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【note開設2周年記念】日本を代表するRock’n Roller 10選
こんにちは、Hideです👊
いつもロックンロールと言いながら、70年代〜80年代の音楽の話題を投稿している私ですが〜♫
今回は私が少年時代からこれまで影響を受けてきた日本を代表するロックンローラー10人紹介をしていきたいと思います。
昭和生まれで、昭和〜平成、そして令和へと時代の移り変わりを目撃してきた私、Hideが認めたRock’nRollerの方々です。
この方達の音楽は勿論のこと、生き様においても多大な影響を受けて育ってきたと言っても過言ではありません。
細かい説明よりも、早速Rock’nRollに生きた10人の男を紹介します♪
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内田裕也
1939年生まれ 兵庫県西宮市出身
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日本のロックンローラーといえばこの人の名を上げずには始まりませんよね!
2019年79歳で亡くなるまで、裕也さんは生涯ロックンロールを貫きました❗️
日本のロックンロールの親分です🎵
裕也さん自身は、音楽的なヒット曲はありませんでしたが、海外のロックミュージシャンとの交流、沢田研二さんなど日本を代表する歌手やミュージシャンを数多くスカウトし、郡山ワンステップフェスティバルなど歴史に残る音楽イベントをプロデュースしたりと、裕也さんの残した功績は大きいです。
タイガースやCAROLも裕也さんが育てたバンドでした。
ビートルズが来日した際にも武道館で前座を務めています。
トラブルも多かった裕也さんですが、俳優としても映画で活躍し、東京都知事に立候補したりと多方面において人々を驚かせました。
樹木希林さんとの長くの間別居しており、それでも芸能界の特別な夫婦としてファンから親しまれていました。
晩年は白髪になり杖をついていましたが、ステージに上がると大声で”Rock’nRoll”と叫んでいたのは流石でしたね。
日本のロックンロールは内田裕也から始まったと言ってもよいでしょう、まさに日本ロック界の首領(ドン)です!
裕也さんの功績に心よりご冥福をお祈り致します。
氷室京介
1960年生まれ 群馬県高崎市出身
代表曲:マリオネット・B-BLUE(BOOWY)、ANGEL・KISS ME(ソロ)
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80年代に一世を風靡した伝説のバンドBOOWYのボーカリスト。現在では世界的ギタリストになった布袋寅泰さんも在籍したバンドです。
昭和最後の年1988年にBOOWYを解散後ソロデビュー、多くの曲でチャート1位を記録。
ビートロックサウンドと独特の歌唱法で若い男女から絶大な支持を集めました。
色気のある歌声はそれまでの日本のロックに新たな彩りを加えましたね。
自分も20代前半だった頃によくBOOWYを聴いていた。ポップなビートとサウンドの中にワイルドさとセクシーな雰囲気を併せ持った個性の強いボーカルには、当時驚かされた。
ソロデビュー後、ジャニーズのグループに曲を提供したりしている。
日本ロック界に燦然と名を刻むロックンローラーの一人です。
世良公則
1955年生まれ 広島県福山市出身
代表曲:銃爪 ひきがね ・燃えろいい女(TWIST)、ハートイズゴールド(ソロ)
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ヤマハのポプコンから登場しデビューしたTWISTのボーカリスト。
TWISTは70年代後半、日本のロックバンドとしてテレビに出演し若い女性からアイドルの様な人気があった。
まだロックが大人たちから認められていない時期に、お茶の間にロックを届け人気を得たTWISTのフロントマンとして、派手なアクションで人目を集めた。
音楽的にも、それまでの海外ロックの模倣ではなく、日本独自のロックを一般大衆に見せたのが世良公則さんだった。
昭和時代、フォークが人気だった時期に日本にロックミュージックを広めた功績は大きい。
1981年にTWISTを解散後ソロシンガーや俳優としても活躍している。(TWISTは解散後も何度か再結成)
ボーカリストとしてだけではなく、ギターの腕前も一流でギターの教則本まで出版している。
エレキ・アコースティックともに見事に弾きこなす技量は素晴らしい。
私も同じボーカリスト兼ギタリストとして大いに参考にしたいと思っている。
中学時代よく世良さんのモノマネをしてウケていたのが懐かしい。
燃えろいい女は今でもギターで弾いたりカラオケで歌ったりしています。
世良さんも俳優としても評価を得ていて才能豊かなロックンローラーですね。
忌野清志郎
1951年生まれ(2009年没 享年58歳) 東京都中野区出身
代表曲:雨上がりの夜空に(RCサクセション)、いけないルージュマジック(忌野清志郎+坂本龍一)、デイドリームビリーバー(THE TIMERS)、JUMP(ソロ)
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80年代にライブバンドとして絶対的地位を築いたRCサクセションのボーカリスト。
そのライブパフォーマンスから”KING OF ROCK”の異名を持つ。
RC解散後他のアーティストとのコラボやユニットで活動、ソロでも最後までライブをやり続けた。
独特の歌声と奇抜なステージ衣装で多くのロックファンを魅了した。
アマチュア時代の氷室京介氏も、プロを諦めて故郷に帰ろうとしていた時にRCのライブを観て、もう一度挑戦しようと感じたというエピソードもある。
清志郎さんがいなければその後のBOOWYもなかったのだ。
イギリスにローリングストーンズあれど、日本にはRCの清志郎ありと言われる程、影響力を持ったロックンローラーだ。
2009年に癌性リンパ管症の為58歳の若さで逝去、青山葬儀場にてファンなどを対象にしたロック葬『忌野清志郎 AOYAMA ROCK'N ROLL SHOW』が行われ、参列者は43,000人にも及んだ。
高校時代の夏休み、仙台市郊外で行われた「ロックンロールオリンピック」という夏フェスで初めてRCサクセションを観てライブパフォーマンスの凄さにぶっ飛びました。
少年時代に影響を与えてくれた忌野清志郎さんのご冥福をお祈り致します。
大友康平
1956年生まれ 宮城県塩竈市出身
代表曲:ff フォルティシモ・ブリッジ あの橋を渡る時(ハウンドドッグ)、RIZE(ソロ)
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仙台出身のロックバンドハウンドドッグのボーカル。
デビューから苦節5年を経てffのヒットから、毎年160本もの全国ツアーでファンを開拓した。
バブル期に活躍した最強のライブバンドのボーカリストである。
2005年にハウンドドッグ解散後、ソロ歌手活動の他、多くの映画やドラマで俳優としても活躍中。
2024年に腎臓の腫瘍摘出手術を受け休養し、その後復帰し大友氏一人ながらハウンドドッグ名義でライブツアーを行った。
デビューしたばかりの時は期待程売れず、後輩ミュージシャンにも先を越され、レコード会社との契約も打ち切られそうになった。
崖っぷちで放ったffの起死回生のヒットから、日本最強のライブバンドとしての地位を確立した。
日本全国を隅々まで巡る活動で不動の人気を築いた。
とにかく康平さんは不運なアクシデントやトラブルに見舞われることが多かっった。
復活ライブでの演出用花火の暴発による怪我(僅かなところで回避し大事には至らず)や突発性難聴により片耳の聴力が回復せず、その事を受け止め今でも音楽活動を行なっている。
不屈のロックンローラー大友康平♪と呼びたい。
私の地元出身のハウンドドッグをデビュー時から応援してきました。
レコードは全て購入し、武道館や山形や岩手のフェスにも足を運んだ。
康平さんのマイクスタンドアクションは、自分も参考にしましたよ。
私個人の願いですが、元のハウンドドッグのメンバー6人でのライブをまた観たいです。
浜田省吾
1952年生まれ 広島県竹原市出身
代表曲:悲しみが雪のように・BIG BOY BLUES
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浜省さんは、労働者目線での作品が多く、私的には和製ブルーススプリングスティーンと感じています。
1975年にバンド愛奴(ドラム担当)でデビューするも売れずに、翌1976年にシングル「路地裏の少年」とLP「生まれたところを遠く離れて」でソロデビュー。
ソロになってもしばらくヒット曲には恵まれず、レコード会社の以降からプロの作家が作った曲を歌うこともあった。
アーティストはレコードとステージで成立しなければならない、というこだわりを持ちTV出演も4回しかない。
直接ファンに自分の歌を聴いて欲しいという思いから、地道なライブ活動でファンを獲得していった。
身近に感じてしまう浜省さんのリアルな歌詞に、私の中学時代に感銘を受けていた女子もいた。
サングラスがトレードマークで、ステージ以外で派手な部分は見せないが、浜省さんの歌は我々の心に刺さる鋭くも優しい感性を感じさせる。
主にライブではギターを抱えて歌うことが多いが、演奏能力も高く、甲斐バンドの「安奈」でも飛び入りでフォークギターのバッキングを担当し、甲斐よしひろさんから「浜省は上手いね〜歌える人が弾くギターは、ギターが歌っている」とまで絶賛されている。
尾崎豊氏も浜省が好きで影響を受けたと尾崎も話している。ちなみにこの二人レコード会社とプロデューサー(須藤晃氏)も同じで何度か食事したことがあるらしい。アルバム「J BOY」のジャケ写は尾崎かと思ってしまうほど、そっくりだった。
浜省さんにはいつまでもパワフルな歌声をステージから聞かせて欲しいものだ。私はまだ浜省さんのライブを観たことない、いつかは是非観たい。
尾崎豊
1965年生まれ 東京都練馬区出身
代表曲:15の夜、I LOVE YOU、卒業、太陽の破片
1992年4月に26歳という若さでこの世を去った伝説のロック歌手。
天賦の才能から若者の気持ちをリアルに歌った曲が中高生を中心に支持され社会現象にまでなった。
当時、マスコミから「十代のカリスマ」と呼ばれたが、本人は現実と虚像のギャップに苦しんでいた。
曲作りに悩み薬物に手を染めるようになり、一度は表舞台から消えかけていたがアルバム「誕生 BIRTH」で初登場1位を獲得し、そのアルバムを提げたBIRTHツアーで見事に復活したが、代々木での生涯最後となったライブから半年後、帰らぬ人となった。
デビューから僅か約8年間と短い活動期間であったが、尾崎の作品は多くの人の心に届き、そして焼きついている。
尾崎の聖地渋谷のクロスタワーにはレリーフが掲げられ現在でも多くのファンが訪れている。
没後33年という月日が経つが、未だに尾崎の歌は色褪せず人の心に残っている。昭和終盤の日本が変貌していく時期に若者の心をとらえた尾崎は私たちに問いかけ、大人たちと戦い、自分で歩いていくことの大事さを教えてくれたような気がする。
私も尾崎と同年(1965年)生まれで、オーディションも同じ82年に受けた同期として、音楽的にも生き様も尾崎を常に意識してきた。烏滸がましいがOZAKIは自分にとって永遠のライバルなのだ。
今年4月で逝去33年を迎え、生誕60年になるが、尾崎が歌いたかったであろう”六十歳の地図”を自分が代わりに歌えたら良いなぁ、なんて思っています。
日本のジェームスディーン、伝説のロックンローラー尾崎豊に合掌🙏ご冥福をお祈りします。
佐野元春
1956年生まれ 東京都台東区出身
代表曲:SOME DAY、Young Bloods、CHRISTMAS TIME IN BLUE -聖なる夜に口笛吹いて-
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1980年シングル「アンジェリーナ」でデビュー。
80年代初頭メッセージ性の強い歌詞と軽いロックンロールのリズムとメロディーにあらゆる手法を用い日本語を乗せた先駆者的なロックンロールシンガーである。
私が感じるに、佐野元春さんの出現によって、70年代から続いてきたロックンロール日本語論争が決着したのではないかと思っている。
その後にデビューした尾崎豊さんやミスチルの桜井和寿さんなど多くのロックミュージシャンに佐野氏のDNAが受け継がれている。
立教大学出身で広告代理店に勤務した経験もあり、度々サラリーマンの日常の思いを綴った歌詞の歌も歌っている。
それまでロックンロールというと、硬派で泥臭いイメージの音楽が多かったが、佐野元春さんは都会的な匂いを曲の随所に感じさせて、街の隅に潜む孤独な心情を感じる作品も多く存在する。
世界的にAORやテクノポップ、シティーポップがトレントとなり、サウンドも明るくポップで洗練されてきた時代に癒合したロックンロールが佐野元春氏だった。
「ガラスのジェネレーション」などが当時の若者から共感を得ていた。
時代の流れの中で新たなロックヒーローの誕生を感じさせた。
私も高校時代にFMから流れてきた佐野さんの「SOME DAY」を聴いて新たな時代が始まるというのを感じていた。
西城秀樹
1955年生まれ(2018年63歳逝去) 広島市出身
代表曲:傷だらけのローラ、ヤングマン(Y.M.C.A)、ブルースカイブルー
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10代だったアマチュア時代にはロックバンドでドラムを叩いていた。主に洋楽のロックを演っていた。
17歳で歌手デビューするが歌謡曲の中でもロック色が強くコンサートでは海外ロックや矢沢永吉氏のカバー曲も披露していた。
初期の頃のヒット曲「薔薇の鎖」ではマイクスタンドのアクションを取り入れていた。
自分も小学生ながらテレビで観て覚えたアクションを物差しにマイクを付けて真似していた。(小学生にしてロックンローラーの片鱗があった笑😎)
元々ロック少年だった秀樹さんは、他の歌謡曲の歌手とは一線を画すところがあり、海外アーティストのライブを参考に様々な演出をステージで披露していた。
まだいろんな音楽を知らなかった私にロックの格好良さを教えてくれたのはまさしく西城秀樹さんでした。
秀樹さんに出会い人前でアクション付きで歌うことの楽しさを知りました。
私の最初のお手本でしたね。
昭和50年代から活躍した歌謡界きってのロックンローラーでしたね。
2018年にお亡くなりになられましたが、心よりご冥福をお祈り致します。
矢沢永吉
1949年生まれ 広島市出身
代表曲:時間よとまれ、YES MY LOVE、止まらないHa〜Ha
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日本ロック界のBOSS、ロックンロールを全国に広げ、ビジネス面でも成功し長者番付の1位に輝くなど、成り上がりサクセスストーリーのシンボルでもある永ちゃんだ。
若い時に在籍したCAROLでは、ロックンロールのリズム日本語を乗せる事に成功したロックンロールの先駆者でもある。
矢沢氏が築き上げたロックビジネスモデルは、日本音楽界では画期的な事件だった。
海外の不動産を巡り詐欺被害に遭い35億円の負債を背負うが、ロック魂で完済する。
矢沢永吉を目標に音楽を志して、プロミュージシャンになったアーティストも多い。
75歳を超えた現在でも全国のアリーナを満員にしている。
日本武道館公演157回は最多記録。
日本最年長の現役ロックンローラーだ。
スリムな体型を維持し生涯現役を貫いている。
”矢沢の前に矢沢はいない”と自負しているくらい、新たな境地を切り拓いた日本を代表するロックンローラーである。
私も永ちゃんの様になりたいと、少年時代から思っていた、その気持ちは還暦になった今でも変わりはない。
あとがき
昭和を代表するロックンローラーを10人紹介してきたが…皆個性的で印象に残るアーティストですね。
永ちゃんの様になりたい…こんな曲を作りたい…この人のアクションを参考にしたい…等々、強烈に影響を受けたのは間違いない。
音楽も生き方においても、これからもこの方達を目標にしていきたいと強く思います。
感受性が強い時期に、彼らに出会えたことに感謝してこの記事を終えたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。