錯視、サイファ、錯乱(自己休息プログラム29)
自分が存在するための意味を探している
これはきっと
①家族との関係がうまきいっていて
②会社との関係がうまくいっていて
③趣味の世界もうまくいっていて
④地域社会との関係もある
ならば、発生しない疑問なのかもしれない
僕は何をがんばればいいんだ?
僕にとてなにをすることが「最善なのか」
そんなことをぐるぐる考えている
昔読んでいた宮台真司の本を読む
あのころ「内容はわかるが、響いていなかったもの」がやっとわかる
我々はむき出しの個人で、ランダムな運と経済の荒野で、承認システムが弱体化している環境で、どうやって生きるか
ということに対する、切迫した気持ちがあったんだと思う
そこから10年
問題は何1つ解決してはいない
生きる意味、というよりは、モチベーション
この仕事を行うことの必然性
それらを「自ら意識的に設定し、その自分で設定した必然性に向かって走り続ける」
狂気の沙汰だ
自分で自分の人生を設計し、それに向かって走っていく
狂気の沙汰だ
でもまて、冷静に考えろ
どう生きたらいいかなんて、そんなに難しく考えるな
仕事か、何かを起点に住む場所を決める
たとえば福岡、あるいは東京、あるいはシンガポール
そこでの仕事を得る
休日に語り合う仲間を増やす
恋人、家族を作る
地域に貢献する
あるいはやりたい人は副業、ブログ、音楽、なんでも
そんなもんでいいんじゃないか?
考えればそんなに難しくはなさそうだ
何が問題なのだ
起点になる必然性を探しているのか
つまりそれは「起点」を探しているのか
いまからここを「起点」にする!
と僕が叫べる場所、時間、仕事
それが見つかったときに、僕の回復は始まるのだろう
たぶん、やりたいことの「意味」を考えてはだめだ
やりたい→やった という純粋な流れが必要だ
やりたくない→やめた この流れの中に、損得や情報を入れたくない
いい流れを作ること、意識できるかな?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?