【児童文学評論】 No.94  2005.10.25

〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>


   あとがき大全(51回目)

1 四川省成都から

 成都にある四川大学で教えている王さんと、たまにメールのやりとりをしているのだが、ちょっとおもしろい話題があったので。

(王さん)
この期間、二本の映画を見ました。一本は、ビデオでフランス映画「the taste of others」。フランスでは人気があったらしいです。フランス人のユーモアを感じさせてまあまあよかったです。もう一本は、香港の映画。上海作家の小説『長恨歌』を改編した同名映画。小道具や三十年代の上海の雰囲気がよかったけど、小説の方がうまかった気がしました。監督は関錦鵬(スタンリー・クワン)、梁家輝(レオン・カーファイ)と鄭秀文(サミー・チェン)が共演している。

(金原)
いつも不思議に思うんだけど、そういう英語名って(スタンリー、レオン、サミー)、どこからくるんだっけ? それが不思議でならないんだけど。

(王さん)
何か香港の一部の監督や俳優は、英語名があるようです。例えば、劉徳華の場合、Andy Lauでしょう。Lauは広東語の発音で、Andyは彼の英語名。関錦鵬は、KWAN, Kam-Pang Stanleyという標記で、Kwan,Kam-Pangは「関錦鵬」の広東語の発音。Stanleyは本人の英語名。
 勝手につけた英語名だと思いますよ。ちなみに香港の番組でも俳優を紹介する時に、Andy Lauで呼んでいます。
 ただし、前の「剣橋」(注1)の場合は、Kambridgeを訳す最初の中国人は沿海の人で、そこの剣の発音は現代中国語のJianと違って、Kamに近いから,その字を使ったわけ。 普通の中国人もそんなことがないです。香港はやはりイギリスの植民地だったから、中国人とイギリス人の半々かもね。
 だいたい、香港の人の英語がうまいもん。

(金原)
それって、おもしろいなあ。
まず、日本人の場合は、そういうことないもん。
Mizuhito Travis Kaneharaとか、いわないしね。

(王さん)
たぶん、それは英語がうまいかどうかと関係なく、英国の植民地が原因だったと思います。
 調べたところ、香港は英国の植民地になってからイギリス人の先生がやってきて、学生の中国語名を覚えられないから、皆にそれぞれの英語名をつけたそうです。香港人の身分証明書にも中国名+英語名が書いてあるそうです。香港の人々はやはり好きでつけたわけではないらしかったです。何か同じ英国の植民地なのに印度人は英語名がつけられるのが嫌がっていたと批判する人もいます。
 いま中国大陸で英語を勉強する人は、流行というか、格好よさから英語名をつける習慣がありますが、さすがに身分証明書には記すのがいやでしょう。私ならいやですね。

 というふうなやりとり。
 なるほど。アグネス・チャンの「アグネス」なんてどこからきたのか、ずっと不思議だったんだけど、これですっきりした。
 じつは、こういう習わしは日本でも昔からあって(もちろん、今でもたまにある)、とくにミッション系の学校の場合、ネイティヴには日本人の名前は覚えにくいので、最初の時間に自分の英語名を好きにつけさせていた。そういう経験は珍しいものではなく、ぼくもある教室では「トラヴィス」とか呼ばれていたし。
 ともあれ、固有名詞はむずかしい。

(注1)いつかこの「あとがき大全」で、外国の固有名詞に漢字をあてるとき、どうするかということについて書いたことがあった。そのとき、日本では中国語の漢字をそのまま使う場合もあれば、日本で独自にあてた漢字を使う場合もあると紹介して、いろんな例をあげたんだけど、そこで「剣橋(ケンブリッジ)」は日本での当て字と指摘したところ、王さんから、「いえ、それは中国が先です」という反論があった。

2 四川省成都から(2)
 王さんのねたをもうひとつ。こんなメールがきた。

(王さん)
ちょっと先生に聞きたいですが、「内供の自尊心は、妻帯と云ふやうな結果的な事実に左右される為には、余りにデリケイトに出来てゐたのである。」という文です。
 この文の意味が今一わからないです。内供の自尊心は……事実に左右されるかされないか。

(金原)
「内供の自尊心は、妻帯と云ふやうな結果的な事実に左右される為には、余りにデリケイトに出来てゐたのである。」
→あ、むつかしいなあ。
「内供の自尊心は、余りにデリケイトにできていたから、妻帯というような結果的な事実には左右されなかった」と書き換えると少し、わかりやすくなるかな。
His pride was too delicate to be bothered by ...
ただ、「結果的な事実」というのが説明むつかしいなあ。

(王さん)
 ええっ?ここの「為には」は原因を指していないんですか。例えば、「彼は病気の為に学校を休んだ」の「為に」と違いますか。でも、普通だったら、デリケートなら、そのような事実に左右されやすいんじゃないのかな。
 そうそう、この文の中訳を読んだら、「結果的な事実」を「具体的な事実」と訳しているけど、どうですか。

(金原)
 「結果的な事実」、うちの学部の江戸学の権威、田中優子さんにきいてみたら、「ちょっと待って」とのこと。なんか、むつかしいよ。

3 芥川の「鼻」

 じつは、王さんからのメールで気になって、青空文庫の「鼻」を読み返してみた。問題の箇所は以下の通り。

一度この弟子の代りをした中童子(ちゅうどうじ)が、嚏(くさめ)をした拍子に手がふるえて、鼻を粥(かゆ)の中へ落した話は、当時京都まで喧伝(けんでん)された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重(おも)な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
 池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家(しゅっけ)したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩(わずらわ)される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損(きそん)を恢復(かいふく)しようと試みた。

 しかしそれにしても、この日本語のひどさ……

……内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
……内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損(きそん)を恢復(かいふく)しようと試みた。

 あちこちに翻訳文体、それも直訳文体が顔を出していて、作文の時間にこんな文章を書いたら、ぜったい先生にしかられるぞと思う。ついでにいうと、今の翻訳家がこんな文体で訳したら、それこそひんしゅく物だろう。それが、名作として教科書に載ったりするんだもん、なんだ、これ、といいたくなる。それを漱石が絶賛してたりして。なんだよ、それ。
 とまあ、ちょっと怒ってみたけど、じつはちっとも怒ってはなくて、まあ、そういうもんだろうなと思っているところ。おそらく、当時は、こういう直訳風の文がちょこちょこ顔をだすのが新鮮でおもしろかったんだと思う。ただ、それだけのこと。
 この頃、「美しい日本語」とか「正しい日本語」とかうるさいほど耳にするけれど、そんなものはない。「内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。」という文は、現在の感覚で読めば、決して、美しくもなければ、正しくもない。しかし、当時は新鮮だったのだと思う。その意味では、「文学的」だったのだろう。
 作家であれ翻訳家であれ、文章で問われるべきは「正しい」とか「美しい」とかではなく、(その時代において、その状況において、読者にとって)「効果的であるかどうか」「本人の伝えたいものが伝わっているかどうか」だと思う。
 そしてまた、古びないものなどなにもない。あらゆるものは時間がたてば古びていく。しかし古びていっても、なお次の時代に通用する物もある。しかし、そういったものが「本当に価値がある」ものであるかどうかは定かでない。というか、そういう絶対的な価値などおそらくない。その時代、その社会、その人にとって価値を持つかどうか、究極的にはそれしかない。
 先日、井上ひさし作『天保十二年のシェイクスピア』(蜷川幸雄演出)を観て、いい芝居三本分くらいの衝撃を受けたのだが、この現代、こわもての劇作家シェイクスピアだって、故国イギリスで不遇をかこった時もあったわけで、当時はシェイクスピアなんて、下品で、冷酷で、がさつで、などと思われていた。だからあまり上演されなかったし、上演されるときでも、エンディングを変えて(たとえば、『リア王』をハッピーエンドに作り替えて)上演されていたくらいだ。また世界的にみた場合、シェイクスピアは英語圏、ドイツ、ロシア、日本などでは人気があるけど、フランスではそれほどでもない。
 文章もまた、料理の味と同じで、時代の好み、社会の好み、個人の好み、この三つに左右される、頼りないものなのだと思う。

4 あとがき
 今月もまた、あとがきを。『メジャーリーグ、メキシコへ行く』『ノアの箱船』『グッバイ、ホワイト・ホース』の三冊。

   訳者あとがき(『メジャーリーグ、メキシコへ行く』)

 担当の編集者から、こんな野球小説、いかがです、と手渡された、この本『ベラクスル・ブルース』(The Veracruz Blues)を一読して、思わずうなった。
 まずなにより、発想と着想と構想が素晴らしい。そして、そのために入念に丹念に集められた膨大な資料もまたすごい。さらにそれをもとに作り上げられた何人もの有名な選手のエピソードや物語がどれもおもしろいし、それらの物語がもつれあって紡ぎ上げる世界が最高に魅力的だ。そのうえ、そこに語り手である「著者」が登場人物として非常にうまくからんでくる。そしてぜいたくなことに、わきをしめる端役にもかなりの大物が抜擢されている。その中心がアーネスト・ヘミングウェイとベーブルース。
 そう、熱い、まさに熱い小説なのだ。その舞台がまたメキシコ!
 いったいどんな小説なのかというと……。

 これは一九四六年にメキシコリーグが行った、選手引き抜きの話だ。当時の関係者たちは、これを「メジャーリーグに対する殴りこみ」といっている。そしてわたし、フランク・ブリンガー・Jr.もその関係者のひとりだ。われわれは、ほかの何千という人間たちとともに、故ホルヘ・パスケルによって買い集められたコレクションの一部だった。

 つまりこの小説は、ホルヘ・パスケルによってメキシコリーグに呼ばれた選手たちが織りなす物語なのだ。このホルヘ・パスケル、作中で折に触れいろんな風に紹介されているが、一言でいってしまえ表の世界にも裏の世界にも通じた大金持ち。アメリカ政府に手を回し、アメリカの野球選手の兵役を免除させるくらいは朝飯前。このパスケルが大の野球好きで、また当時のメキシコが野球熱にうかされていたこともあり、多くの優秀な選手がメキシコに引き抜かれていった。とくに黒人選手が多い。アメリカよりも給料が数倍いいうえに、アメリカとちがって、まったく差別されることない夢のような扱いを受けることができたからだ。そう、第二次世界大戦直後のアメリカは、まだまだ人種差別が激しかった。黒人で初めてジャッキー・ロビンソンが大リーグデビューする前の話だ。
 パスケルは金に物を言わせて、メジャーリーグからもニグロリーグからも次々にいい選手を引き抜く。こうしてメキシコへやってきた選手たちを縦糸に、パスケルとフランク・ブリンガー・Jrを横糸に、なんとも野趣あふれる強烈な野球小説が織りあげられていく。
 もちろん、ここで熱く語られるのは黒人選手ばかりではない。たとえば、四六年にメキシコリーグでプレーしたため、五年間にわたる出場停止処分を受けたダニー・ガルデラは損害賠償訴訟を起こす。そしてこのおかげで、アメリカにも一九五〇年、ようやくフリーエイジェント制が導入されることになる。また彼は、アメリカ野球の歴史において、完全に人種差別をなくすきっかけを作ることにもなる。
 しかしこの本はアメリカの終戦直後の野球史でもなければ、メキシカンリーグを扱ったノンフィクションでもなければ、ダニー・ガルデラやほかの選手の伝記でもない。それらすべての興味深いところだけを集めて、巧みに調理したフィクションなのだ。
 選手たちのひとりひとりがまるで実際に語りかけてくるようなリアリティが、最初から最後までしっかりとゆるむことなく持続する。その物語から立ち上る熱い試合の数々、名プレー、珍プレー、喧嘩、乱闘、軍隊の乱入……汗のにおいまでがしてきそうだ。それは名脇役であり、また迷惑役でもあるヘミングウェイとベーブルースも同じ。
 そしてなにより、メキシコ! メキシコの大地、メキシコの風、メキシコの人々、ここにはメキシコがぎゅうぎゅうに詰まっている。本を顔に近づけるだけで、メキシコの香りが漂ってくる。
 とくに印象的なのは、タンピコという港町の球場だろう。

 まずは球場。正面の観客席なんて古い木造で、見るからに、一日で造って三十年はもたせよう、って感じだった。外野席はファウルポールのところで、いきなりぶち切れてる。理由は簡単。鉄道の線路が一本、外野の部分を横切ってるんだ。外野フェンスは線路の向こうにあった。

 一九四六年、ニグロリーグ、メキシコリーグ、ダニ・ガルデラ、メキシコ! ここには、フィクションとノンフィクションの熱くせめぎ合う強烈な時間と空間が凝縮されている。

 ひとつお断りをしておきたい。これは事実をもとに組み上げられたフィクションなのだが、取材や資料の収集は徹底していて、作者によれば、各選手の成績や記録、歴史的・球史的事実やその他のデータはほぼ百%正確とのこと。ただ、資料の違いや解釈の違いで、ごくまれに細かい数字や、登場人物の詳細が異なっている箇所がある。たまに作中人物が思い違いをしているという設定の部分もある(らしい)。
 ともあれ、六十年も前のアメリカやメキシコの野球界を舞台にした小説なので、参考資料が見つからなかった事件や人物もある。また、こちらの調べ間違い、勘違いも多いかと思う。固有名詞の発音も不安である。そういったミスにお気づきの方は、どうかご寛恕のうえ、ぜひ出版社までご連絡いただきたい。
 なお、最後になりましたが、この本を紹介してくださった元編集者の山村朋子さん、原稿をチェックしてくださった望月索さん(功労賞もの)、大奮闘の校閲の方、翻訳協力者の中力千詠子さん、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さんと野沢佳織さん、そしてまた、質問にていねいに答えてくださった作者にも、心からの感謝を!
   二〇〇五年七月二十四日             金原瑞人

   訳者あとがき(『メジャーリーグ、メキシコへ行く)……こちらは本文中からの引用が多すぎると編集さんにしかられて、没になったやつなんだけど、金原としては、かなり気に入っているのでついでに。

 担当の編集者から、こんな野球小説、いかがです、と手渡された、この本『ベラクスル・ブルース』(The Veracruz Blues)を一読して、思わずうなった。まずなにより、発想と着想が素晴らしい。そして、膨大な資料を丹念にあさったうえに作り上げられたいくつもの物語がどれもおもしろいし、それらの物語がもつれあって紡ぎ上げる世界が最高に魅力的だ。そこに語り手である「著者」が非常にうまくからんでくる。わきをしめる端役にもかなりの大物が抜擢されている。その中心がアーネスト・ヘミングウェイとベーブルース。
 さて、どんな内容かというと……。

 これは一九四六年にメキシコリーグが行った、選手引き抜きの話だ。当時の関係者たちは、これを「メジャーリーグに対する殴りこみ」といっている。そしてわたし、フランク・ブリンガー・Jr.もその関係者のひとりだ。われわれは、ほかの何千という人間たちとともに、故ホルヘ・パスケルによって買い集められたコレクションの一部だった。ホルヘ・パスケルという男は、いったい何者だったのだろう? (a)メフィストフェレス(悪魔)(b)ギャッツビー(みえっぱりな成り金)(c) バーナム(先見の明のある興業師)(d)自分勝手な戦争成り金(E)身分の低かったスポーツ選手の救世主(f)公民権運動の先駆者(g)恋愛ごっこの好きな殺人犯(h)野球の殿堂に入るべき予言者(i)これらすべて(j)どれでもない。わたしは四十八年ものあいだ、この問題と格闘してきたが結論は出ない。あとは読者のみなさんにおまかせすることにしよう。

 そう、この本の内容はこれにつきる。それに少しだけ色をつけてみると、こんなふうになるだろうか。

当時、もしだれかが、ガルデラは稀有の精神病……感応精神病……にかかっているといったら、わたしは納得しただろう。だが野球の歴史に大革命を起こすべく生まれてきた男だといったなら、こいつは頭がいかれていると思ったにちがいない。しかし、ダニー・ガルデラは本当に革命をもたらした。野球の歴史において、完全に人種差別をなくすきっかけとなったのだ。舞台は一九四六年のメキシコ。ジャッキー・ロビンスンがブルックリンでデビューを果たす一年前、ビッグリーグの名ばかりの黒人差別撤回が、真の平等へ変革をとげる十年前のことだ。

 それともうひとつ色をつけておくと、このガルデラのおかげでアメリカにも、一九五〇年、ようやくフリーエイジェント制が導入されることになる。
 しかしこの本はアメリカの戦後直後の野球史でもなければ、メキシカンリーグを扱ったノンフィクションでもなければ、ダニー・ガルデラの伝記でもない。それらすべての興味深いところだけを集めて、巧みに調理したフィクションなのだ。
 選手たちのひとりひとりがまるで実際に語りかけてくるようなリアリティが、最初から最後までしっかりとゆるむことなく持続する。その物語から立ち上る熱い試合の数々、名プレー、珍プレー、喧嘩、乱闘、軍隊の乱入……汗のにおいまでがしてきそうだ。それは名脇役であり、また迷惑役でもあるヘミングウェイとベーブルースも同じ。そしてなにより、メキシコ! メキシコの大地、メキシコの風、メキシコの人々、ここにはメキシコがぎゅうぎゅうに詰まっている。本を顔に近づけるだけで、メキシコの香りが漂ってくる。
 とくに印象的なのは、タンピコという港町の球場だろう。

 まずは球場。正面の観客席なんて古い木造で、見るからに、一日で造って三十年はもたせよう、って感じだった。外野席はファウルポールのところで、いきなりぶち切れてる。理由は簡単。鉄道の線路が一本、外野の部分を横切ってるんだ。外野フェンスは線路の向こうにあった。

 一九四六年、ニグロリーグ、メキシコリーグ、ダニ・ガルデラ、メキシコ! ここには、フィクションとノンフィクションの熱くせめぎ合う強烈な瞬間が凝縮されている。

 ひとつお断りをしておきたい。これは作者も最初に書いている通り、事実をもとに組み上げられたフィクションなのだが、どこまでが事実でどこからがフィクションなのか、あいまいな部分がかなり多い。資料と付き合わせてみると、細かい数字の違いなどが目につくし、登場人物の詳細も異なっている場合がある。また、六十年も前のアメリカやメキシコの野球界を舞台にした小説なので、参考資料が見つからなかった事件や人物もある。また、こちらの調べ間違い、勘違いも多いかと思う。固有名詞の発音も不安である。そういったミスにお気づきの方は、どうかご寛恕のうえ、ぜひ出版社までご連絡いただきたい。
 なお、最後になりましたが、この本を紹介してくださった元編集者の山村朋子さん、原稿をチェックしてくださった望月索さん、翻訳協力者の中力千詠子さん、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さんと野沢佳織さんに、心からの感謝を!
   二〇〇五年七月二十四日          金原瑞人

   訳者あとがき(『ノアの箱船』)

 『ノアの箱船』はタイトル通り、旧約聖書に出てくる有名なエピソードを下敷きにしている。登場人物は、ノアとその妻。そしてノアが五百歳にしてなした三人の息子、セム、ハム、ヤフェト。そしてその妻たち、ベラ、イリヤ、ミルン。これら八人の織りなす人間模様がこの作品の中心になっている。この本を読んだとき、作者のデイヴィッド・メイン、途方もない想像力の持ち主だなと思った。
 神の言葉を聞いてからのノア一家の箱船作り、動物集め、四十日間にわたる大洪水、雨がやんでから陸が見えるまでの日々も、聖書にすればほんの数ページのエピソードだ。作者はこれを数百ページの非常にリアルな小説に仕立て上げた。もちろん、ノアが巨人たちから材木やピッチをゆずってもらう逸話や、ベラが父親に売られてやがてセムの妻となり再び父親に会って動物をもらいうける逸話や、ハトがオリーヴの葉をくわえてもどる逸話などは、きっちり織りこまれているが、その一方、ノア一家の生活が事細かく、まるで手に取るように、目に浮かぶように、におってくるかのように描かれていく。食事、仕事、動物の世話、糞尿の始末、降りしきる雨、そばを流れていく人や動物の死体、そしてもちろんセックスも。
 しかしそれだけではない、八人の心理も細かく描かれている。それもおもしろいことに、この小説のなかのいくつかの章は個性豊かな妻や息子や娘たちが語る形になっている、つまりそれぞれの一人称になっているのだが、ノアの章だけは三人称で書かれている。
 この作品から浮かび上がってくるのは、ファンタスティックな状況で繰り広げられる、いかにも生臭い人間の生活であり、人間の愚かさ、おもしろさ、悲しさ、切なさであり、信じられないくらい敬虔な、もしかしたらただ〈幻〉を見ているだけかもしれないノアと、彼をめぐる家族の成長である。この大事件を乗り切ることによって、だれもがなんらかの変化、成長をとげる。それはノア自身も例外ではない。
 ともあれ、軽い小説ばかりがはびこる今日この頃だが、小説を読んだぞという、ずっしりした読後感を味わえることはまちがいない。
 なお、原題の The Preservationist は「保存、保護する人」という意味。また、本文中の聖書からの引用はすべて「新共同訳」から。

 最後になりましたが、編集工房リテラルリンクのみなさん、翻訳協力者の段木ちひろさん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さんに心からの感謝を!
 二〇〇五年九月五日                金原瑞人

   訳者あとがき(『グッバイ・ホワイトホース』)

 サニーはレイナにとって、この世で一番美しい。がりがりにやせてしまったいまでも、やっぱりそう。レイナはサニーの寝顔をみつめながら思う。この人はわたしのもの。サニーの腕は白く、毛もうっすらと生えているだけでなめらかだ。腕のあちこちに刺青が入っている……
「タバコない?」レイナがそばを通りかかった人に声をかけると、一本落としてくれた。その一本を、レイナとサニーはふたりで吸った。
 
 主人公のレイナは十六歳。赤ん坊の頃に死んでしまった弟のことで心に大きな傷を負っている。母親はドラッグ漬けで、次々にいろんな男と関係を持つが、どの男も「ゲス野郎ばかりで、あとには子どもを残していった……七人もいるのに、ママに望まれて生まれた子どもはひとりもいない……レイモンドなんて、二十回ぶっ続けでぶん殴られたこともある……シーラの目の前でヤクをやって、フランケンシュタインそっくりに血管が浮き出すほど絶叫し続けたこともある」
 レイナはそんな家から飛び出し、ドラッグから抜け出せないボーイフレンド、ソニーといっしょになり、半路上生活を送っている。ただ、文章を書くのは好きだった。
 そんなレイナの作文を読んで、歩み寄ってくれたのがマーガレットという教師。マーガレットの教えている高校は問題児ばかりが集まっていて、社会からもろくに相手にされていない。校舎のいたるところにアリが群がって困っているというのに、アリ駆除の予算もおりない。マーガレットは教育長にこんな手紙を書きたいと思うことがある。

 覚えていらっしゃいますか? エマニュエル・ライト補習学校のマーガレット・ジョンソンです。国旗を掲げた公衆便所のような学校の、といえば、おわかりになるでしょうか?
 アリのことはもう心配御無用ですので、その旨、ご連絡差し上げた次第です。解決いたしました。水攻めにあい、全滅したのです。すさまじいばかりの雨漏りのおかげです。このままでは、卒業必修単位に「水泳」を追加するしかなさそうです。

 ときにユーモラスに、ときに辛辣に社会や自分をみつめるマーガレットも心に大きな傷を負っている。子どもがほしくてたまらず、何度も何度も病院で検査を重ね、いろんなことに耐えてきたにもかかわらず、希望と絶望の繰り返しだったのだ。「チアリーダーの女の子が、トイレで赤ん坊を産み落として、フットボールの競技場に戻っていく。どうして、取り替えっこできないのかしら?」と思ってしまう。
 この作品は、麻薬、ティーンエイジャーの売春、妊娠、幼児虐待など、現代アメリカで落ちこぼれていく若者たちと、それを取り巻く劣悪な環境や困難な問題をじつにリアルにとらえている。しかしそれだけではない。というか、それはただの背景であって、中心はお互いに傷を抱える主人公レイナと教師マーガレットの物語だ。ふたりは安易なドラマのように、なんのわだかまりもなく理解し合うようになるわけではない。その前には、おたがいの厳しい葛藤と、激しい自分との戦いが続く。そしてそれを描いていく、文体のすばらしさ。それに、レイナの書く作文。レイナの文章はときにストレートで強烈で、ときに詩的でやさしく、一語一語が鮮やかに鋭く心に突き刺さってくる。
「残酷で、心の震える、ときにショッキングだが、美しい作品」("ブックリスト")という書評そのままだと思う。
 これを訳しながら、クリス・クラッチャーの『ホエール・トーク』(青山出版社)を訳したときの感動がそのままよみがえってきた。

 なお、最後になりましたが、編集の川端博さん、原文とのつきあわせをしてくださった野沢香織さん、鈴木由美さんに心からの感謝を!

   二〇〇五年九月二十八日
                          金原瑞人

5 連絡
 前回、お伝えしたように、八重洲ブックセンターの上のホールで、毎月末、金原の企画で、新しい古典芸能のシリーズをやっています。今月は26日、6時半からです。どうぞ、寄ってみてください。
 また来月は11月23日の午後。『忠臣蔵』の解説と義太夫を楽しんで、そのあとで、〈橋本治+岡田嘉夫〉の対談があります。こうご期待!
 「小説すばる」でエッセイの連載を開始。今月号から。
 「野生時代」の今月号から三ヶ月、アメリカの短編をひとつずつ掲載(訳しているのは、金原ではなく、短編の勉強会の面々。ただし、今月号の紹介風エッセイは金原)。どの短編もすばらしいので、ぜひ読んでみてください。


【絵本】(ほそえさちよ)
児童文学書評2005.10月

○フランソワーズというひと
「ありがとうのえほん」1947
「おおきくなったら なにになる?」1957
「わたしのすきなもの」1960(以上、なかがわちひろ訳 偕成社 2005)

 アメリカでの最近のフランソワーズの絵本の復刊にはびっくりさせられる。まりーちゃんシリーズが全巻まとめて復刊された。日本では小さい判型で二冊まとめられてしまっている岩波子どもの本や福音館書店で翻訳されている絵本がロングセラーを続けていたのに、アメリカでは古書店で手に入れるしかなかったのだ。今なお手元においておきたいと思う人が多いのだろう。ただ、この復刊本の印刷のあまりのひどさにはびっくりしてしまう。もうすこしもとの本への愛着を形で見せてほしかったと思うのだけれど。最近では「まりーちゃんとおまつり」が徳間書店で翻訳され、あと翻訳されていない「まりーちゃんパリに行く」「まりーちゃん、今何時?」が日本語になるのも時間の問題ではないかしら?
 日本でもまりーちゃんシリーズ以外のお話絵本がほとんど刊行された。あと翻訳されていないのは「ねこのミノン」くらいでしょう。フランスで刊行されたいくつかの絵本については、まだ翻訳されていないと思う。
 今回、3冊刊行された絵本はフランソワーズの絵本のなかでもちょっと変わった位置付けにある絵本。アメリカで絵本を出版するようになって初めての仕事は、マザーグースとABCの絵本だった。そのあと、まり-ちゃんというキャラクターが生まれてくるのだけれど、そのまえにこの「ありがとうのえほん」をかいている。この絵本は初期のフランソワーズの絵の特徴のざっくりとした模様編みのセーターみたいなあたたかみのある太いラインでふちどられ、あまり細かく書き込まれていない。それからまりーちゃんシリーズやいくつかのお話し絵本を描いた後、また、「おおきくなったらなにになる?」をかき、亡くなる前年に「わたしのすきなもの」を刊行している。この3冊はだれか主人公がお話しを引っ張ってくれる物語絵本になってはおらず、作者が直接、読者に語りかけるようなスタイルの絵本になっている。こういう語りかけ絵本は、このころ、わりと描かれていたようだ。スロボトキンが物語絵本を作る合間に「ひとりもいいけど、ふたりもね」(1957)とか「いっぱい いっぱい いっぱーい!」(1955)なんかかいているのもちょうど同じような時期と言えるだろう。単純なコンセプトブック、もしくはメッセージブックとしての絵本の話法がある程度、認知されていたし、その語りかけにきちんとのっかってくれる子どもという存在が確固として存在しているとみんなが思っていたから、よく作られていたのだろうと思う。10年以上もの間に描かれた3冊だが、ならべてみると、一貫したフランソワーズの思いが受け取れる。それは、この世界はうれしいことやたのしいこと、すきなものがたくさんあるということだ。それをあたたかな絵とシンプルなことばで伝えている。きらいなことないやなこともあるはずだけれど、でも、やっぱり、自分の好きなものをたくさんあげたり、素敵な大人の姿をたくさんみせたあと、「あなたはなにがすき?」「おおきくなったら なにになりたい?」とフランソワーズは子どもに聞くのだ。それは、真に大人の姿だと思う。

○その他の絵本、読み物
「こねずみのミコの ママ、おきてあそぼうよ!」「おふろなんか、いやだもん!」ブリギッテ・ベニンガ-文 シュテファニー・ローエ絵 (BL出版 2004/2005,9)
おかあさんとねずみのミコの日常を描いた絵本。かわいらしくて、なんてことなくよめるのだけれど、このおかあさん、なかなかのひと(ねずみ)である。このよごれも、あのよごれも、ぼくが一生懸命遊んだ証拠だから、わすれたくないから、手を洗わない、お風呂にも入らないとだだをこねるミコ。おかあさんはそのままベッドに入るのは困るからと、ゆかにタオルケットをしいて、ここでならねてもいいわよという。そのうちに、ミコはチクチク、かゆかゆになってしまい、自分からお風呂に入ることに……。子どもの思いと親のつごう、どちらにも理由があって、どう折り合いをつけるか、それをあたたかく見守っている。

「ダフネちゃんとオパールちゃん」ホリー・ホビー作 二宮由紀子訳 (BL出版 2004/2005,9)
人気の<トゥートとパドル>シリーズの八巻目。今回、登場するのはプリマドンナがかったダフネちゃん。この女の子にみんなふりまわされます。でも、オパールちゃんの態度にダフネちゃんも一目置くようになり……。それぞれ、みんなちがういいところがあるんだよ、とお話しをとおして、伝えてくれる。それがなじみのキャラクターで語られるところが、このシリーズの人気の秘けつかな。

「ミステリー おいしい博物館盗難事件」アーサー・ガイサート作 久美沙織訳 (BL出版2003/2005.9)
ブタのエッチングでシリーズ化されている、ガイサートの新作。今回は博物館の絵の一部が切り取られ、にせものがはめ込まれてある事件です。それを解決したのが小さなコブタ。その推理を一緒に進めていくのがたのしいだろう。細かにえがれたエッチングが事件の雰囲気を盛り上げてくれる。

「もぐもぐもぐ」「ぴょんぴょんぴょん」メラニー・ウォルシュ作(主婦の友社 2005/2005)
シンプルな絵で小さな子に人気のウォルシュのフラップ絵本。「うさぎが もぐもぐ たべているのは?」とよんで、フラップをめくると、「にんじん」というふうに絵とこたえがかいてある。よんでもらいながら、めくって、楽しむ絵本。かわらしくて、なじみのある動物たちが出ているので、親しみやすいのだが、訳文が小さな子どものものになっていないのが残念。ちょっとした語順をかえるだけで、もっとたのしく心地よい日本語になるところや、耳にしてちゃんと意味のとれる日本語にしてほしいところなど。単純だからこそ、工夫しがいのあるものなのだが。

「イボイボガエル ヒキガエル」三輪一雄作 (偕成社 2005,10)
「がんばれ!まけるな!ナメクジくん」で気持ち悪いとか変なやつと思われがちな生き物を堂々と主人公に描いた作者が次の選んだのはヒキガエル。アマガエルみたいにきれいな色をしていないし、トノサマガエルみたいに良い声で鳴かないし、なんかどてっとしていてかっこわる~い。ヒキガエルが他のカエルたちとどのように違うか、どうして違うようになったのか。関西弁の愉快な語り口にのって読んでいくうちに、生き続けるってことの重さを感じさせてくれるのがいいなあ。見返しのガマガマ新聞も楽しい。

「もぐらのホリーともぐらいも」あさみいくよ (2005.9 偕成社)
絵本作家のデビュー作。もぐらのモリーは芋畑で出会ったさつまいもにもぐらいもと名前をつけて、家に招いてお茶を飲んだり、いっしょに地下水の池で遊んだり、トンネルの滑り台であそんだり……。お日さまにあたるところに行きたいわ、といわれたモリーは、もぐらいもを地面の浅いところにうめる。その1年後、トンネル掘りの途中でもぐらいもに再会すると、たくさんの子いもに囲まれていましたという展開。イラストも丁寧でオーソドックスな優しい感じ。もぐらの造形も自然の描き方もきちんとしている。お話しも良くまとめられている。でも、本当にもぐらが好きなのかなあ。本当にこのお話が描きたかったのかなあ。デビュー作というのは、その作家の思いや好みが存分に出て、まとまりのつかないくらいのほうが、楽しみなものなのだが。きれいにまとまりすぎているのが、ちょっとひっかかる。

「マックスとたんじょうびケーキ」ローズマリー・ウェルズ作 さくまゆみこ訳(1997/2005,9 光村教育図書)
ルビーとマックスはうさぎの姉弟。ふたりはおばあちゃんのためにケーキをつくります。ルビーが着々と作業をすすめるのに、マックスはじゃましてばかり。たりないものを買いに行くお手伝いをさせられます。字がかけないマックスは、自分のケーキのためにぴりぴり味のマシュマロがほしくて、メモに書くのだけれど、店のおじいさんには伝わりません。何回も行くうちに……。幼児の心の動きを描かせたら天下一品のウェルズ。今までなかなか日本に紹介されなかったのはなぜかしら? ラストのおばあちゃんの姿も楽しく、子どもの心に寄り添った展開。

「おばけとしょかん」デイヴィット・メリングさく 山口文生やく(2004/2005.9  評論社)
おばけたちがおはなしを集めたくて、本を盗みにきたのだが、本と一緒に、よんでいた少女も盗んでしまったところからへんてこなことに。からっぽの図書館に連れてこられた少女は、おばけたちに今読んでいる本をお話してあげる。少女がお話を読むページは文字なしの絵のみで描かれ、絵を一こま一こま読むことで内容がわかるという仕掛け。見ることと読むことが等しくなっているのがおもしろい。

「レイチェル 海と自然を愛したレイチェル・カーソンの物語」エイミ-・エアリク文 ウェンデル・マイナー絵 池本佐恵子訳 (BL出版 2004/2005.8)
「センス・オブ・ワンダー」(新潮社)で良く知られている自然科学者であり作家であるカ-ソンの生涯のトピックスを見開きごとの展開でつづっていった絵本。端正な絵とよくまとめられた文章でカ-ソンの人となりや思い、思想の深化がわかるようになっている。地味だけれど、環境に思いを寄せられる年齢の子どもに出会わせたい絵本だ。

「さんぽうた」ねじめ正一さく 市居みかえ ポプラ社(2005.9)
ねじめくんが散歩しながら見たものを詩にしてノートに書いていく、という体裁で、詩がまとめられているのが、おもしろい。詩と詩の間をつないでいくイラストが楽しいし、散歩しながら視点が動いていった先を詩にするという行為が、子どもには不思議におもしろく感じられるかもしれない。詩ができてくる様を実感して、詩を書くということに親しみを持ってくれると良いな。

「ちきゅうは みんなのいえ」リンダ・グレイザー文 エリサ・クレヴェン絵 加島葵訳(2000/2005/9 くもん出版)
あめ、たいよう、水、土、空気、かぜ、そら、よる、つき……わたしたちを包むこれらのものひとつひとつをあげて、シンプルなことばでまとめている。エリサ・クレヴェンの細やかな温かみのある絵がいい。ページをめくるたびに、いきとしいけるものをはぐぐむ大きな地球に思いがよせられ、みんなのいえ、というリフレインを深く心に刻み込む。

「ふようどのふよこちゃん」飯野和好作 (理論社 2005.10)
ふようど?ときいて腐葉土とすぐ出てきた人はえらい。茶色い真ん丸顔のどんぐりのおばけみたいなふよこちゃん。里山の雑木林のなかに家族と一緒に住んでいます。ふよこちゃんのおかあさんは里山にいた人の暮しを話してくれます。それがいまではかわってしまい、かわらないのはふようどのくらしだけだわって。作家の親しんできたくらしが大きく変わって、にがい思いを噛み締める時も多かっただろうに、こんなに優しい良いにおいのする絵本になって、手渡されました。よかった。

「きはなんにもいわないの」片山健 (学研2005.10)
お父さんと近所の公園にいったすーくん。お父さんに木になって、といいます。木なの? えっと読者のわたしは思うのだけれど、お父さんはすうっとだまって、木になりました。それがほんとに自然なの。すーくんは木に(おとうさんに?)のぼりたいのだけれど、うまくいかなくて「どうやってのぼるの?」ときくと、おとうさんは声に出さないで、(きはなんにもいわないの)というのです。すーくんはひとりでやってみます。すーくんは木のうえで何かに出会うとすぐお父さんに聞くけれど、いつもおとうさんは(きはなんにもいわないの)と声に出さないでいうばかり。そのくりかえしが心地よく、たのもしく、いい感じ。あわあわとした秋色の風景のなか、木のお父さんと男の子と女の子のいる見開きの絵のしあわせそうなこと。お父さんという存在のまるごとをすとんと見せてくれたような気がする。何度でも開きたくなる絵本。

「123インドのかずのえほん」アヌシュカ・ラビシャンカール&シリシュ・ラオ文 デュンガ・バイ絵 石津ちひろ訳 (アートン 2003/2005.10)
インドの民画であるゴンド画を描く画家と現代インドを代表する児童文学者であり、詩人でもある作家とが組んだ魅力的なカウンティング・ブック。ページをめくるごとに数の増えた動物たちが木に登っていく。どこにいるのか、探して、指差し、数えたくなる。刺繍の模様みたいだけれど、妙に気にかかる、インパクトのある絵だ。文は調子良く、でもときどき、ん?と不思議に思うところがあっておもしろい。今まで紹介されたことのなかったタイプのインドの絵本。

「わたしはとべる」ルース・クラウス文 マリー・ブレア絵 谷川俊太郎訳 (講談社 1951/2005,9)
「しあわせのちいさいたまご」や「あなはほるもの おっこちるところ」「はなをくんくん」で知られているルース・クラウスの人気絵本。今まで翻訳されなかったのが不思議。特にこの絵本の絵を描いているマリー・ブレアはディズニーのアニメーションやイッツ・ア・スモールワールドのデザインをしたことで有名だったから。彼女の担当したアニメーション映画は「シンデレラ」「アリス」「ピーター・パン」など。この時期のディズニーではプロベンセン夫妻も働いていたし、この絵本を刊行していたゴールデンブックスではディズニーのアニメーターに絵を描かせた絵本も多かった。独特なゴールデンブックス調のイラストのトーンにみんなはまっているため、良く似た印象のものが多いが、なかでもブレアは、かわいらしく、明るいタッチで、様式化されたデザインの勝った絵ではあったけれど、人気が高かったという。他にも男の子を主人公にした絵本「ぼくのいえ」や反対言葉の絵本「たかいとひくい うえとした」などを作っている。ブレアの伝記やアートをまとめた画集も出ており、それを見ると、広告、パッケージデザインなど多岐に渡った仕事の様子を知ることができる。
この絵本の朗らかさはブレアの絵によるものも大きいが、クラウスのシンプルで絵と言葉が対等に切り結んだページ構成の確かさも一役買っている。わたしはなんにでもなれるのだという子どものイマジネーションの豊かな輝きと自信を、全きものとして肯定する、クラウスの一貫する姿勢がこの絵本からも良くわかる。

「ありんこ方式」市川宣子作 高畠那生絵(フレーベル館 2005、9)
ほのぼのとした「おばけのおーちゃん」や「まりこちゃんのぼうし」など、やさしくあたたかく子どもに寄り添うお話しを得意とする作家の新作とおもっていたら、今までの童話とずいぶんトーンが違っている。それは本の作りを見ただけでもすぐわかるのだけれど。六つの小さなお話が野原の1年を切り取ってみせてくれる。それはやってきたありんこ軍団を見ている動物たちのやり取りから、おのずと浮かび上がってくるのだが、命のサイクルと自然のサイクルをつなげるものとして、ありんこ軍団のありんこ方式があるのだ。ラストの黄色い福寿草の花のにおいをかぐ、うしといのししのすがたに「はなをくんくん」ヘのオマージュを感じ、あの絵本が描かなかった残りの11ヵ月を見つめていたら、こういう生き物たちの姿があっただろうな、と思ったのだった。(以上ほそえ)


『123 インドのかずのえほん』(アヌシャカ・ラビシャンカール&シリシュ・ラオ:ぶん デュンガ・バイ:え 石津ちひろ:やく アートン 2003/2005.10 1500円)
 数年前から韓国発の絵本の力強さに圧倒されている人も多いと思いますが、インドのこれも見逃すわけにはいきません。
 1は一匹のあり。木に登ります。2は二匹のとかげ、木に登ります。という具合に、数に合わせた様々な動物が次から次へと一本の木に登っていき、木は生き物で花盛り、という趣向なのですが、この、次第に木が満開になっていく様が、非常に奇妙で、見たことがない図で、思わず眺めてしまいます。
 10まで55匹でいっぱいになった木に、10で終わらず20羽の鳥が止まりに来る辺りが、インドですな~。(hico)

『私家版 アンデルセン・絵のない絵本』(佐々木マキ メディアリンクス・ジャパン 2005 3300円)
 38年前、二十歳の佐々木マキがスケッチブックに描いた『えのないえほんのためのえ』を復刻した絵本。元々私家版ですから、誰かに見せるために描かれたものではありません(一人の友人を除いて)。つまりは、佐々木の心に向かって描かれたものです。それもオリジナルの物語ではなく、角川文庫版(河崎芳隆:訳)のアンデルセンの物語に刺激されて描かれていますから、かえって佐々木の画風というか作風というか触覚というか輪郭というか、それが飾ることなく露わになっています。
 そこが何よりおもしろい。「佐々木マキ」っぽい画もあれば、そうでないのもあります。読者にとって良い意味で油断した佐々木がそこにいます。
 初々しい、ではなく、生々しいでもなく、愛おしいライブ。(hico)

『いすがにげた』(森山京:作 スズキコージ:絵 ポプラ社 2005.08 1300円)
 何年も何年も愛用してきた、お世話になったいすが、逃げていく。それを追いかけるおばあさん。いったい何故逃げ出した?
 無国籍な物語ですが、それは、この物語が世界の垣根を越えているからでしょう。スズキコージの画とのコラボも文句なし。確かに人を選ぶ、好き嫌いの分かれる絵本でしょうが、
 私には傑作です。(hico)

『きみの家にも牛がいる』(小森香折:作 中川洋典:絵 エルくらぶ 2005 2000円)
 肉から、皮、爪にいたるまで、牛の部位がいかに家の中で使われているかを、ユーモラスに事細かく教えてくれる絵本。
 もちろん、その背後を読んで欲しいのですが、知識ってのはこうでなくっちゃ。(hico)

『ビルはたいくつ』(リズ・ピーション:ぶん・え ほむらひろし:やく くもん出版 2005.10 1400円)
 完全にダレダレの犬、ビルくん。ひょんなことから宇宙に飛んでいき、出会った宇宙人たちがとてつもなく退屈なので・・・・。
 「たいくつ」がいかにたいくつかを、ビルの表情がよく伝えています。そこを強調して読めば、子どもは大拍手でしょう。
 飼い主とのダレた関係が、活き活きしたものに変わる辺り、犬好きにはうらやましいところ。(hico)

『こんなおつかいはじめてさ』(オームラトモコ:作 講談社 2005.09 1300円)
 自転車に乗っておばあちゃんにリンゴを届けるまでが描かれています。と書いても何のこともないようなのですが、そのたどり着くまでの「出来事」が楽しい。というか、何事があってもただひたすらおばあちゃんの家へと進む自転車の姿が、ページを繰れば繰るほど冒険めいてきて、絵本ならではの幸せがあります。(hico)

『おばさんは いつ空をとぶの』(長谷川知子 ポプラ社 2005.09 1200円)
 引越し、新しい赤ちゃん・・・・、のんちゃんはなんだか両親から疎外されているよーな気分になっていて・・・。そんなとき、優しい近所のおばさんと知りあって、優しいおばさんを魔法つかいだと思うのんちゃん。
 といったドラマが展開していきます。
 それは何ほどもない展開なのですが、割烹着を着たおばさんが、風に乗ってはたはたと飛んでいくイメージの伸びやかなこと。(hico)

『おーい みえるかい』(五味太郎 教育画劇 2005.09 1000円)
 ここにいるよ。みえるかい?
 画はページを繰るごとにどんどん、ズームアップし、最も近づいた後ズームアウトという趣向。
 決して目新しいアイデアではありませんが、絵本をどういじくるかへの五味のエネルギーは健在です。(hico)

『四谷怪談』(さねとうあきら:文 岡田嘉夫:絵 ポプラ社 2005.08 1200円)
 日本の物語絵本シリーズもこれで14巻目。なかなかいいボリュームになってきました。やっぱりこれくらい揃ってくると、固まりとして眺める楽しさがあります。その中から一冊を抜き出すドキドキとでもいいましょうか。
 今作、この題材にこの絵師でしょ、ガツンと怖がってくださいな、子どもたち。眠れない怖さってのも美味しいですよ。(hico)

『子供の十字軍』(ベルトルト・ブレヒト 長谷川四郎:訳 高頭祥八:絵 パロル舎 2005.09 1500円)
 86年リブロポートから出ていたものの復刊です。
 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻に抗議してブレヒトが書いた詩を長谷川四郎が訳し、それに高頭祥八が画を付けました。
 子供読者にはチト難しい詩ですが、画の力に押し切られて、分からないところがあるままに読んでも印象強く残るでしょう。
 でも、やっぱり、大人向けかな。クオリティはとても高いので、読ませます、見せます。(hico)

『どろんこ』(アラン・メッツ:さく いしづちひろ:やく パロル舎 2005.10 1500円)
 黄色を背景にした、どろんこ色の物語展開がまず素晴らしい。
 おおかみの子どもとブタの子どものどろんこ遊び、はちゃめちゃを大いに楽しんで欲しい。
 そして、大人のフォローの巧さも。
 でもやっぱり、画のすばらしさが一番好きかな。(hico)

『しきしきむらのあき』『しきしきむらのふゆ』(木坂涼:文 山村浩二:絵 岩波書店 2005.10 900円)
 言葉がリズムを作る、リズムが言葉を生む、どっちでもあることが、この絵本の文は、とても分かりやすく教えてくれます。
 目から鱗も、驚愕も、感嘆もあるわけではありません。そんなことを期待すると、なんだこれ? となるでしょう。
 そうではなく、あるのは適度な心地よさなのです。
 「言葉って楽しいな」です。
 それって結構すごい。(hico)

『タンポポ タヌキ、もりのタネ。』(しもだ ともみ作・絵 教育画劇 2005.9 1980円)
 タイトルはチト散漫かな? と思って見始めると、まあ、様々な生き物と、タネのドラマが地面の中、上、展開すること展開すること。時々収まりきれなくてパノラマになっていたり(いえ、作者はちゃんと考えてそうしているのですが、こう考えた方が楽しい)、ワクワクのカーニバルです。
 『むしむしレストラン』からパワーアップ!です。(hico)

【創作】
『四月の痛み』(フランク・ターナー・ホロン著 金原瑞人・大谷真弓訳 原書房 2005.09 1470円)
 老人ホームで暮らす、元弁護士の86歳の男の物語。作者が26歳なのに、こんなに老人の心をリアルに! といった評価もありますが、そんなことは物語には関係ありません。女の子のこと書く男の作家だっているしぃ。
 そうではなく、死というものを意識しながら、物事を見ていく、考えていく主人公の姿が、けっこう新鮮なのです。
 ここには様々な、なるほどと思わせる「言葉」たちがあります。そしてそれをリアルに置くために86歳の老人が設定されています。
 これって、子どもに設定する児童文学と似ていますよね。だからおもしろかった。(hico)

『友だちになろうよ、バウマンおじさん』(ピート・スミス作 佐々木 田鶴子訳 フェルトハウス絵 あかね書房 \1,365 2005.10)
 ホームレスのおじさんとヤンの交流を描いた物語。
 寒い日、ヤンはこのおじさんの躓いてしまう。家を出た父親と面影が似ている彼のことを、もっと知りたい。
 ヤンとの出会いによって、このおじさんは、生きる意欲を甦らせていきます。
 ホームレス状態の人は個々に事情を抱えていますから、こんな風にうまく行くことはめったにないでしょうし、また、ホームレスのまま生きたい人もいるでしょう。
 けれど、それぞれに事情があるのだということを、この物語は教えてくれます。(hico)

『ごきげんぶくろ』(赤羽じゅんこ:作 岡本順:絵 あかね書房 2005.10 900円)
 かなは、友達の家に遊びにいったけれど、大げんかをしてしまいます。帰り道、不思議なお店に。
 不機嫌なかなに、店のおばあさんは、「ごきげんぶくろ」を見せて、そこに不機嫌をはき出せという。かなは思いっきり、不機嫌を・・・・。
 たまったイライラは言葉にしてはき出すと、結構スウーっとするもの。そこを、少しのファンタジーをふりかけることで、分かりやすく子ども読者に示しています。
 小さな物語ですが、出会った子どもには、結構印象を残すタイプの物語です。(hico)

『めぐりめぐる月』(シャロン・クリーチ:作 もきかずこ:訳 偕成社 1994/2005 1800円)は出版社を変え、『朝はだんだん見えてくる』(岩瀬成子 理論社 1500円)は新装版でお目見えです。どっちも定番なので、また読めるようになってうれしい。未読の方はこの機会にぜひぜひ。(hico)

中学三年生のカズが所属するソフトボール部は、頑張って練習することもなく、のんびりと過ごすオアシスとなっています。別名ハチミツドロップス。ところが、勝ちたい新入生たちの入部で、そんな雰囲気はなくなり、居場所を失った旧部員たちの関係が徐々に変わって行きます。 『ハチミツドロップス』(草野たき 講談社)は、表面上の優しさだけで「友情」を通わせていたカズたちが、新たな関係を築きあげていく物語です。 カズにとってハチミツドロップスが心地良かったのは、そこでは相手が期待するカズらしさを演じていれば、そのキャラクターからはみ出しさえしなければ安全だったからです。お互いが「らしい自分」を演じていることで、優しくなれる場所。 「らしい自分」のままでいいなら、とても楽ちん。なぜって、自分自身と向き合わなくていいですから。でも演技ばっかりしていたら、いつのまにか自分がどんな人間か判らなくなってしまう。同時に相手のことも判らなくなる。 これはとてもつらいし、怖いです。 カズたちは、時に傷付け合うことにもなるけれど、少しずつ少しずつ本当の心を見せていきます。読んでいてこっちも心が痛くなる程ですが、大丈夫。その先には強い信頼感が生まれてきますから。 もっとも、時には息抜きに、ハチミツドロップスもあっていいけどね。読売新聞2005.10.17(hico)

『黄金の羅針盤』(フィリップ・プルマン:作 大久保寛:訳 新潮社) ファンタジー小説の設定パターンはだいたい三つ。異世界だけを描く、日常世界に不思議が入り込む、日常と異世界を行き来する。例えば一つめは『ゲド戦記』、二つめは『ふくろう模様の皿』、三つめは『ハリーポッター』や『ナルニア』のシリーズでしょうか。 『黄金の羅針盤』は巻頭に「第一巻の舞台は、われわれの世界と似た世界であるが、多くの点で異なる。第二巻の舞台は、われわれの知っている世界である。第三巻は、各世界を移動する」とあります。つまり、各巻がこの三つの設定に対応しているのです。 『黄金の羅針盤』は異世界を描いているのですが、それは「われわれの世界と似た世界」でもあります。全くの異世界だと、作者が構築したその世界に身を任せられますが、『黄金の羅針盤』はそう簡単にはいきません。物語は現実世界にも存在する英国のオックスフォードから始まるのです。同じオックスフォードなのに、知らない世界が繰り広げられていく。主人公のライラを含め人間達は誰にでも見えるダイモン(守護精霊)を携えています。ペットみたいな物かと思うとそうではなく、心理的にも本人とは切り離されることなく強く結びついていますし、子ども時代はその姿は固定していなくて、時々の状況で色々と変わります。彼らにとってそれは当たり前のことなのですが、私たちの世界から見ると異様に見えます。異世界とはいえ「われわれの世界と似た世界」であるだけに、その違いが際だちます。ライラの母親が、「思春期と呼ばれる年ごろになるとダイモンは、ありとあらゆるやっかいな考えや感情を子どもにもたらすの」と言って子どもたちとダイモンを切り離す実験をしていると知ったとき、読者はこれが全くの異世界として描かれている時以上に、強い痛みと怒りを感じるでしょう。異世界に生きる子どもを、われわれの世界の子どもと同じ姿形にしようとする欲望のように思えてしまうからです。そしてそれが、われわれの世界で時として大人が子どもを、自分達のイメージする「理想の子ども像」に当てはめようとする欲望と重なって見えてくるからです。 ライラの両親は、それぞれ別の目的で、オーロラから降り注ぐ謎の物質ダストについて調べています。一致しているのは、それがダイモンに影響を与えているという考え。だから母親は子どもからダイモンを切り離そうとし、父親はダストがやってくる異世界(私たちの世界です)へ行こうとします。それを眺めながらライラのダイモンであるパンタライモンはこう言います。もし大人がみんな「ダストが悪いものだと思っているなら、それはいいものにちがいない」。この異世界から発せられた大人への不信感は、われわれにも届くでしょう。真相を確かめるために両親を追ってライラも旅立ちます。そして、「第二巻の舞台は、われわれの知っている世界である」。徳間書店2005.10(hico)

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