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物語の無い世界で僕らは完璧に暮らす - 志を切り売りする(日本人) -
家の前に”変なホテル”が出来て家の窓やベランダから隅田川の花火大会を見ることができなくなった。
ご存知の通り、HISが展開するホテルで、創業者である澤田さんの肝いりとのことで、田原町にも出来たことを、マクドナルド一号店が地元に出来たことを喜んでいた地方在住中学生だった頃の気持ちで受け入れるべきなんだろうか。
そして、隅田川花火大会が見られなくなった心の穴を埋め合わせることになるのだろうか。それを認めることは、結局自分の中ではつまらないゼロサムの話に過ぎないのかもしれないし、前と後とで大した違いは無いのかもしれない。
昼前に浅草のとある小さなゲストハウスのオーナーさんと話をする機会があった。浅草や日本橋ではインバウンドへの期待が加熱し、部屋が供給過剰状態となっており、1泊1,000円未満で宿泊が可能な宿(恐らくドミトリーだと思うが)も出現しているらしい。
浅草には住んでいるので肌感覚がある。チェーン系のホテルが複数棟を展開し、これから出来るものもあるらしく、当事者たちからもこれだけの進出は予想外であったという声も聞こえてくる。
一方で、政府主導で円安誘導基調に誘導し、かつては輸出産業を保護し、その後は製造拠点を海外に移した製造業を護り、今は国を上げて日本というアセットの大バーゲンが「インバウンド」という名の下に開催されている。
職業がら、大企業から中堅・中小企業、はたまたベンチャーまで、職業柄色々な人と話す。新しい事業のアイデアだったり、なぜその仕事をしているのかだったり、転職して今の会社や仕事を選んだきっかけが何であったかだったり、その人とメインとする仕事との関係性についてであったり。
その中で、その人がなぜその「業(ぎょう)」を行っているのかについて、その人の「業(ごう)」との結びつきで語られることが極めて少ない。
業で業に就いていないから人様、もっと言えば人そのものが存在するそれよりも以前から膨大なエネルギーを費やして形成・構成されてきた資産を簡単に安売りするような話を当たり前のようにする。さもそれが正しいかのごとく。そこに正しさという尺度しか存在しないかのごとく。
ダイナミックプライシングで、パーソナライズで、合理的に考えると、競争環境が激化している中で他社が、あの価格を提示していきている中で、弊社としてもギリギリのところで勝負をさせて頂いておりまして…
覚悟が無いから値下げする。
当事者意識が無いから切り売りする。
零細企業が生きるために流動性を確保したいがゆえにギリギリのところで値段を下げるのはまだ分かる。しかし、今の日本は大企業、もっと言えば国家自体が巨大な資本力を背景に自ら資産価値を目減りさせてでも目先の量を取りに来る。
何のためにその事業を行っているのか、誰がその事業を興したのか、その過程に何が起こり、どのような業を背負ったのか、そして、それが個人としての業とどこでぶつかり合うのか。
この音の響きや余韻、それ自体が存在として持つ波長や波形から感じられる色彩といったものこそが、紡がれたひとつの大きな物語であり、物語こそが放っておけばエネルギー保存則に従って離散・分解し、希薄化していく世界における唯一の救いだったような気がしてならないものの、それは一角獣の夢とともに奪われたのだろうか。
影とともに、街から逃げ出すことすらも。