
なんで俺と友達やってるんだ?(ショートストーリー)
-1- 越えられない壁
午後11時。
玄関のドアを開けたとき、ようやく安全地帯に逃げ込めたような気がした。
静けさが心地良い。
話し声も笑い声も、ヒソヒソ声も。
カタカタとキーボードを叩く音も、ドアを開閉する音も。
グラスを合わせる音も、酔って大きくなった声も。
何一つない静寂。
「疲れた……」
無意識に漏れた声に、今日のすべてが込められている気がする。
『上川』
『はい』
『会議で発言するようになったのはいい。けどもう少し大きな声で話せないか? 声が小さいと、何を言ってるのか聞き取りづらくて、それだけで印象が悪くなるぞ』
昼間、会社での出来事。
うちの会社では、どんな会議であっても、参加する以上は何かしら発言するよう求められる。しなければならない、というほどの強制力はないけど、発言せずに黙っていると、評価に響く。分かっているから何か言おうとするが、考えている間に「上川はどう思う?」と聞かれることが多く、自分の考えをまとめることもできないままに発言するから、何が言いたいのか分からない上に、声も小さくなる。
子供の頃から、あまり積極的ではなく、少し引いたところから人や状況を見て、みんなより一歩か二歩遅く動くことがほとんどだった俺にとって、一番に動けというシステムは、かなり厳しい。
でも、そんな自分を変えたいと、ずっと思ってきた。
だから、会社で飲み会や食事会があれば参加して、ときには異業種交流会にも参加して、人と積極的に話すこと、アピールすることができる自分を作ろうとしていた。
そして今日も、仕事の後に異業種交流会に参加して、この時間。
名刺の数は増えたけど、脳内で繰り広げられる反省会は、なんであのとき……というジャンルが9割を占めている。
「おはよう、上川」
翌日。
疲れを引きずったまま会社に行くと、同期の吉永がさわやかな笑顔を向けてきた。
「おはよう」
「昨日はどうだった?」
昨日はというのは、もちろん異業種交流会のことだ。
「名刺の数は増えた」
「そっか。まあでも、話したからって全員と仲良くなれるわけでもないし、関係が続くわけでもない。気にしすぎないことだよ」
吉永に言われて、俺は作り笑いを返した。
同期11人のうち、唯一プライベードでも付き合いのある吉永は、いつも明るく、会議でも素早く発言する。仕事もテキパキとこなし、初対面が相手でも親しやすさを前面に出して、あっという間に「今度飲みに行こうよ」というところまでもっていく。
吉永のようになれたら……俺は吉永を観察して、動作、話し方、人との接し方をメモして、同じように行動した。ぎこちないのは分かっている。効果も薄い、今はまだ。けど素のままの自分でいるよりも、周囲が話しかけてくれるようになったし、ときには同僚と冗談を言い合えるぐらいにはなった。
でも、気づけば一人になっているという状況は、変わらなかった。
吉永の周りにはいつも誰かがいて、明かりが灯っている。俺のところには、俺自身にすらスポットライトが当たってなくて、そこに人がいるのか、近くまで来て目を凝らさないと分からない。
「あ、上川、いたのか」
そんな感じだ。
仕事が終わって、今日はすぐに帰って休もうと思っていると、吉永のデスクに視線が動いた。
これから飲みに行くのか、数人が集まって談笑していて、まだ人が集まってくる。誰もが楽しそうで、仕事の大変さなんて感じていないのではないかとすら思えてくる。
帰り道。
信号待ちで立っていると、ふと疑問が浮かんだ。
吉永はなぜ、俺みたいな人間と友達でいようと思うんだろう?
吉永とは二人で飲みに行くこともあるし、お互いのことも話す。俺にとってはありがたいことだが、吉永には、一緒に遊ぶ友達、飲みに行く友達が、職場にもプライベートにもたくさんいる。彼女もいて、俺と付き合うメリットがあるようにも思えない。メリットの有無で友達を語るのはどうかとは思うけど、もしかしたら、俺があまりにも哀れで、同情してくれているんだろうか……けど、それを直接聞きだす勇気は、俺にはなかった。
-2- 距離感
哀れに思われているのかもしれない……二日前に浮かんだ疑念が消えず、俺は職場でも、吉永に話しかけられずにいた。なんとなく避けてしまう。哀れまれるのは嫌だと思いながら、そんなふうに思ってしまう自分も嫌で、自分の存在を消そうと、できるだけ目立たないように過ごした。
「上川、おまえこれ……」
やる気も出ず、与えられた仕事を黙々とこなすだけになって三日後、上司の生田がやってきて、一枚のA4用紙を置いた。
「山城建設さんのところへの請求が二重請求になってる。クレームがきたぞ」
「え……?」
「俺のほうで謝罪して、なんとか収まったけど、気をつけてくれよ? 初歩的なミスだぞ」
「……すみません」
ちゃんとチェックしていれば起こらないミス……幸い上司が収めてくれたが、しょうもないミスをしたことに、俺は胃袋を握りつぶされるような痛みを覚えた。頑張らなければと思っても、またミスをしたらという心配が過ぎり、ふと視界に入った吉永を見て、自分に対して哀れみを感じた。
「上川」
夕方。もう少しで終われる……少し安心しかけたとき、声を掛けられてビクリとした。
「今日、何人かで飲みに行こうって話になってるんだけど、一緒にどうだ?」
吉永が言った。
「え? ああ……そうだな……いや、今日はやめとくよ。ちょっと疲れてて……」
「昼間のこと、気にしてるのか?」
「……」
「そんなこともある。むしろ、上川が初歩的なミスって、アイツ何かあったのかって、生田さんのほうが心配してたぐらいだ。おまえは自分の仕事ぶりにもっと自信をもっていいと思うぞ」
「……ありがとう。でも、今日は……」
「そっか。まあ、今日しかないわけでもないしな。また誘うよ」
「ああ、悪いな」
「謝るな(笑)」
あんなふうに、さり気なく人に声をかけられたら……吉永が自分のデスクに戻っていくのを見て、俺は苦しくなって下を向いた。俺みたいな人間がいくら頑張っても、アイツのようにはなれない。いずれ、吉永も俺を見限るんだろう。出世していけば、環境も周りの人間も変わる……
仕事が終わり、消えるように会社を出て家に帰ると、少しホッとする自分がいる。今日は金曜。明日は休みと思うと、それもまた、気分を楽にさせる。誰にも会わなくていい……ただそれだけで、頭から心配事が消える。
簡単な夕食を済ませ、小さなベランダに出て、ボーっと空を眺めていると、スマホが鳴った。
『明日、飲みに行かないか? サシで』
吉永からのチャット。
まだ飲み会の最中じゃないのか? なんで今?
俺はしばらく眺めた後、スマホをポケットに仕舞った。
-3- なんで俺と友達やってるんだ?
ベランダから部屋に戻ると、クッションの上に座ってスマホを眺めた。
昼間の、いや、最近の状態を見て、同情されているのだろうか。それとも、なに弱気になってんだと説教だろうか。それとも、何か相談事でも……いや、今は無理だ。相談事を受けられる状態じゃない。
断るか……でもせっかく誘ってくれてるし、気にしてくれてるのかもしれない。それに、そうか……
俺は、
『OK。場所と時間は任せる』
と返した。
返信はすぐに来て、時間は20時、場所は後で地図を送るとのことだった。
翌日の夜。
吉永から送られてきた場所を前にして、俺は少し躊躇った。重厚な木の扉が構えていて、店の中は見えない。老舗のBARらしく、一人では絶対に入る気になれない空気感。
「よう、おつかれ」
固まっていると、吉永が歩いてきた。
「ああ、おつかれ」
「なんだ? なんか表情が硬いな」
「この店、なんか緊張する……」
「大丈夫だよ。確かに外観はあれだけど、価格もリーズナブルだし、一度入れば一人でも入りやすい店だ」
「そうなのか……?」
「それに、マスターと上川、たぶん気が合うと思う」
「ん? それってどういう……」
「まあ、飲みながら話そう」
吉永はドアを開けて、マスターに軽く手を上げた。
「こんばんは、藤間(とうま)さん」
「こんばんは、吉永さん。今日はお二人で?」
「ええ、友達です」
二人の会話を聞きながら、俺は店の中に視線を走らせた。
BARといったら誰もが思い浮かべるような雰囲気で、長く、歴史を感じるようなカウンターが、細長い店内の奥まで続いている。テーブル席はなく、カウンター席が店の奥まで伸びて、バーテンの後ろには、様々な酒の瓶が、美術品のように並んでいて、写真を撮っておきたくなるほど洗練されている。耳を撫でるぐらいのボリュームで流れるジャズは、会話の邪魔もしないが、一人でいる寂しさも緩和してくれるような気遣いが感じられて、気分は少し、落ち着いた。
「疲れてるところ、わざわざ土曜日に来てもらったし、今日は俺の奢りだ」
なんとなくの好みを言って、作ってもらったカクテルが置かれると、吉永は言った。
「いや、そんな……いいよ。なんか悪いし……」
「なにも悪くない。それに、いつもいろいろと話を聞いてもらってるしな」
「……」
「だから今日は、俺が上川の悩みを聞く番だと思って」
「え?」
「体調が悪いわけじゃない。でも何か、悩んでるんだろ? 最近の様子見てれば、俺でも分かる」
「そう見えるのか?」
「ああ、見える。だからってわけでもないけど、俺はいつも話しすぎちゃうし、たまには話を聞く側に回らないと罰が当たるって思ってな」
「大げさだな(笑)」
「まあ罰が当たるかどうかは別として……何を悩んでる?」
「……」
「焦って答えなくていいよ。ゆっくり飲みながらでいい。ここは会社じゃないし」
「……なあ、吉永」
「ん?」
「おまえ、なんで俺と友達やってるんだ?」
「ん? どういう意味だ?」
「おまえは友達たくさんいるし、俺みたいな暗い奴と付き合ってても、いいことないだろ? なんていうか、もっと明るい、ワイワイやれる人たちのほうが気が合うんじゃないか?」
「あ~……なるほど、そういうことか」
「え? 何がなるほどなんだ……?」
「最近様子がおかしかったのはそれか。まあ、前々から少し思ってたことではあるけど」
「なんだ、どういう意味だよ」
「上川、おまえ、俺と二人で話してるときと、飲み会とか異業種交流会に参加してるときで、まったく違う人間になってるの、気づいてたか?」
「違う人間って、なんだ……?」
「今日はまあ、俺が促してるからともかく、いつも俺と飲んだりしてるときは、おまえは俺の話を聞いて、時々意見を返す。7~8割ぐらいは聞き役だ。なのに、大勢といるときは逆になる。7~8割、必死に話そうとする。しかもいろんな奴と」
「それは……だってそうやって積極的にコミュニケーションしないと友達もできないし、自分から話しかけたほうが印象もいいだろ?」
「そうとも限らない」
「え?」
「だってさ、ひたすら喋りまくってる奴と一緒にいて、楽しいか? 自分のことばかり一方的に話してくる奴」
「いや、それは……」
「コミュニケーションの取り方は、人それぞれだ。上川は聴くのがうまい。俺はおまえになら、彼女より本音を話せる。というか話してしまう。俺はわりと自分から話す方だから、同じように話す人間と気が合うといえば合うけど、疲れもする。おまえと話してるときは、本当に心地良いし、落ち着くんだよ」
「心地いい? 俺と話してると? 嘘だろ、そんなわけ……」
「意識してなかったかもしれないけど、俺はおまえに何度も助けられてる。苦しいときとか、話を聞いてもらって、上川の冷静で、しかも人を思いやる言い方は、本当に心地良いんだよ。冷静な意見を聞けて、どうすればいいかって分かって、解決できたことがたくさんある。
おまえはもしかしたら、俺みたいになりたいって思ってたかもしれないけど、俺はおまえみたいに冷静で、穏やかでいられたらぁって思うことも珍しくない」
「俺みたいに? いや、それはないだろさすがに……」
「本当だよ。リップサービスでもなんでもない」
「じゃあ、俺が必死にやってきたことって……」
「無駄だとは思わない。おまえが努力してきたこと、俺は見てきたし。でもやっぱり、他の誰かになろうとするのって、うまくいかないんだと思う。
それに」
「……?」
「さっきも言ったように、コミュニケーションの取り方は人それぞれだ。まったく何も話さないっていうなら問題かもしれないけど、ほぼ聞き役に回るっていうのは、一つのスタイルだと思う」
「俺は俺で、いいってことか……?」
「もちろん。
だから、見た目コミュニケーションがうまいように見える奴の真似するんじゃなく、上川スタイルを生かせばいいんだよ。それがうまくいくことは、俺で実証済みだし」
「そうか、そうだったんだな……」
何に悩んでいたのか……吉永の話を聞いて、俺は思った。
ついさっきまであった、体全体を覆うようなダルさが、冬用の重いコートを脱いだようになくなって、俺は無意識に、グルグルと肩を回した。
「女の前でも、いつものおまえでいればいいと思う。アピールするように話すんじゃなくて、話を聞いて、必要に応じて自分のことを話す。そうすれば、おまえは間違いなくモテる」
「そうかな」
「ああ。自分の話をしっかり聞いてくれる男を悪く思う女はいないよ。そういう男のほうが、希少性が高い」
誰かになろうとしても、人は自分以外の何者にもなれない。
自分の性質を活かす方法を考えて、実行する。
それでいいんだと、ストンと、心の隙間が埋まったような気がした。
「吉永のおかげで気が楽になったし、今日はちょっと飲むかな」
「付き合うよ」