさな装備に、自分のことは棚にあげ、おかしそうに小さな子はクリスのことを笑うのだけれど。ひょんなきっかけで今までとは違う自分を知り、新しい場所を自分の知った場所に出来る楽しさ。そうやって、みんな大きくなって行くのね。

『セミ神さまのお告げ~アイヌの昔話より』古布絵制作・再話 宇梶静江 (2008.3 福音館書店)
『シマフクロウとサケ』に続き刺繍絵で描かれたアイヌの昔話絵本。パッチワークで描かれるだけでなくアイヌ刺繍が施されることで、呪術的な雰囲気や昔話の在る世界の意味付けなどが視覚的に受け取られるところが特徴となった絵本。6代の世を生き抜いたというおばあさんの歌が予言となって、村に津波の災害がもたらされ、海に逃げたおばあさんは海の王を怒らせて、地獄へ落とされてしまう。そのおばあさんがよみがえったのがセミの姿であり、蝉の鳴き声はその夏の天候や秋の実りを予知するのだと考えられていたのだという。巻末に作者による昔の暮らしぶりや歌を歌うという意味などの解説がある。お話の元々は暮らしぶりを伝えるものであったのだと言うことがそれを読むとよくわかる。本書はオーストラリアのアボリジニーのおばあさんが手がけた絵本によく似ている。どちらも民族の文化を支えた暮らしぶりの最後の享受者であり、その文化が暮らしの変化とともに廃れてしまうことを危惧し、何とか絵とお話で伝えようとしている。

『みずたまレンズ』今森光彦さく (2000/2008.3 福音館書店)
雨上がりの緑の美しさにはっとする。クモの巣にたくさんの雨粒が引っかかっている写真の見事なこと。写真家の目はその一粒一粒の雨粒に目を凝らす。虫たちが雨粒をよけてゆっくり歩いているさま。小さな雨粒にたくさんの花が写り込んでいるさま。カメラをのぞきながら、雨粒が周囲を映し込んでいるのを発見した時の写真家の驚きと喜びが見えるようだ。これこそ、センス・オブ・ワンダーであったことだろう。それを小さな子に身近な絵本で、子どもの手に取りやすい形で構成した意気がうれしい。

『からだがかゆい』岩合日出子ぶん 岩合光昭写真(2008.3 福音館書店)
地球動物記を著した写真家ならではのショットをあつめたもの。どんな動物もかゆいかゆいと身体を手や足でかく様は、ちょっとおまぬけで、安心感も見えて、親しみ深い。こんなふうに、身体をメンテナンスしている時は、動物にとって心安らぐ時でもあるのかもしれない。その表情を見るだけでなんともほほえましい。台詞が聞こえてきそうな写真。

『クラゲゆらゆら』楚山いさむ写真・文(2008.3 ポプラ社)
不思議な形でゆらゆらしているクラゲの写真が25種あまり紹介され、その成長の過程もよくわかる。被写体がおもしろいし美しいので、いつまで見ていても飽きないのだ。シンプルなテキストでクラゲの特徴を捉え、名前とともに紹介している。

『ぜったいわけてあげないからね』かとうまふみ作(2008.4 偕成社)
ロシアの民話から抜け出てきたようなおばあちゃんと動物たち。このおばあちゃんは、外でおやつを食べるのを楽しみにしているのだけれど、声をかけてくる動物たちの目の前でおいしそうに食べ、ぜったいわけてあげないのだ。誰かと一緒のおやつはうれしいけれど、ひとりぼっちのおやつはつまらない。よって、みんなの分も作って、みんなに声かけ、おやつパーティーをすることに。意地悪なキャラが改心するのはお約束なのだけれど、もうひとひねりあってもよかったかも。でもこのシンプルさを狙ったのかな。

『ざっくん! ショベルカー』竹下文子作 鈴木まもる絵 (2008.5 偕成社)
バスに宅配便に電車にパトカーと続いてきた身近な乗り物絵本、今回ははたらく車の雄、ショベルカーです。月曜日から1週間かけて、ショベルカーのお仕事を紹介します。公園でいくつも深い穴を掘って、植木を植える穴作りをし、町で水道工事のお手伝い、山の崖崩れを防ぐ工事をしたり、古い倉庫を取り壊したり、いろんな仕事をしています。部品を取り替えれば、すくったり挟んだりと作業も変えられます。お話仕立ての中に、無理なくショベルカーの働きや様々な形大きさがあることなどが手際よく描かれるのが、このシリーズの楽しいところ。

『こうまのウーラ』とづかかよこ作 (2008.5 偕成社)
『すうちゃんのカッパ』でデビューした作家の第2作。子馬のウーラが大事にしているぬいぐるみのサリーとの毎日を貼り絵の手法で楽しくかわいらしく描いている。ぬいぐるみのサリーは布地を張り込んで質感を出し、主人公の子馬のウーラはキャラクターのはっきりした貼り絵でくっきりと。サリーを連れて歯医者さんに行った帰り道、みずたまりをとびこえるときに落としてしまってサリーをどろんこにしてしまったウーラ。でも、きょうは一緒におふろに入って、きれいに洗ってあげましたよかった。何気ない毎日をうまくお話に組み込んで、前半の伏線もきちんとお話に収斂するように作り込んでいるところはいい。貼り絵という手法と表情のつけ方のせいなのか、物語がどうも作りものめいて見えてしまうのが残念。

『ここにいきるみんなのもの』ジリアン・ローベル文 ダニエル・ハワーズ絵 まつかわまゆみ訳 (2007/2008.3 評論社)
巣穴の中で1匹だけ目をさました子ねずみ、木の葉のトンネルをトコトコ進み、知らない匂いをかいで出かけていきます。ひかりの中でであったのは、ミツバチ、花、おひさま、ちょうちょ、空。探しにきてくれたママにここはなんていうところなのか、と尋ねたら、これが世界というものよと教えてくれます。大きくて美しいこの世界は誰のもの?と聞くと、ここに生きるみんなのものよと、ママは言いました。このような世界の賛歌は幼いうちは何度でも声に出してきかせてあげたいもの。あなたたちが生まれてきたこの世は生きるに値する素敵な場所だということをしっかりと伝えるために大人は生きていかなくてはならないのですから。そういう姿勢の絵本、イギリスには多いですね。

『そのウサギはエミリー・ブラウンのっ!』クレシッダ・コーウェル文 ニール・レイトン絵 まつかわまゆみ訳(2006/2008.3 評論社)
エミリーとウサギのぬいぐるみのスタンリーがいろんな冒険をしていると、女王様の軍隊から、スタンリーを女王のぬいぐるみやおもちゃと取り替えるようにとお使いがやってくる。いつも追い返していたエミリーだが、ある夜、ベッドに一緒に寝ているところを、さらわれてしまった! ヘンテコな冒険と毎回トントントンとドアをたたいてやってくる女王の家来たちがおかしいナンセンス絵本かと思っていたら、自分だけのお人形の作り方を女王に伝授したページでなるほどと感心。こんなこと、小さい子どもなら誰にも教わらないで毎日全霊でやっていることだったわね子どもの真実を愉快に今風に見せてくる。

『さいこうのいちにち』ジーン・ウィリス文 トニー・ロス絵 小川仁央訳(2006/2008.5 評論社)
地上に出てきたカゲロウが過ごす喜びに満ちた、一生懸命な1日を、柔らかなタッチの美しく色のにじんだような絵で描いている。詩のような短く印象的なテキスト。地上に出て、ひかりの中を飛ぶうれしさ、結婚式を挙げるよろこび、静かな夜に卵を池に産み落とし、月のひかりのもと充実した1日をむねによこたわる。カゲロウをえがくことで、いのちの輝きを凝縮してみせることが出来ると作家はおもったのでしょう。小さな絵本だけれど、だからこそ、この内容に合った作りになっている。

『ともだちみつけた』森山京作 松成真理子絵 (2008.4 あかね書房)
森の近くに引っ越してきたぶたの家族。三つ子のコブタくんが外に出てみると、向こうの方に家が見えます。草原の中にいくつかの顔も。ようし、草原に入ってかくれてさがしてやろうお互いにそう思ってそろそろ歩いていると、いたい! なにかがおしりにぶつかった! かくれんぼして、みつけっこして、いつのまにか、ともだちになってしまう動物の子どもたちの愛らしさ。新しいお家にみんなで出かけて、およばれしてしまうひとなつっこさ。初めての出会いのドキドキも、あそびながらなら、だいじょうぶ。やわらかな草原の花々がやさしく、物語のあたたかさとともに子どもたちを包みます。

『写真で見る 世界の子どもたちの暮らし~世界31カ国の教室から~』ペニー・スミス/ザハヴィット・シェイレブ編著 赤尾秀子訳(2007/2008.1 あすなろ書房)
美しいグラフィカルな本作りでよく知られるイギリスの出版社ドーリング・キンダスリー社がユニセフの活動を支援するために作った写真絵本もこれで3冊目になる。今回は本作から約100円をユニセフに寄付し、それが災害にあった国の小学校などに贈るスクール・イン・ア・ボックスなどの資金になるという。世界の子どもたちの日常的な暮らしぶりを学校生活を中心に紹介している。学校で勉強したり、遊んでいる写真、お昼は何を食べているの?と身近なところで世界の子どもへ目を向けるには楽しくうれしい本となっている。31カ国の子どもたちの紹介でも少数民族への目配りが利いており、自分の部族の文化をきちんと学ぶ姿を見せているのがユニセフらしい。

『だいじょうぶ どんどんいこう』まっかなちいさいきかんしゃのぼうけん ベネディクト・ブラスウェイト作 青山南訳 (1997/2008.2 BL出版)
真っ赤な小さい機関車の冬の冒険です。カーブを曲がると動物たちが線路をわたっていたり、大水で道がなくなっていたり、大雪で通れなくなってしまったりと大変ですが、真っ赤な小さい機関車は負けません。みんなの力もかりて無事、目的地のシラカバムラまで到着しました! 細かく描かれる様子が楽しくて、小さい機関車が活躍するのがうれしくて、子どもはページをめくるでしょう。

『とってもいいひ』ケビン・ヘンクス作 いしいむつみ訳(2007/2008.2 BL出版)
なんて悪い日なんだろう、と羽がぬけた黄色い小鳥や母さんとはぐれたきつねやどんぐりを落としちゃったリスがいっています。でもね、次の瞬間、リスはもっと大きなどんぐりを見つけ、ふりむけばきつねのおかあさんは傍にいて、黄色い小鳥だってずっと高く空を飛ぶなんて、いい日なんだろう! 小さな女の子の満ち足りた声が、今日のこの一日のかけがえのなさを伝えます。他愛ない、でもこういう視点こそが絵本らしいと思える絵本。

『機関車シュッポと青いしんがり貨車』リディア&ドン・フリーマン作 やましたはるお訳 (1951/2007.12 BL出版)
『くまのコールテンくん』で人気のフリーマンが夫人とともに作った初めての絵本。夫人との共作は『メットのトランペット』などがあり、夫人は画家としても活躍している。この絵本でもイラストはドン・フリーマンのものであり、一緒にお話を作り上げたということだろうか。絵本にしてはボリュームのある48ページの本であり、お話もたくさんの汽車や貨車、操車場や駅に働く人々を題材に盛りだくさんな感じ。線路脇に置き去りにされた青いしんがり貨車と小さな青い機関車が皆に認められ、二人で仲良くくらしていける境遇になるまでを丁寧に描いている。大きな意地悪な機関車にいじめられるような様子は子どもらに人気の『機関車トーマス』を思わせるが、生き生きとした線のタッチと擬人化された汽車や貨車たちの愛らしさがフリーマンらしい。フリーマンはアメリカで近年続々と絵本が復刊され、これ以外にも紹介されていない絵本がたくさん手に入るようになった。日本で手に入りにくくなっている絵本なども、ぜひ復刊してほしいな。

『こそこそこそっ、かくれよう! マグリーリさんとさむがりうさぎ』カンダス・フレミング文 G・ブライアン・カラス絵 石津ちひろ訳 (2007/2008.1 BL出版)
畑の人参はわけてくれたのに、寒い夜、どうしても家の中に入れてくれないマグリーリさん。うさぎたちは黙って家に入り込み、ぬくぬく夜を過ごします。それが気に入らないマグリーリさんは、入り込んだ先をさがし、煙突をふさぎ、窓に板を打ち付け、ドアを塞いでしまいます。そうして、春の気配を感じて外に出ようとするのだけれど。ブライアン・カラスの絵だからこそエスカレートする行動に笑ってしまう。

『ほたるの川』おおつきひとみ作 ひろいのりこ絵(2007.12 BL出版)
一番の仲良しの直樹とけんかしてしまい、気まずい慎吾。真冬に蛍が舞うのを見たという直樹の話に笑ってしまい、信用しないのかとけんかになったのだ。慎吾は学校を休むし、ますます仲直りしにくくなった。12歳の男の子の友情物語。夜光石を含む岩が雪で青白く光って見える小さな川を二人で見に行くラストが圧巻。丁寧に子どもの気持ちに寄り添う物語を誠実に絵にしている。

『こねずみトトのこわいゆめ』ルイス・バウム文 スー・ヘラード絵 ゆらしょうこ訳(2006/2008.1 徳間書店)
毎晩怖い夢を見てしまうねずみのトト。おかあさんやおとうさんやおにいちゃんに話すとみな、心配して、いろいろ知恵を絞ってくれます。繰り返しや丁寧に積み上げられたお話がオーソドックスで安心して読める絵本。ラストの落ちもかわいらしく、新しい友だちが出来てよかったね、というところ。小さなネズミが家のなかのいろんなものを工夫して使い、生活している様を絵から読み取るのもおもしろい。

『ママブタさん、いしになる!』アナイス・ヴォージュラード作、絵 石津ちひろ訳 (2004/2008.2 徳間書店)
73びきのコブタのおかあさんはなんて大変なのでしょう。寝る時間が過ぎても遊び回っているコブタたちにママブタさんが「おこるわよ」とどなっても効き目なし。とうとう「ママ、いしになっちゃうからね」といって、固まってしまいます。コブタたちがだんだん心配になってきて。見開きに描かれた73びきのコブタたちの姿が圧巻。表情豊かなブタさんたちにフランスのカトゥーンらしい軽さと洒脱さがあって、おもしろい。怒るのと、石になってるのとどっちが大変かしら?

『やっぱりしあわせ、パパブタさん』アナイス・ヴォージュラード作、絵 石津ちひろ訳 (2006/2008.3 徳間書店)
73びきのコブタの父さん、パパブタさんがコブタたちを引き連れて散歩に出かけ、見つけた山の上の小屋。「もしも、ママと結婚していなかったら、あんなところに住んでみたかったな」とつぶややくと、子どもたちはみんな小屋に入り込んで、パパブタさんのいうとおり、朝は上る朝日を眺め、夕方は西に沈む夕日を眺めた。なんて、幸せな気持ちになるのだろう! 子どもたちが浸っている間、パパブタさんは下で時計をみて、タバコを吸い、黙って子どもたちの様子を見ている。お家に戻るのがとってもうれしい子どもたちに「やっぱりママと結婚してよかったね」と言われても、だまって子を肩車するパパブタさん。もの言わぬ表情の複雑さがこの絵本のおもしろいところ。シニカルでシャイなパパブタさん。今まで絵本にいなかったタイプのパパでおもしろいな。

『のいちごそうはどこにある?』エヴァ・ビロウ作、絵 佐伯愛子訳 (1954,1996/2008.2 フレーベル館)
『ハリネズミかあさんのふゆじたく』でその愛らしいイラストとおおどかな物語に魅了されたビロウの絵本、邦訳2作目。シュスリングという小人(妖精?)が建てた4階建ての<のいちごそう>。煙突はあるけれど、階段がないのがおもしろい。その部屋をかりたハリネズミ、うさぎ、りす、しじゅうからがお部屋に入ると、家ががっしゃ~んと倒れてしまいました。まあ、なんてこと!それから後の展開がなんともへんてこ。のいちごそうにやってくる動物たちが多くてうるさいので、まがりくねってまよってしまうような道を3びきと1羽は作るのです。あげくのはてに、自分たちまでのいちごそうに戻れなくなってしまうなんて。のいちごそうへの迷路のようになってしまった道の地図までのっていて、読者に呼びかけて終わるところが昔の絵本らしいなあと思います。よく考えればおかしなお話なのに3色で描き分けられた絵の愛らしさとおっとりした口調にはまってしまいます。

『フィリッパ・ラズベリーのうた』エファ・ビロウ作絵 石津ちひろ訳 (1960/2008.3 フレーベル館)
森にすむ小さな妖精たちのお話をみひらきごとに紹介している。うた、とあるところをみると、きっと原文は韻を踏んだ詩になっているのだろう。それをリズミカルに日本語にしている。詩とそれをぐるりと囲むように描かれた絵が愛らしい。この絵本を読んだあと、小さな子は、森のなかのしげみの奥に、ぽつぽつ降る雨に、霧でかすむ夕暮れに、小さな虫や生き物に、エルフやニックやプック、ピュスリングを見つけるだろう。

『でんでんむし』新美南吉作 織茂恭子絵 (2998.4 ハッピーオウル社)
コラージュで描かれる小さな自然。新美南吉のことばはなんてうつくしいのでしょう。やさしいのでしょう。小さな小さなかたつむりの子が見あげる、葉っぱと葉っぱの間の空は、なんてきらめいているのでしょう。静かなお話ですが、何でも答えてくれるおかあさまが、「だれがそらのなかにいるの?」「そらのむこうになにがあるの?」と聞かれた時に「さあ、それはしりません」と答える姿にはっとする。だからこそ、小さな子はその疑問を持ちづつけ、憧れに体いっぱいのばすのだ。この絵本にはセンス・オブ・ワンダーがある。

『みーんな いすのすきまから』マーガレット・マーヒー作 ポリー・ダンバー絵 もとしたいづみ訳 (2006/2007.12フレーベル館)
車のキーだってなんだって、みーんな椅子の隙間から出てくるのという愉快なマーヒーの詩に、とってもリズミカルでチャーミングなダンバーの絵。それだけでも楽しいのに、そうそうソファの隙間にいろんなものが入り込んで、探している時には見つからないのに、ヒョンなときに、なんでこんなものが!というものが見つかるのよねえ、と共感しきりの絵本。訳もユーモラスでおもしろく、工夫されているなあと思った。

『さてさてきしゃははしりますノ』ウィリアム・ビー作 もとしたいづみ訳 (2007/2008.1 フレーベル館)
アメリカで人気の新進絵本作家の1冊。グラフィカルでお茶目なイラストが目を引きます。駅ノホームにあふれんばかりの人たちが、それぞれの車両に乗って出発するのを、見開きごとにたっぷり見せてくれます。たぶんコンピューターで描いているのだろうけれど、あえてべた塗りで稚拙な感じに仕上げた絵が親しみやすく、かわいらしい雰囲気を出しています。

『つんつくせんせいとくまのゆめ』たかどのほうこ作絵(2007/2007.11 フレーベル館)
「つんつくせんせい」シリーズの6冊目。『つんつくせんせいとつんくまえんのくま』ででてきたくまの幼稚園がまた登場します。おっちょこちょいで食いしん坊なつんつく先生。そり滑りをしていて、なにかにぶつかったと思ったら、あのつんくま園でした。くまたちが春になって冬眠から目覚めたら食べようと用意していたおやつをつんつく先生がつまみだしたので、こどもたちはびっくり! そこへ、目を覚ましたつんくま先生がやってきたのでもっとびっくり! でも。つんくま先生が「本当のような楽しい夢を見ながらねむりましょう」と言った通り、本当の、でも夢みたいに楽しい出来事が描かれます。こんなこと、あったらいいな、楽しいなという子どもの思いを、きちんと物語のかたちで見せてくれるシリーズ。人気があるのも納得です。

『こいぬ、いたらいいなあ~おかしきさんちのものがたり』おのりえん文 はたこうしろう絵 (2007,12 フレーベル館)
おかしきさんちの4人兄弟の愉快な毎日を描くシリーズ2作目。本作では、雪の日、4人が外で雪だるまを作ったりして遊んでいたのだが、犬の足跡をたどっていく3男のいーに気づいて一緒にいくと。大きなおなかをした犬のショコラや飼い主のおばあさんと知り合って、どうしてもショコラのあかちゃんがほしくなってしまった4人。それをちゃんと受け止める両親。いいね。それぞれに自分を出しながら、一つの思いを強くしていく兄弟。元気いっぱいの鉛筆の線、気持ちがあふれる水彩の色。絵を読む楽しさにあふれています。

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