【児童文学評論】 No.88  2005.04.25


〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>

(4) まるい話

 3月31日に、神戸女学院大学で行われたIRSCL日本支部研究発表交流会に参加し、会の全体テーマである<Representations of Otherness in Children's Literature, Other Genres in Children's Culture>にあわせて、カニグズバーグの作品――特にThe Outcasts of 19 Schuyler Place(2004)の意味――について発表してきた。
 この会は、2007年8月に京都で行われる第18回IRSCL大会のプレに位置づけられ、IRSCLの理事メンバーが各国から集まって行うミーティングに合わせて開催されたものである。IRSCLの会長でもいらっしゃるキンバリー・レイノルズ博士をはじめ、世界トップの研究者の方々の発表を日本で間近に聞くことができ、国際学会デビューだった私には、刺激だらけの一日だった。

 今回は、日本で行う意義もあり、児童文学だけでなく、日本アニメーション学会の陶山恵さんが「Current State and Future Prospects of Japanese Animation」、日本マンガ学会の吉村和真さんが「Connections and Divisions between "Manga" and "Children"」という発表をされた。好きで読んだり見たりはしていても、研究的なことは断片的にしか知らなかったマンガやアニメの話を興味深くうかがう。

 吉村さんは、導入部分で、マンガの文法の身体化ということをお話されていた。マンガのコマを読む順番やそこに描かれているコードのリテラシーを、日本の子どもたちは幼い頃から身につけてしまう。たしかに、アメリカで翻訳出版されている日本のマンガには、コマの読み方順に番号が振ってある…というトピックをつい先日テレビで見たばかりだった(つまり、読み方を教えてもらわないといけない)。
 学会の後、そのように身体化されてしまうマンガ読みのはじまりは、たぶんキャラクターの力では?という私見をローカルトークで聞いていただいたのだが、イエス。そして、そこで出てきたのは、やはりアンパンマンだった。
 Tさんは、アンパンマンが大好きである。もちろん、子どもによって、どのキャラクターに傾倒するかは違うけれど、Tさんはアンパンマンだった。1歳児の頃から好きだった。たまたま最初に見たのは、プレイジムについていた大きな顔だったと記憶しているが、びっくりするほどの食いつきのよさで、1歳半検診のときにも「いえる言葉」欄に、「バイバイ」「ワンワン」などと並んで「アンパンマン」も書いたように思う。――もっとも、アンパンマンというのは、言葉としてとても言いやすいから、発語しはじめの幼児が反復してしゃべるうちに、実際に好きになってしまったり、親が「この子はアンパンマンに興味がある」といろいろ買ってきたりするということもあるだろう(うちの場合は、私の親だったが)。
 吉村さんは、アンパンマンの顔のことをおっしゃっていた。まるい顔、まるい目鼻、まるいほっぺた。山形のまゆげににっこり笑った口。アンパンマンは、一回見ただけで、私でも書けてしまう、単純なマルでできている。まるがきっとミソなのである。

 新生児は耳は良く聞こえているが、目はまだよく見えない。起きて目を開いているときは、光の方に目を向けるほか、見える距離は20~30cmというから、ちょうど授乳しているときのお母さんの顔が見える。母子のアタッチメントを作るのに、自然の摂理が上手に働いているらしい。明暗のぼんやりした境目と、自分を見るお母さんの目や鼻やほっぺたのもりあがり。淡いもの、まるいもののいくつかを、まず自分をこの世で迎えてくれたものとして認識する。
 たとえば、2ヶ月のTくんが私と目を合わせるようになったのは1ヶ月を過ぎてからだったが、やはり、見えているのは「光」と「顔」なのだろう。時々は天井を見てにこにこ笑っているので、見えないおともだちが浮遊しているのかもしれないが、私にも共有できるTくんの視界としては、たとえば顔のパーツであり、それらはいずれもまるく曲線的である。また、たいがい赤ちゃんを覗きこむひとの顔は、普通よりさらに笑顔に、まるい口になる。まるいもの、やわらかいものに回帰することは、赤ちゃん時代の記憶につながるのかもしれない。
 また、視力と同時に、Tくんは、自分のにぎりこぶしを初めてのおもちゃにするようになった。寝ながらファイティングポーズでしげしげとこぶしを眺め、やがてべろべろなめてみる。指しゃぶりの前段階か。乳頭以外に最初に親しむものたちのまるさとあたたかさ、触覚からくるまるさも、最初期の記憶のひとつなのだろう。
 まるさを前面に出した赤ちゃん絵本が多いのも、アンパンマンやドラえもんがまるっこいのも、そういう言語化しにくい事実が作り手に敏感にキャッチアップされているからではないか。経験的に思う。

 まるや淡い色彩の絵本でいえば、Tさんが0歳児のときにはそのまんま『まるくておいしいよ』(こにしえいこ、福音館書店、2002年2月)という絵本があった。Sちゃんに頂いたものだが、単行本になっているということは、012の中でも人気があったのだろう。まるいシルエットが出てきて「これ、なあに。」に対して、チョコレートケーキやクッキーやのりまきが次のページであらわれる。これは、むしろ、ケーキもクッキーものりまきも好物な今の方が楽しむかもしれない、と、久しぶりに出してみた。Tさんは早速広げ、「なんのまる? ホットケーキ? ビスケットがふたつ。ふたつあるの、みっつあるの、いっぽんだけあるの。これはなに? なんのびっけっとでしょう。これはなんのまる? のりまきのまる! これはなに? すいかのまる。 まる。 おしまい」とひとりで読んでいた。
 また、Tさんが同じく0歳児の後半に愛読していたのはNさんに頂いた『にこちゃん』(南椌椌、アリス館、1998年12月)だった。にじむ水彩の絵本に、まさに、にこちゃんの笑顔が広がる。わらっているにこちゃんの色合いの優しさに目を奪われる。Tさんが、もっと文字が多くストーリーのある絵本を楽しむようになった今でも、こういう世界そのものを表現するような絵本も、変わらず書架の自分の手の届くところに置いておきたい、と思う。

 さて、最近のTさんはてざわりを楽しむ絵本がちょっとしたブームである。おもちゃ寄りの絵本といおうか、頭が固かった頃には、しかけで誘う絵本なんて...と私が見向きもしなかったのだけど、いただいたり、友達の家で見たりしているうちにその楽しさもなるほどと思うようになった。『パセリのおんがくかい』(いとうみき、ポプラ社、2001年11月)は、最近、私との会話が問題なくできるようになってから、より楽しめるようになった。
 犬のパセリが主人公の、手のひらに乗るくらいの小さなしかけ絵本は、かなり人気があるシリーズらしい。『おんがくかい』は、厚くしてある表紙の中にたくさんのビーズが入っていて振るとしゃらしゃら音がする。パセリが順番に出会っていく動物や植物も、それぞれハープを弾いたりたいこをたたいたりしていて、テグスのハープ弦や厚いパラフィン紙のたいこで遊べるようになっている。
 親の常で、壊さないよう「そっとやってね」と厳命し、Tさんがいじるそばで、「トントコ トントコ。たいこの れんしゅう。もうすぐ おんがくかいだもの」と文を読む。Tさんは音楽大好き、歌が大好きなので、「Tちゃんもハープやりたいなあ」といったり、「はなのおばあさん、すごいね」と、覚えたせりふを自分で読んだりする。最近、ひらがなをほぼ全部覚えてしまったTさんは、気が向くと部分的に「ね、こ、さ、ん、な、に、し、て、い、る、の、ねこさんなにしてるの、っていってるよ」などと字も時々読んでいる。 
 もうひとつは、季節外れの『サンタさんににあうふく』(文:ケイト・リー/絵:エドワード・リーブス、訳:櫻井みるく、大日本絵画、2004年)。赤い服しか着ないサンタさんが、もうすぐくるクリスマスに、いつもと違う服を着たいなあと、緑色や白やピンクや紫の服を次々に試してみる。だが、緑を着ればクリスマスツリーみたい、青と黒を着れば闇にまぎれてしまう、など、なかなかうまくいかない。「何を着ようか」と悩んだ最後に、サンタの奥さんが「あなたに一番似合うのはやはり赤い服」と言って、もとの衣装に落ち着く、という話である。
 その服が、たとえば緑はマジックテープのようなざらざら、黄色はタオル素材、紫色は舞台衣装のようなきらきらつき、など触って楽しめるつくりになっている。サンタのひげや赤い服のトリミングも、白いモヘアでさわり心地がいい。この絵本を頂いたのは昨年の12月だったが、じわじわと好きになっていって、いまだに定番である。12月の段階では、普通まず手が伸びると思われる服の異素材の部分はあまり関心を払っていなかった。モヘアやタオル素材を「ふわふわね」「さらさらね」「きもちいいー」となでるようになったのは年が明けてからである。そして4ヵ月。もうすぐ初夏の今でもまだこの絵本は開架に置いてあり、遊びにきたTさんの友達にも人気を博している。
 サンタクロースは通年? そうか、これも、ふとっちょでやさしい目をした、親しみ深い「まる」のキャラクターなのだ。

 Tくんは、起きている時間が増え、喃語を発しながら、Tさんとの絵本読みにもたまに同席するようになった。にぎりこぶしを見つめながら、たぶん、音と声とを全部吸収している。Tさんは(またかよ、と思われるかもしれないが)『バムとケロのさむいあさ』(島田ゆか、文溪堂、)を読み、Tくんに「ケロちゃんはね、こんなぐちゃぐちゃにしちゃったの。ソファもパソコンもおにんぎょうも。やっちゃだめえっていわれるでしょ。でもやっちゃうのね」と説明している。泣いているTくんを観察しつつ「Tくん、おしゃべりじょうずね、おっぱいほしいって。あしばたばたもじょうずね。」さらに「くしゃみもじょうずね、はなみずもね」などと続くので、なかなかおもしろい。

(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ Tさん2歳10ヵ月、Tくん2カ月、
「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)

【絵本】
『ちびうさ がっこうへ!』(ハリー・ホース作 千葉茂樹訳 光村教育図書 2004/2005.02.25 1400円)
 『ちびうさ まいご』に続く第2作。
 ちびうさもいよいよ学校へいくことに。小さな木馬のチャーリー・ホースを連れて行くのですが、教室はもう、大騒ぎ。
 この作者のコンセプトは「安心」にあります。今回も、初めての学校で、いろんな出来事が起こるのですが、最後に物語は大きな「安心」を用意してくれます。(hico)

『ペネロペ ひとりでふくをきる』『きょうはなにするの、ペネロペ』(アン・グッドマン:ぶん ゲオルク・ハレンスレーバン:え ひがしかずこ:やく 岩崎書店 2004/2005.01.27)
 初めてひとりで服を着るペネロペの姿は、一生懸命があふれています。朝の早い時間。一人でチャレンジ。その気分が伝わってきます。こうしたチャレンジ(「ひとりでできるもん」です。)物は大人にとってはホノボノなのですが、それはともかく、ペネロペの気分が、この絵本を読んでもらう子どもの気分とどうシンクロするかが勝負所。
 一方の「きょうはなにするの、」は幼稚園に行くための着替えや持ち物をめぐるドタバタ。「準備」というコンセプトは「ひとりでふくをきる」と同じです。ただ、こちらの場合、家の外部へ出かける話なので、「社会性」がポイントとなるため面白味より規制が前面に浮かび上がり、少しひいてしまいます。繰り返される「ヘン!」がヤな感じです。「ヘン」でいいではないか、と。少し残念です。(hico)

『あたし いいこなの』(井上林子 岩崎書店 2005.03.20 1200円)
 「キッズエクスプレス21」主催の創作絵本コンテストの文部科学大臣奨励賞受賞作。デビューです。
 発想がとてもいいです。いいこの私と本当の私がいることをわかっている子どもの物語です。
 ただ、絵本としての作りがまだ出来ていません。方法論を考えてみてください。(hico)

『ぼくらのむしとり』(柴田愛子・文 伊藤秀男・絵 ポプラ社 2005.02 1200円)
 「あそび島シリーズ」最新刊。
 このシリーズ、メインテーマは「ともだち」(コミュニケーション)。
 今作では虫取りに出かける4人の子どもの姿を描いています。1作目のインパクトはここにはありません。ただただ、虫取りに行き、帰ってくるまでを私たちに見せてくれます。
 1作1作、子どもたちの風景が増えてくることで、子どもの世界が浮かび上がってきます。(hico)

『絵本アンネ・フランク』(ジョゼフィーン・プール文 アンジェラ・バレット絵 片岡しのぶ訳 あすなろ書房 2005/2005.04.30 1500円)
 日記を中心に置くのではなく、それ以前と、アンネの死以降も含めて、アンネという存在を印象づける絵本。
 押さえられた言葉と静かな画。
 アンネ・・フランクへの最初の一歩です。(hico)

『ロッテ ニューヨークにいく』(ドーリス・デリエ文 ユリア・ケーゲル絵 若松宣子訳 理論社 1999/2005.03 1400円)
 『おひめさまになりたい』ロッテがニューヨークへ。ライナスの毛布ならぬロッテの枕である、ヒツジのエーリッヒももちろん一緒。なんですが、エーリッヒがいなくなって大騒ぎ。
 ロッテにとって大変な事件。周りの大人もその大変を理解して、エーリッヒを探してくれます。その辺りの大人への信頼感が心地いいですよ。(hico)

『クモ(やあ!出会えたね)』(今森光彦:文・写真 アリス館 2005.04 1400円)
 シリーズ四作目。
 これ、まず表紙がいいのよ。写真絵本だからベタ写真でいいのに、あくまでスタイリッシュ。ドキドキ感があふれてます。
 中身はもう、今森の好奇心が、そのまんまストレートに伝わってきて、こちらも身を乗り出してしまいます。
 自分も生き物だ~って思えるの。(hico)

『せかいでいちばんつよい国』(デビッド・マッキー:作 なかがわちひろ:訳 光村図書 2004/2005.04.25 1500円)
 自分が征服することでその国が幸せになると信じた大統領。次から次へと国を奪っていくけれど、最後にたどり着いた小さな国の人々は、生きる喜びを知っている人たちで、兵隊たちはたちまち感化され、軍服も脱いで人生を楽しむ。
 これはいかんと大統領は兵隊をチェンジするのだが、何度しても結果は同じ。しかも、国に戻した兵隊たちは、小さい国で知った生きる喜びに満ちた暮らしを始めていて・・・。
 征服したつもりの大統領自身が実は文化的には征服されてしまいましたとさ。
 シンプルで味わい深い画と物語です。(hico)

【創作】

『ドリトル先生航海記』(ヒュー・ロフティング作 井伏鱒二訳 岩波少年文庫) この物語は、別世界を舞台にしているわけでも、魔法が出てくるわけでもありません。けれど、ドリトル先生は、魔法使いというわけではなく動物語を話せます。学習したのです。飼っているオウムのポリネシアとの会話から始めて、一つ一つ動物語を覚えていきました。 動物語を話せる不思議な人物ドリトル先生というより、努力してそうしたスキルを習得した先生という描き方です。動物語が話せるドリトル先生は手の届かないヒーローではないのです。ドリトル先生の助手となる語り手のスタビンズ少年も、はじめは「とうてい覚えることができないだろう」と思っていたのに、少しずつ話せるようになっていきます。 本当の会話とまではいかないまでも、ペットの欲求などを理解し、ある程度コミュニケーションがとれていると思っている人は多いでしょう(私もそうです)。動物語を話せるという設定は、魔法ほどには飛躍せず、私たちがあり得ると考えていることの延長線上にあるのです。あり得ないけれど、あったらいいなといったレベルです。 『航海記』に出てくる漂流島もそうですね。陸地の一部だったのが本土からはなれたとき、内側の殻になったところに空気が入ったから浮いているのだと、説明がなされています。そんなアホなと思いますが、あったら楽しいな、です。 常識と地続きのファンタジーとでも言えばいいでしょうか。 地続きですから、魔法が出てくるファンタジーを読むときのように、非日常のルールを受け入れるために頭を切り換える必要はありません。ドリトル先生について行けば、ごく自然に楽しい世界へと導かれてしまいます。 ただし、常識はいつの時代のどの場所でも同じというわけではありません。この物語は八十年以上前に書かれていますから、今の時代に読むと、少し違和感を覚える部分もあります。 闘牛を止めさせようと、牛たちと作戦を練るドリトル先生。私も闘牛は好きではありませんが、それも一つの文化であることは確かでしょう。問答無用に切り捨てられるほど簡単なことではありません。また、漂流島では、「魚が料理してないのを知ったとき、私たちはびっくりすると同時に、がっかりしました。島の人たちは、ちっとも変に思わないふうで、生のままでおいしそうにたべました。」。私たちの常識では、別に不思議でもなんでもないですよね。でも、島の人たちが魚を生で食べているのは、火を知らないからだという理由付けをして、ドリトル先生たちは、自分たちの価値観に従って指導をします。 この辺りは、自分は文明社会の住人であり、だから正しいのだと思いこんでしまう危うさの事例として読むことができますね。 そうした部分を含みながらも、この物語は、あったら楽しいな的な冒険の喜びを今も伝えてくれています。(徳間書店「子どもの本だより」2005.01)

クローン人間を主人公にした二つの物語が出ました。一つは、『砂漠の王国とクローンの少年』(ナンシー・ファーマー作 小竹由加里訳 DHC 1900円)。外出を許されないまま育てられたマットは、ある事件がきっかけで解放されることに。しかし、周りの人は彼をさげすみ、嫌悪し、動物のように扱います。お屋敷のご主人を除いて。だからマットはこの老人になつく。でも、周りの反応も、老人が優しくしてくれるのも、同じ理由からでした。マットは、老人のための新しい臓器提供者として育てられていたのです。 もう一つが『パーフェクトコピー』(アンドレアス・エシュバッハ作 山崎恒裕訳 ポプラ社 1500円)。幼い頃からチェリストになるための英才教育を受けている十五歳の少年ヴォルフガングは、若き天才の演奏を聴き、自分はとてもあんな風には弾けないと思います。しかし医者である父親は彼の不安を一蹴します。彼は間違いなくすばらしいアーティストになれるのだと。何故父親は自信があるのか? そんな時、十六年前にクローン人間作成に成功した医者がいるというニュースが流れ、・・・。 現在、クローン人間は、作れるか以前に、作ることの是非について論議されていますが、フィクションはそこを飛び越えて、クローン人間の側から訴えています。彼らもまた同じ人間なのだと。スリリングな展開なので、一気に読めますよ。(読売新聞 2005/03/01)

どんな問題でも、当事者の言葉に耳を傾けることなしには本当の始まりはありません。『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(貴戸理恵 常野雄次郎 理論社 千二百円)は、不登校の当事者であった二人から届けられたメッセージです。「学校に行かない子どもに、『どうして学校に行かないのか』と聞くのは『暴力』だ」。言われてみればその通りなのですが、気にもとめず口に出してしまいそう。それが「暴力」なのは、質問する側が「どうして学校に行ったのか?」と自らに問わないからです。 貴戸さんは、子どもの頃、学校に行けなかったのではなく「行かない人生を選び取ったんだ」という物語を生きていた自分を振り返ります。そう思わないと自分の居場所がなかったからなのですが、一つのイメージに自ら合わせてしまうことへの違和感がありました。それでは何も進まない、見えてこない。つまり、「『個性豊かな不登校児』なんて、わかりやすいけどリアルじゃない」のです。これは当事者であったからこそ伝えられるメッセージ。「子どもの側から見た不登校論が必要だ」。同感です。「子ども」ではなく「子どもの側」。貴戸さんも「子ども」に関しては、もはや当事者ではありません。そのことを自覚した上で、どんな言葉を見つけていくのか。次のメッセージが待たれます。(読売新聞 2005/04/04)

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