久我 三休(こが さんきゅう)
生誕不明。死没は1587年7月11日。公卿久我家の出身。母は正室である武田元光(たけだ もとみつ)の娘であるが、元光の娘は天文22年4月27日(1553年6月8日)に死去したことが知られている。父である晴通(はるみち)は甥である足利義輝・義昭(あしかが よしてる・よしあき)の特使として大友氏に合計3回遣わされた経緯があり、大友氏と親密な関係があった。はじめ本圀寺(ほんこくじ)に出家して日勝と号したが、後年大友義鎮(おおともよししげ)に招かれて豊後国へ下向し、還俗して三休(さんきゅう)と称した。のち上方へ戻り、山城国一尾庄などに閑居(かんきょ)した。天正15年(1587年)死去。大友義鎮の娘との間に生まれた通春(みちはる)は後に三休の隠棲地に因んで家名を一尾氏と改め、江戸幕府に出仕している。また通春の子通尚(伊織)(みちなお(いおり))は茶人として高名をなした。
公家好き宗麟(そうりん)がわざわざ招いた人物です。外交官にしたかったのか?はたまた日蓮宗の教えを請いたかったのか?詳しくは不明ですが娘を
与えるほどの間柄ですから仲良かったのでしょう。久我三休自体は大友家が衰退する前には豊後を後にしています。ただ死んだ年が一緒。栄華を誇った大友家を見てきた公家としては貴重な存在です。
久我三休でした。
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