【児童文学評論】 No.90 2005.06.25
【連載】
絵本読みのつれづれ(6) おいしい話
鈴木宏枝
[Tさん3歳0ヶ月(女)/Mくん4カ月(男)]
絵本や児童文学と食べものは切っても切れない関係にある、というのはわりに一般的な実感である。食べものを戦略的に使う絵本はたくさんあるし、食べものが象徴的な意味をもつ作品や、食べものが読者の住む現実との着地点になるファンタジーも多種多様に思い起こされる。
その興味から、私は研究面で、白百合女子大学児童文化研究センターのFood for Thought(思考の糧)プロジェクトに参加し、日本や世界の食文化や食と児童文学との関わりについて考えているところでもある。
食べものは、幼児の生活で大きな部分を占めるけれど、すべてではない。すべてではないけれども重要だ。絵本でずいぶん食にフォーカスした作品が多いのは、子どもの興味以上に大人たちのほうに、食の意義を伝えたい意識があるからだろう。
食育や子どもの食は、時代的なテーマでもあり、その時代性は大人が仕掛けていくものである。
さて、大人の思うとおり、Tさんは食べものの話が好きだ。だけど、それだけ突出しているかというと、実はそうでもない。
TさんやTさんの同年齢の友達を見ていると、単に食べるのではなく、好きなものを食べることが好きだという当たり前のことが見えてくる。大いに体を動かしてお腹がぺこぺこになれば、多少苦手なものもたいらげるが、そうでない日は、気分によって好き嫌いが現れる。おなかがすいていなくても食べられとか、見た目においしいものを食べられる、というのは、大人の食べ方に近く、親の思い通りにいかないことも多い。食は、親のルールに最初に逆らう自我の現われにすらなりうる。
Tさんの生活は、大人のように食で区切られていない。もちろん、ほぼ決まった時間に食事やおやつは食べているのだが、食の合間に遊ぶのではなく、本質的には遊びと遊びの間に食事(やそれに近いおやつ)を取っており、生きるメインは実は食ではなく遊びの方にある。
Tさんの食べもの絵本への興味は、自分の経験と遊びからの応用としてあらわれる。食べものの絵本は、食べもの固有への興味以上に、広く生活の経験に根ざしたところで魅力をもつようなのである。
食べものが出てくる絵本で、最初期に読んだひとつは、『はらぺこあおむし』(エリック・カール/もりひさし訳、偕成社、1976.5)だった。2歳前後の頃、友達の家で見せてもらった小さいボートブック版である。ページをめくるところは楽しんだものの、あおむしのごちそうは数種類の果物しか分からなかった。土曜日にあおむしの食べた「チョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキとそれからすいか」をすべて理解したのは2歳8ヶ月くらいだった(その場合も、これらを全部食べたわけではなく、「サラミはベーコンのおともだち」とか「チョコレートケーキはおいしいケーキ」とかそういうレベルのものもある)。
知っている食べものが増えていくにつれて、この絵本の楽しみ度も増していく。ぼーっと眺めているだけだった土曜日の食事の場面では、やがて、現実の食の広がりとリンクするかのように読まれる食べものを順番に指差していくようになった。
今では、Tさんは自分でそらんじる。アイスクリームもさくらんぼパイも手でばしんとたたいてすくいあげるように食べるまねをしたり、どうかすると紙をべろべろなめようとすることもあって、「Tちゃんおなかすいてるの?」と聞くと、たいていその通りで、ほんとのおやつになる。Tさんにとって、絵に描いた餅は食べられるものであるらしい。
Tさんが生まれたときにいただいたサイン入りの『まよなかのだいどころ』(モーリス・センダック/じんぐうてるお訳、冨山房、1982.9)を、私はずっともったいぶって仕舞っていた。いいタイミングで出会ってほしいと思っていて、開架に並べたのが、この前の3月のことだった。「パン屋さんのお話よ」とか「お料理かな」とか何の説明もせずにひととおり読んだ。そのあと、本を閉じたTさんがにんまあーっと笑ったのを見て、大成功だったと、心の中でガッツポーズをした一冊である。
Tさんの<遊び>は、電車遊びからままごと、とすぱっと切り替わるのではなく、らせんのように進化する。例えば、ひらがなを読み上げながら並べた「ばばばあちゃん」のかるたは、並べ方を変えて階段になり、家になり、それから全部まぜあわされ、大きなおなべに投入されて「おいしいケーキのざいりょう」になる。
「おいしいケーキをつくろう」というのは1年ほども長く続いているTさんの室内遊びで、これからも続くことが予感される。去年の2歳の誕生日に食べたケーキが印象的だったか、その頃から「ケーキ」という言葉に反応するようになり、やがて、誕生日にいただいたおままごとの木の野菜や果物は、包丁でばらばらに切ったあと(マジックテープで留めてあってすぱっと切れる)、「おいしいケーキのざいりょう」になるようになった。
「おいしいケーキをつくろう」と言いながらTさんはおもちゃを大なべに入れる。この大なべは私が台所の不要品をあげたものだが、体格比からいくと、魔女の大がまにも匹敵するかもしれない。
材料は1年かけてだんだん進化してきた。今の基本的材料は、木の野菜のおもちゃのほか、「やきそば」と称するひも、ひも通し遊びのスポンジ製のムーミン人形、アンパンマンのプラスチックの指人形、カルタ類、チラシから切り抜いたケーキの絵、はめこみパズルに使う小さな粒粒、おままごとの木のパンなどである。本物のケーキをつくる手順も今ではよく見ているから、「こなを入れて、ぎゅうにゅういれて」と説明しながらの作業で、彼女の中でほとんどできあがったころに「じゃあ、砂糖を入れて」とか適当なことを言うと、「もういれたでしょ」と一喝される。できた材料はオーブンへ。ダイニングテーブルの下にわっせわっせと運んでいって、「おいしいケーキやきますよ」となにやらもぐりこんで操作している。焼き時間にもこだわりがあるようで、食事のときにじゃまなので出そうとすると、「あっ、まだやけてないのよ」と再び押し込む。
『まよなかのだいどころ』は、ミッキーがまよなかの台所でパン屋さんたちに会い、ねりこにいれるミルクを取りにミルキーウェイに行く話である。牛乳瓶の天の川と、そこに飛び込む裸のミッキーの身体感覚もなんとも気持ちがよく、ねりこに埋もれる感覚もくるりと夜空に舞う場面も、もちろんふくらみのある絵も、私は大好きである。
Tさんは、この絵本で「ねりこ」という言葉を覚えた。私がケーキを作っているときに、これなあに?と聞かれて「ミッキーが飛び込んだねりこと同じ”ねりこ”よ」と答えると一発で理解し、さらには、目の前のねりことミッキーのねりこが、まさにつながりあった(ように見えた)。
ミッキーのはなし しってるかい
うるさいぞ しずかにしろってなったら
あかるいへやの はだかんぼになっちゃって
おとうさんとおかあさんのへや
クルッて まよなかのだいどころ
パンやさんが
しあげはミルク まぜて ならして やこう
できたオーブン あつい やけたら ゆげが
ミッキー あたまをつきだして いった
まっすぐ ベッドに もどって
やれやれ ぬくぬく
ミッキー どうもありがとう これですっかりわかった
パンやさん ケーキをたべるわけが
まだ耳で暗記している最中のTさんはこんな風に『まよなかのだいどころ』を読む。私と一緒に本物のケーキを焼き、たまには卵など割ったり、あわたて器でまぜたりする経験も含め、生活のフェイズが重なってこの絵本を楽しんでいるのは間違いない。
『まよなかのだいどころ』以降、彼女の作る大なべの「おいしいケーキのざいりょう」に必ずしも変化があったわけではないのだが、この細かいおもちゃのごたまぜが、Tさんには、あのどろりとしたねりこに見えているのかもしれない。何かの拍子に、「しあげはミルク、しあげはミルク」と歌っているのを聞くのは、私のほうがなかなかいい気分なのである。
もうひとつ、おいしい話といえば『ぐりとぐら』(なかがわりえこ・おおむらゆりこ、福音館書店、1963.12)である。これも、私の思いいれが強すぎて、手渡したのはつい先月のことだった。
大学院の頃、『いっしょにつくろう―絵本の世界を広げる手づくりおもちゃ』(高田千鶴子・酒本美登里・小林義純製作、村田まり子絵、ペソ写真、福音館書店、1994.10)をもとに、黄色い手袋とフェルトで作ったぐりとぐらの人形がある。数ヶ月前にそれを見つけたTさんは「ねずみさん」と言って、服をぬがす遊びに使うようになった。私の作りがやわだったのか、もはや首がもげそうになっているぐりとぐらに、これは本物(?)を見せようかと、近所の「絵本の店 星の子」に行ったときにやっと買い求めたのである。
『ぐりとぐら』も、Tさんはそれはそれは深く聞き入っていて、カステラと大好きなホットケーキとオーバーラップさせて、すぐにお気に入りになった。
子どもの頃の絵本/読書体験が親の世代になってリピートされるというのは、出版の面でも読者論の面でもよく言われることだが、私もこの絵本は大好きだった。何が大好きかというと、カステラ以上に卵の殻の車の場面である。
子どもの頃、この最後の1ページにものすごく引き込まれたことを、ありありと思い出す。この車に乗りたい、こんな車が作りたい、と強く思ったのが小学校の低学年くらいだったろうか。戦隊もののヒーローが乗っていたサイドカーつきのオートバイにもあこがれたし、小学校高学年で男子の間でラジコンが流行ったときにも一度触ってみたかった。
それを私は口に出して言わなかったせいか、どれもかなわなかったのだけど、この卵の殻の車をうまく作れたら、TさんとMくんを乗せて、ついでに私も一緒に乗りたい。いや、私が乗りたい。「ぐりとぐらのカステラ」や「ぐりとぐらの人形」の作り方はよく見るけれど、この車の作り方を紹介したものが何かあったら、ぜひご教示ください。
この前、Tさんは、ホットケーキやケーキの作り方を思い出すように『ぐりとぐら』を楽しんだあと、最後の車の場面で「どこに行くのかなあ?」と言った。おうちかな? ゆうえんちかな? どうぶつえんかな? ……と私が口に出すのは簡単だったけれど、まっしろな状態で何を言うかとわざと黙っていたら、Tさんは「ここでつないで(殻どうしをつなぐわっかを指差す)、これ乗っけて(道具類をなぞる)……、どこにいくのかな。」としばらく思案し、切り株や木の絵を指でなぞったあと、右下の小さな署名を見つけ、「ゆ、り、こ。ゆりこにいくのね」と納得していた。ゆりこかあ。素敵なところだといいな。
Mくんは人好きである。まだ人見知りしない時期で、あやされれば笑い、ほほえみかける。空腹でもおむつでもなく、「かまって、遊んで、しゃべってよ」で泣くようになった。うれしいときやくすぐられたときだけでなく、Tさんが大声で笑っているときは、Mくんも声を出して笑う。笑いもまたまねびなのである。気候がいい時期は、リビングのそばのベランダに出し、バウンサーに座って外の風に当たっているのはなかなか優雅かもしれない。
我が家では特に絵本の時間というのは決まっていない。朝、出勤前のパートナーに読んでもらっていることもあれば、私がパソコンで仕事をしているそばに「こどものとも」を山積みにしているときもある。「1冊だけね」とやぼを言うと、Tさんはそれはそれで納得して、残りは「じゃあ、これはTちゃんがよむね」と音読しはじめる。もちろん、あとは寝るだけ、という状態で、眠くなるまでソファで読むというのは、一番いい時間だ。
そのとき、間が会えばMくんもよく聞いている。どうかすると、この子は、絵本好きで、ソファで私とTさんが並んですわり、Tさんのひざにある絵本をMくんを抱っこしながら読むと、Mくんは口を三角に開けて笑って喜び、すごいキックを入れて、絵本の上にダイブしようとする。
Mくんはまた、私の口の動きをじっと見ている。こうして彼は日本語を母語として獲得していくのだな、と私は日本語の絵本を読む。Tさんに読みながら、抱っこのMくんも機嫌よく聞いてくれるとき。これも、私にとっては、一回で二人分おいしい時間である。
(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ 「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)
【絵本】
○物語の絵本化
「ふしぎなお人形 ミラベル」アストリッド・リンドグレーン作 ピア・リンデンバウム絵 武井典子訳(1949.2002/2005.6 偕成社)
リンドグレーンのお話がまた、絵本になって刊行された。これは、本国スウェーデンで彼女の晩年の頃から進められている。日本で刊行されたのはオリジナルの画家による「長くつしたのピッピ」(徳間書店)だけだけれど、今回翻訳された本書では今、スウェーデンで一番評価の高い絵本作家ピア・リンデンバウムが絵をつけている。
リンデンバウムは日本では「名犬ボーディル」が刊行されているだけだが、彼女の真骨頂は人間の表情の微妙な動きをきちんととらえ、表現するところだと、この「ミラベル」を見て思った。小さなおじいさんにもらった種を植えてみると、かわいいお人形が畑に生えてくる……という驚きの経験をしてしまう女の子の呆然とした、でもうれしいような、気持ちの悪いような、複雑な気持ちがそのままに見えてくるようなのだ。印象的なブルーとピンクの色使い。日常的な生活の様をリアルに、でも軽やかに描くからこそ、この物語のファンタジーをふんわりとくるんで見せてくれる。
この物語は日本でも昔、翻訳され、日本の画家によって絵がつけられていたが、子どもの実感からは離れた、ふしぎをふしぎとしてしか表現していないものだった。ふしぎが日常と地続きであることを見せてくれるリンデンバウムの絵があったからこそ、このお話は絵本化することができたのだと思う。
物語の絵本化は、画家の読解力を見せつけられる。物語るものの視点をどれに定めるかで、絵のトーンも、描がかれるシーンもきまってくる。お話を語るのは作者ではなく、物語の文章の中に作者が忍び込ませたなにものかであるのだから、それをきちんと見つけださなくてはならない。それを見極めることが、物語のビジュアル化の第一歩なのだと思う。
リンデンバウムは自作のシリーズ<ビルギットとはいいろおおかみ>や<ビルギットとムース>などでやはりふしぎをふしぎのままに受け入れる少女を描いている。このシリーズが日本語で読めるようになれば、もっともっとこの作家の魅力が伝わるのに。
○その他の絵本、読み物
「まほうのむち」オルガ・ルカイユさく こだましおり訳 (2001/2005.4 評論社)
この絵のタッチは、誰かに似ていると思って、手に取ったら、ソロタレフやナジャのおかあさん。子どものために作っていた絵本を刊行をすすめられ、絵本の世界へ。本作は森で遊んでいたうさぎとねずみの子が魔女の家に迷い込んでしまうお話。魔女は魔法のむちをひとふりし、うさぎの子をコマのようにまわしてしまいます。でも、だいじょうぶ、一緒にいたねずみの子の機転のおかげで反対に魔女をとらえ、前に助けた小鳥の手助けで無事、家に帰れるように。圧倒的な存在感を持ってかかれる森の姿が印象的。
「ヘンリーやまにのぼる」D・B・ジョンソン作 今泉吉晴訳 (2003/2005.4 福音館書店)
「ウォールデン~森の生活」にインスパイアされた絵本<くまのヘンリー>シリーズの3冊目。今回のヘンリーは税金を払わなかったために牢屋に入れられてしまいます。奴隷制を認めるような国に税金など払わないというヘンリー。牢屋の中で山を思うヘンリーは壁に絵をかきながら、どんどん心の山にのぼっていきます……。このシリーズではソローの精神を具体化してい描くためにいろんな工夫がされているのだが、本作では山で出会う旅人に「山のむこうに自由が待っている」と、歌わせたり、切れた足鎖を描いたりして、出奔奴隷の姿をだぶらせてみたり、はだしで山を下るヘンリーに辛い思いをさせたりして、自由を獲得するためにどれほどの苦難をがまんしたかをそれとなく表現しているようだ。すらっと読んで、不思議な印象を残すところを絵を読みながら、子どもと一緒に話しながら読んでいけば、また違った味わいがある。巻末にソローの著作からの引用や誠実な解説がのっているのがうれしい。
「どうぶつのことば ケロケロバシャバシャ ブルンブルン」スティーブ・ジェンキンス作 佐藤見果夢訳 (2001/2005.4 評論社)
動物の行動サインを例をあげて説明している。貼り絵の手法で描かれる動物たちの姿がすごい。
説明は端的で、「あぶない」「けんかはしないよ」「結婚しようよ」「なわばりにはいるな」などサインの種
類によって、動物たちのしぐさを分類し、紹介しているので、いろんなやり方をみることができる。
「項羽~大王の赤い花」片山清司文 白石皓大絵(2005.5 BL出版)
「天鼓~天からふってきた鼓」片山清司文 小田切恵子絵(2005.5 BL出版)
能の絵本2冊。日本画で描かれた端正な絵と本職の能楽師の血肉からでてきたような日本語が組み合わさってできた、なかなかに雰囲気のあるシリーズ。虞美人草のいわれとなった中国の物語と天からの授かり子が帝の高慢な振る舞いのため殺されてしまうという悲劇の物語がそれぞれ絵本化されている。やはり絵本にすることで筋を追うことが眼目になってしまうのだが、能の幽玄や時代の持つ空気の有り様を絵と解説で補おうとしているところが誠実。
「ふつうに学校にいく ふつうの日」コリン・マクノートン文 きたむらさとし絵 柴田元幸訳 (2004/2005.5 小峰書店)
ふつうに学校にいく生活のところはセピア色一色でえがかれ、学校にいって変わった先生の変わった授業が始まるところから、イラストがカラー化される。同じような毎日に同じような授業が始まると思っていたのに、今日初めてきた先生は、音楽を聞いて、あたまに思いうかんだ絵をいってみて、といいます。みんなかってに「ゾウが見えた」とか「レーシングカーだ!」とかいって、おおさわぎ。先生はその絵を言葉にして書いてみてほしいと、もう一度音楽をかけたのです……。この絵本を小学5年のクラスで読んだ時、受けた。自分の想像が自分の体の限界を通り越して、どんどん広がっていく様を描いたユーモラスな表現や課題に対するクラスのみんなのそれぞれの態度がおもしろかったようだ。でも、多分、この絵本を目にしたことで、自分で思い浮かべることでふつうの日がぜんぜんふつうじゃなくなる、そういう力を自分が持っているのだと知ることができたのが、うれしくなったのかな。とにかく、この絵本を読んだ後、クラスの空気が、あったかくて軽くなったのだ。昨年刊行された「てん」といい、この絵本といい、学校を舞台にした、視点が広がっていく絵本は貴重で、うれしい。
「わすれんぼうのはりねずみ」竹下文子作 ミヤハラヨウコ絵 (2005.5 あかね書房)
自分の名前まで忘れてしまって、しょうがなくハリネズミのハリーなんて呼ばれているハリネズミの男の子が主人公。何でも忘れちゃうだけあって、おっとりしているというか、お間抜けさんというか。一番のお友だちのポーちゃんのお誕生会に招待されたのだけれど、プレゼントがないことに気がついたのが、お誕生会にいく途中。慌てて走って、ころころころころ転がってやっと停まったところが、ポーちゃんのお家でした。プレゼントは? ころころ転がってハリネズミならぬ、はなねずみになっちゃうという絵が思いついたとたん、このお話は生まれたのではないかしら?ワンアイデアを大切に、ストーリーにのせて、マッチしたかわいらしいおっとりとしたイラストをつけて、丁寧に作られた絵本。
「たのしいなつ」ロイス・レンスキ-作 さくまゆみこ訳 (1953/2005,6 あすなろ書房)
レンスキーの小さな四季の絵本もこの夏で完結。なつやすみ、お外でたくさんごっこ遊びやプール遊びを楽しむ兄妹。時代を感じさせる遊びもありますが、はだしで駆け回り、プールやテントや木陰を遊び場に存分に動き回る姿は、小さな子たちのまいにちそのものでしょう。巻末にうたがついているのがこのシリーズのお楽しみ。レンスキーには自分で作詞した歌唱集もあり、生活に歌が欠かせない毎日を過ごしていたんだなあとよくわかります。
「おじいちゃんがおばけになったわけ」キム・フォップス・オーカソン文 エヴァ・エリクソン絵 菱木晃子訳 (2004/2005,6 あすなろ書房)
大好きだったおじいちゃんが急に亡くなってしまって、なんとも落ち着かないエリック。ママは天使になったのよというけれど、パパは土に還るんだという。どっちも本当とは思えない。すると、夜、エリックの部屋におじいちゃんがやってきたのだ……。大切な人との思い出や残されたものの戸惑いをやさしいタッチで丁寧に描くエリクソン。上質なユーモアをまぶして最後の時間をものがたるオーカソン。さりげないけれど、心がしんとあたたかかくなる絵本。
「水たまりおじさん」レイモンド・ブリッグズ作 青山南訳 (2004/2005,6 BL出版)
この表紙に半透明な大きなお皿みたいなものを背負ったおじさんをみよ。ぽたぽたをしずくをたらし、同じようにびしょびしょになった黒い犬を連れて、あごひげがやぎみたいなおじさん。水たまりを背負っているのだそうだ。ブリッグズのコマ割り絵本は自在にコマの大きさが変化する。家族みんなにそれぞれぴったりした水たまりがあったり、おじいちゃんを犬に見立てて遊んだり、ブロッコリーのことを「木みたいなの」なんて呼んだり、この男の子がいいだすことは、なんともとんちんかんでおもしろい。でも、その中に真実を見るのがブリッグズなのだ。水たまりおじさんとはなんなのか。一生懸命考えてでてきたのがこのおじさんの表現なのだ。無口で東洋的な表情で、見える人にしか見えない存在であるおじさん。見えていることのふしぎの先に何があるのかを答えようとしているのか。
「バスの女運転手」ヴァンサン・キュヴェリエ作 キャンディス・アヤット画 伏見操 訳 (2002/2005.3 くもん出版)
筆で簡単に描かれたような線。「あいつはくさい。おまけにブスだ。なんたって、鼻がでかすぎる」なんて文章で始まる子どもの本なんて、初めて見た。このなんともヘタウマな感じのイラストが、この文章によくあっていて、すごくおもしろかった。ひょんなことから、1日、あんなに嫌っていたバスの女運転手と過ごすことになってしまった男の子のお話。たった1日一緒にいることで、お互いの人生というものをそれとなく知ってしまうようになり、互いの見方が変わってしまうのが素敵だ。
「しらぎきさんのどんぐりパン」なかがわちひろ作 (2005.5 理論社)
絵本や児童文学の翻訳、絵本の創作で活躍する作家の初めての童話。挿し絵も自身で手がけている。一読してイギリスの翻訳童話を読んだかのような印象。それはきちんと日常が描かれ、そこに不思議が入り込み、子どもたちが不思議を通過することにより、何かを得ていく、そういうきちんとした児童文学の型にのっとったオーソドックスな良さを強く感じたから。かといって、いわゆる無国籍童話などといわれたものとはまったく違う。日本の今の子どもの生活もさりげなく、でもしっかりと、お話の核となるような形で描かれているのだ。しらぎくさんは物たちのもつ力と子どもたちの交歓する力を最大限に引き出す舞台装置をぽんと目の前においてくれる。その舞台に立つことで、一定の役割を自分の力でやり遂げ、戻ってくる時、子どもの立ち位置が、ほんのちょっと高くなっている。そんな感じがした。大袈裟な物語ではない。でも、この物語の中に入っていくことで、主人公と同じように、読者もまた、物の力に目を見張り、自分のうしろにある大きな時間の流れをほんのちょっと意識し、それに支えられているという安心を持つことができるのではないかしら。それは今の子たちに持ってもらいたい、切実なおまもりのような思いなのだ。
「ゴリラのりらちゃん」神沢利子作 あべ弘士絵 (2005、5 ポプラ社)
ゴリラのりらちゃんをめぐる3つの小さなお話の入った幼年童話。ああ、そうなんだ、そうだったと、小さかったわが子を思い出し、こういう思いをしたのだっけとしみじみしてしまった。お話はお父さんとのゆったりとした時間がもとになっていて、木から飛び下りるりらちゃんを「てんからふってきたたからもの」とうたったり、お父さんのついたしりもちの跡に、水がたまってカエルたちのお池になったり……。お父さんのセリフが滋味深く、お話の中に必ず入るうたがここちよく、小さな人に読んでいて、とても幸せな時間が過ごせた。子どもはかってにふしをつけて、遊びながら歌っている。それだけ、すとんと幼い心に入り込む言葉と表現になっているのだと思う。(以上ほそえ)
『あめがふるひに・・・』(イ・ヘリ:文・絵 ピョン・キジャ:訳 くもん出版 1300円 2001/2005.05)
なんとシンプルで、なんと強く・優しい作品でしょう。
あめのふるひには、チーターはどうしてる? かさをしっかり握っているさ。と始まり、じゃライオンは? 想像は広がっていきます。
画に力があるので、身を任せて安心。
楽しいんだな、これが。(hico)
『おじいちゃんが おばけになったわけ』(キム・フォップス・オーカソン:文 エヴァ・エリクソン:絵 菱木晃子:訳 あすなろ書房 1300円 2004/2005.06)
何かが死ぬってことは、そこに空間が出来てしまうこと。恋人だったらベッドの空間、クラスメイトだったら誰も座っていないイス、ペットならお気に入りのetc。
でもそれは、そうした空間があることで、消えてしまった誰か・何かをいつも感じることができることでもある。
この絵本は亡くなったはずのおじいちゃんが、幽霊のように(ぼくにだけ見える)現れて、忘れ物、やり残したことを捜していく。彼のいた場所はまだ空間にはなれない。
果たして忘れ物とは?
死をゆっくりと受け入れていく物語です。(hico)
『見えなくてもだいじょうぶ?』(フランツ=ヨーゼフ・ファイニク:作 フェレーナ・バルハウス:絵 ささきたづこ:やく あかね書房 1400円 2005.04)
『わたしの足は車いす』の続編。
迷子になった女の子が、出会った視覚障害者に助けられて、両親を見つけるまでが、実にリアルにわかりやすく描かれています。
この設定そのものが、作者のスタンスを表しているのですが、絵もまた、こうしたテーマにありがちな「ええ絵」ではなく、自立しています。構図もダイナミック。
続編をどんどん出して欲しいシリーズ。
いいぞ!(hico)
『ふうこちゃんのたんじょうび』(はるのみえこ:さく なかにしやすこ:え くろしお出版 1400円 2004.10)
ふうこは6歳の誕生日を控えて、両親からある事実を告げられます。実の子どもではないと。
ふうこは、赤ん坊の自分からもう一度たどって(生き直して)いきます。ユニークとは言えませんが、そこがとても自然で良いです。
ただ、絵は「?」。
この絵が悪い絵だとか言いたいのではありません。文と絵のコラボをもう少し考えて欲しいのです。安全策をとらないで。(hico)
『さかなのじかん』(ともながたろ:え なかのひろみ&まつざわせいじ:ぶん アリス館 1400円 2005.04)
このシリーズは、一応、科学絵本で、調べ学習であるのだが、「きせつは感じるものだ」とか「魚としてのスケジュールをこなしているのだ」などという文体からもわかるように、すましてはいないのだ。ベタなのだ。徹底的に、さかな、さかな。ただそれだけを伝えようとしているのだ。そこが楽しい。なんだかまだまだ続くのだ。
ああ、おまけとしてさかなシールがついているから、うれしいのだ。(hico)
『あかい ふうせん』(ドゥブラヴカ・コラノヴィッチ:作 野坂悦子:訳 講談社 1600円 2004/2005.04)
幸せってやつは、まあ、いろんな時に感じるわけですが、いざそれを伝えようとすると、これがなかなか難しい。語るはしから、どんどん色あせてしまう。
この作品は、「幸せ」を旨く伝えてくれています。
大きな犬のポアンと小さな犬のチポは仲良し。ある日、赤い風船で空の旅に出かけます。出かけるときは楽しいけど、それはやっぱり、危険を伴う空の旅であるからして・・・・。
諍いもあるけど、最後はめでたしめでたし。
画がちょっとカワイすぎるのが気になりますが、「幸せ」が伝わりますから、いいや。(hico)
『ジャンボとりんご』(さかざきちはる ハッピーオウル社 850円 2005.05)
ぞうがちっちゃいリンゴをペロリ。でも自分が小さいクマだったら? おさるだったら?
とどんどん小さな生き物へと想像が膨らんでいきます。
このパターンの繰り返しは絵本ならではの心地よさ。
ユーモアもたっぷりと、シンプルでいいできです。(hico)
『てるてるぼうず』(おぐまこうじ くもん出版 700円 2005.05)
てるてるぼうずは、天気になってほしいために人間が作る物であって、それ以外のなにものでもないのでしょうが、てるてるぼうずからすれば、ぶら下げられたまま毎日毎日いるわけで、そんなてるてるぼうずの毎日を描いた作品。
てるてるぼうずの身になって考えてしまいました。
ふふふ。(hico)
『とってもランチ』(ひぐちともこ エルくらぶ 1800円 2005.06)
食事の最中に「テレビをみるんじゃない! 食べるのよ」と母親に注意された少年は、言いつけ通り、「テレビ」を食べてしまい・・・・。
そのあと、いじめっこのクラスメイトも、クラス中の給食全部も、学校も、とにかく食べる食べる。
子どもの気持ちに寄り添った作品。
満腹です。(hico)
『ブクブクブー』(井上洋介 教育画劇 1300円 2005.05)
道でひろったラッパを吹いてみたら、空からカエルが落ちてきて、そいつに乗っかって、あちこち大冒険。
意味を求める必要はありません。
その荒唐無稽さを、井上の画と共に楽しめば。
だから、画で、好き嫌いは分かれるでしょうけれど、私はOKです。(hico)
『でておいで、ねずみくん』(ロバート・クラウス:ぶん ホセ・アルエゴ&アリアンヌ・デューイ:え まさきるりこ:やく アリス館 1400円 2005.05)
もうなんといっても、ねこの絵がいいです。このセンス、好き。
それだけでも見る価値あり。(hico)
『ぼくの犬』(ジョン・ヘファン:文 アンデリュー・マクレーン:絵 福本友美子:訳 出版企画工房「本作り空」 日本図書センター 2520円 2001/2005.06)
出版企画工房「本作り空」による「世界子ども平和図書館(全4巻)」がスタート。これは第一作目の絵本。
ボスニア・ヘルツェゴビナを舞台にしています。ユーゴの崩壊・分離独立によって内戦が続いた地域、ある一家の物語。
穏やかな日々が民族対立によって一変する。昨日までの友人が憎しみの目で見る。
主人公の少年にとってそれは理解不能な出来事です。そこに、この対立の空しさがよく描かれています。(hico)
『つる-サダコの願い』(エリナー・コア:文 エド・ヤング:絵 こだまともこ:訳 出版企画工房「本作り空」 日本図書センター 2940円 1993/2005.06)
広島平和記念講演にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子の主人公にした、アメリカ発の絵本。
これはもう、戦争と原爆を伝えるための作品として、多くの人に読まれていい。ただ、それ以上でも以下でもないのも確かですが。つまり、敗戦から60年(原作の描かれた時間で言えば50年)を過ぎた「今」だからこその絵本というのではありません。
この辺りの問題は、戦争体験者ではなく、それを語り継ぐ私のような世代が考えなければならないことです。(hico)
『まじょのくつ』(さとうめぐみ ハッピーオウル社 1280円 2005.04)
好調『まじょのほうき』に続く第二作目。
趣向は同じです。
魔女が脱ぎ捨てた靴を、角にし、強そうな黒牛に変身した乳牛が残した皮を、たぬきが着るとパンダになって・・・。
この大嘘が楽しい。
今作は、一作目のささやかなズラシですから、次作も同じようにズラシて欲しい。そうしてどこまで描けるのか?
そこを見たい作家です。(hico)
『のいちごはらのあさのうた・もりのうさぎのうたえほん』(ひろかわさえこ あかね書房 1200円 2005.05)
物語があって、最後に物語に即した歌の楽譜が載っているという、このシリーズではおなじみの作り。
だから安心して楽しめます。(hico)
【創作】『ふしぎな笛ふき猫』(北村想:文 山口マオ:絵 教育画劇 1000円 2005.02.20) 千葉県の民話「かげゆどんのねこ」を北村がアレンジし、山口が絵をつけています。 不作で年貢を収められない村。困った名主さん。彼は笛が大好きで毎日吹いているのですが、飼い猫のシロはいつもそれを膝の上で気持ちよく聞いています。 そのシロが消えました。 と、江戸の将軍の所では笛を吹く猫がやってきて、かわいがられているとのこと・・・。 民話に一ひねりが効いています。 山口の絵は民話風であることより、山口マオの絵に徹しています。それは当たり前といえば当たり前なのですが、気持ちがいいです。 ちゃんと現代の絵+物語になってます。(hico)
身長一八一センチで筋肉質な中野けやき、一四歳。なんの問題もナシ。だといいんだけど、意気地なしだから、その外見との落差から、学校でもいじめられている。そんなけやきの語りで綴られていくのが、『フルメタル・ビューティー! 1』(花形みつる 講談社 九五〇円)。
彼女、自分のことだけで大変な日々を送っているのに、「パパが単身赴任して(中略)二人っきりになってしまった家の中に、ネガティヴモードを持ち込んじゃいけない」って気遣いをしてしまうコ。子どもとしての立場をよくわきまえているわけ。
でも、そんな風によくわかってしまう頭の良さが、彼女の行動を鈍らせているのも確か。
また、「こんな昼間っからカーテン閉めきって『ひきこもりになってやるー』とかいっちゃって。」と、いつも一人ボケ一人ツッコミをしているから、どこかで自己完結してしまっているところもある。
そこに現れたのが、超美形で、男の子に持てまくりの鷹子。けやきの情けなさをキツーク指摘。まとわりつく男がメンドーだからと、けやきを偽装ボーイフレンドに仕立てる。なにしろホラ、身長一八一センチで筋肉質だからちょっと見には迫力があるし。しかし、大丈夫か? けやきのジタバタ、ドタバタに声援しながら、「そのまま全部、自分で引き受けるしかないじゃん」って考えるようになる辺りで、拍手!(2005.06.07読売新聞)(hico)
【ノンフィクション】『10代のフィジカルヘルス1 タバコ』(加治正行・笠井英彦:著 大月書店 1800円 2005.05) 素晴らしく。10代への情報提供をしてくれた『10代のメンタルヘルス』の日本版がスタート。うれしい。 装丁がシンプル過ぎでは? 10代が手に取ってしまうような工夫を。 学校図書館には絶対に置いてほしいシリーズですよ。(hico)