【児童文学評論】 No.86 2005.02.25
【連載】絵本読みのつれづれ(2) センスとナンセンス(鈴木宏枝)
前回の続きのバムケロなのだが、島田ゆかさんはパッケージデザイナーを経て絵本作家になられたため、この絵本は、ストーリーよりも、ずっと眺め続けて色々なものを何度でも発見することのできる<絵>のおもしろさが魅力である、という話を聞いた。なるほど。
そこで、『バムとケロのさむいあさ』(島田ゆか、文溪堂、1996.12)でTさんがすごい勢いで反応していたトイレットペーパー・ミイラのページをもう1回、私もよくよく見てみたところ、それまでは、めちゃめちゃな散らかり具合の楽しさにばかり目がいっていた場面の中に『みんなでミイラ』という本が転がっていたことに突然気づいた。私は普段は<文>担当なので、あまり絵を読んでいなかった。
そうか、ケロちゃんって、リテラルないたずらっ子だったんだ。ケロちゃんは、トム・ソーヤー的個性の持ち主だったんだ。
以前、The Literary Heritage of ChildhoodThe Literary Heritage of Childhood: An Appraisal of Children's Classics in the Western Tradition(Charles Frey & John Griffith, Greenpress, 1987)という研究書で読んだ論考の中で、トム・ソーヤーのいたずらや遊びの数々が、実は聖書やロビン・フッドや「本で読んだ」山賊ごっこなど、書物に基づいていることが指摘されていた。この延長に、レスリー・フィードラーの命名した「グッド・バッド・ボーイ」のイメージを引いて、トムを「「軟弱な」男にならないよう悪童ぶりを発揮し、しかも「文明化」された男らしさを身につけており、将来は、社会で出世の階段を昇るだろうと予測」(吉田純子『少年たちのアメリカ―思春期文学の帝国と<男>』、阿吽社、2004.2)できる少年として捉える見方も生まれる。自由な悪童に見えるトム・ソーヤーは、実は規範の中にいる「良い悪童」なのである。
ケロちゃんも、実はこの系譜?
秀逸なトイレットペーパー・ミイラ遊びがオリジナルではなかったことに、ちょっぴり「なーんだ」、ちょっぴり安堵、という相反する思いが、本を見たときに、一瞬のうちに私の心にわいた。
しかしながら、オリジナルなんて本当にあるのか?と思えるのも事実だ。Tさんを見ている限り、低月齢時代のおっぱいや抱っこ以外のすべては、すべて模倣の連続だった。そして、今や、一番プリミティブに思える<食>や抱っこすら、生存のための本能と同じくらい(少なくとも、今の暮らしの中では)文化の一領域に織り込まれている――精神的なコミュニケーションや、食卓という文化の共有として。彼女の生活のあらゆる面は、遊びも生活も、模倣とつなぎあわせの複雑化によって進化している。
公園に行くまでに郵便やさんの配達を見れば、それをじっと観察して、今までこぐしかしなかった三輪車に乗るときに、ストッパーをかけてかちゃかちゃとめて郵便物を配達する真似をする。――これは「すぐ」の模倣だ。
あるいは、時間がたってからの模倣もある。砂場で、プリンカップをつまさきにはめて「ガシーン、ガシーン」と歩いていたり、家の中でカンカラや小さな箱に足をいれて「ロボット、ガローンよ」と言っているのだが、これは、1歳の頃に好きだった012シリーズの『ロボットボット』(文:こかぜさち・絵:わきさかかつじ、福音館書店、2003.10)の記憶だろう。さらにいえば、その記憶が呼び覚まされたのは、つい最近いただいた『ぼくのロボット恐竜探検』(松岡達英、福音館書店、1994.10)がスイッチになったからだろう。
余談だが、『ぼくのロボット恐竜探検』は、高崎で子どもと読書の活動に関わっている大学院時代の友人が、展覧会で作家の方をお見かけして、Tさんのためにサインを頂いてくれたという嬉しい1冊なのだが、今まで手を出してこなかったジャンルのこの絵本を、(主に反応するのはカブトムシやチョウやハエやカニなどなど、恐竜の周辺の小動物なのだが)「かいじゅうの本、よもうか」と持ってくるようになった。
「かいじゅう」も「きょうりゅう」もよく知らないはずなのにとよくよく聞いてみると、恐竜の記憶は、数ヶ月前に初めて出かけたディズニーランドのリバーランド鉄道の終点付近にある、恐竜時代のパノラマと重なっているらしい。ちょっと怖かった、でもきしゃぽっぽにみんなで乗った経験そのものは楽しかった、というミックスの経験と、それまでの明るさと打って変わったほの暗い恐竜時代の図は、たしかに印象的であったことだろう。
とにかく、「きょうりゅう」と『ぼくのロボット恐竜探検』とディズニーランド、それからロボットと『ロボットボット』と砂場のプリンカップ。いろんな記憶が、センス(秩序)の中で組み合わされて、一見ナンセンス(突拍子もない)な言動や遊びが生まれている。しかし、彼女の中では、とてもロジカルに展開している。生活の中で、すべてが、今まで見たもの、読んだもの、聞いたものの引用と組み合わせで成り立っているのだ。
だから、「オリジナリティあふれる」ではなくとも、それ以上に、かいちゃんのトイレをのぞいてトイレットペーパーを見て、以前に読んだ『みんなでミイラ』を思い出し、その遊びの実践によってかいちゃんとエンジョイしようというケロちゃんの一連の心情は、私にはきわめてリアルに見える。
インパクトのある『みんなでミイラ』、どんな本なのだろう。気になる!
トイレットペーパー・ミイラは、ナンセンスな遊びではなく、きわめてセンスある文学的な遊びだった。<ナンセンス>は幼児的、幼児が好むと思われがちだが、今のところ、Tさんはナンセンスよりセンスある物語を好んでいるようだ。
例えば、『キャベツくん』(長新太、文研出版、1980.9)や『海は広いね、おじいちゃん』(五味太郎、絵本館、1979.3)は、ナンセンスといっていいと思うけれど、Tさんは神妙な顔をして、笑いもせずに読み聞かせを聞いている。
『海は広いね、おじいちゃん』では、おじいちゃんが宇宙人についての難しい本を読んでいるすぐそばで、孫の男の子が変幻自在の宇宙人とエンジョイしているというナンセンスが展開される。このドリフっぽいおもしろさと、宇宙人のクッキーを食べてちょっと考え方が変わったおじいちゃんの思いは、とても説明できないし、説明するものでもない。ただ、五味太郎さんの絵は私も大好きなので、単純に絵を見ているだけでも楽しい。Tさん、あと何年もしてから、言葉どおりの「海は広いね」の向こうにデュアルに重なるナンセンスに気づくのだろうか。ナンセンスは、センスが構築されてこそなのだろう。今は、大好きな「ピンク」の「ぞうさん」や「こんにちは」が楽しいだけでいい。
Tさんにとってのナンセンスというかギャグというかジョークのようなものといえば、例えば、様々な動物の絵が描いてある近所の幼稚園の私道で、それぞれの動物についてわざと違う名前を言う、というものだ。以前は「ウサギ」「ライオン」「クジラ」「アシカ」など、動物と名前の<一致>を楽しんでいたが、今は、それをわざと冗談にして、クジラを踏みながら「アシカ、あ、まちがえちゃったぁ、クジラじゃないのぉ」と頭をかく、という一連の動作をすべての動物で繰り返す。<不一致>が彼女にとってギャグの第一歩というべきか。センスからはずれたところにあるナンセンスのおもしろさは、Tさんにとって、今はこういうところにあるらしい。「コンビニきのこ」とか「アンパンマンおなべ」とか異種のものをふたつ組み合わせて<変な言葉>をつくる遊びも好きである。
キャベツくんを食べると、ゾウもゴリラも不思議なキャベツ動物になってしまって、ブタヤマさんが「ブキャ」と驚く『キャベツくん』など、Tさんには、むしろ、とても論理立った世界に見えているのではないだろうか。
鈴木宏枝(http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/) Tさん(2歳8ヵ月)
【絵本】
児童文学書評2005年2月(ほそえ)
○シンプルで伝わりやすい形 マレーク・ベロニカの絵本
「もしゃもしゃちゃん」マレーク・ベロニカ作 みやこうせい訳 (福音館書店1965/2005.2)
「ゆきのなかのキップコップ」マレーク・ベロニカ作 羽仁協子訳 (風涛社 1984/2005.2)
今年は「ラチとらいおん」が翻訳出版されて40周年になるという。この2月にはハンガリーからマレーク・ベロニカさんをよんで、講演会、サイン会などが大阪、東京で行われました。それにあわせ、新、旧の絵本が翻訳されたのがこの2冊。
「もしゃもしゃちゃん」は日本でなじみ深い「ラチとらいおん」と同じ年に描かれたもの。原題では「みにくいおんなのこ」という顔も洗わない、歯も磨かない、髪もとかさない、お風呂にも入らない女の子が主人公。この設定は「もじゃもじゃペーター」を思わせるが、ペーターが悲惨な感じなのに対し、こちらはいたって鷹揚で、いけませんと叱る大人は出てこないし、友だちだって一緒に遊んでくれたりします。仮装パーティーで妖精になりたいな、といって、そんなもしゃもしゃの頭なのに、と笑われて、家出をしてしまうところから、お話は急展開。最後は森の木や鳥やハリネズミたちに助けられ、きちんと体をきれいにして、妖精のドレスを身にまとい、みんなで楽しくパーティーです。「ラチ」と同様にシンプルな線と様式化された風景、すっきりとした画面にシンプルなテキスト。1ページ1ページが人形劇の舞台みたい。ラストの妖精のドレスにうっとりし、森への道で示される優しい気持ちに心を添わせ、もしゃもしゃちゃんが自分だというようにとりこにしてしまう、その魅力は何なのだろう。幼い子どもが人形や動物に自分を近しいと思ってしまう心象にぴったりする形を持っているのかしら。ハンガリーでも復刊され、多くの子どもに愛されているという本書には子どもという存在が確固としている安心が感じられます。
「ゆきのひのキップコップ」は西洋とちの実でできたお人形が主人公のシリーズ第1作目。6冊まで刊行されていて、季節に合わせ、物語が進んでいきます。こちらの絵本では自然の描写が写実的で、色面で構成された水彩に色鉛筆で細かなタッチをつけたあたたかみのあるイラストになっています。キップコップの表情などは愛らしく、アンパンニシリーズ(風涛社)に近いタッチ。テキストのページは色がしいてあり、右ページの絵と一体となるように原本では工夫されています。日本語版はイラストと文字ページの色の対比が鮮やかすぎて、カラフルではあるけれど、お話の流れを見開きごとに切ってしまうように感じ、ちょっと残念。
キップコップは雪の日に弱って飛べなくなったシジュウカラを見つけます。お家に連れて帰り、クルミや水をやろうとするのですが、他の友だちに食べさせてやってほしい、と頼まれ、雪の中、クルミを持って出かけます。氷の池で滑ったり、吹雪にあったり……。キップコップの目線でみる雪の野原の広いこと、小鳥たちと仲良くなれるまでそっと見ている様子、幼い子に自然への思いをふくらませてくれるストーリーと構成になっています。物語の形だから、ストンと入っていくものがあるのです。リアルなものこそ、幼い子に受け取りやすい形で、ほんわり伝えたい。その術を、みごとに持っているのがこの作家の魅力なのでしょう。
ハンガリーの他の作家の本も日本で読んでみたいです。幼い子の心に伝わりやすい形のお話が、ほかにもたくさんあるようですから。そういう物語を生み出し、大切にしていくということが、子どもの文化が豊かなことになるのだと思います。(ほそえ)
○その他の絵本、読み物
「くまさんはねむっています」カーマ・ウィルソン文 ジェーン・チャップマン絵 なるさわえりこ訳(BL出版 2001/2005.1)
クマの冬眠する洞穴に動物たちが次々とやってきて、ポップコーンをつくったり、紅茶を飲んだりして、大騒ぎ。とうとう、クマが目をさまし……。愛らしく、生き生きとした動物を描くのがうまいチャップマンとどんどん登場するものが増えていくという定番のストーリーを冬眠のクマにぶつけたところが、この絵本の楽しさ。大きなクマがエーンエーンと泣いてしまう展開、ラストのオチなど、まとまっている。アメリカでは、このコンビ、シリーズで刊行中。(ほそえ)
「アティと森のともだち」イェン・シュニュイ作 チャン・ヨウラン絵 中 由美子訳 (岩崎書店 2003/2005,1)
台湾のグリムプレスの絵本。以前、グリムプレスは台湾の出版社であるが、アンデルセンやグリム童話などヨーロッパの子どもの本のテキストに、台湾の細密画を得意とする画家たちのイラストをつけてた豪華本をたくさん作って輸出していた会社だった。そこがオリジナルのテキストの絵本をだし、そんなに間もおかずに出版されたというのが驚き。お話は台湾のツォウ族の伝説や自然観をテキストにとかしこんだもの。画家はフィールド調査や考証などに力をつくしたという。自然への畏敬の念を感じさせるストーリーは、普遍的な型にのっとり斬新さはないけれど、なるほどと納得させ、イラストにいろんな神の形を見つけては、いろんな想像をよびおこす。(ほそえ)
「まりーちゃんとおまつり」フランソワーズ作 ないとうりえこ訳 (徳間書店 1959/2005,1)
「まりーちゃんのくりすます」「まりーちゃんとおおあめ」などで知られるフランソワーズのまりーちゃんシリーズの中の一冊。ほかにも「パリ」に遊ぶ絵本や何冊か翻訳されていないものがある。
春の日、おまつりにでかけ、クッキーを買ったり、お友だちとジュースを飲んだり、ダーツをして景品を当てたり……。途中、ひつじのぱたぽんがいなくなったりと事件もありますが、無事、楽しい一日をすごしました、というもの。フランソワーズの絵の型抜きクッキーみたいな愛らしさとなんてことないストーリーの安心にひたる。(ほそえ)
「あいにいくよ、ボノム」ロラン・ド・ブリュノフさく ふしみみさを訳 (講談社 1965/2005,1)
1994年に福音館書店から翻訳出版された絵本の新訳復刊。ぞうのババールを生み出したブリュノフの長男にあたる作家のオリジナル絵本。この作家は父亡き後、ババールシリーズの作画をになってもいます。
ボノムは頭に長い棘をつけた不思議な生き物。ひとこともしゃべらず、山まで会いに来てくれた女の子と共に一時、人間界にやってきてはまた山に戻っていってしまいます。大人といるのは居ごごちが悪いのでしょうか。黒いペンの線と淡い朱色の2色で描かれた余白の多い絵が自由な読みを提示しています。(ほそえ)
「うんちっち」ステファニー・ブレイク作、絵 ふしみみさを訳(PHP研究所 2002/2005,1)
「フランチェスカ」(教育画劇)では、絵の感じがアンゲラーに似ているし、お話の展開はスタイグの「ロバのシルベスターとまほうのこいし」によく似ていて、う~ん、自分の好きな作家たちなんだろうけれど、どうなのかなあ、とおもっていたステファニー・ブレイク。本作は日本で紹介される2作目になります。イラストの感じがアンゲラーやソロタレフに似ているのはしょうがないけれど、お話は、彼女らしさが出てきたような。何を聞いても「うんちっち」としか答えないうさぎの男の子。おおかみに「きみをたべてもいいかい」ときかれても「うんちっち」としかこたえません。ぺろりとひとのみしたおおかみは、おなかがいたくなっちゃって……。おもしろがって変な言葉しかいわない時期ってあるなあ。お話の展開も昔話っぽくてシンプルで強く、オチもえへへとわらっちゃう。ひとりで読んでも、子どもと読んでもうけました。(ほそえ)
「こいぬのパピヨン そらへいく」エルウィン・ヴァン・アレンドさく 石津ちひろ訳 (平凡社 2005,1)
オランダ生まれ、ベルギーで美術学校へいき、現在は南フランス在住の作家、初めて日本に紹介された絵本です。落書きみたいなラフさで描かれたこいぬのパピヨンはユーモラスでかわいい。えんぴつを見つけて、自分で絵を描いて、おひさまやお花を登場させます。飛行機を描いて乗り込んだら、空のむこうまで出かけていって、帰ってきました……。えんぴつやクレヨンで描いていって、お話が進んでいく絵本といえば、ドン・フリーマンの「くれよんのはなし」(ほるぷ出版)やクロケット・ジョンソンの「ハロルドとむらさきのくれよん」(文化出版局)をすぐ思い出します。それらに比べると場面展開もアイデアのいかし方もちょっとお粗末。この2冊よりも幼い子を対象にしている絵本なのだろうけれど、もうすこし、場面場面をきちんとストーリーに生かしていっても良いはず。見開きごとで絵が完結し、それが先へ進む原動力とならない構成は最近の若い作家にありがちな絵本の作り方だなあと思う。外国でも日本でも。(ほそえ)
「バニーとビーの あそぶのだいすき」サム・ウィリアムズ作 おびかゆうこ訳 (2003/2005.3)
英米では安定した人気のある絵本作家、サム・ウィリアムズが初めて日本で翻訳紹介されました。バニーとビーは愛らしいうさぎやみつばちの着ぐるみをきた小さな子ふたり。小さな子の毎日にていねいに寄り添ったつくり。朝起きてから、外で遊んで、おやすみまでを柔らかいタッチの線と水彩で描きます。イギリスではふたりのぬいぐるみまでそろっている人気キャラクターです。(ほそえ)
「時計職人ジョン・ハリソン」船旅を変えたひとりの男の物語 ルイーズ・ボーデン文 エリック・ブレグバット絵 片岡しのぶ訳
18世紀のイギリスの田舎に住んでいたひとりの時計職人が海の上での経度を知るために、精密な時計を作ったという史実を緊張感のあるテキストと当時の様子を彷佛とさせる細かなペン画でえがきだしたノンフィクション絵本。なじみのない人物の評伝ではあるが、自分の信念に基づいた不屈の人生は心を捕らえる。もの造りの人の典型として、子どもにも印象深く読まれるようだ。(ほそえ)
「きみどこへゆくの?」スウェーデンの子どものうた アリス・テグネール作詞作曲、エルサ・ベスコフ絵 ゆもとかずみ訳詩 (徳間書店1922/2005,2)
外国の絵本にはきれいなイラストと楽譜がコンビになった楽譜絵本がおおい。古くはドビッシーの作曲の「おもちゃばこ」の物語と絵を担当したアンドレ・エレの本。プーテ・ド・モンヴェルの「こどもたちのうた」など。原書で手に取ることは多いけれど、それを翻訳するのは並み大抵のものではない。ただ、日本語に訳すだけではだめで、歌えることばにするのがすごく大変だからだ。それを楽しげにやり遂げた絵本が本書。音楽大学卒業後、オペラ作りの手伝いをしていたという「夏の庭」の作家湯本香樹実の訳詞が甘くなり過ぎず、うたいやすい。スウェーデンでのこの本の成り立ちやテグネールとベスコフの交流を、ベスコフの絵本を多数翻訳している石井登志子が、コンパクトにわかりやすく解説している。うたは子どもの毎日になじみぶかい、遊びの様子をうたにしたものや季節の行事に根ざしたものなど。曲調も楽し気なものから短調で物さびしい感じのものまでいろいろあり、日本のわらべ歌のようにシンプルで一度耳にしたら、すんなり覚えられるような感じがした。ふたりのかけあいで歌いたい「どこへゆくの?」やリズミカルな「おかあさんごっこ」など、うちでは子どもの鼻歌レパートリーになってしまった。本書にある歌たちはリンドグレーン原作のスウェーデン映画などで耳にした歌や音楽にとっても似ていた。それほどにスウェーデンの人のなかに溶け込んだ楽曲なのだろう。子どもの歌は子ども文化の大事な土台ということ、思い知らされる1冊だった。(ほそえ)
「メルヘン・アルファベット」タチアーナ・マーヴリナ作 田中友子訳、文 (ネット武蔵野1968/2005,2)
ロシア絵本の至宝、マーヴリナの豪華絵本。ただのアルファベット絵本ではなく、メルヘン(昔話)に登場するものたちを選んで描かれているのが特徴。テキストだけでは理解不足になってしまうため、巻末に詳細な解説がつき、お話のあらすじがついた昔話事典としても楽しめる造り。金や銀などの特色インクを使い、なんとも贅沢。マーヴリナの踊るような筆のタッチ、鮮やかなコントラストの色彩、文字と絵が一体となったグラフィック、見事な1冊。(ほそえ)
「つみきでとんとん」竹下文子文 鈴木まもる絵 (金の星社 2005、1)
「せんろはつづく」についで、子どもの遊びを展開させた絵本第2弾。今回はつみきあそび。最初はたった3つでベンチにニコニコ座っていた小人さんたちが、どんどんつみきを積み重ねていって、きりん、恐竜……といろんな形を造りだす。パット・ハッチンスの「なににかわるかな」(ほるぷ出版)では文字なしで、緊迫感のあるシーンを造型していて、絵本としての強さを感じるが、同じようなアイデアでも、テキストがあるぶん、絵本になじみのない人にはこちらの方が手に取りやすいかな。子どもの遊びの楽しさ、広がりを支えてくれる絵本。 (ほそえ)
「はなちゃんおさんぽ」中川ひろたか文 長 新太絵 (主婦の友社 2005.3)
はなちゃんはおとうさんといっしょにおさんぽに。すると、ピンクのゾウが!みどりのわにが!ライオン!……でもお父さんと一緒なら大丈夫。ぐいぐいと元気のいいイラストに、リズミカルなテキスト。お散歩で見かけたものたちが、ほんのちょっとの想像でぞうやわにやライオンになってしまうのは、子どもの一緒にいると日常のこと。見立てのおもしろさはやりはじめると止まりません。そんな子どもとの楽しみ方を絵本の形で提示しているのがおもしろい。(ほそえ)
「たんじょうびのやくそく」ハリネズミとちいさなおとなりさん2
「おはようの花」ハリネズミとちいさなおとなりさん3 仁科幸子作(フレーベル館 2004,12、2)
「なんにもしないいちにち」でおなじみになったハリネズミとヤマネのコンビの小さなお話集。あいかわらずハリネズミの思いつきや行動にふりまわされてしまう、ちいさなおとなりさん。でもふたりはなかよしで、森の中の小さな素敵やなんてことない日にかくれている愉快な時間をみつけては、わたしたちにほらね、と見せてくれる。お話に合わせ、自在にイラストを入れて、見ても楽しい本にしてしまっているのは、絵もテキストもひとりの作家で手がけているから。亡くなった子の心を抱えているという「かげろう」、木枯らしにのって最初に木から離れる葉っぱを勇気づけようと見に行く「さいしょのはっぱ」など、1作目には見当たらなかった感じの思いをのせたお話も。2作、3作と続けたことで、ありがちなお話のアイデアを着地させる地点が作者らしい場所になってきているように思えました。(ほそえ)
「かっぱの虫かご」松居スーザン作 松成真里子絵 (ポプラ社 2005,1)
人間の男の子が持っているプラスチックの赤いあみの虫かごがほしくてたまらなくなってしまったかっぱのこ。とうとう、ある日、投げ出されていた虫かごをつかんで、木のうろに隠してしまいます……。小さな子の心の揺れを丹念に描いている。子どもの様子を気にかけるかっぱのおかあさん。一緒に遊びたいというカメの子ども。何かの気配をかんじる人間の子ども。小さな童話なのだが、それらが緊密につながりあい、それぞれの得心のいく結末が用意された構成がうまい。にじんだ絵の具の表情が愛らしい絵がいい。かっぱの子がうたう小さなうたがかわいくて、その時の気持ちを端的に表わしていて、ストンと小さな子の胸におさまりやすい。いいうたが入っている童話はとてもきもちがいい。うたと子どもはとても近しいから。(ほそえ)
「クマは「クマッ」となく?!」おもしろ動物生態学 熊谷さとし(偕成社2005,5)
え、そうなの?とページをくって、タイトルになった章をまず、みてしまう。これでつかみはOKでしょう。フィールドワーカーとしての実際の体験や見聞きしたことを、2ページから4ページくらいのスペースでコンパクトにまとめ、項目別に書き下ろされている。ソフトカヴァーでぱらぱらと読める軽い造りであるけれど、描かれていることや作者の思いはずっしりと重い。専門的になり過ぎぬように、でも根本の考え方はずらすことなく、具体例をあげて、動物の生態についておもしろく小学生くらいに伝えるのは、とても大変。それをきちんとやり遂げている。作者は実際に自分で見たことや不思議に思ったことを、自分の体験から類推し、自分の言葉で考えていく道筋を本書で見せてくれている。そこがいい。図鑑などではおうおうにして学術的な結論をそのままひきうつし、見せるだけだが、その考えが引き出された根拠や道筋がおもしろいのだと思う。トリビア的な体裁の裏に、自分で見て、自分で想像し考えるという姿を見せているのがたのもしい。(ほそえ)
「ハッピー ノート」草野たき作 ともこエヴァーソン画 (福音館書店 2005,1)
今時の塾に通う小学校6年生って、こんなに大変なのかなあ。大変なんだろうなあ。今の自分でいるのがいやで、新しい学校にいったら、塾にいったら楽しい別な毎日が……と夢見てがんばって勉強してしまう女の子。どこかのグループに入ってないと居場所がない。心にもないことを一生懸命言って、友だちに気を使って、その必死さが、塾で出会った風変わりな子とすごすことでちょっとづつ、変わっていく。前作の「猫の名前」では親ではない、大人の女性がきちんと描かれていて印象的だった。現代の10代前半の子を描く他の作家のものと草野の作品が大きく違って見えるのは、大人を描く描き方だ。本書でも働きに出だした母親の変化をきちんと見据え、それが主人公の行動へとつながっていく様が物語に強さを与えているように思えた。子どもの心の動きを見極めたい、よりそいたいと願う大人がそばにいるということ、大人自身もまた、自分を変えていく意志と行動をもっていることなど、物語の中で知り、その目線を獲得することで、現実の自分のまわりを見る目も変わっていくのではないか。(ほそえ)
『海時計職人ジョン・ハリソン』(ルイーズ・ボーデン作 エリック・ブレッグバッド絵 片岡しのぶ訳 あすなろ書房 2004/2005.02.20 1300円)
近代、当たり前のように思っていることも、どこかに始まりはありました。
この歴史絵本は、経度を調べるための正確な時計を作り出した職人のお話です。
緯度は、星の位置で割り出せるから、経度さえわかるようになれば、船がどこにいるかがわかるようになる。しかしそのためには、何日航海していても、出発地の時間がわかる正確な時計が必要。しかし、航海に耐え、なおかつ正確な時計となると、案外難しい。18世紀、一人のイギリスの職人がそれに挑む。
40年かけてたった5つの、しかし優れた時計を作った男の生涯が、丁寧なペン画と、無駄のない語りで伝えられています。
この物語に相応しい、隅々まで行き届いた場面がいい。
大げさに言えば、「世界」というものが、どのようにして成り立っていくかを魅力的に伝えている絵本です。(hico)
『おおかみかめんときつねどん』(のぶみ:絵と文 教育画劇 2005.01.06 1000円)
「正義の味方」に目覚めたおおかみくんの物語。「おおかみ」を巡るイメージや言説を踏まえたパロディ物はたくさんありますが、その中にもう1作品加わりました。
おおかみくんのがんばりが、楽しくおかしい。
これはシリーズ化してください。そうして初めておおかみかめんのキャラクターが膨らんでくる作り方ですから。(hico)
『もぐもぐ とんねる』(しらたに ゆきこ アリス館 2005.02.01 1300円)
いよいよあしたから、穴掘りの練習を始めることになっているもぐらのもぐもぐ。でも、早くやりたいものだから、夜中にこっそり一人で穴を掘り始め・・・。
非常にスタンダードな設定です。名前だって、もぐもぐだし。ですから、あとはどう展開し、どう見せるかが腕の見せ所、絵本の楽しみ所。
もぐもぐの、一人で自由に冒険し穴掘りをしたい気分に乗せて、物語はあちらこちらへと広がっていきます。絵本という機能を存分に使って、色合いから場面の見せ方までやちたいことを思い切りやった感じです。散漫に見えてしまうのも確かですが、勢いだから、いいでしょう。
画そのものに、もう少しクセというか味が欲しい。
デビュー作でここまで描けるのはたいしたもの。(hico)
【創作】
『ヒットラーのむすめ』(ジェッキー・フレンチ作 さくまゆみこ訳 すずき出版 1999/2004.12 1400円)
魅力的といってはなんですが、「おっ」と乗り出してしまうタイトルです。
物語設定はタイトル通りにシンプル。
スクールバスを待つ間に、お話をしようという提案で、アンナが話し始めたフィクションが、ヒットラーの娘の日々を語った物。いないはずの少女の物語ですから、そこで何が起ころうとも聞き手の友人は興味津々、聞くことであの時代を知っていくようになります。
この持って行き方が旨いので、読む側も、聞き手の少年たちと一緒にアンナの話に引き込まれていくわけ。
最後のオチもいいです。
とてつもなくユニークだとか、新しい世界を描いただとか、本読みの快楽を満たす物語ではありませんが、敷居の低さが、伝わって欲しい内容にアクセスしやすくしていて、そこが買いです。(hico)
『バスの女運転手』(ヴァンサン・キュヴェリエ作 キャンディス・アヤット画 伏見操訳 くもん出版 2002/2005.02.10 1000円)
ベンジャマンたちが通学に使っているバスの女運転手は大きくて、怖そうで、男みたいで・・・。ある日、ベンジャマンは風邪をひいていたのでバスの中で眠ってしまう。気付けば終点で、女運転手と二人きり。家に帰りたいけど・・・。
ここから、女運転手とベンジャマンの楽しい一日が描かれます。見かけではない女運転手の素顔が見えてきて、その実に温かいこと。
短い物語。もう少しヴォリュームが欲しいですが、画の自由な雰囲気といい、楽しい一品になっています。(hico)
『ワン ホット ペンギン』(J・リックス作 若林千鶴訳 むかいながまさ絵 文研出版 2001/2005.0215 1200円) 海も魚も嫌いな少年フェラン。彼の父親は漁師でなのですが・・・。 動物園に行ったとき、ペンギンが隠れてついてきてしまいます。ペンギンが言うには動物園はもういやだ、冷たい所へ行きたい。そういえば、おとうさんは南極まで漁に出かけていると言っていたっけ。一緒に船に乗って、ペンギンをこっそり帰してあげたい。 でも、おとうさんの自慢話は嘘で、本当は近海でしか漁をしたことがない。 さてさて、フェランとおとうさん、どうなりますことやら。 ユーモアたっぷりで楽しい家族物語です。 ただ、フェランが漁師に目覚めるところまでは描きすぎです。そこまでうまくオチをつける必要はありません。フェランとおとうさんのトンチンカンぶりが暖かいのですから、それでOK。まとめてしまうのは、児童文学らしくあろうとすることで落ちる罠。(hico)
『パーティミアス・ゴーレムの眼』(ジョナサン・ストラウド作 金原瑞人&松山美保訳 理論社 千九百円+税) 魔法が存在する世界。邪悪なものがいて、なにがしかの運命を背負った主人公が、世界を救うためにそれと立ち向かう。これは、ファンタジーの典型的な基本設定の一つだろう。 『バーティミアス』の主たる舞台はロンドン。とはいっても、私たちが知っているロンドンではなく、魔術師が政治権力を握っている、どこか別のロンドンだ。主人公の本当の名前はナサニエル。それを知られては誰かに操られる危険があるので、普段はジョン・マンドレイクと名乗っている。年齢は一四歳。前作での活躍を首相に認められ、現在は国家保安庁に所属するエリート魔術師。ロンドンでは今、魔術師の支配に抗するレジスタンスによる爆破事件が続いている。ナサニエルはその捜査を任されているのだが、ある日、大規模な破壊事件が起こる。国家保安庁を疎ましく思っている警察庁側は、これはレジスタンスの仕業であると主張し、事件を解決できない国家保安庁を非難し、保安警備のための権力を奪取しようとする。国家保安庁はなんとしてでも解決することをナサニエルに命じる。が、この事件は今までのとは違う。とても人間業では出来ない。かといって、魔法が使われた形跡はない。一体何が起こった? 悩んだナサニエルは、追いつめられ、前作で彼を救ってくれた魔神バーティミアスを召喚することにする。二度と呼び出さないと約束していたはずなのだが・・・。 と、物語の始まりを記せば、いささかハードではあるけれど、スタンダードな冒険ファンタジーに見えるだろう。優秀な魔術師の少年が主人公で、ロンドン中を震撼とさせる事件の謎を解くべく相棒の魔神を召喚するというのだから。 が、ここにいるのは、正義のために戦う少年でもなく、彼を守り、共に戦う魔神でもない。ナサニエルにとって大事なのは、権力。レジスタンスとの戦いも、職務命令に従っているだけだし、個人的には前作で彼らレジスタンスにやりこめられたために、「復讐しなければ気がすまない」だけ。年齢的に似合わないと思われる服を身につけ、値段が高ければかっこいいファッションだと思っている、スノッブで、こっけいな少年(ガキ)だ。魔神とも信頼関係で結ばれているのではない。あくまでも契約であり、より上位の魔神を従わせることができれば、魔術師としての権威が高まると思っている。当然のことながら魔神バーティミアスも、主人であるナサニエルを慕っているわけではないし、言われるままに従おうなどとは全く考えていない。召喚されたときの感想は、「まさかこないだと同じタコとはな!」だ。バーティミアスは、魔術師との契約に縛られるしかないが、その契約の穴をついてやろうといつも考えている。 語りは、主にナサニエルを追う三人称と、バーティミアス自身によるものの二種類が使われている。ナサニエルの行動、考え方などがありのまま三人称で記され、バーティミアスの語りがそれを批評する構造だ。つまりこれは、一四歳の少年ナサニエルが、その行動と考えをいちいち批評される物語として読める。だからといって魔神バーティミアスは、彼自身もまた、物語の一員なのだから、物語と距離を置いて批評家になることはできない。彼はナサニエルに命じられるまま、事件のまっただ中で生死を賭けて戦うしかないのだ。 バーティミアスのこの奇妙(気の毒)な位置付けが、彼には悪いが、とてもおもしろい物語。(hico 読書人 2004.01)
あとがき大全44
1.読む、ということ
アマゾンとかで、翻訳本の読者感想を読んでいてたまに見かけるのが、「原書はそんなにむつかしくないから、絶対に原書で読むのがお勧め! 原書のほうがずっとおもしろい。翻訳、ちょっとちがうなと思うところあるし……」という内容のもの。
あたりまえじゃん、と思う。
まず、「翻訳、ちょっとちがうなと思うところあるし……」というのは当然。自分が原書で読んだイメージそっくりの翻訳があったら、それこそ不思議だ。だいたい、英語で読むのと日本語で読むのと、印象が違わないはずがない。'Irene' と「アイリーン」は、発音だって違うし、見た感じだけでもずいぶん違う。ぼくだって、原書で読んだ作品を、だれかの翻訳で読むと、あちこち引っかかってしまう。そういうものだろう。
あるとき、有名な児童文学の翻訳家が、「自分の訳した本以外は、すべて気に入らない」といっていたが、まったく同感である。ついでに書いておくと、気に入った本はすべて自分が訳したいと思う。ほかの人の訳では読みたくない。だって、人は自分と違うもん。
ところで、ここで書いてみたいのは、そちらではなくて、前半部。「原書のほうがずっとおもしろい」というところ。これも当然。
なぜかというと、読み速度が違う。たとえば英語の本を読む場合、日本語訳とくらべてどのくらい時間が長くかかるか。もちろん、その人の読書の速度によって異なってくるのだが、英語がよく読める人で(素人、つまり翻訳家などのプロではない場合)、日本語訳の三倍くらいかかっていると思う。逆にいえば、三倍くらいの時間で原書が読めれば、それはかなりのもの、ということになる。日本語訳なら一日で読める作品、原書は三日くらいで、というのは、拍手なのだ。
その程度の英語の読解力のある人の場合、読むのに費やす時間は、感動の大きさと比例する。これは長年の経験からいって、まず間違いない。やっぱり、早く読むと、読み飛ばす部分がどうしても増えてくる。それにくらべて、三倍くらいかけて読むと、細かい部分までしっかり読み取っている。三倍の時間をかけて読むということは、普通、一文一文たんねんに理解していくということだから、そのぶん感動は大きいはずだ。
そのうえ、おれは英語で読んでいるんだという一種の優越感のようなものが無意識のうちに、その感動に拍車をかける。そして、原書を読んで感動している自分に感動することも、たまにあったりする。
だから、「原書はそんなにむつかしくないから、絶対に原書で読むのがお勧め! 原書のほうがずっとおもしろい」というのは、あたりまえなのだ。読める人はそうしなさい。
翻訳家の場合、まず原書を読んで感動して、訳しながら感動する。そのときは、英語をたんねんに日本語に移し替えているわけだから、原書を読んだとき以上にゆっくり咀嚼しているわけで、この感動は大きい……と思われるかもしれないが、必ずしもそうでもなくて、たまに、あれ、あまり感動しないじゃんとか思ってしまうこともある。センチメンタルな感動というのは、じっくり腰を据えて相手にすると、意外と色あせてしまったりするものらしい。まあ、それはともかく、基本的には、翻訳家は普通の読者の数十倍の時間をかけて原文と格闘しているわけで、感動するときはする! そしてまた、一読したときにはそれほどでもなかった部分のすばらしさに気付いて感動することもよくある(そういう場合、ある意味、読解力がとぼしかったともいえる) いや、さらにゲラを読み直していて、新たな感動を覚えることさえある。
それを強く感じたのは H. M. Van Den Brink というオランダ作家の作品、On the Water のゲラに目を通したときだ。これは短いけれど、数年に一冊といってもいいくらい完成度の高い作品で、本好きにはとても魅力的な本だと思う。今年中には扶桑社から刊行の運びになる。
さて、ところがである、プロとして原書を読み続けていくと、あるときから逆転現象が起こるようになる。つまり、英語を日本語のように読めるようになってしまうのだ。そりゃ、いいことでしょうといわれそうだが、そうでもない。つまり、これは英語でも読み飛ばすことを覚えてしまうということなのだ。まあ、ストーリーだけで読ませる作品なら、これで十分なのだが、雰囲気や文体、あるいは細かい心理描写、心に触れるか触れないかという微妙な味わいなどが身上の作品の場合は、だめ。判断を誤ることが多い。
その典型的な例が、デイヴィッド・アーモンドの『火を喰う者たち』だった。原書でざっと読んだときの印象は、なかなかいい作品だけど、『ヘヴンアイズ』のほうが上、だった。ところが訳し終えてみると、とんでもない……という感じだった。
そろそろ、原書を読んだときの金原の評価があてにならなくなってきたということかもしれない。
そういえば、デイヴィッド・アーモンド、来日します。今年の三月から一ヶ月ほど。東京でも、池袋のジュンク堂でサイン会が行われる予定。おそらく四月二日の六時か六時半から。ただし、確認情報ではないので、細かいことがわかったら、ここと、ぼくのHPで紹介します。
2.『シャバヌ』『フィード』『トロール・フェル』あとがき
前回、どこかにいって見あたらなかった『シャバヌ』のあとがきを最初に。砂漠物が好きな方には、こたえられない作品。
それから、『フィード』。これはヤングアダルト向けのSF。いくつもの賞をかっさらった、新感覚のヤングアダルト小説。あちこちではじけるイメージがすごいし、なにより、最後が切ない。今年はほかにもSFを訳すことになっていて、たとえば、パトリック・ケイヴの Sharp North もそう。そういえば、全米図書賞を受賞したナンシー・ファーマーの『砂漠の王国とクローンの少年』(小竹由加里訳、DHC)もSFだし、アレックス・シアラーの『スノードーム』(石田文子訳、求龍堂)もSFっぽい作品。どれもとてもおもしろい。今年はヤングアダルト向けのSFの当たり年になるかも。
それから『トロール・フェル』。これは北欧を舞台にした、骨太の民話風ファンタジー。素朴で力強い。
訳者あとがき(『シャバヌ』)
もしこの本を手に取ったなら、そして、このあとがきを最初に読んでいるなら、まず最初にもどって、第一章を読んでみてほしい。これほど、読む人を遠くへ遠くへ突き飛ばし、心をゆさぶる冒頭というのは、まず、ない。
砂ぼこりでかすむ、インド国境に近いパキスタンのチョリスターン砂漠の冬の情景が広がる。冬だというのに、真夏のように暑い。水飲み用の池は干上がりかけている。そこで水をくむのが十二歳の主人公シャバヌと、その姉のプーラン。やがて、すさまじい雨が降る。真ちゅうの足輪を鳴らしながら踊るラクダのグルバンド。そして場面は一転して、子どもを産んだばかりで毒蛇にかまれて倒れている母親ラクダ。シャバヌは必死に、母親も子どもも助けようとするのだが……
ここには日本ではとても想像ができない砂漠の生活が広がっている。
夜明けや日没の美しさ、夜の砂漠のまるで夢のような幻想的な世界、水をたたえたトバ、どこまでもどこまでも広がる砂丘、そしてラクダたちを育てる喜び、手放す悲しみ。
翻訳をやっていて、ほんとうに楽しいのは、こういう日本とはまったく異なった世界のものを訳しているときだ。このラクダを育てて暮らしている遊牧民の娘シャバヌを主人公にした、砂漠の物語を訳していると、まるで勝ち気なシャバヌがすぐそばでラクダに水をやったり、ラクダを踊らせているような気になってしまう。それはおそらく、作者がここに描いている、放牧民の生活をよく知っているからなのだろう。それが、ほんとうに生き生きと鮮やかに伝わってくる。
やがてシャバヌは大切なものを失い、そして様々な経験をへて、大きく成長していく。
そう、翻訳をしていてもうひとつ、ほんとうに楽しいのは、同じ感動を伝えられているなと実感できるときだ。雨やトバの水がすべてを支配している所に生きている人々の苦しみと悲しみと喜び。この作品にはそれがあふれている。
パキスタンの砂漠を舞台にしたイスラム教徒の少女の話というと、日本ではあまりなじみがないかもしれないが、ここに描かれているのは、世界中、どこにいてもおかしくない魅力的な女の子だ。
ぜひ、シャバヌといっしょに、この砂漠の世界を旅してほしい。
その旅先案内人として、少しだけ説明を。
今ではイスラム教徒圏の国のことも毎日のようにニュースなどでが報じられているが、それは政治的なことばかりで、ふつうの敬けんなイスラム教徒の人たちの生活は伝えられていない。たとえば、本の中で父さんやキャラバンの男たちがたき火をかこんでお祝いをしているとき、水パイプは吸っても酒は一滴も飲まず、お茶ばかり飲んでいたことに気がついただろうか? そう、イスラム教ではお酒は禁止されているので、男たちは祝いの席でも飲まない。また、父親の権威は絶対で、シャバヌは姉さんの幸せや父さんの名誉を考えながら、自分の将来を考えなくてはならなくなる。
そんな世界に住んでいる女の子をとても魅力的に描いたこの作品がニューベリーのオナーを受賞したのは、当然かもしれない。
作者は一九八五年に、UPIという国際通信社の記者としてパキスタンに滞在していて、そのときに、チョリスターン砂漠の遊牧民を取材してこの本を書くヒントを得たらしい。作者は「チョリスターン砂漠の人々は物質的に豊かではありませんが、気高く、思いやりにあふれたとてもすばらしい人々で、いつもほこり高く、堂々としています」と書いている。またシャバヌの置かれたつらい状況に対しては、「欧米社会ではたいていの人は自由に思う通りに生きているように見えますが、わたしたちにもまだ同じような葛藤はたくさんあります。わたしたちだって、自分の意思に反したことを家族から期待されたり、影響力のある人々からこうしたほうがいいとか、ああしたほうがいいとか言われて、選択をせまられることがあるからです」と答えている。
さて本の中でもパキスタンとインドのことがよく出てくるが、もともとはひとつの国だったものが、イスラム教とヒンドゥー教という宗教上の対立から分離独立したので、生活習慣や風習などはよく似ている。たとえば、本の中にも出てくるメヘンディーの儀式や結婚式で赤いチャドルをまとい、甘いミルクを飲むところなどはどちらの国でも同じ。
『シャバヌ』には六年後のシャバヌの姿をえがいた続編がある。これも本編にもまして、激しく心をゆさぶる作品。
近いうちに出版される予定ですので、どうぞ、お楽しみに。
なお、最後になりましたが、この作品を世に送り出してくださったポプラ社の方々、とくに編集部の中西文紀子さん、いつも的確なアドバイスをくださった浦野由美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった舩渡佳子さんに心からの感謝を!
二〇〇四年十一月 金原瑞人
築地誠子
訳者あとがき(『フィード』)
「とんでもない本が現れた……不気味で、優しく、熱い。息を呑むほどの傑作」(メルヴィン・バージェス)
これは未来、ほとんどの人間がフィードと呼ばれるチップを頭に埋めこむようになった時代の物語だ。フィードというのは最初、百科事典や辞書などの情報が得られる「画期的な教育ツール」として売り出された。そして様々な分野に広がっていき、映画も音楽も楽しめるようになった。ショッピングモールを歩けば店の情報が流れてくるし、新しいファッション情報も流れてくる。なによりすごいのは、その人の欲しいものをなんでも知っていることだ。本人でさえ気づかないうちに、フィードのほうがちゃんとその人の欲しいものを知っているし、アドバイスもしてくれる。人が考えたり、感じたりしたことはすべて、色んなデータ会社によってデータとしてとりこまれるからだ。
これはそんな未来世界に生きているタイタスとヴァイオレットのラブストーリー。といっても甘ったるいラブストーリーじゃない。グロテスクで残酷で切ないラブストーリーだ。
月に遊びに行ったタイタスたちは、政府に不満を持つ老人の攻撃を受ける。老人に触れられた若者たちは、全員フィードが故障し入院させられる。数日のうちにフィードは元通りになるけど、ただヴァイオレットのフィードだけは劣化し続けていく。
ヴァイオレットはタイタスにフィードに支配された世界の危険を訴える。いたるところで起こっている災害、公害、不正、暴動、テロの情報を次々に送る。そして必死に救いを求める。タイタスはヴァイオレットの気持ちにこたえることができるのか、ヴァイオレットを救うことができるのか。
ふたりのつむぎあげる物語も強烈だけど、全編にちりばめられた未来のイメージも強烈だ。フィード、フィード、フィード、フィードにすべてが操作されて管理されている世界、フィードを使っている人々の体に現れ、次第に広がっていく「ただれ」、自然らしい自然がすべて死滅したあとの人工の自然……すべてがまぶしく、どぎつく、毒々しく、痛々しい。テリー・ギリアム監督の傑作『未来世紀ブラジル』にも負けない迫力に満ちている。
作者のM・T・アンダーソンは元DJ。あちこちに顔をだす、リズミカルで迫力のある言葉言葉言葉の遊びや、あざやかなイメージを作り出す言葉の使い方は、並みの作家にはとても真似できない。
肌がひりひりして、頭のなかがぴりぴりしてくるような刺激的な、ヤングアダルト向けの本が誕生した。
本文中に「TM」という記号が出てくるが、これは商標(Trade Mark)……つまり、この世界では「学校」も空の「雲」も会社のものになっているということ。
最後になりましたが、大奮闘の編集者遠山美智子さん、つきあわせをして下さった大谷真弓さん、細かい質問にていねいに答えて下さった作者のM・T・アンダーソンさんに心からの感謝を!
二00五年一月二十一日 金原瑞人
訳者あとがき(『トロール・フェル』)
飢えた怪物のように、父親の遺体を飲みこんでいくまっ赤な炎。
「舞いあがる火の粉が、無数の精霊のようにきらめきながら、闇のなかに逃げていく」
それをみつめる少年ペール。
燃えさかる火の後ろから、ぬっと現れる大男の黒い影。すぐ近くには木彫りのドラゴン。その向こうには勢いよく押しよせては、砂利をはげしくかきたてるまっ黒な海。暗い波、波、波。
まるですべてが目の前に浮かんでくるかのようだ。
舞台はスカンジナビア半島のどこかの海岸。時代は、バイキングが活躍していて、人々がドラゴンの船首をつけた船を造っていた時代。いまはもう伝説になってしまったトロールがあたりまえのようにやってきては、ふっと姿を消してしまう、そしてたまには黄金のゴブレットを置いていく、そんな時代。
この『トロールフェル』は、そんな場所、そんな時代の物語だ。荒々しい冒険の時代、伝説の生き物がすぐそこに生きている時代、人々がこわごわと、おそるおそる、しかしのびのびと自由に生きていた時代の物語だ。
作者のキャサリン・ラングリッシュは、こういった場面や風景を描くのがとてもうまくて、ときどき、訳すのを忘れて読みふけってしまうことがある。
しかしもっとうまいのは、物語の作り方だろう。
ペールは冷酷で乱暴な叔父に無理やり連れていかれ、水車小屋で働かされることになる。が、そこには叔父の双子の兄がいて、これがまたひどい男で、ペールはとことんこき使われてしまう。ペールはこのグリムソン兄弟にさんざんな目にあわされ、トロールにもいやな目にあわされる。
いっぽう、少し離れたところにはヒルデという少女が家族といっしょに幸せな日々を過ごしている。が、父親がバイキングの船に乗って、危険きわまりない冒険の旅に出てしまう。ヒルデと母親は父親のことを心配しながら、またトロールたちのいたずらや襲撃を不安に思いながら暮らすことになる。
このヒルダとペールが出会うところから、話がテンポよく進みだし、あとは坂を転がる岩のように勢いよく走っていく。
はたしてペールは、強欲なふたりの叔父から逃げることができるのか。ヒルダの父親がトロールからうまくちょうだいした金のゴブレット(叔父たちもねらっている貴重な宝物)はどうなるのか。バイキングの船に乗って出かけていったまま、消息を絶ってしまったヒルダの父親はどうなったのか。
作者のキャサリン・ラングリッシュは、何本もの糸をよりあわせるようにして、わくわく、ぞくぞくする楽しい物語を編んでいく。とくにこの『トロールフェル』は、まるで乱暴な叔父たちのように、読む人を話のなかに引きずりこんで閉じこめてしまう。いったんそこに入ってしまったら、最後にたどりつくまで、出てこられない。本を読んでいないときも、本の続きを、ついつい考えてしまう。
もうひとつすばらしいのは、物語のなかに登場してくる怪物たちがまるでそこに生きているように描かれていることだろう。トロール、ニース、グラニー・グリーンティース、ラバー……ほんとうに、そばで息をしているかのようにリアルに感じられるから不思議だ。かわいいやつもいれば、ぞっとするほど不気味なやつもいるし、なんだかよくわからないやつもいる。まるでそのにおいまでがただよってきそうな気がする。この迫力はなんともいえない。
伝説や昔話に出てくる連中が次々に、ぞろぞろと登場してくる。とくに最後のあたりで、卵の上半分をはずすようにトロール山のてっぺんが持ち上がったとき……これはすごい!
北欧の香たっぷりの冒険ファンタジー、どうぞ、ゆっくり楽しんでください。
二00四年十一月
金原瑞人
3.没になった原稿
産経新聞の宝田さんから、「みんな本が好きだった」というコーナーにエッセイをという依頼があった。ぼく自身は、前にも書いたとおり、子どもの頃にはあまり本を読んでいないのだが、中高から一気に読み始めた。そこで、生まれて初めて最後まで読み通した原書を取り上げることにした……というわけで、今回の最初につながる。
ところが、それを書き上げて送ったところ、宝田さんから、「金原さん、分量、多すぎ!」との連絡がきた。(11字×67行)にまとめたつもりだったのだが、いわれて確認してみると、(11字×102行)あるではないか。35行も多い! パソコンで打つとき、一頁を(11字×35行)に設定して、(二頁-3行)だなと思ったのだが、飲みすぎていたせいで、つい一頁余分に書いてしまったらしい。
この頃、この手のミスがますます多い。そろそろ仕事やめたらと声のかかるゆえんである。
というわけで、もったいないので、長すぎた元の原稿をここに載せておこう。興味のあるかたは、産経新聞に載ったエッセイもどうぞ。たぶん、今月下旬、掲載。こういう場合、金原はどこを削るかが、よくわかる。ある意味、非常にわかりやすい。
〈産経新聞・「みんな本が好きだった」〉
翻訳をやっていると、学生時代、さぞ英語ができたのでしょうといわれることが多い。しかし医学部を目指していた田舎の理系の少年はそれほど英語はできなかった。中学校時代はともかく、高校時代は惨憺たるもので、三年間平均して五段階評価の三くらいだったと思う。それが紆余曲折のすえ、大学で英語を教え、翻訳までするようになるのだから、人生はわからない。ちなみに金原家の家訓は「人間万事塞翁が馬」である。
ところで、翻訳家として、はて、はじめて最後まで読み切った原書はなんだったろうと、考えた。じつは中高の頃、ろくに読めもしないくせに、やたら原書を読もうとして、次々に挫折を重ねた覚えがある。『くまのプーさん』『不思議の国のアリス』『メアリー・ポピンズ』、どれも途中で放りだした。英訳本ならまだ読みやすいだろうと思って買った『星の王子様』もだめだった。正直にいってしまうと、原書をなんとか読めるようになってきたのは、大学三年生の頃、ユージン・オニールやバーナード・ショーやノエル・カワードの芝居が最初だった。
ところが例外が一冊だけある。トルーマン・カポーティの『遠い声、遠い部屋』だ。ペンギンの原書に注釈書がついたものが、南雲堂から出ていた。おそらく岡山の丸善で買ったはずだ。なぜ買ったのかも覚えていないのだが、読み始めたとたん、一気にその世界に引きこまい、何日かかけて最後までいってしまった。カポーティのこの時期の文体はそれほど読みやすくはない。が、とにかくおもしろかった。というか、こんな世界があるのだという驚きにふりまわされているうちに読み終えてしまった。ずいぶんあとで読み返してみると、ろくに内容も覚えてなかったのだが、あちこちに現れる異様に濃い風景だけは頭にこびりついていた。
考えてみると、そのときはちょうど、大学受験に失敗して、浪人が決定した頃で、家業の印刷を手伝いながら、東京の予備校に行く準備をしていた。ある意味、とても不安的な時期だった。そのときこの原書は強烈なインパクトをもって迫ってきた。もしかしたら、医学部を目指して二浪したあげく英文科に進んだのは、この本のせいかもしれない。
当時、これと同じくらい鮮烈に胸に穴を開けてくれたのが、唐十郎の『煉夢術』だ。装幀は四谷シモン。いまも大切に持っている。岡山で、労演主催の新劇ばかり観ていた少年にとって、これもまたメガトン級の体験だった。このおかげで、東京にいってアングラ劇を見始めることになる。
『遠い声、遠い部屋』と『煉夢術』、この二冊にこのとき出会うことによって、ぼくは道を踏み外したのかもしれない。いや、道から転げ落ちたのかもしれない。