水深10cm
小さいころ、
暗くなるまで砂場で遊んだ。
家を作ったり、お城を作ったりした。
なかでも、トンネルが好きだった。
友達と両側から掘っていく。
顔に砂を付けながら、
肩まで砂に埋めて、手を伸ばす。
指先に集中して、
砂ではない「何か」を感じ取る。
「あ!」
相手の指に触れる。
あたらしい世界が広がった瞬間だった。
***
「きれいだね~」
テレビの番組で、
海に潜っている人を見た。
「どんな世界なんだろうね」
「どうだろうね」
CMに変わる。
夕食後の何気ない会話である。
娘はずっと知らん顔して、
iPad で YouTube を見ている。
「 ボンボンTV 」に夢中。
「パパ、潜りたい! 教えて!」
珍しく、「お風呂はパパと入る~」
と言った娘が、ゴーグルを持ってきた。
それから、
娘とパパの特訓の日々が始まる。
***
月曜日。
パパがお手本を見せる。
「息を止めて、目を閉じて、お風呂に顔をつけてごらん」
「こわい・・・」
「大丈夫だよ。こわかったら、顔を上げればいいから」
「・・・」
水深 測定不可
***
火曜日。
パパがお手本を見せる。
「息をおもいっきり吸って、潜ってごらん。そうしたらもう、吐くしかないから」
娘は水面に顔を近づけた。
「大丈夫だよ。こわかったら、顔を上げればいいから」
「・・・」
水深 −5cm
***
水曜日。
パパがお手本を見せる。
「じゃあ、「あー」って言ってごらん。
そうしたら、水吸わないから」
娘は水面に顔を近づけて「あー」って言う。
「大丈夫だよ。こわかったら、顔を上げればいいから」
「・・・」
水深 −1cm
***
木曜日。
パパがお手本を・・
「私がやる!」
ぱちん!
スイッチが入った。
娘は水面に顔を近づけて「あー」って言う。
「もうちょっとだよ。ほら、こわくないから」
「あー、ぶくぶくっぶく‥ぶはぁ!」
「ほら、できた!」
グータッチした。
「うん!できた!」
水深 1cm
***
金曜日。
パパ、残業。
娘はどうしても
パパとお風呂に入りたかったが、
眠さに負けて夢の中・・・
記録 なし
***
土曜日。
「もうできるでしょ?」
「うん・・・」
「どうした?」
「昨日やらなかったから、
できなくなっちゃった・・・」
「大丈夫だよ。ほら、やってごらん」
「・・・」
「大丈夫、できるよ。今度海に行ったら、お魚見たいんでしょ?」
「うん」
「あー、ぶくぶくっぶく・・・」
「1、2、3」
「ぶはぁ!」
「すごいじゃん!やれば〜?」
「できる!」
水深 10cm
***
学校もプールの授業がなくなり、
市民プールにも行けなくなった。
お友達のなかに、
スイミングに通っている子もいる。
海に行って、真っ黒に日焼けした子もいる。
友達と比べちゃったのかな?
娘は、決して運動神経の良い子ではない。どこにでもいる、平均的な女の子だ。
しかし、負けず嫌いである。
コツコツ
コツコツ
めんどくさい を ひたすら できる子。
入浴剤が混ざったピンク色の世界は、
娘にはどう映っただろう
たった、10cmのことかもしれない。
「なんかね、濁っていたけど、
お風呂の底が見えたよ」
目を閉じていたら、
決して見ることができなかった。
勇気を振り絞って覗いた景色は、
かけがえのない世界だったに違いない。
この先も、いろんなことがあると思う。
涙で枕を ぐっしょり 濡らすときが
くるかもしれない。
悔しくて、キリリ となるときが
くるかもしれない。
不条理な世の中に、悪態つくときが
くるかもしれない。
パパからのお願いだよ。
勇気を振り絞って見た、
水深10cmからの景色を
いつまでも忘れずにいてほしい。
「なんかね、濁っていたけど、
お風呂の底が見えたよ」
人生って、
そんなもんかも知れない。
ちょっと濁ってるんだよね。
***
日曜日。
庭でプール遊びをした。
小さくなったプールに、
少し寂しくなったが…
「どう?お魚になった気分は?」
「ちょっと汚いけど、楽しいね」
娘は振り向いて、
ありったけの笑顔で親指を立てた。
天まで届くくらいに。